1.

 右側から絡みつく視線を感じて、秋原はひょいと視線を上げた。
 だがその視線の発生源がどこにあるのかまではつかみきれず、秋原はさっきまでと同じように歌い始めることにした。足でリズムをとり、ピックでギターのボディを軽く叩いてカウント。拍手も、軽蔑もなく、秋原はまるで置物のように歌いだす。
 歌いながら、秋原は広場の反対側を見る。垢抜けた雰囲気の若い男の3人組が、秋原の演奏している場所にまで聞こえてくる大音量で、どうやら自作らしいロックを歌っている。それほど上手いグループだとは思わないが、周りには数人のギャラリーがいる。秋原とその3人組を客観的に比べて、どちらが勝者でどちらが敗者であるかを判断するのは簡単で、酷なことだろう。
 聴衆を一人でも多く集めた者が勝者。それがストリートという戦場のたった一つの掟だ。そのことを秋原は痛いほど知っていた。
 ふと秋原は小さい頃に見たドラえもんに出てきた“石ころ帽子”を思い出した。かぶった者はただの一人の例外もなく路傍の石のように誰からも気に留められない存在になってしまう、22世紀の科学が生み出した魔法の帽子。いつもと同じ雑踏の中、石ころ帽子をかぶるまでもなく秋原はいつだって路傍の石だった。
 まぁ、それはそれで構わない。
 俺は、いつだって自分のために歌っているのだから。
 それは哀しい決意なのかもしれない。だが所詮人が人に伝えられることなど、ほんの小指の先ほどもない。しょうがないのだと、秋原は思っている。
 秋原の歌は続いている。さきほどの視線の主の気配も消えていないが、それほど気になっているわけでもない。秋原にとって、もとより他人の視線など気にするほどのものではない。
 時折強い風が正面に立ててある譜面のページをさらっていく。もう何年も同じ場所で歌い続けている秋原は、当然のように譜面を必要とするほど未熟ではない。それなのに今も譜面台を立て続けるのはなぜなのか、秋原自身にもわからない。周囲からの断絶の象徴のようなそれがなければ秋原は歌えないのかもしれなかった。
 歌が終わる。サウンドホールから漏れる残響が終わるのを、秋原は目をつむって待ち続けた。
 人生もこれくらいの余韻でもって終わってくれたら、と思った。
「ぱちぱちー」
 歌の余韻に延髄斬りをかましたような調子っぱずれな声が秋原の意識を急速に現実へ引き戻した。見ると、まだ高校生とも中学生とも見える女。そんな年の女を『女』と表現するのは正しくないとは思うが、秋原の右側に座り込んで拙い拍手をする彼女はどこか『女』としか言えないような雰囲気をまとっているように見えた。
「うたー」
 呻いた、のかと思った。
 だが相変わらず何が楽しいのかわからないくらいにこにこ笑っている彼女。俗世の悩みやしがらみとは無縁そうな笑顔。
「うまいねー」
「……ん、ああ、はい。ありがとう」
 意識が涅槃に飛んでいた秋原は彼女の言葉を理解するのにたっぷり十秒くらいかかった。
「にへへー」
「……」
 ふぅ。
 またこの手合いか、と秋原は心の内でため息をついた。路上で音楽なんぞやってる人間にとって、酔っぱらい、ホームレス、既知外なんて珍しくもなんともない。何か目立つものがあれば彼らは走性によって火中に飛び込む虫けらのようにふらふらと寄ってくる。鬱陶しいことこの上ないが、だからといって邪険にすると逆ギレして手に負えなくなる。もうお決まりのコースだ。
 適当に受け流していればその内勝手にどっか行ってくれるだろ――

