1、 アニモーダンシン
例えば、明日の予定。
明日は一日することがない。仕事も休みで、一緒に遊んでくれる友達もいない。そんな時僕ならどうするか。どこか空気のいい自然公園なんかをあてどなく散策するのもいいだろうし、一日中部屋の中にいて自分のてのひらから血液が流れ出ていくのをじっと観察するのもいい。そんな風にしているうちに、潰したい時間なんてものはそっちから勝手に潰れていってしまうものだ。
しかし、そんな日が一日、二日。三、四、五と連なっていくとする。週が月になり、月が年となる。それは砂時計のようにさらさらと、しかし確実に。四季は風のように過ぎ去り、やがて僕というちっぽけな生命が終わりを告げる時が来る。
きっと彼女は大粒の涙をこぼすだろう。鳴咽をもらし、鼻水まみれで僕の名を呼ぶだろう。意識は容赦なく薄れていく。時間は待っいてはくれない。さらさらさらさら。そして君はその瞬間、最期の涙を流すのだ。
まさにその時、きっと僕はこう思うのだ。ああ、僕はこの世界に生まれて、一体何を遺せたのだろう。僕が生きてきたことの意味って、一体なんだったのだろう、と。
これ以上ないくらいくちゃくちゃな泣き顔に、僕は思う。
本当に流すべき涙を知らない君の瞳に、僕は思う。
/
二木さんのメールが来たのは翌日の夕方くらいのことだった。
『今のところ知ってるのはこれだけ。本人に了解はとってないから、その辺りは上手くごまかすように』
『全然問題ありません。二木さん本当にありがとう。続きも期待してます』と送ったら、『(~_~メ)』とだけ返ってきて、少し怖かった。とりあえず『m(__)m』と返して、僕は歩き出すことにした。
今日は二月にしては温かい。風もなく、まるで春を先取りしたかのような日差しだ。だけど、油断は禁物。春めいてきたと思ったら次の日には雪が降ったりする、今年はなんだかわけのわからない冬だ。鈴は僕のことを病弱で貧弱な坊やだとでも思っているらしく、必要以上に分厚いコートを僕に着せたがる。おかげで、少し歩くと暑くてしょうがない。最近の鈴の口癖は「バカ、風邪引きでもしたら病院代がかさむだろうが」だ。心配してくれているのだと思うようにはしている。
二木さんのメールを改めて見返す。番号、メアドだけでは飽きたらず、大体どの地方にいるかま書かれている。もちろん全員分ではないし、所々に虫食いはしているものの、これだけでも十分予想以上の成果だ。やっぱり二木さんはすごい。足を向けて寝られませんです。はい。
「問題は、誰から行くか、だよなぁ」
駅の改札にSuicaを通しながらひとりごちる。まったく、便利になったものだ。少し前まで律義に定期を通していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「まぁ、でも」
いくら便利になっても、久しぶりに会おうという友人への第一声まで機械は考えてくれない。
そういうものだ。
アパートの近くまで来て、辺りがなんだか騒がしいのに気付いた。どうやら誰かと誰かが言い争っているらしい。女だ。聞こえてくる声色がやけに甲高い。片一方が勝手にヒートアップしていくのがここからでも手に取るようにわかる。というか。
「これ、僕の家じゃないですか」
そうなのだった。アパートの門をくぐるまでもない。ウチだ。お隣りの山田さんが心配そうな顔をしてウチのベランダの奥をうかがっている。
「あ、直枝さん」
「こんにちは。あれ、ウチですよね」
「えぇ……ついさっきまで静かだったのに、ちょっと前から急にあんな感じで……お友達だって言ってたのよぉ」
「友達、ですか?」
「えぇ、若い女の人……あ」
キュピーンと豆電球がペカッたような顔をする。
「直枝さんまさか」
「痴情のもつれじゃありません」
「だって現にあんなに言い争って」
「昼メロの見すぎですってば」
「……あらやだ大変あたしったらお鍋かけっぱなしだったわ! おほほほほ! それじゃ直枝さん私はこれで」
ばたむ。
止める間もなく部屋に引っ込む山田さん。扉の向こうからは「ちょっとちょっと斎藤さん聞いて聞いてあのねお隣りの直枝さんちがねあのね……そう! 修羅場修羅場! 修羅場ってるのよう! うん、うん……わかったあたし今からVIPにスレ立てるからサクラよろしく! うん、うん……わかったよじゃあね!」という声。
「おおおおお!」
立てられた! VIPにスレを立てられた!
