彼は暗い部屋の中で、捨てられた子猫のようにぶるぶると震えていた。
 そんな彼を見た美夜の頭に浮かんできたのはサディスティックな嗜虐心でもなければ、母性本能による庇護欲でもなく、慣れ親しみすぎた『仕事』に対する嫌悪感だった。

 ――まったく、嫌になるなぁ。

 美夜はこの手の『仕事』を持ってくる奴らを心底下種野郎だと思っている。
 この少年が一体何をしたというのか。

 記憶ごと『心』を削り取られなければいけないような何かを、この少年がしたというのか。

 しかし、これも『仕事』である。
 この仕事を続けている限り美夜は衣食住に不自由をすることはないし、この掃き溜めのような街で20そこそこの小娘一人でも安全に暮らしていけるのだ。
 美夜に選択の余地はない。

「さぁ、アンタ達、出て行って。済んだら連絡するわ」

 美夜の声の調子は自分で思った以上に冷たいものになった。黒服の男達は慇懃無礼な態度でいそいそとドアから出て行く。
 最後の一人が、改めて美夜に向き直った。

「本当に大丈夫なんだろうな? 彼の記憶を『消す』ことが出来なければ我々は――」
「誰に言ってんのよ。大船に乗ったつもりでいなさい」

 これは失礼した、と男は今度こそこの冷たい地下室のドアから姿を消した。
 残されたのは美夜と、この哀れな少年のみ。

 美夜は改めてこの少年を観察する。
 年は大体13か14くらい。痩せた腕、痩せた足、その肌は酷く白い。病的とまでは言わないが、間違いなく不健康な白だ。顔は普通にしていれば十分美少年と言っても通る顔立ち。怯えてはいるがその瞳は未だ輝きを失ってはいない。意外と芯は強い少年なのかもしれない。
 心が痛む。
 しかし痛む心を見て見ぬ振りをする術を、美夜はこれまでの暮らしの中で十分に体得していた。
 美夜は、美夜にしかない特別な『力』を込めた右手を少年の頭にそっと添える。

「――それで? アンタ、名前は?」

 美夜は極めて感情を抑えた声で静かに尋ねる。
 少年はその輝きを失わない瞳で美夜を真っ直ぐに見据えながらおずおずと口を開いた。

「――クウ。空って書いて、クウ」

 これが、美夜と心の無い少年の、初めての出会いだった。







心の無い少年と、美しい夜。







 電話口から殺気立った声が聞こえてくる。
 曰く、契約違反だの、とんだ期待外れだの、詐欺師金返せだの。

「うるさい。わかった。こっちも色々と試してみるから、原因が分かるまであの子こちらで預かるから、よろしく。ああ、別にあの子をホイホイ外に出したりはしないから、それはご心配なく」

 親の仇かと思うほどに力一杯通話終了のボタンを押した。

 ――まったく、あの外道共が。

 美夜は苛立ちから頭の中で罵詈雑言を依頼者に投げつけるが、彼らの文句がある程度正当なものであることを美夜自身が一番良く知っているので、苛立ちはさらにつのるばかりだ。
 しかし、こればかりは美夜にもどうしようもない。
 こんな事態は美夜にとっても初めてなのだ。

「あ、美夜さん。おはよう」

 問題の少年クウが今起きましたと言わんばかりの様子で戸口から現れる。
 その怒りをぶつけようのない彼の顔に毒気を抜かれた美夜は溜息をつきながら朝食の準備をすることにした。


 美夜は、相手に触れることで、その人間の『心』を読み取ることが出来る。
 『心』とは形が無いようで、形のあるもの。その形を取り出しさえすれば、それを『読み取る』のも、自由に『書き換える』のも、それを『破壊する』のも、全て美夜の自由になる。それが、美夜の持つ特殊能力。
 美夜はこの力を使って様々な『仕事』をこなしてきた。
 裏の仕事で一番多いパターンなのが昨夜のように何らかの事件の目撃者の記憶を消すこと。
 人の記憶を消すのは簡単なことではない。その人間の『心』に触れ、問題の記憶がどの辺りにあるのか見当をつけ、一気に削り取る。狙った記憶だけを消すなどという器用なことは美夜には出来ない。問題の記憶と一緒に他の部分まで削り取ることも多々あった。しかし依頼をしくじったことはこれまで一度もなかった。

