「この世に存在する」とは一体どういうことなのだろうか。

 生きていること。
 この安っぽい身体を血液が巡っていること。
 外部からの刺激にびくんびくんと反応すること。
 死んでいること。
 少し前までは生きていたということ。
 火にかけられ、身体を構成するほとんどの物質を焼却されること。

 誰かの心の中に、
 残っているということ。

 心の中に残るために、その前提条件としての「生」は、必要条件か。
 仮にその前提条件としての「生」が無くとも、何らかの形で誰かの心の中に残っているならば、それは「こ の世に存在した」と言えるのではないだろうか。

 それはあたかも人の想像力が生み出した創作物の中の人物のような在り方。
 人の思考、想像、妄想の産物。
 だがその在り方は夢幻ゆえに無限。
 例えそれが物質的な意味で存在してはいなくとも。

 そういう意味で言えば、彼女はこの世に存在していると言えるのだろう。
 彼女を心の中に残しているのが、この世でただ一人俺だけだとしても。

 彼女、「月宮あゆ」は俺の心の中、もとい、夢の中だけの存在だ。
 いや、もはやそれは「夢」というような脆弱な言葉では語れないかもしれない。
 この街に来てからもうそろそろ2週間が経とうとしているが、その間中ずっと俺が睡眠を取るたびに現れる ような存在を「夢」と呼んでいいものか。

 それはまるで、
 無から始まり次第に存在を勝ち得ていくかのように、
 俺の心の深い部分で静かに息づき始めていく。

 俺は「月宮あゆ」という少女について何も知らない。
 俺は夢の中では彼女のことを7年前からの旧友として親しく振舞うことができる。
 しかし、ひとたび夢から覚めれば俺の中の彼女の記憶は途端に信じられなくなる。
 毎回感情移入して見ていたドラマの時間が終わって、自分の中の冷静なもう一人の自分に「あれは虚構だ、 作り事なんだ」と懇々と諭されたような。

 ただ。
 ――彼女に付きまとう「血のような赤」のイメージ。
 そのイメージが少しずつ、俺の心の深い部分を切り開いていく。











存在











「ゆーいちーっ! ごーはーんーっ! でーきーたーよーっ!」

 階下から同居人の陽気な声が聞こえる。
 夕飯まで少し暇ができたので、ちょっとだけと思ってベッドに寝転がったら、本気で眠ってしまったよう だ。
 身体を起こす。

「ふあぁ〜あ〜あぁ」

 かなり大きいあくびが出た。

「しかし……あの子に会えるのはいいんだけど眠るたびにこうじゃ、おちおち寝てらんないな……」

 夢自体は不快なものじゃない。
 あゆの天真爛漫でちょっと天然入った性格は俺と馬が合うので、むしろかなり楽しい。
 でも眠りの時間は眠りの時間のため、身体も頭も疲れているのだ。
 この夢を見ているということは、2回分日常生活をやっているようなもので。
 正直眠った気がしなかった。

「ゆーいちーっ!! は−やーくーっ! 早くしないとーっ! ゆーいちのごはんーっ! 全部福神漬けにする からねーっ!!」
「だぁーっ!! 頼むからそれは勘弁してくれーーっ!!」

 俺は慌てて部屋を出て、転がるように階段を駆け下りる。

「おはようございます、祐一さん。よく眠れました?」
「あ、はい、それはもう」

 なんでこの人は俺が寝てたこと知ってるんだろう?
 それはともかく「それは良かったですねっ」と微笑む秋子さんに胸がドキドキ。
 そんなことしてたら音も無く背後に回った名雪におもくそ尻をつねられた。
 超痛い。
 ここで「痛えっ! 名雪、何すんだよっ!」とキレるのは愚の骨頂だ。
 こういう時こそ大人の余裕でさらりと名雪をなだめてやってこそ、大人の男ってもんだぜ。

「名雪」
「何、祐一」

 キラリンと歯を光らせ、すっげぇ良い笑顔で名雪の怒りをなだめる最高の言葉を口に出す。

「生理か?」
「本気で祐一のご飯全部ドッグフードにしようかな」

 台所の奥にずんずか歩き出す名雪を羽交い絞めにして止める。くっ、さすがは陸上部部長、すごい力だっ!  ていうかあるのかよ、ドッグフード。
 ボソッと「3日目ですよねー」と呟いた秋子さんの言葉はとりあえず聞かなかったことにした。


「もうこの街には慣れました?」

 秋子さん特製のから揚げを口一杯に頬張りながらさらに飯をかきこんでいたら、秋子さんがふと俺にそんなこ とを聞いてきた。

「ふぁい? ゲホッゴホッ!」

 ムセた。

「もうー、祐一、ちゃんと飲み込んでから話しなよ〜」

 はいお茶、と名雪がタイミング良くお茶をくれる。
 ごくごくごくごく。プハーっ。

「すまん名雪」
「いえいえ」

 くすくすと秋子さんが笑っている。

「んで、秋子さん、何でしたっけ?」
「もうこの街には慣れましたかって、聞いたんですよ」
「うーん、そうですねぇ……」

 確かにこの街の寒さには幾分慣れた。どこを見ても雪、雪、雪という光景も俺の記憶にあるとおりだ。生活に 必要な施設の位置も大方把握したし。
 友達も出来た。まぁ全て同じクラスで名雪つながりの奴らだけど。授業についていけないこともたまにある が、正直言って学校は楽しい。

 だけど。
 だけど?
 自分の思考に疑問符を差し挟む。その理由すら俺には分からない。
 だけど。
 俺は一体その後に何と言う言葉を続けようとしたのだろうか。

「祐一さん? 大丈夫ですか?」

 秋子さんの声も耳に入らず視線を宙を彷徨う。
 そう、この街には。
 この街には――あゆが、いた筈じゃないのか?
 いや、俺は一体何を考えているんだ?
 「月宮あゆ」は俺の夢の中だけの存在の筈だ。
 もしも。
 もしも、そうじゃないなら。
 もしも、そうじゃないなら、俺は。


 何故彼女がこの街にいないのか、それを問わなきゃいけなくなるじゃないか――


「祐一? 祐一っ! 大丈夫っ!?」

 名雪の声で現実に引き戻される。

「ああ……いや、大丈夫大丈夫。ちょっとぼーっとしちまった」
「も、もぅ、びっくりしちゃったじゃない。しっかりしてよね、祐一」
「ああ……」

 今自分が何を考えていたのか、その意味は、今の俺には何一つ理解できなかった。
 名雪が俺の手を握る。手の甲に感じる名雪のぬくもり。名雪の息遣い。名雪の存在。名雪は確かにここにい る。それなのに。
 心配そうな彼女の顔が、何故かあゆとかぶって見えた。
 秋子さんの微笑みがいつの間にか消えていることに、俺は気づかなかった。

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