 そして、彼女が立ち去る前に終電が無くなった。こいつがいなくなるまでは歌ってやるか、と秋原が似合わない義侠心を発揮したのも原因の一つかもしれないが、それを差し引いてもこの女は我慢強すぎた。二時間半以上歌い続けた秋原の喉はもうカラカラガラガラである。
 ついさっきまで人通りの絶えなかった駅前広場は、昼間が嘘のように静まり返っている。ちらほらと目に付くのは、終電を逃がした輩をハイエナのように待ちかまえているタクシードライバー、段ボール片手に今夜の寝床を探して彷徨うホームレス、チーマーの遺伝子を現代に受け継ぐ由緒正しきヤンキー崩れ、えとせとら、エトセトラ。まともな社会生活を営んでいそうな人間はどこにも見あたらない。
 秋原自身もそろそろ帰途に着かねば明日が危うい時間帯だ。今晩唯一の客に演奏終了をつげようとすると、
「……ぐー」
 体操座りで、ぐっすりお休み中だった。
 流石の秋原もかけようとした言葉を見失ってしまった。
「……すんませ」
 肩を揺すろうとしたら襟元から胸の谷間が見えた。必要以上に幼く見せるミニスカートの中の水色もちらちらと見えたり見えなかったり。
「ごくり」
 オートマティックに生唾を飲み込む秋原の喉。
「……なんてやってる場合じゃねぇやなこれは」
 他人に対しては人一倍興味関心の薄い秋原といえど、妙齢の女性を満天の星空の下に路上放置し、何食わぬ顔で立ち去れるほどの鬼畜にはなれそうもなかった。
「あのぅ、もしもし?」
 おっかなびっくり色々試してみた。肩をゆすぶってみたり、頭をこんこんノックしてみたり、首筋をくすぐってみたり。スカートをめくるとか、靴を脱がせて足の裏をくすぐるとかは、さすがに無理だった。興味はあったのだが。
 4回か5回くらいそんな無駄な努力を繰り返した後、秋原はもうどうでもよくなって煙草に火をつけた。ギターなど細々とした手荷物を脇に放り出して、彼女と同じように座り込み、夜空に力いっぱい煙を吹きつけた。喉には人一倍気を使っているつもりなので、普段からおおっぴらに吸うことは少ない。1週間に2、3回くらいの頻度で、あまり濃くないものを選んで吸うという程度のものだ。ヘビースモーカーとは言い難い。しかし、秋原は煙草を吸うのが好きだった。
 自分の心の中にとっても大きな穴がぽっかり空いているのを痛覚のように感じることがある。秋原が煙草を吸うのは、そんな時だ。身体の中の空洞に害悪と言われる白煙を導き入れることで、痛みにも似た虚無感を埋めることが出来るのではないかと、秋原は信じていた。
「ねぇ、わたしにも一本、くれるかな」
 いつの間に目を覚ましたのか、彼女はとろんとした目でこちらを上目遣いに窺っている。量られている、と感じた秋原は無言で煙草の箱を差し出した。彼女は慣れた手付きで煙草を取り出し、火をつける。暗闇の中で彼女の長い睫毛が100円ライターの頼りなげな炎に照らされている。
「ありがと」
 吸って吐き出すその動作は秋原のそれよりも若干せかせかしていて、慌てているように見えた。
「ねぇ」
「何すか」
「今、何時?」
 無言で広場の中心に立っている時計を指差す。
「あっちゃー、やっちゃったかぁ」
 言葉の割に失敗した感じは見受けられない。むしろそんな状況を楽しんでいるようにも見える。
「大丈夫なんすか? もう電車、無いすよ」
「うーん、まぁ……なんとかなるよ。それより」
 ふっと、ただでさえ下がり気味の目尻がさらに下がって微笑みを形どる。
「ありがとね。わたしが起きるまで、待っててくれたんだよね」
「あ、ああ……」
 屈託無く礼を言う彼女に、秋原はなぜか慌ててしまった。こんなに真っ直ぐに礼を言われたことなど、今までの人生で一体何回あっただろうか。
「暇だっただけだよ」
「優しいんだね」
「話、聞いてないでしょ」
「そんなことないよ」
 はぁ、と大きく溜め息をつくようにして白煙を吐き出した。この一本を吸い終わったら帰ろう。秋原はそう決心した。
「そういえば終電、もう無いのにおにーさんはどうやって帰るの?」
 それはこっちの台詞だ。
 つい口にまで出かかった言葉をすんでの所で押しとどめる。
「いや、俺、家こっから近いんで」
「ふーんそうなんだー」
 きらーん、と彼女の目が怪しく光った。
 ように見えた。少なくとも秋原には。
「じゃあ、今夜、泊めてよ」
「遠慮しときます」
「別に遠慮なんかしなくてもいいのに」
「アンタは出来れば全力でしてください」と言うところを「いや、流石に名前すら知らないような人を家に上げるのはちょっと」という婉曲表現にとどめておいたのは、ひとえに秋原の社会性の成せる業だ。
「え、何? 家族とか、いるの?」
「いや、いませんけど」
「じゃあいーじゃん」
「そういう問題じゃないでしょう」
 何なんだ、この女は。
 こいつに比べたら世間一般の泥酔者などは物の数でもない。迷惑度で言ったら秋原が今まで会ったことのある『困ったちゃん』の中でも文句無く最上級だ。
 そんなふうに思われていることを知ってか知らずか、彼女は無邪気に「ぶー」と膨れていた。まるきり童女の仕草である。その仕草が年齢不相応だったとしたらまだ救いようがあるが、もしも年齢そのまんまの仕草だったら。そう考えると秋原は背筋が凍るような思いがした。日本全国総ロリコン化時代、100万人以上は生息しているであろう大きいお兄ちゃんの仲間入り、なんてぞっとしない話だ。
「わたしは、あなたの事、知ってるよ。かなり前からずっとこの辺で歌ってるでしょ?」
「ああ、まぁ」
「わたし、よくこの辺通るからね、知ってるの。……いつもお客さんいなくて可哀相だなーって」
「ぐっ」
 無邪気な顔で平気で痛いところを突いてきた。
「いつも凄く一生懸命歌ってるから、顔も覚えちゃった。申し訳ないけど足を止めたことはないけどね」
 なんかちくちくと負け犬根性を刺激された秋原は、何とも言いようが無い気持ちで煙草の煙を吐き出した。白い煙は二人の間でゆらゆらと揺れている。
「じゃあ今日はどうしてちゃんと聞こうと思ったの?」
 僻み根性から出たことばではなく、ただ単純に足を止めた理由が知りたかっただけだった。
「今日はね」
 彼女も同じように煙を大きく吐き出した。秋原が吐き出した煙と違って、瞬く間に上空に舞い上がり、やがて消えてしまう。
「なんとなく一人になりたくなかっただけなの」
 秋原は自分でも気付かない内に、もう一本の煙草に火をつけていた。
「あの人ならきっとわたし一人だけのために歌ってくれる。馬鹿みたいだけど、通りすがりにあなたの顔を見てなんとなくそう思ったの」
 その言葉は正しいように見えて実は肝心な所で致命的に間違っている。それを指摘するのもなんだか意味のないことのように思えた。秋原は当たり障りの無いように「ありがとう」とだけ言うと、吸い始めて間もない煙草を乱雑に揉み消して靴で踏んだ。

