道なんか全く知らなかった。
 だけど迷うわけなんかないって思ってた。きっと手の中にある片羽の天使が教えてくれる。

 ふと見上げると、昔見た巨木がわたしを見下ろしていた。切られたはずの、二人の学校の象徴が。

 わたしは今まで走ってきた中できっと一番の速さで、あの木のもとに向かった。

 森の中に入っていく。
 小さい頃は一人で遠くに行けなかった。あんまり一人で遠くに行くと帰れなくなっちゃうのよ、とお母さんが 教えてくれたことがある。
 でもわたしは祐一と出会った。祐一と一緒なら帰れなくなってもいいやって思ったこともあった。
 今わたしの隣に祐一はいない。
 今、わたしは一人だ。

 みんな一人なんだと、唐突に思った。
 人は誰だって一人だ。
 だけど、わたしにはお母さんがいる。香里がいる、栞ちゃんがいる、北川くんがいる、 陸上部のみんながいる。
 祐一がいる。
 だからわたしはひとりなんかじゃない。そう思えるから、わたしはこんな遠くにも一人で行けるように なったんだと思う。そうじゃなかったらわたしなんかこんなところまで来れない。
 祐一は、どうだったんだろう。
 あゆちゃんは、どうだったんだろう。

 不意に視界が開けた。

 そこには春なのに雪が降っていた。
 あたり一面、白の雪化粧。暮れかけた太陽がそんな雪景色を紅く染め上げていた。
 まるで血の色だと思った。

 そんな中、背中に羽を持っている少女が、一人で木を見上げていた。
 彼女はゆっくりと振り返る。
 いつもの笑顔とは違った寂しそうな笑顔だった。

「はじめまして、かな。名雪さん」
「こちらこそ。はじめまして、あゆちゃん」

 一際強い風が二人の間を吹きぬけた。


「この天使の人形、あゆちゃんに返すよ。この子のおかげでここに来られたんだよ」
「ありがとう……ずっと探してた……祐一くんにもらったものだから……ボクがこの世界に生きてた証だから」

 人形をそっとあゆちゃんのてのひらに置いた。
 あゆちゃんは、優しくその人形を胸に抱きしめる。

「……一つ聞いてもいいかな?」
「いいよ、名雪さん」

 あゆちゃんの手の中で人形の片方だけの羽が揺れている。

「あゆちゃんは天使なのかな?」

 あゆちゃんは少し困ったように顔を伏せて言った。

「ボクは天使なんかじゃないよ……でも、ボクが本当に天使だったら良かったのにね……」

 わたしは何も言えずにあゆちゃんの次の言葉を待った。
 本当に天使なのは、やっぱり彼女の手の中にあるあの人形だけなのだろうか。

「……ボクは……幻だよ……祐一くんの心にとりついて、祐一くんの夢の中だけでしか生きられない幻 なんだ……今は名雪さんが祐一くんの夢に近づいてきてくれてるから、こうして話ができるけど……本 当だったらボクは今でもあの駅前のベンチで、祐一くんを待ち続けてるはずだったんだ……」
「……」
「ボクは祐一くんがこの町に来た時すぐにわかったよ……ボクは7年間ずっとあのベンチに座って祐一 くんが迎えに来てくれるのを待ってたんだ……我慢できなかったよ……だって目の前に祐一くんがいる んだ、ボクの目の前に……そしてボクは一ヶ月間祐一くんの心の中に住みついたんだ……嬉しかった…… 例え夢の中だけだとしても、祐一くんと一緒に町を歩いて、一緒に映画を見て、一緒にたい焼きも食べれ たんだ……」

 あゆちゃんが話した世界は、わたしが夢で見た世界そのままだった。
 あの夢は祐一があゆちゃんと二人で作り上げた世界だったんだ。あゆちゃんは自分が祐一と二人でいる ため。祐一は自分の中の罪悪感に蓋をして二度と出てこないようにするように。
 あゆちゃんは木から落ちたりなんかしていない。今も元気でこの雪の降る町を駆け回っている。
 そう自分に言い聞かせるために――

 でも、蓋をしなくちゃいけないってことは、その存在を認めてるってことでもある。
 いつかはその罪悪感と向き合わなくちゃいけない。
 でも、人は自分が許容できる程度の感情しか抱えることはできない。なぜなら、それ以上 のものを持とうとしたら自分が潰れてしまうからだ。結果としてあゆちゃんの存在は、祐一 がその罪悪感に耐えることができるようになる前に、それと向き合わせてしまった。祐一は 自分自身を守るために作り出した幻に、逆に苛まれることになったんだろう。

 祐一はわたしと同じように、あの夢を見ていたんだ。あゆちゃんのいる、あの雪の町の夢を。
 もしかしたら、今も。

「でも……段々上手くいかなくなってきた……祐一くんが7年前の記憶を取り戻すにつれて、祐一く んの夢には無理がでてきちゃったんだ……ここまできたらもうボクにも止められなかった……あの世 界が祐一くんを傷つけるのを止められなかったんだ……」
「……」

「祐一くんは名雪さんの家を出た後、ここに来たんだ……そして全てを思い出した……ボクのことも ……そして……祐一くんは目を覚まさなくなっちゃったんだ……そんなつもりなかったのにっ! ボ クはただ……祐一くんのそばにいたかっただけだったのにっ! どうして……どうして、こんなこと になっちゃったんだよぉ……」

 あゆちゃんの悲痛な叫び。
 知らないうちに、わたしの頬にもあゆちゃんと同じように涙の雫が伝っていた。
 天使が犯したたった一つの願いという名の罪は。
 愛しい人と一緒にいたいという、世界で一番ちっぽけで、世界で一番美しく、世界で一番哀しい罪。
 流れ落ちる涙は彼女を許しはしない。
 ただそうであるように、そこにあるだけ。