直視できない現実を五七五で詠じ、頭を抱える。
「ていうか、お隣の山田さんとお向かいの斎藤さんはVIPPERだったのか……」
侮るなかれ情報化社会。ユビキタスとかはよく知らないが、つくづく油断の出来ない世の中である。
僕はゆらりと立ち上がり、ぐるりと首を回す。
VIPにスレを立てられてしまった今、僕にはもう恐れるものなどない。腹を括って目の前の現実と向き合うのみだ。
部屋の中からはもう金切り声は聞こえず、代わりにどすんばたんとゾウとゴリラがダンスの練習でも始めたんじゃないかというような音がしていた。
実を言うと、僕は気付いていたのかもしれない。だからドアノブを握るその瞬間も、恐れや迷いなどはなかった。空気を読めない人のように「ただいまー」と普通に入った。
「…………」
「…………」
知らないうちに時間が止まっていたのかもしれない。互いに胸倉を掴みあったままの鈴と笹瀬川佐々美は、荒れた部屋のど真ん中で彫像のように固まっていた。ぎぎぎと錆び付いたブリキを擦り合わせたような効果音を鳴らして首だけをこちらに向ける。
目が合う。
にへっ。
微笑む。
僕はこめかみに青筋が浮かぶのを自覚しつつ、笑顔で扉を閉めた。
2、 チーズケーキの約束
「それで? 何か言い訳はあるのかな」
じろりとそちらを見やる。そこには申し訳なさそうに頭を垂れる鈴と笹瀬川さんの姿がある。しかも、正座。
「あたしはやだって言ったのに、さささささが無理矢理」
「なぁっ!? むしろ最初に喧嘩を売ってきたのはあなたの方ではありませんこと!? そ、れ、に! わたくしの名前は笹瀬川佐々美だと一体何百万回言えば、」
「はいはいはいはいシャラップシャラップ」
キリがない。パンパンと手を叩くと、むうーとしばらく睨みあった後、「ふんっ」どちらからともなくそっぽを向く。
「まったく、もうちょっとなか……」
仲良くしなよ、と喉元まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。
「理樹、どうした?」
「……ううん、なんでもない」
「うん? 変な理樹だな」
よくわかっていない表情の鈴。乱れた着衣に、ぼさぼさ頭。そんな楽しそうな姿に僕は何も言えなくなったというのに、そんなこと気付きもしない。
「まぁ、いいや」
「なんだ。説教しないのか?」
「そんな気なくなった」
一つため息をつくと、部屋の空気は途端に弛緩していく。
「今日はもうご飯作るのも面倒だし、どこかに食べに行こうよ。この前のお詫びも兼ねて、僕の奢り」
「おお! やたーっ! 肉、肉! 肉焼きに行こう理樹!」
「笹瀬川さんも一緒に行こう?」
水を向けるとさっきまでの威勢が嘘のようにあたふたと落ち着きがなくなった。高校の頃の彼女からは俄かにイメージしがたい姿だ。
「え……え? い、いえ、わたくしは別に、」
「水臭いこと言わないでよ。せっかく久しぶりに会いに来てくれたんじゃないか」
「そうだぞ。理樹はケチいからな、奢ってくれるなんて滅多にないぞ。ラッキーなんだから素直にラッキーって言っとけ、しゃしゃ……ささみ」
なんで鈴は噛まなくてもいいところで噛むんだろう。そういう間の悪さは、一種の才能なんじゃなかろうかと思った。きっと笹瀬川さんも同じことを思っていたのだろう。あれだけ完璧に噛んでおいてなおごまかしきったつもりの鈴を見る目には、どこか懐かしさが滲んでいる。
「行こっか」
出掛ける支度をする僕の後ろで「仕方ないですわね。折角ですからご一緒させていただきますわ。おほほほほ」などとうそぶく声が聞こえる。どう取り繕おうとも、この場は僕と鈴の勝ちで、笹瀬川さんの敗けだ。だからなんだということでもないが、どんなものであろうとも勝利は何にも代えがたく美味である。
「さー! 早く行くぞ! 肉だ肉ー!」
僕の財布の中身など気にしないとでも言うように、さっさと鈴は扉の外へ駆け出していく。置いて行かれた僕と笹瀬川さんは、何気なく顔を見合わせて、小さな笑いをもらした。
その日の夜に一通のメールが来た。件名は『笹瀬川佐々美です』とある。
「お、理樹。メールか?」
「うん、友達から」
そうか、と風呂上がりの鈴は何気なく頷く。鈴の長い髪がドライヤーに吹かれて、ふわりふわりと揺れている。風呂上がりのほのかな色香が匂い立つようだ。
「鈴、次の土曜日は病院だったよね?」
むー、と唸る。
「行きたくない……」
「どうして?」
「だって、面倒だ」
「だめだって、ちゃんと行かないと」
「むー、せっかくのお休みなのに……」
「しょうがないって。ほら、ケーキ買っておくからさ、帰って来たら一緒に食べようよ。それでどう?」
ケーキ、の一言にぴくりと反応する。
「……チーズか?」
「そりゃもちろん。チーズもチーズ、掛値なしのチーズケーキだよ」