 秋原は他人のために歌わない。



2.

 男のスーツ姿を一枚の絵に例えるなら、ジャケットは額、Yシャツは台紙、そしてネクタイが本体の絵と言うことが出来るそうだ。
 ならば俺は、と秋原は思う。

「おい、秋原! 居眠りしてんじゃねぇぞ!」
 品の無い上司の品のない声が、秋原の鼓膜を殴りつけるように振動させる。はいはい、といい加減うんざりした心持ちで頷いた。頷いた様子が上司には居眠者の船漕ぎに見えたらしく、さらにやかましく怒鳴りつける。周囲からは非難の視線が集中する。それは下品な上司にも、そしてその被害者であるはずの秋原にも平等に突き刺さる。例え目立った非がなかろうと、上手に人と付き合えずに何かと波風を立ててしまう人間なら同罪だと言っているように見えた。そしてそれは全く疑問の余地も無いほど正しいのだ、と秋原は痛いほどに理解している。
 秋原はいつ終わるとも知れない罵声を浴びながら、昨晩出会った彼女のことを思い出していた。

 あの後2本か3本吸って彼女とは別れた。家までのタクシー代くらいの持ち合わせはあったらしく、駅付近のタクシー乗り場で手頃な運転手を掴まえて慌しく彼女は帰っていった。
「あ、そうだ。まだ名前も聞いてなかったよね」
 タクシーに乗り込む直前、彼女は思い出したように言った。
「ね。名前。教えて?」
 くりくりとした大きな目が、僕を下から覗き込んでいる。頼りない街灯の明かりに照らされて、彼女の目はまるで潤んでいるようにきらきら光っていた。
「秋原」
「下の名前は?」
「直哉」
「ふむふむ、秋原直哉君か……随分格好良いけど、それって音楽やってる時の名前?」
「いや、本名」
 それらしい芸名を考えているうちになんだか馬鹿らしくなってやめてしまった、とは言わなかったが、そんな面倒くさがりな自分の本性まで見透かされているような気になり、秋原はふいと目を逸らした。街灯にたかる蛾の群れが辺り構わず撒き散らす燐粉、その一つ一つが雪のように降り注いでいる。その下には段ボールと新聞紙を抱いて眠るホームレスの姿があった。
「よし、わかったよ。今度会った時は『ナオ君』って呼ぶね」
「出来れば止めてくれるとありがたいんですけど」
「カワイイのに」
「嬉しくないっす」
「ぶー」
「膨れてもダメ」
 運転手はどのタイミングで走り出せばいいのか、迷っているようだ。間違いなく秋原と彼女の関係を量りかねている。その当事者たる秋原ですらそうなのだから当然なのかもしれない。距離を取るのが上手いのか、それとも下手なのか。そういった人生経験の乏しい秋原がそれを察するのは難題に過ぎた。
「一体いくつなんすかアンタは」
「あーっ! レディに年齢の事はタブーなんだよっ! もー怒った! 運転手さん早く出して出して!」
 運転手は慌てて何かの操作をする。バタンと扉がしまる。排気ガスにまかれるのを恐れて、秋原は2、3歩後ろに下がった。
 やっと解放される。秋原が俯いて溜め息をつこうとした瞬間、予想もしない声が降ってきた。
「出血大サービスで教えたげるっ! 多分君より大分上っ!」
 彼女はタクシーの窓を開け、両手を口の横に添えて叫んだ。意外なその声の大きさに秋原は呆然とし、近くで眠っていたホームレスは何事かと顔を上げた。
「アタシはアキっていうの! またねっ!」
 思い出したように走り出すタクシーの窓からちっぽけな上半身を乗り出して、彼女は2、3度手を振った。
 秋原は呆然と立ち尽くし、ホームレスは唾を路上に吐き捨てて再び床に就いた。
「アキ……ですか」
 その呟きを聞いていたのは、ローンで購入した自慢のアコギだけだった。

