1、 フライングボディプレスの朝


 明日なんて来なければいい。
 眠る前、儀式のようにそう思っていたことがある。カーテンを閉めて、電気を消して、また明日。あとは、既に布団に包まって穏やかな寝息を立てる猫のように気まぐれなお姫様を抱いて眠るだけ。天井の染みを数えるために行うような営みに耽ることもある。静けさがただただうるさく、時折り腕の中で、君は啜り泣くように喘ぐ。終われば今そこにあったぬくもりを思い出し、離れてしまった後悔だけが募る。眠りはすぐそこまで近づいている。
 見飽きたカーテンの隙間からもれる光。少し歩けばもうそこは市街地だ。仕事に行くには便利だが、都会の空気にはいまだに慣れない。そんなことを思っているうちに、息絶えるように眠りに落ちていく。
 ちょうどその時だ。君の泣き声が聞こえてくるのは。
 寄せては返すさざ波のように、ゆるやかに、そして強く。抱きしめても腕の中の嗚咽は消えない。君の代わりに泣いてやる事も出来ない僕は、あまりの闇の深さを前にして途方に暮れるしかない。不吉な未来図だけが翼を開き、身体を震わせる。
 例えばとある朝。目を覚ますと隣で寝ていた君がいない。どこを探しても見つからない。やがて君がここにいたという痕跡すら消えて、最後に僕は君の存在自体まで疑わなきゃいけなくなる。眠りが見せる残酷な夢の一つだ。

 眠りたくない。
 目覚めたくない。
 だから、明日なんて来なければいい。










「こら理樹。朝だぞ、起きろ」
 耳元で愛しい声がした。うん、悪くない目覚め――なんて思っていたら次の瞬間、カンカンカンカンとけたたましい金属音が脳髄を揺らす。 「うぅ、頭が痛い……まるで誰かが僕の耳元で中華鍋をおたまでがんがん叩いてるみたいだ」
「みたいじゃなくて本当に叩いてるんだ。遅刻するぞ。さっさと起きろ」
「会社、休む……」
「なんでだ。どっか悪いのか」
「昨日からずっとお通じがない……」
「馬鹿なこと言ってないで起きろ! ふかーっ!」
「キスしてくれたら起きる」
「…………」
 おお、迷ってる。数秒の逡巡の後に鈴が選んだのは「する」だったようだ。耳まで真っ赤に染めて、おずおずと近づいてくる唇。荒い息づかいが頬にかかる。生々しい温かさ。緊張の一瞬。
「局部に」
「……てやっ!」
 鈴が落ちてきた。
 フライングボディプレスに潰される月曜の朝だ。




「どうだ?」
 鈴は食事を用意した時、必ず料理の出来を聞いてくる。不安と期待がごった煮にした鈴の顔が段々近づいてくる。
「うん、美味しいよ」
「そうかっ、まー、このあたしが作ったんだからな。うん、うまくて当たり前だ」
 ぱぁっと笑顔の花が咲いた。僕の表情から読み取った料理の出来を見届けて、鈴はようやく自分の分に箸をつける。
 僕も料理をしないわけではない(というか、鈴に料理を教えたのは僕だ)ので、朝ごはんを僕が用意することもある。鈴の出勤のシフトの関係で、たまに順番が入れ替わることもあるが、大体は一日交代だ。自分で作る朝ご飯も悪くはないが、やはり鈴に作ってもらった方がいい。楽をしたいとか、そういうことではない。
「うふふ」
「なんだ? 笑い方がきしょいぞ理樹」
「ガッデム!」
 口が悪いのは変わらない。

「ところで理樹。今晩は早く帰れるのか?」
 食後のお茶をすすりながら、いつものようにみのさんの朝ズバを見ていると、鈴が聞いてきた。
「うーん」
「久しぶりにどこかでご馳走食べに行かないか? 理樹は昨日給料出たんだろ?」
「奢らせる気まんまんじゃないか」
「あたしの給料日には奢ってやっただろ。今回奢ってくれたらあの時の借りもチャラにしてやる。どうだ?」
 チャラも何も、あの日鈴が奢ってくれたのは吉野家の特盛りだけだったじゃないか。危うくそんなデンジャラスワードが飛び出しそうになったが、すんでのところで堪えた。沈黙は金、適度な我慢が家庭円満の秘訣だ。
「ごめん、今日は無理」
「えぇ――っ!?」
「仕事が溜まってるからさ、遅くなりそうなんだ」
「ぶーぶー!」
「ごめん。また今度埋め合わせするよ」
「むぅ……じゃあ夜ご飯はどうするんだ」
「適当になんとか」
「駄目だ。理樹は自分一人だと碌な物食べないからな。どうせコンビニおにぎりとかにするんだろ。だったら作っておいてやる」
「いや、悪いからいいよ」
「却下だ。絶対あたしの飯を食え。食わなかったら……そうだな、またたびを体中に巻きつけて町内一周ランニングの刑だ。最近あげてなかったからな、あいつらの喜ぶ顔が目に浮かぶようだ」
「ひぃっ! お慈悲!」
「だったらちゃんと家でご飯食べろ」
「……らじゃー」
「よし、約束だ」
 僕たちは自然に指切りをする。鈴の暖かい指先が僕の小指に絡む。ぶんぶん振られる。心地よい振動と共に指先が離れていく。
「お、あいつら朝っぱらから野球やってるぞ」
「それ、録画だからね」
 朝ズバで特集されているのは、去年最下位に終わった某球団の自主トレ風景だ。期待の大型新人が捕手を座らせての投球練習を始めたそうだ。この時期にしてはいい仕上がりと、解説者がわかったようなことを言っている。
「野球か」
 鈴の目は、気持ちよさそうに速球を投げ込む大型新人に向けられていた。150キロ台の速球と、カットボールが武器の、即戦力が期待されている投手だ。
「懐かしいの?」
「理樹は懐かしくないのか?」
 懐かしくないといえば嘘になる。真面目な高校球児たちに土下座しなければいけないくらい適当な練習しかしていなかったが、僕らには確かに野球をしていた頃がある。鈴がピッチャー、僕がキャッチャー。別にバッティングが得意だったわけではないのに、なぜか四番を打っていた。
 鈴は少し目を輝かせてこう言った。
「今度きょーすけ達が来たら、久しぶりに野球やってもいいな。理樹、どう思う?」
「いいんじゃないかな」
 何気なく同意する。だらだらと当たり障りのないインタビューが続き、最後に「チームに貢献出来るようなピッチングをしたい」と優等生なコメントで期待の大型新人の特集は終わった。
「そろそろ行くよ」
「うん。気をつけてな」
「鈴こそ遅れないようにね。もうそんなに余裕ないでしょ」
「あたしは今日はお休みだ!」
「ナニー!」
「はっはっは。せいぜいあくせく働いてこい」
「ちきしょ―――う!」
 泣きながら家を飛び出した。
 ふと空を仰ぐと、そこには目に痛いくらいの青空がある。というか、本当に目に染みた。
「いてて」
 ごしごしと、ぞんざいにまぶたをこする。

