「はいっ、それまで」

 数学担当の教師が自身の腕時計の時刻を確認しつつ、宣言した。
 その言葉と共に、緊張から解放された生徒達の弛緩した空気が教室内を包む。
 ぶっちゃけ「終わった〜っ!」って感じだ。

「祐一、出来た?」
「ああ、まずまずだな。昨日お前が眠い目擦りながら教えてくれたおかげだ」

 名雪に後ろから声をかけられ、俺は軽く仰け反りながら答えた。
 正直な話、今回のテストは名雪の協力(+香里のノート)が無かったら危なかったかもしれない。
 俺が前にいた学校よりここの学校は授業の進度が速く、今回のテスト範囲に指定された箇所は俺の前の学校 では未修の箇所だったのだ。
 寝ぼけた名雪の寝ぼけた解説と、それとは対照的に整然と取られた香里のノート。
 この二つの指導的要素のコラボレーションのおかげで、俺はこの難題を見事乗り切ることが出来たのだ。
 ……多分。

「祐一の役に立ててわたしも嬉しいよー」

 にっこりと、名雪。
 そんな名雪の背後では香里にちょっかいをかけた北川が冷たくあしらわれている。
 ドSの香里と、ドMの北川。
 案外いいカップルじゃないかと俺なんかは思うのだが、香里は「冗談は顔だけにしてほしいわね」と、実にキ ッツいコメントを残しただけだったりする。
 香里もああ見えてまんざらでもないんだよ〜、と名雪が言うが、普段のあいつらを見ていると、とてもそうは 思えない。別に疎外感を感じているわけでもないが、新参者の俺にはまだまだ分からない機微があるのかもしれ ない。

「祐一っ、ほら香里も、北川くんもっ! 終わったんだから昼ごはん、食べに行こうよっ」

 名雪がその場を収拾すべく、いつものメンバーを笑顔で食堂へと促した。











凶兆











 秋子さんが、風邪を引いた。
 誤解を招かないために言っておくと、それは俺の夢の中での話だ。
 あゆが看病すると言い出した。何か心に思うところがあったのだろう。いつになく必死なあゆに任せて、俺 と名雪は学校に行くことになった。
 あゆの素性は今だに分からない。
 靄がかかったような夢の中の俺の記憶も、少しずつクリアになっていっているような気もするが、肝心な部 分が見えない。
 俺は過去にあゆと何があったのか。
 それが今だに見えない。
 
 あゆの必死の看病が実ったのか、俺たちが学校から帰ってくる時には秋子さんの容態は幾分マシになってい た。
 俺は、あゆを送っていくことにした。
 どうやらあゆは秋子さんと自分の母親を重ねてしまっていたらしい。
 あゆの母親は病気で――
 幼い頃、初めて出会った時、ただ泣くばかりだったあゆを思い出した。

 人には踏み込んではいけない部分がある。
 大抵の人は、他人と付き合う時、その部分を見せないようにし、逆に相手のそれを避けようと努力する。そし て試行錯誤を繰り返し、ようやく近すぎず遠すぎずの互いにとって気持ちの良い距離を見つけ出すのだ。
 それが人付き合いの基本であり、鉄則だ。
 踏み込んでほしくない部分に踏み込むということは、自分も相手に大して踏み込まれたくない部分を見せてや るということでもある。勿論、逆もまた然りだ。
 あゆの場合、その線引きが曖昧だ。
 否。
 曖昧にさせられてしまう。
 こちらが、危険区域に踏み込んでしまいたくなる。
 それが地雷原であるのは誰の目にも明らかであるというのに。
 普通にこの年まで生きてきた人間なら、誰だってその危険性は十分に理解しているはず。
 それは俺は勿論、北川だって、香里だって、名雪だってそうだ。
 ――あゆだって、そうじゃ、ないのか?

「――祐一、どうしたの?」

 好物のイチゴムースに手をつけようとしながら、俺の方を心配そうに見る名雪。
 ――また、やってしまったらしい。

「あ、ああ」
「もう、最近祐一はぼーっとしてること多いよ。気をつけないと」
「そうか?」
「そうだよ」

 すまん、と普通に謝って、今日の昼飯である牛丼に再び手をつける。

『最近ぼーっとしてること多いよ』

 全くだ。
 最近の俺は所構わず夢の世界の回想トリップを敢行することが多い。
 道端でぼーっとして電柱に当たる、なんて昔の漫画みたいなこともやった。
 実際注意しなくちゃとは思ってはいるんだが、どうも上手くいかない。
 自分で自分の精神状態が制御できない。
 いや。

 ――段々と制御できなくなっていっている?

「相沢くん相沢くん。名雪に『ぼーっとしてる』なんて言われてるようじゃ、もう末期よ」

 くすくす笑いながら香里が鋭い突っ込み。

「むーっ、……香里、もしかして失礼なこと言ってる?」

 おお、珍しく名雪が怖い顔してる。
 それに対して香里は「そんなことないわよー」と、名雪の視線攻撃も何処吹く風だ。
 香里のその強気が少し羨ましい。
 そんなことを思っていると――

「……相沢の牛肉、俺がもらったっ!」
「させるかっ」

 北川の箸が俺の丼の上に残る牛肉を狙って侵入してくる。
 迫り来る北川の箸を、こちらも箸で迎撃する。

「むっ、相沢っ! 中々良い反応だっ」
「自分の肉を食え!」

 カッカッと小気味良い音を立てる箸と箸。
 その闘いは佳境に入り、そして――

 ゴインゴイン

 繰り出される香里の鉄拳。
 その威力に北川と俺は仲良く沈黙した。

    ☆   ☆   ☆

 テストも終わり、部活動も再開した。
 来期の最後の大会に向けて、名雪は陸上部部長として今日も雪の残るグラウンドを走っている。
 俺はと言えば、特にすることもなくやっと通い慣れてきた道を一人で歩いている。

