ほんの一週間前までの夏のような暑さも最早過去の話で、街も人も節操もなく次の季節の準備を始めたようだ。
秋が来て、冬。そして春。季節はくるくると回る。
ふと通りがかった公園の隅で、打ち捨てられた夏の置き土産を見つけた。落とし主が現れるまで布に包んで小箱に入れて大切にしまっておかなければと思わせるほどに綺麗な蝉の抜け殻。こんな季節はずれに、身を守る物であるはずの殻を脱ぎ捨てた彼にしばし思いを馳せた。
季節が通り過ぎる時、どうしてその残り香を全て連れて行ってくれないのだろうか。自分で連れてきた物ならば、自分で責任を持って連れて帰るのが最低限のマナーじゃないのか。置き去りにされた方はたまったものじゃない。訳も分からず連れて来られたこの街で置いてけぼりをくらって忘れられ、後は人知れず路傍で朽ちていくだけだ。
街を往く人々はそんな哀れな夏の遺物に一瞥だってくれやしない。つい最近まで散々ちやほやしたのは自分たちじゃないか。そんなことさえ、忘れてしまったのか。
僕にはその抜け殻が泣いているように見えた。
『ぼくを忘れてしまわないで』と。
だけどそんな泣き言を彼はけして口にしない。
僕は何も見なかったかのようにあっさりと歩き出す。過去のことにしようとしている自分の背中に突き刺さるのは自分自身の罪悪感だけだ。振り切るようにして歩く。
分かっている。
落とし主は、来ない。
何も入っていないポケットに、何も掴んでいない両手をつっこんで歩いた。別にカイロを入れているわけでもなく、温かくも何ともない。
線路を上空から横断する陸橋に差し掛かる。そのすぐ傍は大きな駅がある。学校も終わり、会社も終わったというこの時間。昼と夜の中間点。この辺りが一番活気付くのは、太陽が自らの血で赤く染まるこの時間帯だ。
陸橋のど真ん中、アーチの一番高いところで立ち止まった。空を見上げると、そこには青と赤と果てしない闇。そのグラデーションはこの世の物とは思えないほどに美しく、思わず溜息を漏らす。
辺りには相変わらず雑踏特有の騒がしさが溢れている。
僕は、一人だ。きっとあいつと同じように。
下を見た。
人間を詰め込めるだけ詰め込んだ電車が唸りを上げてホームに滑り込んでくる。その圧力とも呼べない暴力を、出来るだけ無表情を装って眺めた。
この時間。
この場所。
この瞬間。
あいつはその身を奈落へと投げ出したのだ。
ようやく頭上を暗黒が覆いだした頃に吹いた秋の風が、足下の枯れかけた花を無情に散らした。
ぼく、さきにいきます。
教室の喧騒を鎮めるのは、いつだって教師が開く扉の音だ。
ほら早く席に着け、と自らも遅刻して教室に来た教師が急かす。しょうがなく自分の席へと戻っていく級友たち。僕はいつものように、読んでいた本を机の中にしまう動作だけで済んだ。会話を交わす相手もいないほどに孤立してはいないが、あえて会話を交わすべき相手が見当たらないのも事実だった。
いや、いるとすれば、ただ一人。
僕の席から数えて右に4、後ろに1つの席をちらりと見やる。世話好きな女の学級委員が毎朝水を入れ替えているせいか、供えられた花は未だ瑞々しさを失ってはいない。
しかし、それもいつまで続くか。
結局、早いか遅いかでしかないのだ、と思う。
あいつの名前は倉橋という。2週間前、ちょうど夏がこの街から去っていく準備を始めた頃、あいつは駅の手前の陸橋から走ってくる電車めがけてその身を投げた。タイミング良く突っ込んできた電車はなんのためらいもなく倉橋の身体を8つの肉片に変えた。
即死だったという。
僕はその翌朝、臨時に設けられた全校集会でそのことを知らされた。集まったマスコミ、黙祷、要領を得ない担任の訓示、どれもこれもがただぼんやりと過ぎていった。
倉橋と同じクラスだった僕は、その日の夜にクラスの連中とともに通夜に出席することになった。
