必死で走り続けた。

 もっと速く走れば、この恐怖から逃れられると信じて疑わなかった。

 走り続けてどれくらいたったか。
 いつの間にか俺は見覚えのある道にまで辿り着いていた。
 あと少し走れば、名雪が待つ、俺たちの家がある。
 俺はほんの一欠けらの希望がそこにあると信じて走り続けた。

 もう俺の頭の中には、恐怖以外の感情は存在していなかった。
 それでも名雪は俺にとって、唯一つの希望だった。

 名雪なら、俺を助けてくれる。
 名雪なら、俺を救ってくれる。


 そう信じて疑わなかった。











終着、そして











 俺が、そして、俺たちがこの一ヶ月間暮らしてきた家が見えてきた。
 足元に積もっている雪の感触を、ようやく感じ取れるようになってくる。
 途端に寒さが蘇ってきた。
 真冬の夜に吹く風の冷たさに身を震わせる。
 身を震わせながら、俺は水瀬家の玄関に滑り込んだ。

 バタンッ

 豪快な音をたてて扉が開く。
 この扉は普段ならば鍵がかかっているはず。
 しかし、今の俺にはそんなことを考えている余裕などありはしなかった。

 家の中は暗い。
 どの部屋にも明かりが点いていない。

「名雪っ!」

 名雪の名を呼ぶ。
 しかし返事はなく、俺の声は虚しく家の中に木霊するだけだった。

 まだ帰ってきていないのか?

 ふとその懸念がよぎる。
 念のため、玄関で名雪の靴があるかどうかを確認する。

 あった。

 俺の靴と同じくらい滅茶苦茶に脱ぎ捨てられている。
 いつも名雪の靴は綺麗に揃えられているのに。

 俺は急に不安になって、名雪の名を呼びながら家中を回った。

 台所。
 居間。
 洗面所。
 風呂場。
 トイレ。

 何処にもいない。
 俺は2階に上がる。
 そして、名雪の部屋の前に立った。
 ノックしてみる。

 コンコンコン

 部屋の中からの返答はない。

「名雪、いるのか?」

 声をかけてみるがやはり返事はない。
 中に入ってみようとドアノブを回すが、ドアは中から鍵がかけられていた。
 やはり名雪は、この中にいる。

 ドンドンドンッ!

 俺は少し強めにドアを叩く。

「名雪っ! いるのかっ! いたら返事してくれっ!」

 ドンドンドンッ!

 大きめな声。


「…………やめて…………」


 扉の中から弱々しい声がする。

「名雪……?」

 普段の名雪からは想像も出来ないような声に、俺は少し慄然とする。
 待てよ。
 病院の先生は何と言っていた?

『かなりショックを受けた様子でね、水瀬さんの容態を説明するとすぐに走っていってしまわれたんです よ』

 かなりショックを受けた様子?
 これが……そうなのか……?

「……祐一……」
「な、ゆき……」

 その声の闇の深さに息を呑む。

「もう……わたしのことは……放っておいて……」

 あの名雪が。
 こんなにも深い闇を包含して生きていたという事実に戦慄する。
 いや。
 俺は名雪の声を媒体として、自らの闇をそこに投影しているだけなのかもしれない。
 名雪は。

 ――名雪は、きっと、俺を助けてくれる。

「な……名雪……俺は……」
「――やめてッ!!」

 突然の鋭い声。

「もうやめてッ!! 放っておいてよッ!!」

 どうしようもなく、追い詰められた声。
 それから声に嗚咽が混じる。
 俺は何も言えずしばらく名雪の泣き声を聞いていた。
 
「お母さんが……いなくなっちゃったらっ……ヒック……わたし……一人になっちゃうっ……ひとりっきりっ……そんなのヤダっ……ヤダよぅ……おかあさん……おかあさん……うあぁ……」
「……」
「……祐一だって……きっと、どこかに行っちゃうんでしょう……?」

 言葉がナイフとなって、切り裂かれたかのような感覚。
 言葉が、凶器と化す。

「なゆ、き……?」
「わたしを置いて……行っちゃうんでしょう……? あの時みたいにっ……!」

 あの時。
 始まりと終わりが同居していたあの奇妙な日。
 あの日、俺はこの街と一緒に名雪も拒絶した。
 この手に、確かに何かを叩き落とした感覚が蘇る。
 俺が叩き落したのは一体何だったのか、思い出すことは出来なかった。
 思い出すことが出来ないという事実こそが、俺と名雪を遮る壁となる。

 一人きり。
 名雪はずっと秋子さんと二人で暮らしてきた。
 俺がこの街に来る前も、俺がこの街から去ってからも。
 ずっと、ずっと。
 そこには、俺には想像するしかない時間が横たわっている。
 時間が、川となって、俺と名雪を遠く切り離している。
 そばにいてやることが出来なかった俺と、名雪を。
 その間にある距離に愕然とする。

 俺と名雪の間にあるのは、ちっぽけなドアなどではなかった。
 とても埋められない。
 とても、埋められない。

 俺はドアの前で膝を付き、崩れ落ちる。
 ドアにもたれかかり、窓の外を見る。
 窓の外は、また雪が降り始めていた。
 部屋の中からはもう嗚咽すら聞こえない。
 静寂が空間を、時間を支配する。
 俺はその世界に取り込まれてしまったのだろうか。
 もう、何も、何も聞こえない。

