人生には耐え切れない不幸など無い、と誰か偉い人が言っていたような気がする。
 本当に不幸なことに遭ったことがない人が言う戯言じゃないかと思った。例えば、世界には死ぬために生まれてきたとしか思えない人たちが数え切れないほどいる。例えば、何かを憎むためだけに存在しているとしか思えない人たちが数え切れないほどいる。
 例えば、すれ違うためだけに出会ったとしか思えない二人が、いる。
 人が生きることには不幸が付き物だと言うなら、人生には不幸しかないんじゃないか。幸せなものは皆一様に幸せだが、不幸なものは皆それぞれに不幸なものである、という言葉もある。人にはとても耐え切れないような不幸が、それぞれの不幸の渦の中に潜んでいないと、一体誰が言い切れるのか。

 名雪は一つ、深い溜息をついた。

 いけない。どうも、いけない。
 病院という場所は、現代社会における人間のほとんどが生まれる場所であり、また終わる場所でもある。普段から自分たちが目を逸らしている「何か」を、いきなり眼前に突きつけられたような生き苦しさ。その独特の空気が、「死」を遠ざけている現代人の感覚を狂わせる。嫌が応でも、自らの「終わりの時」を考えさせられてしまう。
 名雪は首を振りつつ、思考をこれからの行動についての事へと軌道修正する。まずは受付に行って、お母さんの病室まで行って、それから――

「お見舞いですか」
「うきゃっ」

 突然の背後からの生気の感じられない声に、思わず年頃の女の子らしからぬ奇声を発してしまう。

「もうっ、先生っ! いきなり驚かせないでくださいっ」

 振り返りながら名雪が至極当然の文句を口にしても、「しょぼくれた独身中年」というタイトルを付けたくなる風体のこの白衣の医師・安藤は「こんにちは水瀬さん」と、実に飄々としている。そんな彼の様子にはいささかカチンと来るものがないではない。

「じゃあ、行きましょうか」

 む、流しやがったな。
 彼の背後からもう少しだけ文句を並べてやろうかとも思ったが、彼について行く事でひち面倒くさい受付での待ち時間を省略できるのは間違いない。
 名雪は少しぶすくれた顔で、すたすた歩いていく彼の後ろを小走りで追いかけた。