 変な女だったな。
 上司の理不尽な叱責もなんとかやり過ごした後で、いつもと何も変わらない作業ディスプレイを眺めながら秋原は昨晩をそう振り返った。
「なぁなぁ、何か良いことでもあったのか?」
 隣のデスクで作業をしている同僚が怪訝な顔でこちらを見ている。
「は? なんで?」
「だってお前さ、さっき課長にド叱られたばっかなのに、なんか嬉しそうじゃんか。なんだよ秋原。女でも出来たか、コラ」
「アホか。仕事しろ、仕事」
 仕事の量は同世代の社員と比べてけして多いわけではないが、隣としゃべりながらこなして時間通りに終了するほど少なくもない。ただでさえ昨晩はアキとかいう女のおかげで睡眠時間が大きく削られてしまったのだ。今日くらいは仕事を早めに片付けて休まないことにはどうしようもない。
 しかし。
「なぁ」
「なんだよ」
「俺、そんなに良いことあったように見えるか?」
「見える」
 そんなに良いことがあったとも思えない秋原は、心の中で一人首を傾げた。自分よりかなり年上だと言った彼女のことを思い出す度、口元がどうしようもなく笑みの形を作ってしまっていることに、秋原は気付いてはいなかった。

 そして、一週間はまるで白昼夢の如く無為に過ぎてゆき、秋原はまた駅傍の路上でギターをかき鳴らし歌っていた。
「ぱちぱち」
 アキは彼の真正面に陣取り、体操座りの膝の上で小さく拍手をしている。
 この前も思ったが、わざわざ拍手の音を口に出さなくてもいいと思う。なんていうか、幼く見えるし。自分より年上って名乗るならそれなりの行動を取れよな、と秋原は歌いながら思った。
 秋原の前で座るアキがサクラの役割を果たしているせいか、普段よりも足を止める人が多い。
 嬉しいような、嬉しくないような。
 本来なら、歌で、演奏で、通行人の琴線を僅かでも震わせ、そしてその歩く足を止めるのがストリートミュージシャンのあるべき姿だろう。しかし、現実に通行人の足を止めているのは自分の目の前にちょこんと座って幼い声援を上げるアキであることを、秋原は認めざるを得ない。  別に、自分の力を認めて欲しいとか、そんなことを願っているわけではない。でも、これは何か違うと思う。世の中そんなものかもしれない、とも思う。だから、これは世間知らずの単なる我侭なのだろうか。
 それとも俺は――ただ一人になりたいだけなのだろうか。
 いつもよりかなり早く今日の演奏を終わることにし、ギターをケースに片付け始める。
「あれ、もうやめちゃうの?」
「あんまり興が乗らないからね。こういう日はだらだらやるよりスパッと止めることにしてるんだ」
「ふぅん」
 ギターを専用の布で拭き、3弦と4弦だけ緩めてケースにしまう。先ほどまで足を止めていた人たちも、演奏を止めるのを見て取るとすぐにどこかへ消えてしまっていた。こうした反応はいつものことなので、気にもならない。むしろ演奏が終わってもまとわりついてくるアキのような奴の方がアレであり、レアなのだ。
 ふとアキを見上げると、何か思いついたようにニンマリと笑っていた。
「これからヒマなんでしょ?」
「ああ、まぁね」
 明日は仕事もない。
 友達も少なく、これといった趣味も無い秋原には、彼女の誘いを断る理由は無かった。