もちろん駅前にあるケーキ屋さんのチーズケーキだ。鈴も僕もその店のチーズケーキに目がないのだ。
「むぅ……しょーがない……その代わりチーズケーキ! 約束だぞっ、忘れてたとかなしだぞっ!」
「うん。楽しみにしててよ」
にっへっへとにやつきながら鈴はいそいそとカレンダーに何事かを書き込んでいる。背中から覗き込んでみると、『チーズケーキの日! 理樹は絶対忘れるな! ついでに病院』と。思わず噴き出してしまう。笑うと「なんだ理樹、笑ってる場合じゃないぞ。約束、約束」と鈴は頬を膨らます。
「ついでに、土曜日は僕も出かけるから」
「ん? どこ行くんだ?」
「ちょっと仕事でさ。そんなに遅くはならないとは思うんだけど」
「チーズケーキには支障なし?」
「うん。なし、なし」
「なら、いい」
ふんわりと微笑む鈴を、後ろから抱きしめた。しっとりと濡れている柔らかな髪。甘い香り。吸い寄せられるようにキスをした。愛しさが溢れて気道をふさいでしまいそうになる。
『二木さんから話は聞きました。それで、いつがよろしいですか? そちらの都合にお合わせします』
『それなら土曜日でお願いします。詳しいことはまた後ほど』
鈴が眠ってしまった後、静けさの中で送信ボタンを押した。
3、 バニラエッセンス
それは見惚れるような指先だった。
「理樹くん、そんなに見つめられたら緊張するよー」
彼女はそう言って、自分の手に見つめられるほどの価値はないとでもいいたげに、生地にまみれた両手をぴらぴらと振った。その勢いで、生地がぴちゃぴちゃ飛んで、そのうちの一滴が彼女の頬へ。「ほわぁ!」と飛びのいた彼女に、僕は耐え切れずに噴き出してしまう。
「もう、笑うなんて、理樹くんひどい」
「ごめんごめん」
ぷんぷん、とボールの中の生地をかきまぜる作業を再開する。
「理樹くん、そこのバニラエッセンス取ってもらえる?」
「これ?」
「そう、それ。それをね、ほんの少しでいいの。この中に、ちょちょっ、と」
笑顔ではい、とボールが差し出される。蓋を外し、おっかなびっくり振り掛ける。「おっけーだよー」の声に不思議なほど安心する。バニラエッセンスの独特の甘い香りが周囲を漂い始める。
「いい匂いでしょ?」
「うん。なんか……すごいや」
貧困な語彙だ。でしょ、とまた彼女は笑う。
「バニラエッセンスって不思議なんだ」
「不思議?」
「うん、不思議」
くちゃくちゃと彼女の手がボールをかきまぜるたび、甘い香りが漂ってくる。酔ってしまいそうなほどに。
「バニラエッセンスって、別になくてもお菓子の味自体はそんなに変わらないの。でも、だからと言って省いていいかって言うと、それもちょっぴり寂しくて……理樹くんもやる?」
「いや、僕はちょっと様子見にきただけだから」
楽しいのに、と言いながらも彼女はこねる手を止めようとはしない。
「はて? なんの話だっけ」
「バニラエッセンスの話」
そうそう。彼女の顔が楽しげに綻ぶ。ボールの中の生地はもう八割がた完成しているように見える。
「そう、だからね。バニラエッセンスってなくてもいいのに、ほんの少しあるだけで、出来上がりが全然違ってしまうの。ほんの少しだけで、それを食べる人みんなが幸せになれちゃう。これってすごいことだって思わない?」
出来上がりーと、生地を取り出し器用に伸ばし型を取る。後はオーブンに入れて焼き上げるだけ。簡単ではあるが立派なクッキーの出来上がりだ。
「あとどのくらい?」
「もうちょっとだよ」
「もうちょっとってどのくらい?」
眠りは穏やかな空気に誘われるようにやってくる。思考も鈍り始めていた。
「理樹くん」
「はい」
にっこり。いつもそうだ。彼女はいつも太陽のように笑うのだ。
「焦らなくてもクッキーは逃げません」
「そう……だね」
ゆっくりと世界が閉じていく。いつもの、叩き落とされる感覚とはまるで違う、優しい終わり。甘い香りはその瞬間が訪れるまでずっと僕のそばにあった。バニラエッセンス。まるでバニラエッセンスのような君。甘く、甘く、甘く――
「直枝さん、次で降りますわよ」
「んが」
揺さぶられる感覚に、慌ててまぶたを持ち上げる。窓の外を流れる景色は、若干都会の色を薄めていた。
「あなたの居眠り癖はまだ治っていませんの?」
「いや、これは多分違うと思うんだけどね……」
足元に吹き付ける温風によって作り出された快適空間がいけないのだ。「さあ寝ろそら寝ろオラオラ乗り過ごせ」というジェイアール職員の悪意すら感じる。感じる、気がするだけだ。多分。軽く首を回すとポキペキと小気味いい音がする。
「いい夢見られたようで、なによりですわね」
「ん、何でわかるの?」
「ニヤニヤしながらムニャムニャ眠ってるのを見たら、小学生だってわかるのではなくて?」
「それは失敬」
「どんな夢でしたの?」
正直に白状するのは憚られた。なぜかは僕にもわからない――なんて、実はわからないふりをしているだけだ。