「ボクはもうどうすることもできなかった……祐一くんの夢はもうボクでさえ必要としなくなっちゃった から……だから、ボクは名雪さんにこの一ヶ月の祐一くんの夢を見せたんだ……祐一くんを助けてほしか ったんだ……」
「でも……わたしには……」
「わかってる……もうどうすることもできないんだ……祐一くんが自分で目覚めるのを待つことしかでき ない……でも、それでも名雪さんにお願いしたいことがあるんだ……」

 そういってあゆちゃんは涙をぬぐった。
 涙の雫が暗くなりかけたその空気の中でぼんやりと輝いていた。

「ボクは……この人形に……祐一くんに、最後のお願いを言ってないんだ……だから、祐一くんが目覚めた 時にボクのお願いと一緒にこの人形を渡してほしいんだ……今からボクがお願いを言うから……この人形に お願いを言うから……」

 夕焼けがこの白の世界をさらに真っ赤に染めていく。
 その中に立って願いを告げる少女さえ巻き込んで。
 やがて、彼女は瞳いっぱいの涙とともに願いを告げた。

「……ボクのこと……忘れてくださいって……! きっと祐一くんはボクのことなんか忘れたほうが幸せに なれるから……! だから……!」

 暗闇の中、天使の人形がぼうっと輝きだす。
 願いをかなえる片羽の天使が、あゆちゃんの願いをかなえようとしていた。

 頭で考えたことじゃなかった。
 とっさに身体が動いた。
 いつかの祐一がわたしの手から雪うさぎを叩き落としたように。
 わたしも、あゆちゃんの手から天使を叩き落していた。

「なっ……! 名雪さん……!?」

 あゆちゃんが驚いた顔でわたしを見上げている。
 わたしは必死で怖い顔をしようとしていた。けど、うまくいかなくて、きっと涙でボロボロの酷い顔 だったことだろう。
 そんなことどうだっていい。
 わたしは、わたしに似たこの少女に出来る限りのことをしてあげよう。
 わたしは、なけなしのわたしの言葉を振り絞って、言った。

「……卑怯だよっ! そんなの……!」
「っ!! だって……! だって……! ボクなんかいないほうが……!」
「じゃあ言うけどっ! 祐一があゆちゃんのことを忘れたら、この世からすべてあゆちゃんのことがなく なるとでも思ってるのっ!? これだけは絶対に言える……! 現実に起こったことはねっ、どんなこと があったって絶対になかったことになんかならないんだよっ……!」
「っ!!」

 あゆちゃんが息を呑む音が聞こえた。
 わたしだってそうだ。
 ずっと考えてた。
 わたしが祐一にあんな酷いことしなければ、って。
 わたしなんかが祐一と一緒にいたから、って。

「例え祐一があゆちゃんのこと忘れたって……! 祐一があゆちゃんのこと、助けられなかったって 事実はなくならない……! 祐一があゆちゃんのこと忘れちゃったら……! 祐一はわけもわからず にそのことを一生背負っていかなきゃならないんだよっ!?」
「……」

 片方の羽を失った天使は、空を飛べるのだろうか。
 おそらく飛べはしないだろう。
 でも。
 どうしても行かなくちゃいけない場所があったなら。
 どうしても行かずにはいられない場所があったならば。

 きっとその天使は残された足で行くのだろう。
 そう。
 例え、今までどおりに優雅に空を飛ぶことは出来なくても。

「わたしだってそう……わたしだって、出来ることなら祐一の記憶からこの町であった辛いこと全てなかった ことにして幸せになってもらいたい……だけどっ! そんなことしたら、わたしは一体何のために祐一と出会 ったの……?」
「……」

 わたしは確かに祐一に対して罪を犯したかもしれない。
 でも、わたしと祐一の間にあったこと全てを、それだけで否定してしまうのはあまりにも悲しすぎる じゃないか。
 あゆちゃんだってきっとそうだ。

「祐一と出会ったこと、全て無かったことにしなきゃいけないほど嫌なことばかりだったの……?  わたしはそんなの絶対に嫌……! わたしはっ……! 例えどんなことがあったって……! 祐一 と会えて良かったって思いたいよっ……!」

 あゆちゃんの顔がみるみるゆがんでいく。
 そう。
 わたしがあゆちゃんに出来ることなんて何も無い。
 だったらせめて、この少女のために泣いてあげよう。

「……うっ……うっ……うわぁああああんっ!!!!」

 わたし達は抱き合って二人で泣いた。
 いつまで泣いたかわからないけど、とにかく泣いた。多分、一生分の涙なんてとうに使い切ってしまう くらい泣いたと思う。

 わたしはいつのまにか気を失っていた。

    ☆   ☆   ☆

 朝の光で目を覚ました。

 わたしは森の中の大きな切り株に寄りかかって眠っていた。
 あたりはもう明るくなっていた。眠っている間に夜は明けて、朝日が顔を出していた。もう春とはいえ 明け方の空気は冷たかった。森の中で一夜を過ごすなんて経験は初めてだし、きっとこれからもすること はなさそうだ。あたり一面に積もっていた雪は、昨日がまるで嘘だったかのように消えていた。全て夢だ ったのかとも思ったが、手の中にある片羽の天使の人形がそうじゃないことを物語っていた。
 わたしはあゆちゃんと話した。
 そして二人で泣いた。
 わたしの顔は涙の跡でクシャクシャだった。

 立ち上がり、少し伸びをする。
 流れる風に混じって「ありがとう」という声が聞こえた気がした。



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