 向かった先は、どこにでもある居酒屋のチェーン店。ギターケースを担いだ秋原を先導するようにアキは店員の案内も無視してずんずんと歩き、テレビの前のカウンター席に陣取った。ギターの置き場所に困っている秋原を尻目に勝手に生大やら枝豆やらなんやらかんやら頼んでいる。注文するより前に、財布の中身の心配をしている自分に、秋原は苦笑する。
 時計の短針はちょうど八時を指している。飲み始めてようやく場が盛り上がりだす時間帯なのか、客の笑い声や忙しく歩き回る店員の足音で店の中は大した喧騒だ。
「はーい、かんぱーいっ!」
 黄金色の泡汁(ビールとも言う)がなみなみと注がれたジョッキをカチンと合わせ、ぐいぐい飲む。ぐいぐいぐいぐい……
 ジョッキ内容量を半分ぐらいまでに減らし、がたんと音を立てて置き、アキを見る。
「…………」
 ぷはーっ、とか言いながらアキのジョッキにはもう中身が入っていない。
 嘘だろ、だって生大だぜ、生大。生中ならともかく……
 目を真ん丸くして見つめる秋原には目もくれずに「すみませーん! 生大2つ!」とか言ってるアキは、間違いなく酒豪だ。
「アレ、ナオ君まだ半分くらいしか飲んでないよ? 早く飲んじゃって飲んじゃって。次のもう頼んじゃったから」
「いや無理でしょ……それにナオ君言うな」
「早く早くっ! それともコールかけてあげよっか? わたし一人だけど」
「阿呆な大学生みたいな飲み方だね。そして人の話聞いてないね」
 おまたせしましたー、と営業スマイルも浮かべられない店員がどすんと秋原とアキの前に生大を2つ置いていった。アキは嬉々としてまたそれに取り掛かる。
 秋原とアキは色々な話をした。政治のこと、好きな異性のタイプのこと、通の焼酎の飲み方、村上春樹はノーベル文学賞を獲れるかどうか、など、など。
 アキは時折ちらちらと目の前のテレビに目線を移した。場末の居酒屋にふさわしく、映しているのはプロ野球だ。どこ対どこかもよく分からないが、まだ零対零のようだ。投手戦というやつなのだろうか。
「野球、好きなの?」
 好奇心から秋原が聞くと、アキは「ううん」と首を横に振った。
「野球なんてよくわかんない。ルール、難しいもん」
「でも、見てるじゃん」
「野球なんか見てないよ。わたしが見てるのは、アカボシ」
「アカボシ?」
 一瞬誰のことか分からなかったが、食い入るようにテレビを見つめるアキの視線を追って、その選手を見つけた。
「赤星か」
「そ、アカボシ」
 アキの野球についての知識は、その単語しかないようだった。
 粘る赤星に業を煮やしたピッチャーは内角に鋭い球を投げる。素人目にも早いと分かるボールだったが、赤星は怯まず打ち返し、センター前のヒット。
 隣には「やったやった」と手を叩いて喜ぶアキの姿がある。
「なんで赤星が好きなの?」
 アキは答えない。
 テレビ画面を凝視しているように見えて、他の所に意識が飛んでいるように見えた。秋原はそんな彼女の様子を見て、聞いちゃいけなかったかな、と後悔しかけた。
 赤星がリードを取る。
 アキが不意に口を開いた。
「アカボシはね」
「うん?」
 ピッチャーが牽制球を投げる。赤星はリードなど取っていなかったような機敏さでベースに戻る。
「走る姿が凄くかっこいいの。あの、盗塁って言うんでしょ? それをする時のアカボシなんかもう、最高」
 思い出すようにアキが言った。
 そんなものかもしれない、と秋原は思った。
 何せ赤星は盗塁王だ。盗塁の王様だ。王様の姿は、気高く、凛々しい。一般人などは到底届かない高みにいる特別な存在だ。
 秋原は言い知れぬ想いに胸を痛めた。
「じゃあ、今はチャンスだ」
「そう、チャンスなの」

 走れ、アカボシ!

 彼女は言った。
 だが願い叶わず、赤星が塁を盗む前に打者が三振に倒れた。
「あーぁ」
 アキは途端に興味を失くしたかのように目線をテレビからジョッキへと移す。
「アカボシもさ、走っちゃえばいいのに。折角塁に出たんだからさ。そうじゃなきゃ、面白くないよ」
 ぐいっとビールを呷った。
「でも、作戦とかあるんじゃないの? チームとしての戦い方とか、バッターの集中力を乱したらいけない、とかさ。いくら赤星だって、いつもかも自分勝手に盗塁ばっかするわけにはいかないだろ」
 えー、とアキは不満そうな声を漏らす。
「自分の好きに出来ないなんて、野球ってつまんないね」
「好きなようには出来ないかもしれないけどさ、なんつーかチームで勝つってのがいいんじゃないの? ほら、やっぱ一人じゃ出来ないスポーツだしさ。みんなのために、チームのために頑張るっていうの、なんか青春な感じじゃん」
 秋原はそんなことを言いながら、内心はアキの意見に共感を覚えた。
 自分のエゴを必死に押し殺して、自分が所属する団体の勝利に貢献するのは、確かに素晴らしいことなのかもしれない。だけど、そのチームの勝利が、そこに所属する個人の勝利とのイコール関係にあるのかと言えば、必ずしもそうではない。
 いくら日本一になろうが、その年に戦力外通告を食らってしまってはどうしようもない。要するに、お前がいなくてもこのチームは日本一になれたんだよ、と言われるのと同じ事だから。いつだって『お前はいらない』と言われる可能性はある。それに抗うために、選手は必死でチームに尽くす。
 俺は――嫌だ。
 どうせ必要とされないのなら、自分の思う通りにやらせてほしい。その結果『お前はいらない』と言われようと、自分の考えや信念に殉じるのだから、それでいいじゃないか。
「わたしは、嫌だな」
 内心を見透かされたような言葉に、秋原は戸惑った。
「だって、自分のためにやんなきゃ、やだよ。他人のためとか、チームのためなんてよくわかんない。やっぱり、自分が気持ちいいことしないと、気持ちよくなれないじゃない?」
 そう言って、こちらを見つめるアキは、やけに妖艶だった。濡れた唇がカウンターの電灯を反射して、秋原の目を眩ませた。いつも以上に摂取したアルコールのせいか、頭がくらくらした。
 吸い寄せられるように、キスをした。
 既に6杯の生大を飲み干した彼女の唇は、ビールの味がしてやけに苦かった。