 僕は鈴に嘘をついた。
 今日、定時以降に仕事の予定はない。







2、 夕暮れのグラウンドにて


 理樹を送りだし、鈴はほっと一息つく。
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 青い空に向かって大きく伸びをする。日差しはやけに暖かく、見上げれば雲一つない。抜けるような青空、とはこういうのを言うのだろう。
「こんな日は掃除に洗濯……布団干しだな」
 やるべきことは山ほどある。特に洗濯はをさぼってたせいで、最近溜まり気味だ。布団だってここ最近干した覚えがない。理樹も鈴も家事は嫌いではないが、いつも身の回りが片付いていないと落ち着かない、というほど潔癖でもない。自然、掃除洗濯布団干しの優先順位は低くならざるをえない。
「ようし」
 一度決心してしまえば鈴の行動は早い。高校時代の親友の口癖を真似て、とりあえず山のように積み上げられた洗濯物に挑みかかる。





「あ、アリトモ」
 思いつく限りの仕事があらかた片付いた後、ベランダでのんびり日向ぼっこしていると、真向かいの道路で顔見知りの猫が他の猫とはしゃいでいるのを見つけた。鈴の見たことのない猫だ。この辺り一帯にいる猫の顔なら残らず記憶しているはずなので、おそらく最近ここらを根城にし始めた新入りだろう。今度見かけたら名前をつけてやろうと、心のメモ帳にその猫の特徴を書きつけておく。
 洗濯物と布団は思ったよりもあっけなく片付いた。途中、とれない汚れにムキになり、勢い余って理樹のTシャツを破いてしまったり、布団のシーツに付着した昨晩の行為の痕跡に思いを馳せているうちにいつの間にか「笑っていいとも」が始まってしまったりしたが、概ね瑣事だ。証拠のTシャツはごみ箱の奥深くにちゃんと隠滅したし、シーツの汚れはすぐ落ちた。
『えっ、僕にスペシャルゴウジャスな晩御飯を作ってくれただけでは飽き足らず、別に大変じゃないけどなんかめんどくさい家事ランキング2015に三位入賞が確実視されてる木っ端仕事の掃除洗濯布団干しまでやってくれたなんて、鈴はなんてステッキーな女の子なんだっ! 一億と二千年前から愛してるううぅぅ!!』
「うふふはは」
 帰ってきた時の理樹の喜びようを想像したら、思わず笑いがもれた。そのあまりの愛らしさに、周囲の小動物は我さきにと避難を始め、ベランダ越しに声をかけようとしたお隣りの山田さんは何も見なかったことにしてさっさと部屋に引っ込んだ。
「……こほん」
 咳払いをして、浮かんだピンク色の妄想を追い払う。そう、あたしは大人の女なんだから、理樹にちょっとほめられたくらいですぐゴロニャン、じゃ駄目だ。それはもーくちゃくちゃってくらいには駄目駄目だ。大人の女ってのはもっとこう……なんていうかその……これというあれがどうなってなんたらかんたら。じゅげむじゅげむごこうのすりきり。
「……なんだろ?」
 よくわからん。ま、いいんだ。あたしは大人の女なんだから、そんなもんわからなくても。

