朝の光で目を覚ます。
 お日さまの光もかなり温かさを増し、この町の長い冬も、もうすぐ終わろうとしていることを告げている。

 春が、もうすぐやってくる。
 寒がりだったあなたが待ち望んでいた春が。

 小さかった頃、祐一がわたしの家に遊びに来るのは決まって冬だった。冬休みの始まりと共にやってきて冬休 みの終わりと共に帰っていく少年は、わたしにとって冬の象徴だった。

 だからわたしは、冬が大好き。
 冬が終わり春がやってくるというのは大抵の人にとっては爽やかで解放的な季節の移り変わりだろう。 でもわたしにとって春は、やっぱり寂しい季節だった。だって、祐一と会うには春夏秋とあと3つも季節 を過ごさなければならないから。
 春は祐一から一番遠い季節だったから。

 でも今年からは冬が終わって春が来ても祐一と一緒にいられるはずだった。それなのに、やっぱり春になる と祐一はわたしの側にはいなかった。わたしと祐一は冬の間しか一緒にいられない運命なのかもしれない。 そう考えたら、なんだか涙が出そうになる。

 着替えを済ませ、自分の部屋を出る。
 ふと隣の部屋のドアを見た。
 7年ぶりにこの町に戻ってきた少し変わった少年の住む部屋。そして今は主のいない部屋。
 今にもそのドアから彼がひょっこり顔を出してくるような気がして、しばらく立ち止まって眺めてみた。 しかしどれだけ待ってもそのドアが開くはずも無く、わたしは当然の如く一人だった。
 持ち主を失った部屋の名札は窓から吹く風に揺れもせず、今でも主の帰りを一人寂しく待っている。
 今のわたしにそっくりだと思った。

 祐一の行方は今でも分からない。

    ☆   ☆   ☆

 祐一がわたし達の前から姿を消したのは、ちょうどお母さんが事故にあった日の夜だ。

 ――今夜が峠です、最悪のことも覚悟しておいてください――

 そうお医者さんに告げられたわたしは、家に帰って自分の部屋に閉じこもり、ひたすら泣いた。
 わたしを勇気付けようとしてくれた祐一さえも拒絶して。
 わたしの部屋の前で何度もわたしの名前を呼ぶ祐一。わたしはただただ耳を塞いで、これが悪い夢であるよう に祈っていた。

 何分後か、あるいは何時間後か。
 ドアを叩くのを諦めた祐一は、どぼとぼとわたしの部屋の前から立ち去った。泣き疲れて朦朧とした頭で、 わたしは祐一が去っていく足音を聞いていた。

 それ以降、祐一の姿を見た者はいない。

 結局お母さんは一命を取り留めた。
 奇跡的だ、とお母さんの手術を担当したお医者さんは満足そうな笑顔で言った。
 だけど、わたしには祐一がお母さんの身代わりになったようにしか思えなかった。


 朝ごはんの支度をする。
 お母さんがまだ入院しているので、この家にいるのは今はわたしだけ。自然、用意される朝御飯も手抜き の物が増えていくことになる。ちなみに今日の朝御飯の献立は、ご飯に梅干と海苔を載せてお茶をかける、世間一般で言うとお茶漬けと 言われる料理。所要時間3分。

「いただきます」

 一人きりの味気ない食事。
 お母さんと祐一がこの家からいなくなってから早や2ヶ月、こんな生活を延々と続けてきた。
 もしここに祐一がいたら、と思わずにはいられない。お母さんが退院して、祐一が戻ってきたら。 またあの幸せな冬の日に戻れるなら。

 はぁ。

 溜息の音がやけに大きく響いた。


 今は学校も春休みなので、一日何もすることがない、という日が続く。陸上の春の大会も近かったが、 部活に参加する気にもなれなかった。
 ――お母さんがまだ入院しているから。
 ――祐一がまだ見つかっていないから。
 そんな理由をつけて、陸上部にはしばらく休みをもらった。
 この時期に部長であるわたしがいなくなることは部にとって相当な痛手であるはずだが、顧問の先生も 部員の皆もわたしの戦線離脱を快く認めてくれた。おそらく、傍目から見て私はよっぽど酷い状態だった のだと思う。実際酷い状態だったのだから仕方ないと言えば仕方ないのだが、正直罪悪感が無いわ けではない。私自身怪我をしているわけでもなく、言わば精神的な問題なのだから。
 しかし、それでもわたしは部活に参加する気にはなれなかった。部活なんて所詮は学校のクラブ活動。 酷い言い方をすれば、好きでやっている趣味みたいなものだ。お母さんが入院している時に、 祐一が行方不明になっている時に、自分だけ部活動をやっているなんてぞっとしない話だ。