「んー、昼寝してる夢」
「寝ながら昼寝とは中々いい根性してますわね……」
「でしょ?」
「帰りますわよ」
「それは困る」
目的地までの道を、僕は知らない。そもそも笹瀬川さんが教えてくれなかったら、行こうとすら思わなかっただろう。感謝は尽きない。その一つ一つが、積み重なっていけばいい。僕は心からそれを願う。
電車は鈍い音を立てて停車する。立ち上がって伸びをすると、笹瀬川さんも同じ仕草をしていて、すこし笑った。日差しに紛れて、扉から吹き込んだ冷気に身を震わせる。
「いい天気ですわね」
「寒いけどね」
出がけに鈴が着せてくれた厚手のコートをもってしても遮ることが出来ないほどに今日の寒気は殺人的だ。晴れているというのにこの寒さ。ちょっと日陰に入るだけで凍りついてしまいそうだ。
「笹瀬川さんは寒くないの?」
「このくらいの陽気なら日頃の練習でもう慣れっこですわ」
「あ、そうか」
「そういうことですわね」
こともなげに言うが、彼女のように日本を代表する選手ともなると、日々のトレーニングは想像を絶するものだったに違いない。
「どちらにしても、わたくしはもう現役を退いているのだから、たいしたことはありませんわ」
「そうなの? コーチするのだって結構大変でしょ」
「ええ、まぁ……って、知ってましたのね」
「そりゃ人並みにテレビくらいは見ますから」
「意外ですわ」
「どして」
「あなた達って俗世とは縁遠い生活送ってそうですもの」
否定しきれない自分がおかしくて、僕は笑った。こういうのを人は苦しい笑いというのだろうか。
五年前に行われたオリンピック、破竹の快進撃で銀メダルを獲得した日本女子ソフトボールの中心にいたのが、誰あろうこの笹瀬川佐々美だ。エースで四番、決勝トーナメントに入ってからは全ての試合に登板し、自責点は決勝で浴びた本塁打の一点のみ。名実ともに彼女は投打の要だった。当時、世界最強と謳われたアメリカを破っての決勝進出は、低調続きだった日本選手団と相俟って、マスコミのセンセーショナルな報道を独占したものだ。その時彼女は弱冠二十歳、次の五輪での活躍を誰もが期待していた。
しかし彼女は大学卒業とともに現役引退を表明し、無名の高校で教鞭を取ることを選んだ。引退の理由は未だ明らかになっていない。彼女はその理由を、黙して語ろうとしないのだという。
「先生は大変?」
「とりあえず、自分以外の不特定多数の人とうまくやっていくことがこんなにも面倒なものだということを、身をもって教わりましたわ」
それは全くの凡人が言うような労苦と哀愁が滲んでいて、深く頷いていいものか、それとも潔く笑い飛ばしてしまうべきか、僕はしばし真剣に悩んでしまった。
そんな僕を見て、彼女は薄く笑う。
「ここは笑うところですわよ」
「そっちか」
やっぱり笹瀬川さんは笹瀬川さんなのか。高校時代、常に二、三人の取り巻きを引き連れ、その中心で高笑いしていた彼女だ。人付合いに悩む彼女というのは容易に想像できる図柄ではないが、案外そういうものかもしれないとも思う。人とは外に見えるものばかりが全てとは限らないのだ。
「そっちって、どちらですの?」
「えっ、いや……はは」
なんとも言えず、言葉を濁す。
確かに、高校時代の彼女がこんなことを口にしたのだとしたら、それは笑うところだったのだろう。だけど、実際にそれを口にしたのは今目の前にいる、取り巻きも連れず、高笑いもしなくなった彼女だ。そんなこと、この前会った時は思いもしなかったというのに。
「あと、どのくらい歩くの?」
「そうですわね……あと二十分くらいですわ」
「んげ」
「どうしましたの?」
「ちょっと目眩が」
「すぐですわよ。二十分なんて」
「ねぇ、やっぱりバスかなんか使ったほうが良かったんじゃない?」
「運動不足は敵! ですわ」
すたすたと歩いていく。置いていかれないように、僕も負けじと速度を上げる。
「棗さん、元気そうで安心しましたわ」
こちらを見ずに口にする。「うん」としか言えずにいると「あ、まだ棗さんでよろしいんですわね? まだ直枝さんではないのですよね」なんて言うものだから、こちらもかかなくてもいい汗をかく羽目になる。
「元気だよ。元気元気。風邪ひとつ引きやしないよ」
「どうして今、野球なんですの」
話の流れをぶったぎるような言葉。質問形式にも関わらず、反論を許さない強さがあった。
「笹瀬川さんはどう思う?」
彼女は黙り込む。僕の前を歩く彼女の髪は、時折吹く北風にゆらゆら揺れている。
「僕はね、きっといつまでだって逃げ続けられると思ってたんだ。忘れられるなら忘れたまんまで、それでいいって本気でそう思ってたんだよ」
「それじゃ、いけませんの?」
「いいとか、悪いとかじゃないよ」