 その後、ざっと部屋を掃除して布団と洗濯物を取り込んでお片づけ。温かな日差しの中に干しておいた布団の誘惑に負け、ちょっと昼寝している間に時計の針は四時を回った。あわてて行きつけのスーパーに向かい、タイムセールの豚肉をやっとのことでゲット。疲れはしたが有意義な買い物ができた充実感で、ペダルを踏む足は軽やかだ。
「今日は豚肉のしょうが焼きにしよう。なー、アリトモー!」
「なーご!」
 スーパーを出たところでアリトモの姿を見つけた。すかさず確保し、家路に就く。アリトモは自転車の前かごの中で、頬の髭を揺らす風の感触を十二分に楽しんでいるようだ。
「アリトモ、今日理樹は仕事で遅くなるんだ。だから晩御飯はあたしが用意しておいてやるんだぞ。仕事でへとへとになって帰って来て、晩御飯がコンビニ弁当だなんて、ちょっとかわいそすぎるからな。どーだ! えらいだろう!」
「なー!」
「おお! お前もそう思うか! そうだろうそうだろう! よし、今日の晩御飯で何か余ったらやるからな。喜べー!」
 アリトモが嬉しそうに一声鳴く。
 川のそばの坂道をブレーキ握り締めてそろそろと下っていく。
「ゆっくりーゆっくりー下ってくー……お」
 急ブレーキ。あくびしていたアリトモはかごにしこたま頭をぶつけ、恨めしそうに鈴を見た。しかし、鈴の視線はアリトモにはない。
「見ろ、アリトモ。野球だ」
 見ろ、と言われても、アリトモの体勢からでは鈴の顔しか見えない。暮れかけた太陽に照らされてきらきらと橙に輝く鈴の瞳。その視線は川のそばにある小さなグラウンドに向けられていた。
「アリトモ、野球ってわかるか」
「なーご」
 いいや、と首を振っているように見えた。鈴はアリトモに向かって得意気に説明を始める。
 いーか、アリトモ。野球ってのはニンゲンが考え出したスポーツだ。投げて、打って、走るんだ。どうだ、簡単だろ? お! お前今そんなんなら僕にも出来るよとか思っただろ? 甘い! 野球はそんなに簡単なもんじゃないんだ。難しいぞ。それはもう、めちゃくちゃ難しい。いや、あそこまでいったらもーくちゃくちゃだな。くちゃくちゃ難しい。どうしてそんなに難しいのかって? それはお前、投げる時はちゃんと相手の“みっと"目掛けて投げなきゃいけないからなんだ。難しいぞ。ただ投げるだけなら練習してないお前だって出来る。でもみっとに投げるのは、難しいな。あたしだって最初は出来なかったんだ。理樹のみっとに投げるはずだったのに、なぜか真人の方に投げてしまったくらいだ。でも、あたしは頑張ったからな、ちゃんと投げれるようになったんだぞ。あたしはピッチャーだったんだ。ほら、あそこ。グラウンドの中心にいるあいつ。あれがピッチャーだ。ピッチャーがボールを投げないと野球は始まらないんだ。とっても、とっても大事なポジションなんだ。で、ピッチャーの投げたボールをキャッチするのは、キャッチャーだ。あたしの時は理樹がキャッチャーだったんだ。あたしは、それはもう必死で理樹のみっと目掛けてボールを投げたんだ。あたしの球は速いぞ。少なくともお前じゃ打てないな、アリトモ。
「――わかったか? アリトモ」
「うなぁ……」
 いつの間にか土手に座りこみ、子供たちの野球を見る一人と一匹。暮れかけの太陽の中、土手に座り込んで猫に語りかけながら自分たちのプレーを眺める鈴を、子供たちはいぶかしげに見ている。そんな雰囲気を知ってか知らずか、鈴は相変わらず上機嫌でアリトモに語り続ける。
「今あいつらがやってるのはな、試合って言うんだ。対戦だな。勝ったらもうくちゃくちゃ嬉しいぞ。あたしたちも試合をしたんだ。それでな――」
 そこで、はたと止まる。試合は……どうなったんだっけ。勝った? 負けた? ドロー? 確かに試合をした記憶はある。あの怖い奴ら相手に、ただ理樹のみっとだけを見つめて投げた。その光景は今でもはっきりと思い出せる。しかし、肝心の結果だけが曖昧だった。勝ったような気もするし、負けたような気もする。記憶の中のホームベースは深い霧の向こう側にある。
「うなぁ?」
「……うーん、思い出せないな」
 金属バットの乾いた音が響き、高々と上がったボールはフェンスを軽く越え、そのまま川に落ちた。歓喜で片方のベンチが爆発する。耳をつんざく歓声の中、ゆったりとダイヤモンドを一周するスラッガー。
「おー」
 その打球に素直に感動する。これでもピッチャーの端くれだから、凄い打者を見れば腕がうずく。ささ子と対戦した時がそうだった。それも今は遠い日の記憶。
「ゲームセット!」
 世話役の大人が通る声で試合終了を告げた。どうやらさっきのホームランでサヨナラだったみたいだ。
「帰るか」
 そう呟いて立ち上がる。アリトモはさっさと前かごに飛び乗り、鈴がペダルをこぐのを今か今かと待ち続けている。
「そう焦るなアリトモ。そんなに焦らなくても豚肉のしょうが焼きは逃げやしないぞ」
 ふん、とアリトモは軽く鼻をならした。
「本当にかわいくない奴だな、お前は。そんなことじゃ昼間のあの子に嫌われるぞ」
「ふぎゃっ!?」
「いーや、嫌われる。あたしには分かるんだ。優しくない男なんて、男じゃないぞ。理樹を見てみろ。あんなに弱そうなのに馬鹿みたいに優しいから、立派に男として生きていけてるじゃないか」
 他愛もないことを喋りながらゆっくりと坂を上る。少し遅くなってしまったけれど、今日は理樹の帰りが遅いことは分かっているので、そんなに急いだってしょうがない。
「そうだ。理樹が帰ってきたら聞いてみよう! 理樹ならきっとあの試合のことも覚えてるぞ。お前も試合の結果知りたいだろ? なーアリトモー!」
「なー!」
 元気よく鳴いた。なんだか早く理樹に会いたい。
「理樹、早く帰ってくるといいな」
 自転車は少しスピードを上げた。







3、 嘘と烏龍茶


「疲れた顔をしているわね、直枝理樹」
 会場の隅の方でじっとしていると、不意にかけられた声。声の主は明白だ。脳内全件検索をかけるまでもない。
「そんなことないと思うんだけどな」
 二木佳奈多は何の了解もなしに、ひょいと隣に腰を下ろす。相手に有無を言わせない雰囲気は相変わらずと言ったところだ。僕は少しだけ安心する。
「ほら、今日だって仕事、定時に上がれたからこうしてここに来れたわけだし」
「あなたの場合、仕事に疲れたというより人生に疲れたって顔」
 見ると彼女はグラスを持っていない。確か彼女は下戸ではなかったような気がするが――などと考えていると、すかさず彼女は「すみません、烏龍茶二つ」と。
「流石だね。二木さん」
「はぁ? 何を言ってるの?」
「わかってらっしゃる」
 すかさず運ばれてきた二つのグラスをちょいちょいと指差して言った。二木さんは、にやりと笑う。
「あなた、いつの間にお酒飲めなくなったの」
「二木さんこそ。まだアルコールが回るほど飲んでないだろうに」
「あなたに合わせたのよ」
「それは、恐縮」
 そこらで少しずついくつかのグループが形成されつつある。僕らのように二人くらいで静かに飲んでいるところもあれば、年も弁えずに大音量で騒いでいるところも。
「本当に身体、どこか悪いの?」
「いや、そんなことないけど……なんで?」
「だって、食事の方もろくに手をつけてないみたいじゃない」
「これには色々とわけがあるんですよ」
「――棗さん?」
 ノータイムで飛んできたパンチ。咄嗟に溢れてしまった表情は隠しようがない。二木さんは満足そうな、それでいてどこか不思議そうな顔をして烏龍茶に手を伸ばした。
「驚いた。まだ続いてたんだ、あなたたち」
「……おかげさまで」





