それは最早現実感のある光景では無かった。
 赤く、辺りを赤く染める救急車のランプに照らされて、赤く、赤く染められた野次馬たちの横顔。
 それを腕の力だけで掻き分け掻き分けその中心に向かおうとするが、集まった人たちの圧力に負け、何度も何 度も押し出される。
 それでも、俺は確実にその中心に向かっていた。
 その途中で響く無責任な人たちの声。

 ――ねぇ、あれ、何があったの?
 ――怖いわねぇ、脇見運転の車が急に横断歩道に突っ込んできたらしいわよ。
 ――うっわっ! ひっでぇなぁ、こりゃ完全に死んだな。
 ――あの人、誰? あの子供を助けた人。
 ――なんでも轢かれそうになった子供を助けたらしいぜ。
 ――あの人って確か、あそこの家の人じゃない?
 ――ああ! 知ってる知ってる! 最近男の子が越してきた家でしょ?

 やめろ。
 やめろやめろやめろッ!
 何も知らないくせに。
 俺たちのこと、何も知らないくせにッ!!

「やめろよッ! 通してくれっ! 通してくれッ!!」

 強引に前に出る。
 俺の顔を見た人が、何か幽霊でも見るような顔になり、少し引いてくれたのが幸いした。
 それを機に一気にその中心へと躍り出た。


 ――赤い。


 それが最初の印象だった。
 白く降り積もる雪は、こんな状況の中でも無関係とばかりに降り続き、赤く染め上げた雪の上に次から次へ と。
 段々と赤が覆い隠されていく。
 それは長い時間をかけて、人の記憶が薄められていく様を早送りで観察しているような錯覚を覚えた。

 ――ああ。
 そうなんだな。
 「赤」は、決して消えない。
 どれだけ時間が過ぎようとも。
 表面上は完全に覆い隠されたように見えても、その深奥にあるものは決して薄れずそこに在る。
 決して消えることはない。
 決して。

 俺は声にならない悲鳴をあげ、その場に倒れこんだ。

 薄れゆく視界の隅で、白衣を着た人達に運ばれていく秋子さんの姿を見た。
 それは、あの日と同じように。
 全てを焼き尽くすように、赤く、赤く。





















 気づいたら、真っ白な部屋にいた。

「……ここは……?」
「あ、気づかれました?」

 声のした方に視線を向けると、看護服の人(看護婦じゃなくて看護師というのが正しいのだろうか?)が点 滴らしい用具を準備している所だった。
 その人は俺の様子を確認するとボタンを押して何やら報告している様子だった。

「ここは……何処なんですか?」
「ここは病院よ。キミは……水瀬さんのご家族の方かしら?」
「はぁ……まぁ、そうですけど……」
「事故現場で倒れてたのを救急隊員の人が見つけてね、呼びかけても意識が戻る様子が無かったから、水瀬さん と一緒にこの病院に搬送されたのよ」

 水瀬さん。
 その単語を聞いた瞬間、急速に意識が覚醒する。

「――ッ!! 水瀬さんって、秋子さんのことですかッ!? 一体、一体何があったんですかッ!! 秋子さん は、秋子さんはッ!?」
「ちょ、ちょっとキミ、おち、落ち着いてっ」

 俺は身体を勢い良く起こして看護師に食ってかかった。

「落ち着けるかッ! こちとら何があったのかすらわからねえんだっ! 一体何が――」


「――これこれ君。あまり暴れると鎮静剤をダース単位で注射することになりますよ」


 突然背後から声がして振り返ると、妙に野暮ったい中年の医師らしき男が白衣のポケットに手を突っ込んだま まで、こちらを観察するように見ていた。

「アンタは――」
「私はここの医者です。ついでに言うと……君の叔母である水瀬秋子さんの担当医でもあるんですよ。相沢 君」
「なっ……!? どうして俺の名前を――」
「さあ、どうしてですかね」

 挑戦的な口ぶりをしているが、彼の表情からそんな感情は読み取れない。
 むしろ彼の表情からは若干の疲労すら感じる。

「君に関して言えば、別段何の問題もありません。投薬の必要もないし、すぐに家に帰ってもらっても全く構い ませんよ。ただ――君は叔母さんの容態について聞きたいんじゃないですか?」
「あ、ああ……」
「では、ついてきてください。歩きながら説明しましょう」

 そう言うと、彼は俺が歩き出すのも確認せずにゆっくりと歩き出した。
 俺はベッドの側に置いてあった自分の靴を履き、急いで彼の後を追った。


 もう既に窓の外は完全に夜。
 夜の病院の廊下は静かで、コツンコツンと二人の歩く足音だけがリノリウムの床に寂しく響いていた。
 前を歩いていた医師は不意に口を開いた。

「先ほど、水瀬さんの娘さんがいらっしゃいましたよ。相沢君、今は一緒に住んでいらっしゃるんでしょ う?」
「え、ええ……」

 名雪は……もうここに来ていたのか?