担当医














「しかし、水瀬さんも元気になられたみたいで、安心しました」

 突然の彼の言葉に名雪は「あ、はぁ……」と曖昧な返事を返すことしか出来なかった。
 元々口数の多い人間ではない。医師として必要に迫られた時には出来る限りの言葉を尽くす安藤だったが、普段私事に近い場での彼は極端なほどに寡黙で通している。そのことはこの冬の付き合いで、名雪も重々承知していた。
「お母さんからお話、聞きました。部活の方に復帰されたそうですね」
 まぁ一応、などとお茶を濁すような照れた答えに、彼は「いいことです」と、小さく頷いた。
「自分の好きな事、やりたい事が出来るというのは、本当に素晴らしいことです。こんな仕事をしていると、つ くづくそんな当たり前のことを痛感させられます」
 安藤は他人にしゃべりかける時でも、あたかも自分自身に語りかけているような調子で話す。独り言が癖になって抜けなくなったようなその話し方が、彼から人を遠ざける要因になっていることは確かだ。しかし、名雪はそんな彼の話し方が嫌いではなかった。彼の内にこもるような独特な話し方の中に、自分の中で真に言うべき事伝えるべきことだけを何度も反芻して口に出しているような真摯な慎重さを感じるからだ。
「やりたいことを全てやりきるには、人生とは実に短い。そう思いませんか?」
「じゃあ先生は、やりたいことがいっぱいあるんですね」
「あります。たくさんあります。人生が約80年だとしたら、5回分くらいは欲しいところです」
「多いですねー」
「欲張りなんです」
 ははは、と笑う。
「先生もなんだか元気そうに見えますよ。何かいいことでもあったんですか?」
 別に嫌みのつもりで言った言葉ではなく、本当にそう思ったからそう言ったというだけのことだ。
 元気な人を見て、元気が出るか萎えるかするのが普通の人間の感情だ。名雪は、明らかに前者のタイプの人間だった。逆に、他人の精神状態について何らかの実益的な判断は下しても、それが自分の精神状態にまで影響が及ばないタイプなのが、この安藤だ。安藤に限って、よもや春の陽気にあてられたというわけでもあるまい。
 安藤は珍しく目元に僅かな微笑を湛えながら言った。
「月宮さんの容態がね、良くなってきてるんですよ」
 名雪にとってそれは意外な一言だった。
 名雪がちょくちょく彼女のお見舞いに言っていることは安藤だって知っているはずだ。しかし、安藤が月宮あゆという少女についてなんらかの言及をしたことなどは今まで一度としてなかった。あゆの担当医が安藤ではないことは、名雪も既に知っている。
「あれ、担当医でもない僕が彼女の心配をしているのは、意外ですか?」
「い、いえ、そんなことは――」
 あった。
 安藤が他人と積極的に関わろうとするタイプではないのは周知だ。自分の担当ではない患者など路傍の石とでも思っていてくれたほうが、彼のイメージには適っている。
「実はね」安藤は一呼吸置いた。
「僕は以前彼女の担当医だったことがあるんですよ」
「え、そうなんですか?」
 訳あってすぐに担当から外されてしまいましたけどね、と自嘲するように安藤は小さな声で続けた。
「彼女はこの病院では最古参の患者のうちの一人です。昔からここにいる職員は彼女に対して何らかの想いは抱いてるんじゃないかと思います。無論、僕もその一人ですがね」
 名雪には、何となく安藤の言っていることが分かるような気がした。
 冬に例の『夢』を見てから、名雪は時々あゆの病室にやってきては彼女の寝顔を見てぼんやりと過ごす、というような一日を何回も繰り返していた。上手く説明することは出来ないのだが、見るものを虜にしてしまう一種のオーラのようなものを彼女は持っている気がした。
 名雪はあゆのことを既に香里や栞と同じように大切な友達の一人だと思っている。自分の大切な人の回復を喜ぶ人たちがこの病院にはたくさんいるんだと思うと、病院という場所が凄く暖かい場所のように思えるから不思議だ。
「だから、僕たちは水瀬さんには凄く感謝しているんです」
「私、ですか?」
 そうです、と安藤は首肯した。
「今までずっと一人ぼっちだった僕たちの天使に友達が出来た――ってね。実際水瀬さんが来るようになってからですからね、彼女の容態が良くなりはじめたのは。7年前からずっと付きっ切りで治療を施してきた我々には少々頭の痛い話ですけど」
 普段と全く同じ調子の安藤に、名雪は恐縮せざるを得なかった。

 この街で一番大きい病院であるここは病棟がやけに広く、これだけ話しながら歩いても一向に目的地である水瀬秋子の病室に着く様子がない。狭く細い廊下を歩く安藤とそのすぐ後ろをついていく名雪。
「おそらく月宮さんは感じ取ったんじゃないかと思います」
 唐突に口を開く安藤。  本当にどうしたと言うのだろう。今日の安藤は本当に饒舌だ。
「何を、ですか?」
「この世界に生きる価値を、です」
「価値?」
「自分の世界が目覚めるに値する世界か、生きるに値する世界か、彼女は7年間も眠ったままずっとその値踏みをしていたような気がするんですよ」
「そんな――」
「ええ、全ては僕の妄想です。僕だったら、こう思うだろうな――そういう程度の戯言なので聞き流してください」
 普段の無色透明な安藤の声に、少しだけ感情の色が混じったような気がした。それは、名雪が始めて聞く、彼の人間らしい声でもあった。
「私にはそんな大それた価値なんて、ありません」
 祐一の顔がちら、と頭の隅をよぎる。
 胸がきりきりと痛む。
 名雪にとっては、小さいころからの幼馴染のような、まるで旧友のような、痛み。
 そして、いつか乗り越えた痛みだ。
「どんな人間だって、無価値です」
 それは酷く酷薄で冷淡な言葉なのに、なぜか胸を打った。
「でも、それと同時に何物にも代えがたい価値でもあるのでしょう。あなたにとって、お母さんや、相沢くん、そして月宮さんがそうであるように」
 秋子の病室の扉の前で、安藤と名雪は立ち止まる。
 扉を開ける権利を譲り合っているかのように、または牽制しあっているかのように、動かない。

「価値って」痺れを切らしたように名雪がドアノブに手をかける。
「一体何なんですか?」

「僕には、わかりません」

 くすんだ扉が、鈍い音を立てた。

next
back
戻る



inserted by FC2 system