 久しぶりの同窓会だった。最後に集まったのは確か成人式の時だったから、かれこれ五年以上が経過しているということになる。発起人は元風紀委員長の二木さん。本当なら学年で何人か決められたはずの同窓会幹事が計画するのが筋なのだろうが、彼女がひとたび旗を振ればついてくる人間は少なくない。結果的に学年の半分以上とまではいかなかったが、それなりにカッコがつくくらいの人数が参加した。カリスマか、はたまた恐怖政治かは知らないが、それもひとつの人望ということなのだろう。
 僕と二木さんは高校時代それほど親しかったわけでもないが、ある出来事がきっかけになったのか、会ったら話をするくらいの間柄ではあった。共通の友人がいたのも大きな要因だろう。高校時代や、卒業してからのクドや葉留佳さん達の話だけでも一晩くらいなら軽く語り明かせそうだった。
「じゃあ、あなたがこんな場所まで来て飲み食いしないのは、棗さんがご飯作って待っててくれているからってわけね」
「そういうこと」
 この会の発起人は盛大なため息をついた。自分の幸せどころか、他人の幸せすら吹き飛ばしてしまえそうな。
「……ノロケ、カッコワルイ」
「のろけじゃないやいっ」
「家事は全部棗さんが?」
「いや、僕も鈴も普通に仕事あるし。普段は分担してやってるよ」
「なんか理想的すぎてむかつくわね……」
「そんなことないよ。鈴、洗濯苦手だし。料理だって最初は僕が教えたんだ」
 二人で暮らすにあたって必要な技術は、労力を惜しまずに習得した。二人で生活するというのは思った以上に困難で、体力を必要とした。ようやく慣れてきたなと思えるようになったのは、つい最近のことだ。
「あーあ、私の彼氏もそのくらい出来る人だったらよかったのにな」
「彼は家事とか出来ないの?」
「出来ないわ。私が全部やってる。だって彼、言っても聞かないんだもの……はぁ、考え直す時期に来てるのかしら」
 コメントし難い愚痴だ。僕は黙ってグラスを傾けるしかない。
「ねぇ直枝理樹……私と浮気してみる?」
 僕は口に含んでいた烏龍茶を全て噴射した。「やだ、きちゃなーい」などと声が聞こえてくるが、僕は咳き込むやらなにやらで、もうわけがわからない。
「もちろん冗談だから、勘違いしないように」
「なら言わないでよっ!!」
 息も絶え絶えな僕を見て、二木さんは心底おかしそうに腹を抱えて笑っていた。
「あーはははは……ごめんごめん、そんな面白い反応返してくれるなんて思ってなかったから……!」
「二木さんキャラ変わってるよ……」
 そう言うと、彼女はまたおかしそうに笑った。とことん僕は彼女のおもちゃになっていた。
「そりゃ私だっていつまでも学園一のカタブツ風紀委員長やってるわけにいかないもの。キャラなんて変わってて当たり前でしょ」
「かなぁ」
「そうよ」
 そうなのかもしれない。
 正直に白状すれば、二木さんに彼氏がいるという事実にさえ僕は驚いていた。そんなイメージを、目の前の彼女から想像することは難しかった。しかし、常識的に考えればそれも当たり前のことなのだ。時間は誰にも平等に流れていて、淀むことなどない。時間が流れるということは、変化していくということだ。望む望まざるに関わらず。いつまでも変わらないなんてありえない。誰も彼も、忘れたふりをして息を殺しているだけなんだ。
「でも、あなたは変わらないわね」
「そう?」
「ええ。……ちなみに褒めてるのよ」
 不意の沈黙に耐え切れずにグラスを握るが、もう空だった。手持ち無沙汰に腕時計を確認すると、最初に予定されていた時間の大半がもう過ぎてしまっていた。僕はぱたりと倒れて天井を仰ぐ。横を見れば飲み過ぎで倒れている奴が何人か転がっている。涙声で愚痴る泣き上戸もいれば、なぜか衣服を脱いで裸踊りを披露している奴までいた。宴もたけなわ、である。誰も彼も、郷愁から無縁ではいられないのだ。
「ねぇ、直枝理樹。ひとつ教えて」
 耳元で聞こえた声。僕の横で二木さんも同じように寝転がって天井を見上げていた。
「あなたはなぜ、ここに来たの?」
「なぜって……久しぶりにみんなに会いたかったからだよ」
「嘘ね」
 僕の言葉を“嘘”とばっさり切り捨てる彼女の声は、なぜか妙に懐かしかった。冷静でいるように見えてその実、好戦的。
「あなたはそんな理由でここには来ない。まして、棗さんに嘘をついてまで」
 ごくりと、唾を飲み下す音がやけに大きく聞こえる。
「わかるわよ。だから、私は驚いたの。あなたがここに来ていて、なおかつ“まだ棗鈴と付き合っている”ということに。あなたが一人でここに来ているってことは、既に棗さんと切れているか、さもなくば棗さんに嘘をつくしかない」
「……参ったな」
 僕はぽりぽりと頭をかいた。しかし、胸の内はやけに冷静で、頭ばかりが無闇に冴え渡っている。
 まぁ、いい。どのみち彼女には打ち明けるつもりだったのだ。
「私が言いたいのはね――」
 彼女はそこで言葉を切る。視線が頼りなげに揺れている。もじもじと左と右の指を擦り合わせている。人は他人にとって致命的な言葉を口にする時、えてしてそんな態度をとる。僕は僕に対してそんな態度をとる人間を、これまでに何度も見てきた。だから、彼らが本質的には悪人ではないということも理解している。好ましいとさえ、思う。
「あなたはいつまで彼女に付き合う気でいるの、ということよ」
「いつまでも、だよ。二木さん」
 僕の言葉に唇を噛んだ彼女は黙って天井を見上げる。
 そうだよ、二木さん。踏み越える覚悟もなく他人の人生に干渉するなんてことは、誰にも出来やしないんだ。単なる同情とそれは似ているようで、その実まったく異なるものなのだから。君はそのことを誰よりも理解しているはずだろう?
「――それなら、来る?」
「え?」
「僕らの家」
 幹事の方、と店員の呼ぶ声が場違いに広間に響いた。







