わたしは、家の近所にあるバス停で、病院への最短距離を走るバスを待っていた。
わたし以外には、濃い茶色の着物を着たおばあちゃんと、犬が一匹。犬はまるでおばあちゃんを守るかのように、凛とした空気を漂わせながら背筋を伸ばしてお座りしている。
頼もしいナイトに守られているおばあちゃんのことが、急に羨ましくなる。
そんなことを考えながらおばあちゃんと犬を眺めていると、目が合った。犬のほう。そんな必要はないのだろうけど、わたしは慌てて微笑みの表情を作る。犬はそれが当たり前だと言わんばかりに微笑むわたしを一瞥した後、ぷいっと横を向いてしまった。その仕草が、凛とした彼(?)の雰囲気とは不釣合いなほどに子供っぽくて、わたしは本気で笑ってしまう。わたしが笑ってもおばあちゃんは熟睡しているのか目を覚まさない。よく観察するとこっくりこっくり揺れているのが分かる。思わずまた笑みがこぼれる。
弱くもなく強くもなく、まさにうららかな春の日差し。頭上で咲いている桜の花に透かした太陽が桃色に柔らかく輝いている。
スプリング・ハズ・カム。
春が来た。
この季節の訪れを何と呼んでも構わないけど、こんなに絢爛に咲き誇る春の花を見れば、言葉なんか陳腐なものだと実感できることだろう。
おばあちゃんにつられてわたしも眠くなりかかった頃に、病院行きのバスがのんびりとやってきた。ぷしゅーっといつもの排気音とともにドアが開く。
「じゃあね、ナイト君」
わたしはそう言い残してバスに乗り込んだ。バス停で眠りこけるおばあちゃんを放置していくのは気が引けたが、無理に目を覚まさせるのもどうかと思った。だってこんなに気持ちの良い日なんだもの、わたしだってお昼寝したいぐらいだよ。
最後尾の席に座って、バスが走り去っても眠り続けるおばあちゃんと、健気に主人を守る犬に小さく手を振る。垂れ下がった桜にバスの天井が当たって擦れる音がする。まだ散り始める時期じゃないのに、桜の花びらはバスが走り去った空間でふわふわ舞い踊り、やがてアスファルトに薄桃色のカーペットを作る。
わたしは散ってしまった桜があんまり好きじゃない。散る瞬間はそりゃ綺麗だけど、散ってしまえば誰も見向きもしない、ただのゴミになってしまう。咲いてる間はあんなにちやほやしたのに――と、身勝手な人間達への呪詛の声を漏らす、踏みつけにされて少し汚れた花びら。美しく短命な桜の二面性は、まるでジキルとハイドのよう。
そんなことを考えている間に、わたしを睡魔が襲う。
ちょっとだけ眠ってしまおうか。
もしかしたらあの時のように、あゆちゃんと祐一の夢が見られるかもしれない。
あゆちゃんと祐一とわたしとお母さん。後は、香里や栞ちゃん、北川君――
数え切れないくらいの人たちに囲まれて楽しく騒がしく暮らしていく。
そんな幸せな夢を――
眠ってしまったわたしを乗せて、バスはお母さんとあゆちゃん、それに祐一がいるあの病院へと走る。
目覚めの時は近い。
そんな予感を胸に抱いて。
Spring Has Come.
「水瀬、ちょっといいか?」
練習が終わり、さぁ家に帰ろう今日のご飯はオムライスだ――と、良い気持ちになっていたところを顧問の先生に呼び止められた。はい何でしょう、と返事をして先生のところに向かう。先生はこっちこっちと体育教官室の中に手招きをする。
周りの皆はお構いなしに帰る準備。入ったばかりの新入生たちは2年生の指導のもと、器具の片づけをしている。そんな光景を見ると、ああわたしも3年生になっちゃったんだなぁと、少しくすぐったいような、なんとも感慨深い気持ちになる。
わたしは一応ノックをして体育教官室に入る。室内の暖房が、たった今まで運動をしてきたわたしには少し暑いくらいだった。
「それでな、水瀬。一応これからのことについて確認しておきたいんだが――」
わたしの様子を遠慮がちに伺うような先生の言葉。
「はい。これからは前までと同じように練習に参加します。長い間ご迷惑をかけてすいませんでした」
ぺこり、と頭を下げる。
「い、いや……別にそんなことはいいんだが……」
わたしが頭を下げたことに対してなぜか動揺している様子の先生。
でも、わたしが休んでいた約2ヶ月の間、部に多大な迷惑をかけてしまったことは事実だ。頭を下げたくらいでどうにかなるものでもないけど、顧問である先生に対して筋を通しておかなくちゃいけないような気がしたのだ。
わたしは新学期が始まると同時に部活に戻る決心をした。
それは親友の香里を始めとする学校の皆の熱心な説得の成果でもあったのだが、結局最後に迷うわたしの背中を押したのは、お母さんだった。
お母さんや祐一、それにあゆちゃんも、酷い目にあって、そこから立ち直ろうと必死で頑張ってるのに、わたしだけがやりたいことをやるなんて――
そう言うとお母さんは今まで見たことが無いほどに強い口調でこう言った。
『名雪、やりたいことがあって、それをやれる環境があるのにそれをしないなんて、怠慢よ。
今しか出来ないことなんだから、悔いの残らないように精一杯頑張りなさい。
名雪が頑張るのなら、わたしも頑張れる。祐一さんや、あゆちゃんも、きっとそうだと思うわ』