 その日は、結局何も無く別れた。
 ギターケースの肩紐が肩に食い込んで痛い。その痛みは、秋原に彼女の唇の感触を何度でも思い出させた。

 数日後。
 秋原は、アキが知らない男にしがみ付いて泣いているのを見た。
 秋原はその日も歌っていた。
 アキは秋原と目が合うと、すぐに目を逸らした。



3.

 俺が路上で歌い始めたのはいつのことだったろう、と秋原は考える。
 中学で、ギターに憧れた頃だっただろうか。高校で、初めてオリジナル曲を作った頃だっただろうか。大学で、初めてライブハウスに出演した頃だっただろうか。
 駅前の雑踏の中でたった一人で歌い続けることが、当たり前のことになり、普通のことになり、いつの間にか空気を吸うように無意識の中で出来るようになった。
 それはいつのことだっただろうと、秋原は考える。
 秋原が歌っている日も、歌っていない日も、変わらずに雑踏は流れ続ける。いつも変わらないのに、全く同一になることは二度とない。
 時間は戻らない。
 昨日と同じ日は永遠に来ない。
 なのに秋原は自分の中の時間の流れをせき止めて、来る日も来る日も歌い続けた。
 なぜって、それは秋原にとっての空気だったからだ。
 空気を吸わない人間は、生きられない。

 そして秋原は今日もまた歌い始めた。
 雑踏は秋原をよけるように流れを変える。そんなのも見慣れた光景だ。最新の流行歌を歌うと、そのアーティストのファンらしき人間は足を止めるが、その後すぐにオリジナルを歌うと足早に去っていく。古い歌を歌うと50代くらいの酔っ払ったおじさんが「おおいいねぇ懐かしいねぇ」などと話しかけてくるが、やはりその後でオリジナルを歌えば去っていく。
 ――俺は一体何なんだろう。
 空気と同化しながら秋原は思った。
 誰かに必要とされたいと思う。愛されたいと思う。そして、そんな価値は自分には無いと悟り、こうして一人で空気となって歌い続けている。誰かに必要とされるには、愛されるためには、まず自分が他人を必要とし、愛さなくてはならないのに。
 そんな当たり前から目を逸らして、秋原は一人で今日まで歌い続けた。
 雑踏は人ごみでごった返している。でも、誰もいない。
 秋原は、一人だった。
 そして今日も、歌い続けている間に終電が終わった。荒い息をついて蹲る。膝を抱えて頭を埋めて、このまま眠ってしまいたいと思う。その上に雪が降り積もり、醜い自分を覆い隠してしまえばいい。雪がとけて川になり、やがて海に流れ着きたい、と思った。
「風邪、ひいちゃうよ」
 頭の上から降ってきた声に、秋原は身を強張らせる。
 一番会いたくない相手だった。