4、 夢見がちな少女


 ここがどこだかわからない。
 見覚えのない場所にいる。見覚えのない服を着ている。自分の周りにいるのは見覚えのない顔ばかり。授業を受けている。高校。しかし、かつて自分が在籍していた高校ではない。身に着けている制服は、自分たちが着ていたものより華美で、どこか近寄りがたい雰囲気を醸し出している。辺りをどれだけ見回しても理樹はどこにもいない。真人も、謙吾も。
 チャイムが鳴っても張り詰めた空気が弛緩することはなかった。ひそひそとした話し声すら聞こえることはない。静かな空間。異様ですらあった。誰もが自分のことしか見ていないくせに、誰もが自分のことを監視しているような気がした。
 助けてくれ、助けてくれ。ここは変だ。おかしい。あたしがいない。あたしが消えてしまう。
 必死でけいたいでんわを探す。あれさえあれば理樹と連絡がとれる。もう駄目だ、あたしは頑張れない。みんながいないと頑張れない。理樹が、真人が、謙吾が、小毬ちゃんが、はるかが、くるがやが、クドが、みおがいないと。けいたいはどこを探しても見つからない。
 やがて、涙が零れる。
 助けて、きょーすけ、助けて。小さい頃からいつだってあたしを助けてくれたじゃないか。どうして助けてくれない。今まで助けてくれていたのは、全部嘘だったのか。今まであたしを守ってくれていたのは、全部嘘だったのか。どうした、答えてくれ。きょうすけ、きょうすけ、きょうすけ――

「……きょうすけ」
 気付くと台所の机に突っ伏していた。コチコチと壁にかけられたアナログ時計の秒針の音がする。ちょうど二十二時を回ろうかというところだ。晩御飯の仕度は既に終わっている。まだ理樹は帰って来ていない。
「あれ」
 頬を伝う涙。
「あれ、あれ」
 一体何がそんなに悲しいのか、涙は後から、後から、ぽろぽろと。
 さっきまで見ていた夢の記憶はもう薄れていた。夢の悲しみは目の前の現実に既に塗り替えられている。夢が現実を支配する時間のいかに短いことか。身体だけが夢の悲しみを忘れられないでいるようでもあった。
「んっ……! んんっ!」
 タオルを掴み、顔をごしごしとふく。頬に染み付いた悲しみを残さず拭い去るには洗顔が必要だった。ふらふらと立ち上がり、洗面所へ。水も流しっぱなしで、洗う。洗う、洗う。
「ふぅ」
 人心地ついた。安堵のため息とともに、意識が完全に覚醒したことを感じる。目覚めた意識でさっきまで見ていた夢を思い返すのは、高い所にある展望台から人の住む街を見下ろすようなものだ。その場所からでも街のおおよその形くらいは把握できるかもしれない。しかし、そこには夢と現実を隔てる越えられないガラスの壁がある。
 さっきの夢はなんだったのだろう。記憶にはない場所、記憶にはない人々。自分が経験したことのない痛みだった。
 何より耐えられないのは、孤独だ。
 鈴の傍にはいつだって誰かがいた。いつだって鈴を守ってくれる人がいた。
 自分を受け入れてくれる人のいない世界なんて、鈴には想像も出来ない。

