あの不思議な夢の中。わたしの意識は、どうやら祐一の身体の中に入ってしまっているみたいだった。
 あの始まりの日。
 祐一と7年ぶりに再会したあの日。
 わたしの夢は、祐一の視点で、あの日をトレースしているようだった。

 その夢を見た日、不思議なこともある、と思った。祐一の部屋に染み付いた祐一の記憶がこの夢を見せてくれた のだろうか。人が眠る時に見る夢には、記憶を整理したり、精神の安定を保つ効果があると、どこかで聞いたこと がある。だとしたらこの夢は、わたしの身体がわたしを慰めるために見せてくれたんだろうか。
 わたしのこの身体もそんなに捨てたもんじゃないなと思った。

 こんな夢は、これっきり。わたしは当然そう思っていた。
 しかし、その日から毎晩わたしは「祐一」になる夢を見た。
 愛しい祐一の身体に入って日々の生活を過ごす。外から見た「わたし」のぼけぼけした様子に少し落ち込んで しまったりもしたけど、あの頃の自分と祐一の何でもないやり取りを見ているだけで、わたしの心に空いて しまった穴が少しずつ埋められていくような気がした。
 安らかな冬の日の思い出に浸って、このままずっと眠り続けてもいい。
 そう思ったこともあった。
 毎日を眠ったような感覚で過ごすわたしには、あたかもそれはもう一つの現実のように感じられた。

 あの日。

 この町の案内がてら、二人で商店街に買い物に行った日、わたしは祐一を色々引っ張りまわして、 荷物持ちをさせた。すごく重そうな荷物を必死になって運ぶ祐一に、少し悪いなと思いながらも祐一と 二人で買い物をしている嬉しさでいっぱいだったのを覚えている。

 しかし夢では、違った。
 夢の中の「名雪」は祐一を商店街の入り口で待たせた。

 あの時、わたしはそんなことはしていない。あの日はお母さんに頼まれた買い物の量が多く、沢山の店を回って 買い物をしなきゃいけなかったから、半分以上荷物持ちとして連れてきた祐一を商店街の入り口で待たせておく 理由がないのだ。
 ――確かに、夢だから全てが「現実」と同じでである必要はない。
 そう思いながらも、祐一の中にいる「わたし」は何故か落ち着かなかった。

『うぐぅ!どいてどいてどいて〜っ!!』

 後方から騒がしい声が聞こえてきたと思ったらその声の主は全速力で走ってきた勢いそのままに 祐一の背中に全力のショルダータックルをぶちかました。祐一はその衝撃に耐えかねて思いっきり雪の残る アスファルトにノックダウン。祐一は怒りに任せてぶつかってきた人物を確認する。
 それは背中に羽をつけたカバンを背負った、天使みたいに小さくて可愛い女の子。

 どくん。

 祐一の心がざわついたのを如実に感じた。
 わたしはこの夢の中にいる時、宿主である祐一の心の動きを手に取るように感じることが出来る。 祐一の思考はどんな感情であろうとダイレクトでわたしに流れ込んでくるのだ。
 しかし、その女の子を見た時の祐一の感情の揺れは今までわたしが経験したことのないものだった。
 例えるなら、恐怖。
 例えるなら、愛情。
 例えるなら、父性。
 そんな様々な感情が入り混じり祐一の中で大きなうねりになったと思ったら、次の瞬間それは跡形もなく 雲散霧消していた。

 何が祐一に起こったのか、わたしにそれを知る術は無い。
 しかし、ただ一つだけわたしに言えることがある。

 わたしはその少女のことを知らない。

    ☆   ☆   ☆

 あの奇妙な夢を見るようになってから、一週間が過ぎた。
 夢の中では、相変わらずの日常を過ごしていたが、その中に一つだけ混じった異物が彼女の存在だった。 商店街で祐一にぶつかって来た少女。そして、わたしの知らない少女。
 彼女の名前は「月宮あゆ」というらしい。
 どうやらその子は祐一が7年前この町にいた時既に出会っていた(と言う設定になっていた)らしい。祐 一だってこの町に住んでいたんだから、わたしの知らない子と仲良くなっている可能性は当然ある。
 少しだけ、胸がざわついた。