「美夜さん。おいしい」

 美夜の目の前で平然と朝飯を掻き込む少年クウを除いては。
 美夜にとってこんな人間は初めてだった。

 取り出されるべき『心』、それ自体が存在しない人間などというのは。

 美夜は物心つく頃から無意識にこの力を使っていた。美夜にとって『心』の読めない人間などというのはこれまで一人だって存在しなかったのだ。
 両親、兄弟、先生、友人。
 誰一人として例外はいなかった。

 そして、その誰もが心のどこかに醜い部分を隠し持っていた。

 だから美夜は全てを捨てて、この掃き溜めのような街で一人で生きる道を選んだ。美夜自身そのことについては自覚的ではない。しかし、美夜が無意識のうちに自分の知っている人間、自分を知っている人間がどこにもいない所に行きたいと思い、それを実行したのは確かなのだ。
 その望み通り、美夜は今もこの街で、一人で生きている。
 そして、死ぬ時ですら自分は一人なのだろうと美夜は漠然と感じていた。

「あれ、美夜さん? どうしたの?」

 クウの言葉に美夜ははっと我に返る。
 どうやら、どうでもいいことまで思い出していたらしい。
 美夜は首を振って余計な考えを脇に捨てた。

 ――思考を元に戻そう。

 問題は、この少年。
 普通に話せる点や記憶障害があるわけでもない点を考慮しても、きっと心がないわけではないだろう。生きている人間なら、必ず心はある。問題はそれを掴み取って来れるかどうかなのだ。
 美夜は昨夜の失敗を、自分の能力の不調のせいと考えることにした。
 失敗すれば、自分はこの街でこの仕事を続けることは出来なくなる。それは美夜にとって生きていけなくなるのと同義だった。

 ――絶対アンタの心を掴みだしてみせる。

 決意を固めた美夜を、クウは不思議そうに見ていた。

   ∞∞∞

 2週間が過ぎた。
 美夜は相変わらずクウの『心』を掴み取ってくることが出来ずにいる。それは美夜とクウの共同生活が2週間ずっと続けられていることを意味していた。連れて来られてすぐのクウは見ていて可哀相になるほどに怯えていたが、互いに自己紹介を済ませるとクウは美夜を優しい人と思ったのか、段々と落ち着いた顔を見せるようになっていった。
 クウのことについては名前以上のことは聞かなかった。彼が見たものや彼の素性など、名前以上のことは自分で『読み取る』つもりでいたし、クウも自分のことは何も話そうとはしなかった。そしてクウも美夜について名前以上のことは聞いてこなかった。互いのことに深く踏み込まないのが二人の間の暗黙の了解になっているようだった。

 美夜は生まれて初めて相手のことを『知る』努力をした。
 小さい時から、美夜は何をしなくてもただ相手に触れるだけでその人間の大半のことを知ることが出来た。どんな人間で、どんなことを考えていて、どんなことをしようとしているか。ただ触れるだけで、美夜はその全てを理解した。
 しかし美夜の前に現れた、ただ一人の例外、クウ。
 自分が、理解出来ない人間がいる。
 それは決して悪い気分じゃなかった。


 普段クウはあまり自己主張をしないが、2週間の間に一度だけ自分の希望を告げたことがあった。

「美夜さん、この家で何か生き物を飼えない?」
「へ? クウ、アンタいきなりどうしたのよ?」
「だって美夜さん、昼間はいつも仕事でいなくなっちゃうじゃないか。この家で一人残されるのは結構寂しいんだよ」

 美夜は考えた末、仕事帰りに寄ったペットショップで小さな子猫を買った。
 明日にはいなくなるかもしれないクウのために買うには些か高い買い物かもしれないとは思ったが、ちょうど自分も何か飼いたいと思っていたところだったので、まぁいいかと美夜は自分を納得させる。
 買ってきた子猫をクウに見せてやると、クウは盆と正月が30回くらい来たように盛大に喜んだ。