 最近、祐一の部屋にいる時間が多くなった。何もすることがない時、ふとした時に、自然と足が祐一の部屋に向かってしまう。祐一の部屋にいると、何と なく祐一の匂いがするような気がして落ち着くのだ。
 ――あの時、祐一の呼ぶ声を無視したわたしが。
 ――自分が辛いからって、祐一の声なんて聞く耳もたなかったわたしが。
 ちくりと胸が痛んだ。

 祐一のベッドにうつ伏せになる。
 ――祐一の匂い。
 それを肺一杯に吸い込む。
 まるで麻薬を吸っているようだと思った。

 ぼんやりした頭で、いつも祐一はこの部屋で一体何を考えていたのだろうか、と考えてみる。
 7年ぶりに会ったいとこの少年。待ち合わせの時間に2時間遅刻していったあの日、本当はとても不安だった。
 ――ちゃんと話せるだろうか。
 ――変わってしまっていないだろうか。
 7年前の気まずい別れが脳裏によみがえり、わたしの足は待ち合わせの場所から遠ざかり、ようやく勇気を 振り絞って待ち合わせの場所に向かった時には既に約束の時間から2時間が過ぎていた。
 でも自分の待ち合わせの場所に着いて、雪の積もった頭で震えながらわたしを待つ祐一を見た時。
わたしは直感的に感じたのだ。
 ――彼は変わってない。7年前の、あの優しかった祐一のままだ。
 わたしは何だか無性に嬉しくなった。胸を覆っていた不安は消え、代わりにまたあの少年と同じ屋根の下で 生活できるという喜びが湧いてきた。
 わたしはなけなしの小遣いで、7年振りの再会と遅れたお詫びの意味を込めて温かい缶コーヒーを買っていって あげることにした。

 しかし、違和感が無かったわけではない。
 祐一は7年前のことをすっかり忘れていたのだ。
 わたしの腕からはたき落とされ壊れた雪うさぎ。その時一緒にわたしの初恋も砕けて散った。わたしにとっては 忘れようと思っても忘れられない、また忘れそうになっても忘れたくない記憶だ。
 悔しい気持ちもなかったわけではない。でも彼が忘れたおかげで、今気まずい関係にならずにいられるの だったら、それでもいいと思った。思い出せるなら思い出して欲しい。けどそれが原因で今の関係が崩れるのな ら、いっそこのままでもいい。そう思ったのも確かだった。

 7年前の気まずい別れが嘘のように、祐一とは良い友達、良い家族として打ち解けた。
 温かく心地よい日々だった。

 ただ一つだけ不安だったのは、ごくたまに見せる祐一の目。
 ――ここにいるのに、ここにいないような。
 ――ここにあるものを見ながら、ここにないものを見ているような。
 まるでそんなことを感じさせるような目をすることがあるのだ。そんな時わたしは、祐一が全く知らない人に なってしまったような、そんな錯覚を覚える。基本的に祐一は誰に対しても気さくに打ち解けるけど、大事な部 分には他人を決して立ち入らせない。いつだってそんな雰囲気を持った少年だった。
 いつも祐一は何を見ていたのだろうか。
 きっと他人には見えないものを見ていた祐一の心には一体何があったのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にかわたしは眠ってしまっていた。

    ☆   ☆   ☆

 ――夢。
 夢を見ている。
 雪が降っていた。
 雪が、ただでさえ白い町を、さらに白く染めていた。
 わたしは誰かを待っていた。
 ――誰を?
 それを考えているうちに時間は過ぎていった。

 どれくらいたっただろう。
 いつのまにかわたしの頭には雪が降り積もっていた。
 凍えそうだった。
 でもわたしは、感覚を無くしてしまったように、寒さを感じることはない。
 わたしはまるで意志だけの存在になってしまったかのように、身体を動かすことが出来ない。

『……遅い』

 「わたし」がふと呟く。
 「わたし」?
 違う。
 これはわたしじゃない。
 この声は「わたし」の声じゃない。
 その声の響きはどこか懐かしく。
 ――この声は。
 ――この声は!

 その時、どこからか声がした。

『雪、積もってるよ』

 「わたし」は顔を上げた。
 声の主を見る。
 それは紛れもなく「わたし」、水瀬名雪の姿だった。



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