「はい、これでも飲みなよ」
 秋原は差し出された缶コーヒーを手にとって、まじまじと見つめる。ホットで乳飲料と表示がある。甘ったるくてかなわないやつだ。
「金、払おうか」
「いいよ。わたしのおごり」
 プルタブを引っ張る。かしゅっと音を立てて湯気が上がる。
「ふぅ」
「美味しい?」
「甘い」
「甘いのは嫌い?」
「うん」
「そっか、ごめんね」
「でも、あったかいから、いいよ」
 両手で包むように握りしめると、スチール製の缶の表面からじんわりと熱が伝わってくる。よくよく隣を見れば、アキは缶を開けずにただ手の中で弄んでいるだけだった。
「タイガース、負けちゃったね」
 不意にアキが口を開いた。
「あ、そうなの」
「もしかして、知らなかった?」
「だって試合が始まる前から歌い始めて、試合が終わってからもまだ歌ってたんだぜ。知るわけないよ……そうか、負けたか、タイガース」
「うん。アカボシ、負けちゃった」
「あのさ、前も言おうと思ったんだけどさ」
 前に居酒屋でアキに言おう言おうと思って有耶無耶にしてしまった指摘があった。
「赤星って、正しくは『アカホシ』だぜ。『アカボシ』じゃないんだ」
 それを言うと、アキはムッとしたような、ぶすくれたような、不満げな顔になった。
「知ってるよ、それくらい」
 知ってて言ってたのか。
 そう口に出そうとした所で秋原は止まる。
「だって」
 アキは女の顔をしていた。何も知らない子供の顔じゃない、女としての喜びを知って、それを失う痛みまで経験した、大人の女の顔。アキのこんな顔を見るのは、秋原にとってこれで二度目だった。
「あの人が――そう呼んでたんだもん」
 まだある程度の熱を保ったままの缶コーヒーを飲む。甘いばかりのはずの缶コーヒーはやけにスチールの鉄の味がして、後味が悪かった。コーヒーの苦味とは違った、鉄の味。
「わたし、不倫してるの」
 前に歌っている時に見かけた、雑踏の中のアキと男の姿が思い浮かぶ。
「わたしが行ってた会社の役員で、偉くて、貴方と同じ煙草を吸ってて、お金を沢山持ってて、でも全然優しくなくて、セックスばかりやたら上手くて、そのくせ奥さんとの間に子供がいなくて、タイガースのアカボシのファンで」
 そんなこともあるのかもしれない、と思っていた。
「あの人と一緒によく野球を見たの。あの人の奥さんは一緒に野球を見てくれないらしくて、一緒に見てくれるわたしはいい女だ、なんて言ってたわ。わたしだって野球は全然わかんないから、別に面白くもなんともないけど、でもあの人と一緒にいたかったから」
 どんどんと彼女の幼い雰囲気が消えていき、代わりに疲れた女の顔がのぞいた。受けた傷を癒す事もせずに、ただ自分以外の何かのために傷ついていく、彼女。
「あの人、阪神の試合しか見ないの。それでアカボシのファンで、よく『俺とアカボシは同郷なんだ』って自慢してたわ。わたしは、あの人がどこの出身かなんて知らないから、アカボシがどこで生まれたかなんて、知らないけど」
 秋原は、赤星がどこで生まれたか知っていた。知りながら、黙っていた。
「アカボシは凄く速く走ったわ。人間が走る姿があんなにも綺麗だなんて、わたし知らなかった。自分の体力の限界まで走るのなんて、わたし嫌いだから、走ってる奴なんて全員下らない奴なんだって子供の頃から思ってた」
 ぽつりぽつりと涙が溢れてきた。溢れた涙は川となって、彼女が両手に握り締めた缶コーヒーを濡らした。
「でもアカボシは違ってた。あの人が言うように綺麗でかっこ良かった。
 ううん、やっぱり違う。わたし、あの人が綺麗だって言うから、アカボシの事好きになったの。あの人がかっこいいって言うから、わたしもアカボシのことかっこいいって思ったの。わたしはアカボシのことなんて、どうでもいいの。あの人が、いいって言うから。あの人が、かっこいいって言うから……でもね、アカボシが走るのは、やっぱりかっこいいの」
 アキは、遠かった。
 あの日触れた唇はもう輝いてはいなかった。居酒屋の安い電灯を反射してもなお輝いていた彼女の唇は、月光の下でくすんでいた。
 それでも、目の前で身を切るように話すアキを、秋原は愛しいと思った。
「わたし、この前、あの人の子供を堕ろしたの」
 ぽつり、と感情を押し殺した声色で、アキは言った。
「あの人の言う通りにして、わたしはあの人の子供を殺したわ。取り出したのはお医者さんだし、決断を下したのはあの人だけど、殺したのはわたし。それだけは、確かなの」
 耐え切れなくなって、秋原は目を伏せた。
「手術の時って全身に麻酔をかけるから、もう辺りがぼんやりとしてて、でもなんだか頭のどこかははっきりと目覚めてるの。その時、分かったの。
 わたしは生まれるはずだった一つの命を、煙草をもみ消すみたいに、無慈悲に踏み潰したんだって。
 あの子は笑う事も、泣く事も、歌う事も、愛する事も知らなかったのに」
 アキは歪んだ表情で、秋原の方に向き直った。その目にはもう涙はない。頬に伝った涙の跡だけが、彼女が涙を知っていたことの証だった。
「別にその事はもういいの。もう終わってしまったことだから。もう終わってしまったものは、元には戻せないでしょ? でも、あの人は――」
 歪んでいるのに、綺麗だと思ってしまうのは、おかしいことなのだろうか。
「わたしね……貴方のことは、前々から良いなって思ってたの」
「――え?」
「初めて見たのは、あの人と一緒に歩いてる時だったわ。貴方は人ごみの中で押しつぶされそうになりながら、それでも一人で歌ってた。周りにはもっと上手い人や、もっと上手く観客を集めている人がいた。でも貴方はどうしようもなく一人だった。
 わたしには、貴方が自分をすり減らして必死で闘っているのが、切なくて、凄く良かったの。
 わたしはあの人に『少し聞いていかない?』って言ったわ。でもあの人は『あんなのは社会のゴミだ』ってスタスタ歩いて行っちゃった。しょうがないから、その時はわたしも貴方に声を掛けられなかった。でも良いと思ったの。本当だよ?」