「ありがとう美夜さん! 僕、大事にするよ!」

 クウの笑顔を見て、美夜はこの子猫を買って良かったな、と思った。
 美夜にとって、こんなに幸せになれた買い物は生まれて初めてだった。
 子猫の名前には二人して頭を悩ませたが、結局『カイ』という名前に決まった。カイは『海』と書いてカイ。クウが主張した名前は、どこか彼の名前と似ていて、微笑ましいような、むずがゆいような、なんとも不思議な気持ちにさせられた。
 クウは嬉しそうに「カイ、カイ」と言いながらじゃれ合っている。美夜はその様子を満足そうに眺めた後、いつものように夕食の準備に取り掛かった。
 じゃれ合いながらクウがふと浮かべた寂しげな瞳を、美夜は知らない。


「クウ」
「何? 美夜さん」

 美夜はクウの名前を呼んでしまってから後悔した。特に用事などはなく、ただ何となく呼んでしまっただけ。美夜は苦し紛れに前から聞いてみたかった疑問を口に出した。

「アンタ、家族は? 前はどこにいたのよ?」

 暗黙の了解を自ら破った美夜に罪悪感はない。事実、美夜はもうクウの心を探し出す作業を半分諦めていた。分からないことは聞いてみる。それが自然なはずだ、と美夜は自分を納得させる。クウとこうして暮らしているのに、『力』を使ってクウのことを探るなどという行為は、クウに対して失礼じゃないかと思うようになった。

 その質問を聞いたクウは不自然なほどに無表情になった。
 そして、

「それは、言えない」

 有無を言わせぬ口調だった。
 美夜はそんなクウに気圧されるように「そう」と言うしかなかった。
 しばらくの沈黙の後、クウは立ち上がった。

「もう寝るよ」
「そう。おやすみ」

 自分の部屋へ歩いていくクウと、その後をトコトコトコと追うカイ。
 美夜は取り残されたような気持ちになって、寝室に向かうクウを目で追った。

「……クウ?」

 クウはドアの前で立ち止まり、こちらを向いて笑っている。

「僕の家族は美夜さんとカイだけだよ」
「え?」
「おやすみ」

 ドアを開けて出て行くクウと、それについていくカイ。
 美夜はしばらく後に自分の頬が赤く上気しているのに気づいて、何だか負けたような気持ちになった。


「それで、まだなのか」

 電話口の男の声が日を追うごとに殺気だってきているのがわかる。
 最近直接触れなくても他人の気持ちがわかるようになってきたのは、もしかしたらクウのおかげなのかもしれない。
 美夜は男の声を聞きながら他人事のように考えていた。
 もう少しだけ、待ってほしい。
 そう告げると男は「これ以上は待てないからな」と捨て台詞を吐いて一方的に電話を切った。

 美夜は連絡用に使っている携帯を脇に置いて大きな溜息を吐いた。
 クウは一つ上の部屋でもう眠ってしまっている。依頼者との定時連絡はクウが眠ってしまった後にしかしないようにしていた。クウに、クウを拉致した張本人である彼らとの話を聞かせたくないという配慮だ。

 ――おかしい。

 美夜は自分が明らかに変化しているのを感じた。
 以前の自分ならこんな風に他人のことを配慮することなんてなかった。そんなことをする必要性なんて、これっぽっちも感じたことはなかったはずだ。

 美夜は忍び足でクウにあてがっている部屋に向かい、静かにドアを開ける。
 クウは余った布団をぞんざいに敷いて、子猫のカイと一緒に雑魚寝している。
 だらしなく腹を出して、気持ち良さそうに。
 美夜はそっと布団をかけなおして静かにクウの部屋を出た。
 その顔には、美夜自身も気づかないほどの僅かな微笑が浮かんでいた。


 これまでに経験したことがないような温かい生活が続いた。  そして、クウが美夜の家に来て1ヶ月が経った頃。  突然の来訪者がその平穏を壊す。













クウは殺されて、どこかの山中に埋められた。













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