 ――どれだけの時間が過ぎただろうか。

 永遠に続く無音の世界で、俺は虚空に浮かんだ一つの翼を持つ天使を見た。
 俺は立ち上がり、その天使が誘うままに歩き出した。
 階段を降り、上着も羽織らず、靴を履いた。
 玄関のドアを開けた。

 もうここに戻ってくることはないかもしれないと思った。


    ☆   ☆   ☆


 歩きながら舞い降りる雪に透かして、俺は最後の夢を見ていた。
 あゆが何かを探しているという。
 けど、何を探しているのか思い出せないという。

 ああ、俺と、同じだ。

 彼女は必死に土を掘り返していた。
 彼女の小さな手は見る見るうちに土色に染まり、その爪の間からは血が流れた。

 ポタリポタリ。

 血が流されるたびに、俺の心がナイフで切りつけられるような感覚があった。
 一緒に探してやればいいのに、俺は黙ってその様子を見ていることしか出来なかった。
 俺は、どこまでも残酷で、残忍で、臆病者だった。




 ――やぁ、ようやく辿り着いたな。夢の終わりに。




 頭の中に響く声。
 それが目の前に形を持って表れようとしていた。
 白く輝いて、やがて人の形に安定していく。




 ――……お前は……一体何だ……?

 ――嫌だなぁ、もう分かってるくせに。わざわざ俺の口から言わせたいのか?




 嫌な笑み。
 それは間違いなく『俺』の顔をしていた。
 『俺』は口の端を吊り上げて、言う。




 ――俺は、お前の『罪』だ。

 ――何……?

 ――『罪』さ。罪悪感って言い換えてもいいかもしれないな。




 そう言った後『俺』が人差し指を俺に突きつける。




 ――大変だったんだぜ。7年前から……な。

 ――7年前……?

 ――そう、あの日から。あの日、お前が本当に封じ込めたのは俺だったのさ。しかし、今回のことがなかったら、俺はあのまま『相沢祐一』の奥底で封じられたままだったんだろうな。




 くっくっく、と心底可笑しそうに笑っている。




 ――さて、『俺』よ。俺が何故、こうして姿を現したのか、分かるか?




 俺は、首を振る。




 ――日本は法治国家だ。罪を犯したものは例外なく法律によって罰せられる。これは良く出来た制度でな、実に理に適っている。正に人類の知恵と呼べるかもしれないな。




 全く話が見えない。
 『俺』は、一体何を言っている?




 ――人間の構造的にって話だ。『罪』を犯した人間ってのは、どんな大悪党であろうと皆例外なく『罰』を求めているんだ。『罪』と『罰』は表裏一体だ。罪人は、法律によって罰を与えられることによって初めて心の平穏を得ることが出来るんだ。さぁ『俺』よ、ここで問題だ。法律だろうが何だろうが、外部的な力によって罰を与えられなかった人間は一体どうするか? どうするんだと思う? 実に傑作だぜ? はははっ! 罪人はな、『罰』という名の心の平穏を得るために、自分で自分を罰するのさ。罪人は自分が犯した罪を刃物に変えて自らの心を貫くのさっ!




 『俺』は狂ったように笑い出す。
 笑い声が俺の頭の中でぐるぐる回り、俺を内部から破壊していく。
 壊れていく。
 コワレテイク。




 ――さぁ、ここまで言えばわかるな? 『相沢祐一』よ。『俺』は『俺自身』を断罪するために現れたのさ。しかし、安心して良いぜ。これはやがて来る再生のための破壊だ。救済のための堕天だ。そのうち、痛みも消えるさ。




 いつの間にか『俺』の手には剣が握られていた。
 無骨な剣。
 その禍々しい剣が俺の罪を裁くための『罰』なのか。




 ――なぁ、一つだけ、聞かせてくれ。

 ――なんだよ『俺』。命乞いだってんなら却下だ。生憎『罰』と化した俺はそんなに優しくないんでな。

 ――あゆは、どうした? 俺の中に、いたんじゃないのか?




 断罪。
 もしもそれが真実ならば、それを執行する断罪人はあゆ以外には考えられない。
 あゆは。
 あゆは、どこだ?

 その名前を聞いた時、『俺』が初めて表情を曇らせた。




 ――あゆ、か。あゆはもうここにはいねぇよ。

 ――あいつは、じゃあ、あゆは、何処に行ったんだ?




 俺がそう言うと『俺』は面倒くさそうに手の中の剣を一回転させ、ぴたりと俺の首筋で止めた。




 ――さぁ、お喋りはそこまでだ。そろそろ幕とさせてもらおうか。

 ――ま、待てよッ!! あゆはっ! あゆはっ!?

 ――知らねぇよ。まぁこの夢の前半はあいつがプロデュースしてたんだから、相当力を使ったってことは確かだけどな。安心しろよ、死んじゃいない。運が良ければ、またどこかで会えるさ。




 ひゅうん。
 剣が空気を切り裂く音が耳元を撫でる。




 ――ちょっと待ってくれっ! まだ話は――!!

 ――じゃあな『俺』……あ、そーだ。月宮あゆから伝言があったんだった。じゃあ伝えておくぜ――!!




 そして俺は、世界が崩壊する音を聞いた。




































 ――『ごめんね』だってさ。




































 そして俺は、その2ヶ月後、この街に桜が咲く頃に目覚めることになる。





















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