 玄関の呼び鈴が鳴ったのは、そんな午後二十二時六分五十三秒。





「いただきます」
 僕が声を出すと、部屋の空気がさっきまでより少し冷えた気がした。胃が痛くなりそうな沈黙の中、鈴特製の豚肉のしょうが焼きを口に運ぶ。うん、いつも通り美味しい。
「お、美味しいよ、鈴ありがと」
「……からまつさまです」
「…………」
 まさかとは思うが鈴は「お粗末さまです」と言いたいのだろうか。ネタ的にはかなり古いし、使いどころも微妙に違う気がする。もっとも、この空気の中で鈴に突っ込める奴がいるなら、そんな勇者を僕は一度でもいいから見てみたい。
「鈴も、二木さんも! 美味しいから早く食べなよっ。冷めちゃうよっ」
「いただきます」
 僕の声で二人ともようやく手を動かし始める。
 突然連れてきた二木さんに、むっつりしながらも食事の用意をしてくれた鈴のことは素直にすごいと思う。しかし、視線で露骨に「こいつ、誰だ!」と言うのは出来ればやめてほしい。口に出さなくなっただけで高校時代の鈴を知る人からすれば目覚しい成長と言えるだろうが、いくらなんでも視線が雄弁すぎます。
「えーっと……んじゃ、もう一回改めて紹介するね。こちらは二木佳奈多さん。高校の時は風紀委員長やってたんだよ、覚えてる?」
「一応知ってるぞ。クドのルームメイトだった奴だろ」
 こ、こら! 目の前に本人がいるのに奴とか言っちゃいけません!
 相変わらず鈴はぶすっと頬を膨らませながら僕と二木さんを見ている。そんな鈴と僕を見て「やっぱり来ないほうが良かったんじゃない?」という冷や汗つきの苦笑を漏らす二木さん。むむ、やはりこのままではいけない。なんとかしなくては。
「鈴」
「なんだ?」
 すかさず僕は二木さんに向き直り、左腕と右腕でT字を作る。
「作戦タイム」
「い、いいけど」
「よし。鈴、こっちに来るのだ」
「な、なんだ理樹っ! 」
 僕は鈴の腕をぐわしと掴んで有無を言わさず奥の部屋に引っ張っていく。
「な、なんだ理樹。痛いぞ」
「とりあえず謝る。ごめんなさい」
「なんでお前が謝るんだ」
「いや、なんとなく僕が謝る流れかなーと」
 鈴には、二木さんとは偶然駅で会って「少し時間あるし家寄ってく?」みたいな流れで僕が誘ったことにした。鈴からすれば「折角理樹のためにご飯作って待ってたのにっ! 理樹のバカっ! しかも連れてきたのって女ですか! 理樹のオタンコナスっ! ドSっ!」となっているのも無理からぬことだ。というか、男として許されない。どう考えても僕の方が悪いのだから、こういう時はさっさと謝ってしまうに限る。それに――
「掃除洗濯もしておいてくれたんだね――ありがとう」
 そう言うと鈴はにわかに頬を赤らめた。それを僕に悟られまいとして、不自然にそっぽを向く。そんな幼い仕草も、僕は素直に愛しいと思った。
「だから、色々と……ごめんね。今度は僕も手伝うから」
 そんな僕を見て、鈴は「理樹は、ずるい……」と、ため息を一つ。
「なんかお前に謝られると、怒ってるこっちが一方的に悪いんじゃないかって気がしてくるぞ……」
「いや、今日に関しては僕の方が悪いよ」
「もう、いいぞ。こっちこそ……………………すまん」
 すまん、という言葉が聞こえてくるまでにすごく長い時間がかかったが、これでなんとかまともに話が出来る状態になったみたいだ。僕はほっとして、一つため息をつく。鈴はそんな僕を見てふにゃっと表情を崩す。そして、一言。
「まぁ、だんながおんなをつくるのもおとこのかいしょーだって言うしな」
「ぶっ!!」
 今僕が何か液体を口に含んでいたら、それはそれは美しい虹がかかったことだろう。良かった、何も飲んでなくて。自分の耳の機能を疑う前に、恐る恐る鈴に聞いてみる。
「り、鈴さん」
「おう、なんだ」
「ど、どこでそんなデンジャラスセンテンスをラーニングなさったのですか?」
「うん、一緒に働いてる保育園の先生がな、休憩時間によくそんな話をしてるんだ。意味はよくわからん」
「MAJIですか……」
「なぁ、理樹。かいしょーってどういう意味だ?」
「さ、さぁ」
「ふーん」
 微妙に納得したような納得してないような顔で僕らは食卓に戻った。
「どうしたの直枝理樹。なんかよくわからないけどすごい汗よ」
「知らないほうがいいことって、この世にはたくさんあるよね……」
 僕はぼんやりと天井を眺めながら、額に浮かんだ汗を拭う。二木さんも鈴も、不思議そうな顔をして僕を見ている。

 それからは話も弾んだ。内容は高校時代のことから、大学時代のこと、社会人になってからのことなど多岐に渡った。話をする割合としては七割が二木さん、二割が僕、一割が鈴。必然、苦労話が多くなってしまうが、それは僕らのような年代になってくればどこも似たようなものだろう。僕らの他愛のない現在語りは深夜にまで及んだ。買ってきた発泡酒はもう底を尽きかけ、引き出しの奥にしまってあった焼酎にまで手を伸ばそうかという痛飲だ。こんなに飲んだことなんて、指折り数えるほどしかない。鈴に至っては、もしかしたら初めての経験かもしれない。
 脇でつけっぱなしにしていたテレビがけたたましい音をたてる。毎日定時のスポーツニュース。僕は咄嗟にリモコンに手を伸ばそうとする。その時。
「そうだ理樹!」
 鈴が目を輝かせてこちらを見ていた。僕は便宜上そちらに目を向けなければならない。
「今日な、買い物の帰りにアリトモと一緒に野球を見たんだ」
「へぇ」
 鈴はとびきりの宝物を見つけた夢見がちな少女の笑顔でその様子を語り始めた。饒舌に語る鈴を横目に、僕は取ってきた焼酎の封を開ける。用意していた氷をグラスに入れ、焼酎をそそぐ。ぷん、と芋特有の香りが漂い始める。鈴はその香りにまるで気付く様子はない。用意しておいた水をグラスに注ぎ、ゆっくりとかきまぜる。
「それでな、理樹……ん、聞いてたか、理樹?」
「あー、うん。聞いてるよ」
 言いながら、出来上がった焼酎水割りのグラスを傾ける。
「あたし達も高校の時、試合やったじゃないか。いや、やったのは覚えてるんだ。でもその結果だけ、どうしても思い出せないんだ。それで、理樹なら覚えてるんじゃないかと思って」
「うーん……どうだったかな」
 そこにはまだあどけない顔をした高校生の頃の僕らがいる。鈴がピッチャー、僕がキャッチャー。僕らはバッテリーだった。投げ始めた当初は球速も制球力も酷いものだったが、毎日投げ続ける内に一端の投手と張ってもそこそこ見劣りしない程度の投球が出来るようになった。それは鈴の努力で、才能だった。もちろん、投球指導を担当した恭介の手柄でもあったが。
「直枝理樹、私もそれ、もらっていいかしら」
「あ、あぁ。どうぞどうぞ」
「理樹、あたしの方が先だろ」
 焼酎の瓶と氷を渡す僕のわき腹を、うりうりとつつく鈴。
「なぁ、どうだったんだー」
「そんなこと言われても……なぁ」
「理樹も覚えてないのか?」
「うっすらとしか」
 そう言って僕は唸りながら見慣れた天井を仰ぐ。さて、どうしようか。
「確か……勝ったような……気がするよ。多分だけど」
「勝ったのかっ!?」
「多分だよ、多分。責任は持ちません」
「いや、お前の記憶は確かだぞ理樹。あたしが太鼓判を押してやる」
「鈴に押してもらってもなぁ」
「なにぃー! あたしの太鼓判じゃ不満だって言うのかっ!」
 ふと二木さんの視線が気になった。人の前でこんなにおおっぴらにじゃれつきやがってこのバカップルが! と思われてしまったかもしれない。ごめんなさい二木さん、と内心で平伏しつつ彼女の方をうかがう。
「二木さん?」
「……え? ごめんなさい、何か言った?」
 二木さんはぼんやりとテレビを眺めていて、僕らの会話を脳内スルーしていた様子。僕らのバカップルなところを見られずに済んで良かったのかもしれない。それとも、あえて聞かなかったふりをしてくれたのか。
「理樹、朝も言ってたけど、また皆を集めて野球するのもいいんじゃないか?」
 素晴らしいことを思い付いたと言わんばかりにきらきらと瞳を輝かせ、鈴は言った。眩しさに、目が眩んでしまいそうになる。
 今日の昼間に鈴が目にした野球の試合は、それはそれは素晴らしい物だったのだろう。その姿に思わず嫉妬してしまうほど。鈴の気持ちは痛いほど理解できる。もしかしたら、鈴の気持ちを全て理解できるのは世界中で僕だけなんじゃないかとも思う。
 だから、僕は鈴の方に向き直り、こう告げる。