 夢の中で祐一は、香里の妹の栞ちゃんとも出会っていた。
 栞ちゃんはわたしの親友で今もクラスメートの美坂香里の1歳違いの妹だ。昔はかなり病気がちで学校を 欠席することも多かったが中学生くらいになって身体も良くなってきて、最近では姉と一緒に元気に学校に 通っている。わたしは香里の家に遊びに行った時に栞ちゃんにも何度か会ったことがあるが、祐一が彼女と 知り合いだった、という話は聞いていない。

 栞ちゃんに祐一と「月宮あゆ」のことを聞いてみようか。
 わたしはこの一週間この夢を見続けて、この夢は実際にあったことではないのかという疑いを抱いていた。 勿論なぜわたしがそんな夢を見ることが出来るのかとか、その種の疑問は吐いて捨てて分別しきれないほどある。 しかしそんな疑問以上に、わたしには「月宮あゆ」という少女にどうしようもなく現実感を感じていたのだ。
 「月宮あゆ」は実在する。そんな確信にも似た仮説まで浮上していたのだ。
 そして、もしもこの夢が本当にあったことだとしたら栞ちゃんは祐一と「月宮あゆ」に出会っているはず。
 そのことを栞ちゃんに直に確かめたくて、わたしは水瀬家の電話機の前で香里の家の番号を押そうとしては 止める、という奇行を繰り返していた。

 そんな自分の考えに自分自身呆れてしまう部分は無いではない。
 ――たかが夢に何をムキになっているんだ? こんなことは忘れていつものように寝てしまえ。頭をからっぽ にして眠ればあんな夢はもう見ない。

 しかしそう思えば思うほどあの夢に固執していく自分がいるのも確かだった。わたしの知らない少女と、日を 重ねるたびに近づいていく祐一。夢だと頭ではわかっていても、わたしはどうしても知りたかった。
 何よりあの夢に染み付いた祐一の匂いが、わたしにあの夢を忘れることを不可能にしていた。

 散々迷った挙句、結局わたしは香里の家に電話していた。

 プルルルルルル

 呼び出し音が鳴る。
 急に香里の家に電話をかけるのは中学校以来だったことを思い出した。香里とは小学校以来の親友で、 何か困ったことがあったら必ず香里が助けてくれた。高校を選ぶ時も、香里はもっと偏差値の高い高校に 行けたにも関わらずわたしに合わせて今の高校を志望した。「高校なんてどこ行ったって変わらないわよ」 などと言ってからからと笑う香里。
 思えば、今回も香里には迷惑をかけた。
 お母さんの事故、祐一の行方不明。立て続けに災難に見舞われてふさぎ込んでいたわたしを、一番に心配して 、支えてくれたのは香里だ。もしも香里がいなかったら、わたしはどうなっていたかわからない。

 カチャ

「もしもし。美坂ですけど」

 香里の声だ。
 春休みになってからは会ってはいないが、いつも通りのクールな声。

「香里? わたし。名雪だよ」
「名雪? 珍しいわね、名雪が家に電話かけてくるなんて。今日はどうしたの?」
「ごめんね。ちょっと栞ちゃんに聞きたいことがあって……」
「栞? いいけど……勉強関係のことをあの子に聞いても分からないわよ?」

 ふふふっとひとしきり笑った後、栞ちゃんと電話を替わってもらった。

「もしもし。代わりました。栞です」
「栞ちゃん? 名雪です。元気だった?」
「名雪さんこそ……どうしたんですか? 今日は」
「実は栞ちゃんに聞きたいことがあって……相沢祐一って人のことなんだけど、分かる?」

 単刀直入に祐一の名前を出してみた。しかし、祐一の行方不明は学校中で話題になったから、知らないという 事はないだろうけど。

「相沢祐一って……あの噂の……まだ見つかってないんですか?」
「やっぱり栞ちゃんは祐一のことは知らない?」
「話には聞いたことありますけど……お姉ちゃんと名雪さんのクラスにいた人で、名雪さんの家に下宿してる 人でしたよね?」
「そう……やっぱり会った事はないんだ……」