もっと端的に答えを言葉にしてしまえば良かったのかもしれない。だけど、言葉が言葉でしかなく、過去が過去でしかないように、結果は結果でしかないのだ。言葉は意図を上滑りし、やがて全く別の物へと姿を変えてしまうだろう。そして、僕はそれを望まない。
「ただ懐かしいだけなのかもね。久しぶりにみんなに会いたい。ただそれだけなのかもしれないよ」
「棗さんは、どう思ってるんですの?」
彼女は決然と振り向いた。初めて真っ向から見据えられる。強い瞳。
「鈴が言ったんだ。今度恭介たちがこっちに来たら、久しぶりにみんなで野球するのもいいんじゃないかって。だから僕は『いいんじゃないかな』って、言ったんだよ」
笹瀬川さんは俯いてしまう。僕や鈴に言いたいことは沢山あったはずだ。だけど彼女はそれらを全て飲み込んで笑ってくれた。素直にありがたいと思った。たとえそれが、踏み出せない人が見せる種の、つまらない躊躇であったとしても。
「行こうよ。もう少し、なんでしょ?」
「……ええ」
見慣れない町並みを歩く僕らの顔はどこか浮かない。久しぶりの旧友に会う顔じゃないなと、僕は自分で自分の頬を叩く。
/
結論から言おう。
僕らの訪問は空振りに終わった。
4、分岐点
僕らは電車から降りてすぐに別れた。帰りの道中、僕らの間には会話らしい会話はなかった。疲れもあった。何より、僕と笹瀬川さんの間で交わすべき会話は全て済ませたという確信があった。「また暇があったら鈴に会いに来てやってよ。きっと、喜ぶから」と言うと「本当に、ほんっとーに、暇で暇でしょうがなかったら、またお邪魔しますわ」なんて言いながらそっぽを向いた。
笹瀬川さんを見送った後も、僕はぽつんと雑踏の中に突っ立っていた。家へ帰るのであろう人の波は僕を避けるように流れを作り、僕はそれをただぼんやりと眺めていた。蟻地獄にはまって、そこから逃げようともがくばかりの同朋を眺めているような気分だった。今日一日何も無かったのに、何かをやり尽くしてしまったように身体の内側が空になっていた。
『――さんなら、先週お店を辞めてしまいましてね』
「そうだ。チーズケーキ買ってかなきゃ」
ついでに買って帰るはずのお土産のことを、今の今まで忘れてしまっていたことに気付いた。僕が買ってくるチーズケーキだけを楽しみに今日一日を過ごしたであろう鈴の顔が、ぽん、という音を立てて浮かんだ。このまま買わずに帰ってふくれっ面の鈴から文句を言われるのも悪くはないが、口元を汚しながら大好物を頬張る鈴を眺める方が、いくらかは幸せな気持ちになれるだろう。そして、この近くには確か最近出来た洋菓子屋さんがあったはず。僕はその行為に付随する損得を一瞬の内に勘定する。
例えば当てもなくさまよい歩く旅人の目の前に二股に分かれた道があらわれたとする。どちらに進めばより幸せになれるのか、旅人にそれを知る術はない。知りたければその道を進んでいくしかないのだけれど、その時点で選ばなかったもう片方の行く末を知ることは金輪際出来なくなる。考えてみれば当たり前のことだ。
だけど、その道の行く末を知った上で再度選択し直せるとしたら、どうだ? 旅人はその二つの道を吟味した上で、より望ましい未来を選択するのではないか? その時点で望ましいと感じられた一方の道が真実となり、望ましくない方の道は嘘になる。旅人は選ばなかった方の道のことは忘れて歩みを続けていく。忘れるのは当たり前のことだ。だってそれは嘘なのだから。嘘は速やかに塗り潰されなければならない。早く、早く。
だけど、それは本当に嘘だったのかな?
現実は複製され、二つ目の現実が生まれる。違う未来を選んだ自分を日常的に知覚するようになる。こちらの世界で愛した誰かを、あちらの世界で蹂躙する。あちらの世界で信じた何かに、こちらの世界で唾を吐く。現実と虚像が瞬きする間に入れ代わり、やがて嘘は嘘ではなくなる。真実が真実ではなくなり、自分が自分ではなくなる。自分でなくなった何かを高い空の上から見下ろすようになる。
そして旅人は気付くのだ。一度知ってしまった行く末を、全て嘘にすることなど出来ないのだと。
結論は一瞬で、気付いた時にはもう歩き出していた。
駅から百メートルも離れていないところにその洋菓子屋はある。駅前の風景は最近の開発によって急速に変わってきている。売り上げが芳しくなさそうな商店はいつの間にか姿を消し、代わりに小綺麗な商店が開店しているなんてことはざらだ。半年もこの街から離れてしまえば、ここがかつて自分が暮らした街かどうか、判別することすら難しくなってしまうような気がする。事実、数年前に僕と鈴がこの街に暮らすようになってから懇意にしていた店の半分以上がこの数ヶ月で姿を消した。
街は変わる。そして、その流れを止める術など僕らにはない。
店の前に着いた僕はドアノブの位置にあるボタンのようなものを叩くようにして押す。
空振る。