 ――祐一君っ、ちょっと待ってよっ

 頭の中に残るあゆの声を振り払うように、歩く。
 少し歩調を速める。

 ――うぐぅ、祐一君、いじわるだよぅ……

 歩く。

 ――祐一くん……

 走る。
 脳内が赤く染まる。
 幻想は今だに俺を縛る。
 もう、沢山だ。
 もう、俺を解放してくれないか。
 これ以上進むと、俺はきっと戻れなくなる。
 名雪や、香里や、北川のいる、あの普通の日常に。
 奇跡や、魔法や、ファンタジーは無いが、普通の人間の幸せのある暮らし。
 もう、嫌だ。
 何か嫌な感じがするんだ。
 昔、この街で、俺はあゆに何をしたんだ?
 それだけが、今も思い出せない。

 助けてくれ。
 誰か、助けてくれ――

 何者かに追われるように、ただただ走る。
 そうすれば、俺を苛む幻想から逃げられると、本気で信じているかのように。
 やがて、水瀬家が見えてくる。
 俺はスピードを緩めずに、水瀬家の玄関に滑り込んだ。

「あら、祐一さん。どうしたんですか? そんなに慌てて――」

 秋子さんの言葉も聞かず、俺はそのままの勢いで階段を上り、俺の部屋に飛び込んだ。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 息切れがする。
 あまりの疲労感にベッドに倒れこみそうになるが、それは避ける。
 結局俺は、ベッド脇の床に蹲った。
 ベッドに倒れこめば、きっとそのまま眠ってしまう。
 眠ってしまえば、また夢を見る。
 あゆがいる、あの街の夢を。

 怖い。
 別に夢を見ることが怖いんじゃない。
 その夢の裏側にはきっと、現実に生きている俺には想像もつかないような得体の知れない何かが蠢いてい る。
 その「何か」が、今の俺には想像も出来ないようなモノであるのは確かだ。
 あの夢に浸かったままでいると、いつか俺はその「何か」に取り殺されるような気がした。

 それは、例えるなら、まるであの「赤」のような。
 そう、あの日見た、あの「血のような赤」のような。

「祐一さん? どうかしましたか? 祐一さん?」

 コンコン

 優しいノックの音と共に聞こえてくる秋子さんの声。
 それに混じって頭の中から聞こえてくる声がある。

 ――おい、祐一。お前に聞いてるんだぜ。

 うるさい。わかってる。

 ――早く答えないと、秋子さんが心配するんじゃないか?

 わかってるって言ってるだろう!

 ――おお、怖。なぁ、そんなことくらいで怒るなよ。ビタミンC足りてないんじゃないか?

 頭の中から響いてくる声。それは今の俺を嘲笑うかのような響きだった。

「だい……じょうぶです……」

 頭の中で響く声に苛まれながらも、俺はやっとのことで喋ることが出来た。

「そうですか? 具合が悪いようでしたら、夜ご飯の時間まで部屋で休んでてくださいね。わたしは、少し商 店街のほうに買い物に行ってきますから」

 その声と共に、ドアの前の気配は階下に下りていった。
 俺は部屋の隅で動かずに膝の間に顔を埋めた。
 決して眠らないように、意識だけは手放さぬように。

 ――おい、祐一よ。お前いつまで逃げ続けるつもりだよ?

 やめろ。

 ――お前はもう『あれ』を見ちまったんだ。もう、わかってるはずだろ?

 やめてくれ。

 ――お前がこの街にいたせいで……

 ヤメテクレ。

 ――あの日、お前が逃げ出したせいで……

 そんなもの、俺は知らないんだぁッ……!!


 ――月宮あゆはお前が――

    ☆   ☆   ☆

「――祐一っ! 祐一っ!」

 ドンドンドンドン

 部屋のドアを叩く音がする。

「祐一っ! どうかしたのっ!? 祐一っ!」

 名雪の声。
 聞き慣れたその声に、俺は意識を覚醒させる。
 ふらつく足を力づくで押さえ込み、ドアを開ける。

「あ、ああ……大丈夫……どうした?」

 名雪は俺の顔を見ると少し安心したような顔をした。
 名雪はまだ制服姿で、肩には軽く雪が残っている。廊下の窓ガラスから外を見ると、外はもう暗くなってい て、いつの間にか雪が降り出していた。

「祐一の部屋に声かけても祐一が返事しないから、何かあったのかと思って……って、祐一顔真っ青だよっ !? 具合、悪いの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……秋子さんは? いないのか?」
「うん……帰って来た時、家の中、真っ暗だったから……祐一、お母さんから何か聞いてない?」
「ん……そういえばさっき買い物に行くって言ってた気がしたけど……名雪、ちなみに今何時だ?」

 家に帰って来た時、空はこんなに暗くなかったはずだ。

「今は6時だけど……」
「6時っ!? ちょ、お前、それ秋子さんが出かけてから二時間以上経ってるってことじゃねーかっ!?  俺、探しに行ってくるっ!」
「ま、待ってよ祐一っ! わたしも……!」

 名雪の言葉も聞かずに、俺は弾かれるように走り出した。転げ落ちるように階段を下り、靴を履くのも適当に 玄関を飛び出す。

 嫌な予感がした。
 先程から降りだしたらしい雪がちらちらと舞う。
 そのおかげか、妙に視界が悪い。
 ほんの3メートル先も、舞い踊る雪に覆われて見えない。

 俺は先の見えない道を、深い闇に向かって走り続けた。

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