「そうだね。皆を集めて、またやってみるのもいいかもしれない」

 からん。
 二木さんの手にしたグラスが透明な音を立てた。彼女は魂を抜かれたような、呆けた顔をしていた。僕の視線に気付くと慌てた様子で「ごめんなさい。もう一杯もらえる?」と、空になったグラスを差し出す。それを見た鈴が「お前らばっかショーチューずるい。あたしも飲む」と瓶ごとらっぱ飲みしようとするのを、すんでのところで止める。既に水まで注ぎ終えた二木さんは、そんな僕らの様子を見て声をあげて笑う。やがて笑いは僕と鈴にも伝染していく。

「帰るわ」
 二本目の焼酎が空になろうかという頃、そう言って二木さんが立ち上がる。
「帰るの? もう電車ないし、泊まってけばいいのに」
「タクシーくらいあるでしょ。泊まっていきたいのは山々だけど……明日も朝から仕事だし」
 見上げた時計の短針は二と三の間にある。
「そっか。ごめんね、付き合わせちゃって」
「いいわよ。私も久しぶりに楽しかったし」
「鈴」
 机に突っ伏したままの鈴は「おーう……」と、右手だけあげてひらひら降りながら応答した。飲み慣れてない酒に潰されているにしても、行儀悪し。ほら見ろ。二木さんだってくすくす笑ってるじゃないか。まぁ、そんなことを言っている僕の頬もそれなりに緩んでいる。案外二木さんが笑っているのは僕のことなのかもしれないとも思った。
「僕はタクシー拾えるとこまで彼女送ってくから、戸締まりよろしく」
「……まかしとけー」
 本当に大丈夫だろうな。再度の苦笑を漏らしながらドアを開ける。冷えた空気が部屋の中に滑り込んでくる。後ろの方でドアが鈍い音を立てて閉まると、僕らはどちらからともなく夜道を歩き出す。







5、 Re : Little Busters



「駅前に行けば何台か止まってると思うから、そこまではついてくよ」
 ええ、と頷くと彼女は途端に笑い出した。心底可笑しそうに、身体をくの字に曲げている。話し掛けても笑い声しか返ってこないような気がしたので、しばらくは無言で歩く。
 やっと笑いの発作が収まったのか、二木さんは荒い息を整えつつ口を開いた。
「相変わらずね」
「でしょ」
「あなたたち」
「僕もですか」
「当たり前」
 夜空に向かって大きく伸びをする。この辺りは都心に比べて街が明るくないから、星がよく見える。
「また……やってあげるんだ」
「何を?」
「野球」
 二木さんの言葉は唐突なように見えて、反面、前々から用意してあったような周到な響きを含んでいた。だから僕も、ずっと前から用意しておいたかのように大仰に頷く。
「やってあげるんじゃなくて、やるんだよ。二木さん」
「多分こんなことあなたに言うことでもないんだろうけど」
 拗ねたように足元の石ころを蹴飛ばしてみる。とんころころと、無軌道に転がっていく。
「野球って、二人じゃ出来ないんじゃない?」
 ひゅー、と。口笛でも吹きたい気分だった。
 野球は一人や二人じゃ出来ない。僕と鈴はピッチャーと、キャッチャー。投げて、捕ることは出来る。しかしそれでは打たれた時に打たれるままになるしかないのだ。だから僕らにはフィールダーが必要になる。ファースト、セカンド、ショートにサード。外野手も三人。それだけの人がいて、僕らはようやくチームになれる。個人じゃなく、団体。言うなれば、仲間だ。
「そりゃ、そうだよ。野球は二人じゃ出来ない。だから――」
「だから?」
 不意打ち気味に表情を崩す。それは意図的な笑顔だ。高校時代の僕には出来なかったこと。
「二木さんが参加してくれればいいんだよ、野球」
 ぷっ。
 小さく吹き出した彼女。僕も合わせて小さく笑う。
「三人でも、出来ないじゃない」
「二木さんがもっと呼んで来てくれればいいのさ。ほら、ネズミ講みたいに」
 笑いが止んだ。
 何かに気付いた表情。さすがに二木さんは敏い。
「もしかして今日来たのって……そのため?」
「そうだよ。僕だけじゃ無理だからね。行方のわからない人もいるし」
 僕は二木さんに向き直る。少し早足で歩いたから、彼女と僕の間は大体三メートル。でも僕は、ここからでも彼女の逡巡が読み取れた。
「……断りにくい状況作ってくれるわね……って、まさか家に連れてってくれたのもそれが目的?」
 それもある。でも僕は単純に、僕らの現状を見てもらいたかった。他人の目から見て、僕らが一体どんなふうに映るのか、僕はそれが知りたかったのだ。結果は、まぁ聞くまでもなかったが。
「――わかった。私も出来る限りあたってみるわ。でも、期待しないでよ」
「ついでに二木さんも参加してくれればもっと嬉しいんだけどなあ」
「それは……考えておく、わ」
「期待してる」