 少し落胆する。
 夢では、私服で校舎の裏に来ていた栞ちゃんと祐一が会っていたのだが……そもそも栞ちゃんが学校を頻繁 に休んでいた、ということ自体無かったのだから当然かもしれない。部活にも入らずに学校の行事にも参加した ことがない祐一が、他学年の生徒と知り合う機会なんて皆無に近い。
 ――分かっては、いたんだけど。

「はい……何かお力になれれば良かったんですけど、お役に立てなくてすみません……」

 本当に済まなそうな栞ちゃんの声。むしろ訳のわからない質問で困らせているのはこっちだというのに。
 わたしがこの姉妹には頭が上がらないのはこういうところなんだ。
 最後に羽の少女についてだけ、聞いてみることにした。

「いいんだよ……あともう一つ聞きたいんだけど、『月宮あゆ』って人知ってるかな? 普段はダッフルコート に羽がついたリュックを背負ってる背が低めの可愛い子なんだけど……」
「『月宮あゆ』さんですか? ……うーん、わたしは聞いたことないです」

    ☆   ☆   ☆

 食材の買出しで商店街まで来た。
 今家にいるのはわたし一人だから、何を作るにしても微妙な量になってしまう。晩ご飯、弁当屋さんですませ ちゃおうかな……と、ふと思ったが、いやいやと思い直して買い物に向かった。こうして毎日家の事をしてい ると、お母さんの凄さが身に染みて分かる。

 スーパーで野菜を選びながら先ほどの電話の内容を思い出す。あの後もう一度香里に代わってもらって 同じことを聞いてみたが結果は同じだった。

「名雪……あまり無理しちゃ駄目よ。何か困ったことがあったらいつでも言ってきなさいよね?」

 そう言って香里は、まぁ名雪は良く眠るから大丈夫かもね、などと付け足して笑っていた。
 本当に香里には頭が上がらない。
 香里は春休み中も学校にたまに行って先生と話をすることが多いらしい。きっとわたしや祐一の話題が出て、 心配をかけることもあるだろうに。それでも香里は、こうしてわたしと話す時は、そんなことはおくびにも出 さず普段どおりの調子で話してくれる。
 わたしには出来すぎた友達だ。


 ふと立ち止まった。
 夕方の商店街はオレンジの太陽色に染まり、いつもと違う顔を見せていた。夢の中で祐一が『月宮あゆ』 と出会うのは、決まってこんな夕暮れの商店街だった。
 不意に誰かの視線を感じたような気がして、後ろを振り向くが誰もいない。
 背中に羽をつけた、天使のような少女はこの世界にはいない。そして、ぶつかられる相手であるはずの祐一す ら、今はいなかった。
 わたしが買い物してる間、たい焼き屋さんから逃げ回った『記憶』を少し懐かしく思った。

 必要なものを買い揃え、店を出る。
 さっきより少し薄暗くなった道を、家に向かって早足で歩く。
 一ヶ月間祐一と二人で歩いた道。雪が積もっていて、祐一が寒い寒いと言いながら歩いた道も、少しずつ春の 気配を見せ始めていた。

 なぜわたしは、こんなにもあの夢に拘るのだろうと、ふと考えた。
 夢はどこまで行っても所詮は夢なのに。
 だけど。
 毎日同じことの繰り返しで、ただ祐一とお母さんの帰りを待つだけのわたしの現実。それに比べれば祐一と『 月宮あゆ』の夢のほうがよっぽど生きている実感があった。
 例えそこにわたしがいなくても、祐一がいて、祐一の匂いのする世界がそこにはある。

 ――わたしの「世界」に祐一はいないのに。

 そう考えるたびに、わたしの中で「現実」が不安定に揺れているのを感じた。
 「夢」と「現実」の境界線。
 その境目は、今のわたしには見えなくなってしまっていた。



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