 ――それはきっと、君と俺が似ているからだろう。

 秋原は他人のために歌わない。
 アキだって、そうだ。
 でもアキは、それでも他人を必要とするだろう。
 なぜならアキは、自分が生きていくのに他人を愛し愛されることが必要だってことを、どうしようもなく理解しているからだ。
 それによってどれだけ自分が傷つき傷つけられても――だ。
 闘っている。
 アキは、闘っている。

「闘っているのは――君の方じゃないか。俺は、ただ逃げてるだけだ」
「そんなことない。わたしなんて、ただ愚かなだけ」
「そんなことない」
「そんなことないよ」
 どうしようもなく自分がピエロと化しているのを自覚しつつ、秋原は笑った。月明かりがいつもの広場を照らしていた。電灯にたかる蛾が、月光を一身に浴びて輝いている。広場に散らかるゴミの山だけが、二人を知っていた。
 アカボシを綺麗だと言った彼女の気持ちが分かる気がした。確かに、綺麗だ。美しく走るには、自分達は余計な物を身につけ過ぎた。
「歌うよ。俺にはそれしか出来ない」
「え?」
「勘違いしないで欲しい。俺は自分が歌いたいから、歌う。今まで他の誰かのために歌ったことなんて一度だって無い。これからだってそうだ」
「うん」
「だから、今から歌うのだって、絶対に君のためなんかじゃ――無い」
「うんっ――」

 秋原は、歌った。
 喉はとうに枯れ果てていて、しゃがれた声が広場に響き渡った。ギターを持つ手は震えていて、まともなリズムなど刻めない。ピックなど、途中で取り落とした。しょうがないから人差し指で弦を弾いた。伸びすぎた人差し指の爪は欠け、血が滲み出しているだろう。
 しょうがない。
 俺達は――闘っているのだから。
 血が流れるのくらいは、しょうがないことなんだ。

 歌声は月下に響いた。
 アカボシは今年の盗塁王を獲れるのかどうかが、なぜか気になった。



4.

 2006年のプロ野球の覇者が決まった日も、秋原はいつものように駅前の広場で歌っていた。

 例え、内閣総理大臣が変わろうが、半島の北側の国が核実験をしようが、この地方のプロ野球チームが今年の日本シリーズで計4回目の負けを喫しようが秋原には関係ない。秋原に出来るのは、歌うことだけだから。

 アキはいつの間にか秋原の路上に顔を出さなくなった。あの夜の後もちょこちょことは顔を出していたのだが、いつ頃からか1週間おきになり、2週間おきになり、今週でちょうど1ヶ月になった。秋原はそのことについて思う所は特に無い。来たければ来ればいいし、来たくなければ来なければいい。通行人が足を止める感覚であるならばそれで構わない、と秋原は思っている。たまに来て、前以上の元気な顔を見せてくれるなら、あいつは今も元気でやってるんだと思うことが出来る。それでいい。
 きっとアキと自分は、通り過ぎる通行人と、名も無きストリートミュージシャン。そんな関係で、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。寂しい時、一人ではどうにもならない時、心で寄り添える歌うたいであればいい。
 あの夜、秋原には歌うことしか出来なかったように、人が人にしてあげられることなど、ほんの小指の先ほどもないのだから。

 北風がかなり冷たくなってきた。夏の香りが行ってしまったと思ったら、すぐに秋が来て、冬が来る。本当に世間は慌しい。
 今日も雑踏は哀しいくらいに無関心だ。だけど、秋原はそれでいい、と思っている。昔も、今も、これからも、秋原は他人のために歌わない。いつだって、自分のために歌うのだから。

 一つの曲が終わる。
 しかし、それは秋原にとって、また新しい曲の始まりでしかない。

 目の前を通りすがる親子連れ。何が可笑しかったのか、その子供のほうがこちらを見て、にっこりと微笑んでいる。
 秋原には、それで充分だった。
 自分の耳を頼りにチューニングをして、ピックでボディを叩いてカウントを取る。唸るように歌いだす。
 笑っていた。

 2006年、阪神の赤い彗星・赤星憲広は入団以来始めて盗塁王を逃した。
 しかし、それも始まりにしか過ぎないことを、秋原は知っていた。




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