「へ?」などと間抜けな声を上げる間もなくドアから飛び出して来た何かに吹っ飛ばされる。僕にぶつかってきた何かも無事では済まなかったらしく、「うひゃあぁっ!」などとすごい叫び声を上げながら僕と反対方向に倒れ込んだ。
「あいたたた……」
「ごごごごごめんなさーいっ!! 大丈夫ですかーっ!!」
テンパってる様子なのに、どこか間延びした印象を与える声。「うん……大丈夫、あなたの方はだい」じょウぶデすか。
「本当にごめんなさいーっ!」
彼女の声が頭に入っていかない。まるで耳の中に分厚い綿でも詰めてしまったかのよう。彼女は目をバッテンマークにして、あわあわあわ。「あの……大丈夫ですか? どこか痛いところでもありま」
「小毬さん」
視線と視線が衝突した。
遠くの物から近くの物へ、ゆっくりと焦点が定まっていく。遠い日の幻想から、今目の前にある現実へ。
あれからどれくらいの時が流れたのだろうと、感傷めいたことを思う暇すら僕には与えられなかった。それくらい彼女はあの頃と変わっていなかった。短めの髪はあの頃と同じリボンで飾られている。星型の飾り。柔らかなその空気。匂い。甘い、匂い。
様子を見に来た洋菓子屋の店長に声をかけられるまで、僕らの時間は止まったままだった。
5、幻と遊ぶ
「いっくぞ――っ!!」
「いつでもきやがれですわ――っ!!」
つい昨日までの寒さが嘘のような晴天の日、僕と鈴、笹瀬川さんは一緒にちょっと広めの公園に来ていた。部屋の隅で埃をかぶっていたバットと軟球、グローブを持ち出して。
バッターボックスに悠然と構える元日本代表四番・笹瀬川さんの威圧感にも怯む事なく鈴は大きく振りかぶり、自慢のストレートを投げ込む。笹瀬川さんは軽くバットを差し出しただけに見えたのに、その見かけに反してボールは高々と舞い上がった。
「なにぃーっ!?」
「おーっほっほっほっ! いつまでも高校時代のわたくしではありませんわ!」
「勝負はまだまだこれからじゃーっ! いくぞ理樹っ!!」
鈴は馬鹿の一つ覚えのように、全力のストレートばかりを投げた。笹瀬川さんは時々打ち損じはするものの、大半の球を正確に芯で捉えてくる。しかも彼女はまだまだ本気じゃない。けして少なくはない余力を残してバッターボックスに立っているように見える。彼女の打撃は高校の頃たまに見かけただけだったが、その頃とは較べ物にならないほど技術的に向上していることが、キャッチャーの位置からだと容易に見て取れた。
対する鈴は十何球か投げたあたりから明らかに球威が衰えた。幾年ものブランクを考えれば頑張っているとは言えそうだが、やはり少しの間とは言え世界の頂点にいた笹瀬川さんとは比べようもない。鈴自身もそれをわかっているのだろう。イメージにすら追いつけない自分に苛立っているように見えた。
「鈴」
「なんだっ!」
「休憩」
外したミットを右手に持って肩を竦める。不満そうな顔をしていた鈴も笹瀬川さんに打席を外されては投げようがない。「うがーっ!」と不承不承マウンドを降りた。
「投げるのは本当に高校以来なんですの?」
「そうだよ。キャッチボールもやったことない」
散々打たれたせいでむすっとむくれている鈴の代わりに僕が答える。むくれているのに僕が作って来たサンドイッチはしっかりキープ。僕が言うのもなんだけど現金なものだ。
「それであの投球ですの……」
言葉の終わりについたため息に鈴がキレた。
「なんだ馬鹿にしてんのかささささささささっ!」
噛みすぎてもはや原型をとどめていなかった。「だから私の名前はささんぐっ!」お決まりの台詞を叫ぼうとした彼女の口に自慢のサンドイッチをねじ込んでやる。
「鈴、笹瀬川さんは鈴のことを褒めてるんだよ」
笹瀬川さんがサンドイッチを喉にんぐんぐ詰まらせている間に彼女の真意をわかりやすく説明してやる。
「そうなのか?」
「んぐ、んぐ」
もぐもぐと口を動かしながら首を縦に振る笹瀬川さん。
「はい、お茶」差し出す。ごくごくごく。飲み干す。「ありがとうございます……」
笹瀬川さんはやっぱりいい人だ。高校の頃もそうだった。鈴のことを敵視しているように見せて、実はものすごく情に厚い。鈴が何か困った事態に巻き込まれそうになると血相を変えて飛んで来てくれる。今日だってそうだ。なんだかんだ言いながら、結局は僕らに付き合ってくれる。
「この数年間投げてないのにいきなりこれだけ投げられるというのは、あなたたちが思っているよりずっとすごいことですわ。技術を向上するためじやなく、維持するためだけに毎日必死で練習しなくてはならない人なんて山ほどいますわよ」
自分も含めて、とでも言いたげな笹瀬川さんの口ぶりだ。彼女のことだから、自分からそれを肯定することは決してないのだろうけど。
「まぁ、確かに、それもそうか。それに、笹瀬川さんくらい打てる人なんてこの界隈にはそうそうはいないよね」