「実を言えばね、君の名前や素性は全て彼女から聞かせていただいたんですよ」
「そうなんですか」

 少し安堵する。
 何故こんな会った事もないような医師が、何故俺の素性まで知っているのかと思ったが、良く出来た手品の タネ明かしなんて大方こんなものなのかもしれない。

「で、名雪は今何処に……?」
「ここにはいませんよ」
「はい?」

 軽く言い放った言葉に、少し驚いた。

「かなりショックを受けた様子でね、水瀬さんの容態を説明するとすぐに走っていってしまわれたんですよ」

 医師の口調は、名雪を引き止めて勇気付けてあげられなかったのを後悔する様な響きがあった。
 俺は、一番に聞かなければならないことを口にした。

「……それで、秋子さんの容態は……?」

 医師は、少し沈黙する。
 その横顔は、何かを考えているように見えた。
 そして、語るように彼は口を開いた。

「――手は尽くしました」
「……」

 俺は口を挟まない。
 この人が話し終わるのを待った。

「手術はとりあえず成功でした。しかし、如何せん打った部位が悪かった。雪道のせいで病院への搬送が若干遅 れたのも痛かった……」
「じゃ、じゃあ秋子さんは――」
「とりあえず生きてはいます。ただし、一日経った後に生きているかどうかは……わかりません」
「わ、わかりませんって……」

 医師のこれ以上無いくらいに曖昧な言葉を聞いて、俺はまた足元がふらついたような気がした。

「私どもと致しましてもこれしか言えないのは正直言って辛い。しかし、こればかりは、本人の体力と意志の力 に任せる他ないのです」

 そして、医師の足がある病室の前で止まる。

「ここが……」
「そうです。でも今は面会謝絶ですので、残念ですが親族の方でも中に入ることは出来ません」

 俺の目の前には開かないドアが重く立ち塞がる。
 それはまるで、俺と世界の断絶を表しているかのように見えた。
 閉ざされたドアの向こう側は黄泉の国か。
 そう考えると、そのドアは存外軽いようにも思えた。
 断絶されているのは、一体誰なのか。

 俯いてしまった俺を見て、彼は今までで一番優しい調子で言葉を使った。
 その顔は見えないが、きっとぶっきらぼうな目をしながら微笑んでいるんだろうというような感覚があっ た。

「――ここにいても、相沢君に出来ることはありません。本当に相沢君の助けを必要としている人の所に行って あげて下さい」

 本当に、俺の助けを必要としている人――

「奇跡とは、その可能性を信じない人には決して起こり得ないものです」
「……」

 俺は何も言わない。
 その静かな口調の中に秘めた強靭な意志の力に圧倒された。

「それでは、私はこれで失礼します。――私共も全力を尽くします。相沢君達も決して希望を捨てないよう に」

 中年の医師はそう言い残すと、決して開かないはずのドアを軽々と開け、その中に身を躍らせていった。
 その先にあるものはきっと黄泉の世界などではなく、彼にとっての戦場なのだろう。
 誰にとっても存在するはずの、戦場。
 彼や秋子さんにとって、今それはこの扉の向こう側にある。
 俺にとってのそれは、何処か。

 俺は病院の廊下にただ一つ据えられた長椅子に一人残された。
 静謐な夜の廊下には、慌ただしく行き交う職員の足音や声が時折響いてくる。
 一瞬、とてつもない孤独感に押し潰されそうになる。

 始めから、何もなければ良かったのに。
 何も持っていなければ、何も失わずにすんだのに。
 神様、失うなら、何故俺達に、与えた?

 分かっている。
 それでも俺達は、求めずにはいられない。
 例え失うと分かっていても、それでも求めずにはいられない。
 だって、俺達の身体にはまだ血が巡っている。
 腕だって、足だって、まだなんとか動く。

 ――生きている。

 帰ろう、名雪の所へ。



 そう決めて立ち上がった瞬間、地球全体が歪んだかと思うくらいの暈に襲われ、たまらずに俺は長椅子に 倒れ込んだ。

 ぐわんぐわん

 世界が、回り、回り、揺れる。

「うわ……っあ……ぐあっ……」

 痛い。
 頭が、頭が割れるように痛い。
 意識が、持って行かれる……?
 叫び出しそうになる自分を必死で押さえ付ける。体中を苛む痛みという痛みを全て奥歯に持っていき、耐え る。噛み締める唇からは、血のような何かが垂れ、俺の服の上に深い赤の染みを作っていった。

 ――呼んでいる。

 なんだって?

 ――呼んでるって言ってるんだぜ、祐一?

 ……。

 ――他の誰でもなく『俺達』を待ってるんだぜ、あの子はさ。

 ……。

 ――行ってやれよ。

 ……。

 ――『俺達』が行くことに意味があるんだ。



 俺はまるで魅入られるように立ち上がり、フラフラと歩き出した。



 瞳には何も映らず、何を見据えているわけでもない。
 そんな状態でも身体はまるで目指す場所を知っているように、確信を持った足取り。

 『俺』であって、『俺』でない、きっと誰でもないであろう人間が、ただひたすらに『あの場所』を目指 す。

 頭は相変わらず割れんばかりに痛む。
 それでも『俺』の足は止まらない。



 やがて、約束の場所に辿り着いた。



 扉を開けることに罪悪感などは感じない。
 ただ、そこにあるものを、感じた。

 ノブを回す。



 そこには、あの日の君がいた。

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