そう言ってお母さんはにっこりと微笑んだ。
お母さんはリハビリで今が一番辛い時期であるにも関わらず。
わたしが頑張ることが、お母さんや祐一、あゆちゃんへのせめてもの励ましになれるのなら、と思った。
「いや、しかし……うん、そうか、じゃあこれからはまた練習に参加できるんだな。そうか、そうか」
なんだかんだ言って嬉しそうな様子を隠せない先生。
わたしが練習を再開する。それはもうすぐ始まる夏のインターハイへの切符をかけた地区予選へのエントリーにぎりぎり間に合ったことを意味していた。先生も、部員のみんなも、わたしに少なからず期待をかけてくれていたのを感じていただけに、エントリーに間に合ったのは僥倖と言えた。
わたしが戻って来た場合と、戻って来なかった場合。その2パターンを想定して作っていたというエントリー用紙を見せられ、わたしは少し恐縮する。「これは、もう必要ないな」とわたしが戻って来なかった場合の用紙を、先生は惜しげもなくビリビリビリと景気良く破いていった。笑う先生につられてわたしも少し笑ってしまう。
これからもよろしくお願いします、とわたしはもう一度頭を下げて、体育教官室を後にした。
そして、外に出たわたしを迎えるのは、夕暮れの太陽に照らされてオレンジ色に彩られた桜。
明日は学校も休み。
学校が始まってからは中々行けなかったから、明日は病院へ行こう。
明日への希望に胸躍らせながら、少し跳ねるようにして家路を急いだ。
☆ ☆ ☆
次は、病院前、です。
バス内に響いた機械音声アナウンス。心地よい振動に身を任せてうとうとしていたわたしは、それを聞いて「まだ眠っていたいです」と駄々をこねる自分の頭をぶんぶんと二、三度横に振って無理矢理に目を覚ます。
以前、バスに乗ったまま居眠りをして遥か彼方まで連れて行かれたことがある。全く見覚えのないバス停で一人ぽつんと帰りのバスを待っていたあの日のわたし。消えてなくなりたいと本気で思った。あの日と同じ過ちを繰り返すほどわたしの頭は能天気ではないのだ。多分。
とりあえず「降ります」という意思表示のブザーくらいは押しておこうかな。
ボタンに手を伸ばす。
ブーッという音がして車内全てのボタンに明かりが灯る。
前の座席の人がその音を聞いて此方を振り返る。その目線が、何故かものすごく気恥ずかしかった。誰も手を上げない静まり返った教室内で、一人だけ馬鹿みたいに元気に手を上げてしまったような居心地の悪さ。目立つのは嫌いではないけど、好きでもない。バス内には人がほとんどいない。それでも、気恥ずかしさは消えない。
何故か昨日部活に復帰することを皆の前で報告した時のことを思い出した。
今回のことが元で部長という役職は後輩に譲ってしまったが、それでも元部長という肩書きからのプレッシャー。自分の身体が悪くなったわけでもなく、言ってしまえばただのワガママで長い間迷惑をかけてしまった部員達への罪悪感。それでも春の大会には正選手として出場しなくてはいけないという不安。
色んな感情が自分の中で渦巻いていて、上手く整理できないままに皆の前に立った。皆から向けられる視線。気心も知れた仲間達からのそれは、普段彼らがわたしを見る目とはどこか違っていた。
知らない人を見るような、目。
さっきの前の座席の人が振り返った時の目と、どこか似ていた。
「…………」
言葉が出てこなかった。体操座りをしてわたしが喋りだすのを今か今かと待っている部員達を前にわたしは言葉を忘れてしまったかのように立ち尽くした。
わたしは本気で怖いと思った。その感情は一瞬でわたしの身体を支配してしまったように、腕も足も、みっともないくらいにぶるぶると震えた。
皆わたしを責めてるんだ、と錯覚した。みんなをぐるりと見回すと、その錯覚はより一層明確な意志を持ったように感じられた。
逃げちゃおうかな。
そんな時だった。
恥も外聞もなく涙を浮かべて、頭の中では必死にこの状況から逃げ出す準備をしていたわたしの耳元で囁く一つの声があった。
――大丈夫だよ、名雪さん。
風の音かと思った。
しかし、その声が聞こえた瞬間、自分の身体を支配していたわけの分からない恐怖はすっかり消え去り、震えもいつしか止まっていた。後は自分の想いを形にするだけ。苦もなかった。わたしが喋り終えると皆は温かい拍手でわたしを迎え入れてくれた。前までと同じように、走ることが大好きな仲間の一人として。
結局わたしが思っている怖いことや悲しいこと、辛いことや苦しいことなんて、みんなわたしの心次第なんだ。わたしの心の持ち方次第でどうとでも形を変えてしまう、ひどく不安定なものの集合体。それがわたし達の暮らしている世界だ。
わたしを助けてくれたあの声は、ひょっとしたら本当に風が通り過ぎる音だったのかもしれない。
それでもわたしは、あれは『彼女』の声だと信じている。
大切なことを確認しあった、お互いを確かめ合った彼女。
あゆちゃんが目を覚ましたら、ちゃんとお礼を言わなくちゃ――ね。
やがて、わたしを乗せたバスは、彼女が眠る病院の前で静かに動きを止めた。