「さぁ、それはわかりませんが……でも、その辺りの選手にほいほい打たれる球ではないとは思いますけど」
「てことは、鈴の投球も十分及第点なわけだ」
「ブランクも考えれば、百二十点あげてもいいくらいですわ」
鈴を挟んで両端から鈴を持ち上げる。「やめろお前らきしょい」とかなんとか言いながらも、まんざらでもなさそうだ。そのうち、いたたまれなくなった鈴は「ジュース買ってくるっ! アリトモっ! 行くぞっ!」と、グラウンドの外へ走っていってしまった。この辺に自販機はないので、ジュースを買うには公園から出て少し歩いた所にあるコンビニまで行かなければならない。鈴に「遠いよー!?」と叫ぶと、「ロードワークじゃーっ!!」と大きく手を振って返してくる。
「……まぁ、なんといいますか」
「単純だなぁ……」
「照れ屋さんですわね……」
苦笑いしながら脇に置いたお茶に手を伸ばす。
「もう一杯飲む?」
「いただきますわ」
こぽこぽこぽと、さっきのあったかいお茶を小さな器に注いでやる。「はい」手渡し、自分のにも注ぐ。
「僕の記憶が確かなら、これを準備したのは鈴だったと思うんだけどなぁ」
「恥ずかしかったんでしょう」
顔を見合わせ、再度の苦笑。手に持った器がほんのりと温かさを伝えてくる。口をつけると、まだ少し熱かった。ふーふーと、吹く。
「あなたたちは、本当にいつまでも子供みたいですわね」
「否定はしないよ」
「本当に……」
笹瀬川さんは、ふと足元に視線を落とした。見ようによっては俯いているようにも見えた。あるいは。
対称的に、僕は空を仰いでいた。僕らは互いに何かをごまかしあっていた。互いにそれが相手に伝わってしまっているのを知りながら。それでも、必死に。
「神北さんに、会えたって本当ですの?」
「……うん」
僕は正直に頷いた。隠してどうなるものでもないからだ。
「遠くまで連れていってくれた笹瀬川さんには悪いけど、ものすごく近所で見つけた」
「どこですの?」
「新しく出来た駅前の洋菓子屋さん。美味しいよ」
「あぁ、まぁ……そういうことも、結構よくあるのかもしれませんわね」
「みたいだね」
ぐびりと、手にしたお茶を飲み干す。ぬるくはなっていたが、まだ少し熱い。
/
『神北さんが働いてる店を知ってます。よろしければ案内して差し上げますが』
僕がした二木さんへの呼び掛けを聞いていち早く反応してくれたのが笹瀬川さんだ。手初めに会いに行くには些か躊躇せざるを得ない相手だったが、どちらにしたってそれは乗り掛かった船だった。僕は笹瀬川さんの誘いに応じることにした。
だが、空振り。
落胆しながらもどこか安堵していた自分を、僕は認めなければならない。気が抜けてもいた。そして、僕は彼女と出会ってしまった。
心配して様子を見に来た彼女の店の店長が声をかけるまで、僕らはまんじりともせずに、ただ互いの顔を見つめていた。顔を見ているようで実は他の物を眺めていたのかもしれない。可能性はある。なぜなら、僕らは互いにけして視線を合わせようとしなかった。
「ひさしぶり」
どうしたんだお前ら、といかにも豪放な店長の声に反応したのか、やけにしゃがれた声が彼女の方から聞こえてきた。
「なんだお前ら、知り合いか。俺はてっきり小毬が暴漢にでも襲われたのかと思ったんだが」
違います僕は暴漢ではありません、と弁解をすると、「確かに、兄ちゃんが暴漢やるのは百年早いわな!」と豪快に笑い飛ばされた。なんていうか、凄い人だ。
久しぶりなんだろ仲良くやれよかっかっかっ、と大声で笑いながら店長は店の奥に引っ込んで行った。ぽかーんと口を開けてその様子を眺めていると、服の裾をくいくいと引っ張られた。振り向く。
「理樹、くん?」
不安げな瞳がそこにあった。いたたまれなくて、思わず見なかったことにしたくなるような、そんな表情だった。
「ごめん」
僕は小毬さんより先に立ち上がり、手を差し延べた。小毬さんは差し出された手の取り扱いに迷っているようにも見えた。掴もうか、それともやめようか。彼女に手を差し延べたことを、僕は一瞬で後悔した。
「ごめん」
もう一度だけ短く謝ると、手を引っ込め、彼女に背を向けた。「あ」と、背後で声が漏れた。もう僕は動揺しなかった。立ち上がり、ぱんぱん、と埃を払う音がしていた。
「チーズケーキを買いにきたんだ」
口にした事実はやけに言い訳めいていた。「うん」と、返事もどこか宙に浮いていた。
「ここのチーズケーキは、美味しい?」
そう聞くと、ようやく彼女は正気を取り戻したように、
「――うん! とっても美味しいよっ! よかったら見ていって!」
明るく笑い、僕を店内に導いた。このケーキはどうで、そっちはこうで、あれはどうこう。饒舌に説明する小毬さんに、その説明を熱心に聞く僕。ちゃんとした客と店員に、僕らはなれていただろうか。問題なかったと思うが、絶対の確信はない。