 短い夜の散歩もいよいよ終わりが近付いてくる。終電が終わったくらいの時間なら人が群がるように列を作るタクシー乗り場でも、さすがにこの時間になれば人っ子一人いない。タクシーもちょうど出てしまった所のようで、今にも切れそうな街灯がじじじと音を立てている以外、静かなものだった。
「同窓会なんかに行くと、見た目全く変わってない人とかいるじゃない」
「うん」
 唐突に始まった会話に慌てて相槌を打つ。
「お酒でも飲みながら話してると、話の節々で必ず『あれ?』と思う瞬間があるのよ。この人こんな考え方もするんだ、こんなに自信たっぷりだったかしら、こんなに幸せそうに笑えてたかしら、みたいに。見た目が変わってなくても、やっぱりどこか変わっていて、そういうのを見ると、変わっちゃったんだなぁって、なぜか寂しい気持ちになったり、逆に、私も頑張らなきゃって、励みになったりする……そういうことってあるでしょう?」
「あるね。うん、よくある」
「それって、相手が変わったっていうのもそうなんだけど、むしろ相手のそういう部分を感じられるようになった自分自身が変わったんじゃないかって思うのよ。狭い価値観の中で相手の器を勝手に判断した気になったり、相手のほんの一面しか見ずに貶したり、昔の私はそんなことばかりだった。恥ずかしいけど……相手を変わったって感じたり、新しい一面を見つけることが出来るようになったのは、それだけ自分が成長したんだなって、そう思えるようになったわ」
 むずむずと、腰を落ち着けたベンチの上で、どこか居心地の悪いような、それでいて温かさに満ちているような不思議な感覚だった。目の前にいる彼女は確かに変わったのかもしれない。そして、彼女が言うことが正しいのであれば、そう感じる僕自身も変わったのだと、そういうことになる。
「変わっていくのってある意味ではすごく寂しいことだけど、逆に言えば、とても幸せなことでもあるのね。生きているからこそ、変わっていけるんだから」
 僕は何も言えずに、じっと掌を見つめていた。閉じて、開いて、また閉じて。なんだか彼女がひどく遠い所に行ってしまったようで、胸の奥がきりきりと締め付けられるようだった。切れかけの街灯の音がやけにうるさい。
 そこで一台のタクシーのヘッドライトが僕らの間を切り裂いた。
「じゃあ」
「またね。連絡待ってる」
「さっきも言ったけど、期待はしないでよ。私の手持ちのネットワークなんて、もうすっかり錆付いてるんだから」
「それでも、僕のよりはまし」
「そうかもね!」
 二木さんは声をあげて、笑った。





 ドアノブを掴むと、きぃ、という木の軋む音がして扉はゆっくりと開いた。予想通りというかなんというか、やっぱり戸締りしてなかった。お姫様は部屋の真ん中に置いた丸机に突っ伏して、すーすーと穏やかな寝息を立てている。このまま置いておいてもいいが、さすがに夜は冷える。風邪を引く。
「よいしょっと」
 仰向けにして背中と膝の下に手を入れて持ち上げる。お姫様抱っこ、とも言う。その身体は予想通りに軽くて、簡単に寝室まで運べた。布団に寝かせる。あの頃と同じ髪型をした鈴。当然のように髪は結んだままだ。クセになるとかわいそうなので、解いてやることにする。頭を持ち上げ自分の膝の上に置く。その上で改めて後頭部に手を差し入れ――
「――りき」
 寝言だ。わかっている。
「まさと……けんご……こまりちゃん……はるか……」
 慣れた手つきで、器用に髪を解いていく。するするすると、鈴の髪がしなやかに流れていく。寝言は続いている。
 ぽたり。
 僕の掌に雫がひとつ零れる。それが涙であること、そしてそれがどんな意味を持っているかということ。全て知っているつもりでも、まだ潜りきれない何かがそこにはある。
「……クド……くるがや……みお……」
 耐え切れず、僕は彼女の瞳にキスをする。涙を吸う。もしもそれで吸い尽くせるのなら、僕はいつまでだって君の瞳にキスをするだろう。
「……きょーすけ」
 僕は唇を離す。月明かりに濡れて、涙が伝った軌跡が輝いている。
 変われているのだろうか。
 ねえ二木さん、僕らは、変われているのだろうか。
 それとも、これが変わるということなのだろうか。この悲しみが、この痛みが、このやるせなさが、変わるということなのだろうか。僕は泣かない。僕の代わりに、鈴が泣いていてくれているから。泣かない。そして、泣かないのは、泣けないのとは違っていた。
 だけど、僕らは泣いてしまわなければならない。一生分の涙を使い切ってしまうためなら、一生分の悲しみとだって向き合ってやる。僕らの言う幸せってやつがその先にしかないのなら、どんなことをしたって向こう側まで行き着く。背中にこの愛しいお姫様を背負って。

「もう一度作るんだ――リトルバスターズを」

 呟いた言葉は彼女の涙に濡れた。

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