結局僕は割とスタンダードなタイプのチーズケーキを買うことにした。これにするよ、と言うと彼女は丁寧にそれを包んでくれた。手渡された包みを受け取り、「ありがとうございましたーっ!」と、店員のように彼女は笑った。
「また来るから」
簡潔にそれだけを告げて、僕は店を後にした。買ったそのケーキを誰と食べるのか、最後まで小毬さんは聞こうとはしなかった。気遣いなのか、それとも躊躇なのかはわからないが、なぜかとても彼女らしいと思った。
通りを歩きながら、店で小毬さんから聞いたケーキの説明を丸々忘れていることに気付いた。彼女の事務的な説明は全て右から左に流れてしまっていた。覚える気もなかった自分には、とうの昔に気付いてはいた。
もう一度あの日に戻れたら、時計の針を逆に回転させることが出来たならと、懐かしい彼女の声を思い出しながら、そんなことばかりを考えていた。
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十分も経たない内に鈴は戻ってきた。本当に走って行って来たらしい。感心なことに、鈴は僕らの分のジュースも買ってきてくれていた。僕らにそれを渡す時、脇にちょこんと置かれた水筒を目にした時の鈴の顔は傑作だった。笹瀬川さんが笑い、つられて僕も笑い、鈴は「ふかーっ!」といつものように怒った。笑っていると、アリトモがひょこひょこ戻ってきた。途中で鈴に置いて行かれたらしい。「途中まではちゃんとついてきてたんだっ」と、言い訳にもならない言い訳をする鈴の傍に寝転んで、彼はすやすやと居眠りを始めた。
それから、鈴の体力が回復するのを待って、再び対決。鈴は相変わらずストレート一本槍で、笹瀬川さんはいとも簡単にそれを打った。投げているうちに鈴のコントロールが段々定まってきたので、うろ覚えのサインでリードの真似事をしてみた。鈴が変化球を投げないので、本当に真似事でしかなかったのだけれど。僕の小ざかしいリードなどないも同然に笹瀬川さんは打ったが、それよりも僕は、鈴が僕のサインを覚えていたことに驚いた。考えた僕でさえ忘れかけていたものを、鈴は忘れてしまうことなくしっかりと覚えていた。小さく出したサインにこくりと小さく頷く鈴を見る度、緩みそうになる頬を僕は必死で抑えていた。
球がなくなったらちんたらと拾いに行って、また投げて、打って。そんなことを一時間ぐらいしていただろうか。一番先に音を上げたのは鈴でもなく、笹瀬川さんでもなく、ただ球を捕っていた僕の腰だった。
「ご、ごめん、もう限界」
情けないぞ理樹それでも男かー、なんていう文句も無視してベンチにごろりと横になった。鈴は僕にあらかた文句を言い尽くすと、笹瀬川さんとキャッチボールを始めた。
「元気だなぁ……」
働き始める前も、そんなに運動をする方ではなかったけど、そこまで運動出来ない身体になっているとも思わない。これだけ投げて打って走り回って、まだピンピンしているあいつらが異常なのだ。うん、そうだ。そうに違いない。そうに決まってるさ。
笹瀬川さんは当たり前としても、今日の鈴は一体何なのだろう。元気すぎる。鈴は子供を相手にする仕事だから、普段僕よりは運動に縁のある生活をしているだろうが、それにしても。
「お――ぅりぃやあああぁぁぁ―――――っ!!」
雄叫びを上げながら、鈴は大きく上空に向かって投げる。キャッチャーフライのつもりなのだろうか。太陽の中に吸い込まれていくように見えた。眩しくて、球の行方を見失ってしまう。いつまでも落ちて来ないなんて、そんなことはありえない。そのくらい分かっている。やがて、球はゆっくりと落ちて来る。
「どこに投げてるんですのーっ!?」
「ほっとけささこーっ!」
球はまるで見当違いの場所に落ちた。笹瀬川さんが小走りでそれを取りに行く。
こっちにも打ってこーい!
猫どかせ。
私は参加してませんよ。
筋肉革命だぁー!
おやすいごようですっ!
まーん!
痛いけど大丈夫ー!
すごいじゃないか!
幻視する。
そこにいるのがあなた達だったら、どんなに。
どんなに――
「なーご」
いつの間にか僕の隣にはアリトモがいて、のん気にあくびなんかしている。ゆっくりと目の前の現実が戻ってくる。僕は水筒に手を伸ばす。こちらに引き寄せてから、もう全て飲みきってしまったことに気付いた。鈴が買ってきてくれたペットボトルも空だ。
「また来るから」
僕は小毬さんにそう言った。
次があるとしたら、僕はどんな顔をして行けばいいのだろうか。どんな言葉を口にすればいいのだろうか。
逃げ出した僕が。
「ねぇ、アリトモ?」
そんなの自分で考えろよ、とでも言いたげに、アリトモはふんっと鼻息を飛ばしてそっぽを向いた。
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