自殺した倉橋とはただの級友というだけの間柄だった。僕と倉橋のうちのどちらかが突然いなくなったとしても、残った一方が生きていくのに何の支障もないことはわかりきっていたし、事実そうだった。そんな人間の通夜に出たって、噛み殺しきれない無数の欠伸と一人500円ずつの香典代が空しく消費されるだけだ。
見様見真似の作法で、正に形だけの焼香をする。僕は目を瞑って何事かを祈っている振りをしながら、上目遣いで彼の遺影を見た。
彼は笑っていた。しかし、笑いながらもどこか心の底から笑っていない事を感じさせた。どんなに笑っているように見えても、誰かに何かを与えることも誰かから何かを得ることも出来ない空疎な笑顔だ。
その遺影を見て、僕は初めて彼に興味と共感を持った。
焼香が終わると、周りではクラスの連中が何やら雑談を始めていた。中には雰囲気に負けて目を赤く腫れさせた女子もいたが、大半の連中はいつもの顔と何ら変わりない。下手すれば今から遊びにでも行きかねない様子だ。
僕はそんな級友達の輪から気付かれないようにそっと離れて、弔問客用の控え室で腰を落ち着けた。
別に場を弁えない連中に腹を立てたわけでもなく、単にその輪の中に入るのが億劫なだけだった。
座ってぼうっとしていると、喪服姿の女性にお茶を差し出された。
「あ、どうも」
軽く頭を下げながらその女性の顔を見ると、彼女はハッと何かに気付いたような顔をした。その表情を不審に思っていると、彼女が記帳の受付をしていた女性だということに思い当たった。
「あなたが、山本くん?」
「そうですけど」
きっと僕はお茶を差し出された時から怪訝な顔をしていたと思う。無意識に警戒心をたっぷりにじませた声で答えてしまう。
「倉橋知樹の母です」
ある程度は予想出来た名乗りだったので、特に動揺はしなかった。「山本和也です。今回はお悔やみ申し上げます」と、こちらも負けじと慇懃に礼をした。
「ちょっといいかしら」
どうやら彼女は僕に何かの用があったらしい。もちろん僕には何の心当たりも無かったが。
僕は彼女に誘われるままに葬儀の会場である倉橋の実家から少し離れた。
「本当はいけないと言われているんですけど」と言いながら彼女が差し出したのは一つの携帯電話だった。
受け取る。薄暗がりの中でオレンジに輝くディスプレイだけが浮かび上がる。
「あの子が」
不自然に言葉を切って俯く。
見ると彼女の前髪が少し震えている。
「飛び降りる前に地面に置いて、そのままになってたらしいんです」
メールの画面らしい。表示された本文は短い。僕は流れのままに送信先の名前を見る。
どくんと、一際大きな声で僕の心臓が鳴いた。
「そのメールを見て、何か思い当たることって、ありますか?」
「いいえ」
平静を装ったはずの僕の声。ちゃんと言えていたのだろうか。
「僕宛て、ですね」
ええ、と彼女はうな垂れるようにして頷いた。
そのメールは未送信というフォルダに収められていた。メールの件名の前にバツ印が付いていることから、おそらく圏外だったために送信に失敗したのだろうと僕は判断した。あいつが飛び降りた現場であるあの陸橋は確か少し電波の繋がりにくい場所で、機種によっては圏外になってしまう厄介な場所だ。
送信した時間は「17時36分」となっている。これが正しいなら、あいつは正に飛び降りる寸前に僕にメールを送ろうとした、ということになる。
「これが、あの子の残した最後の言葉」
歌うようなその言葉は、ぽたりと落ちる涙の音に遮られるほどにか細い。
「何一つ、不自由なんてさせてないつもりだったのに」
喪服に身を包んだ倉橋の母は袖で顔を隠すようにして、静かに嗚咽を漏らした。それほど目立つ外見をしていなかった倉橋に似て、取り立てて印象に残る所のないように見える彼女。おそらくその暮らしだって、一般的という枠からおよそ外れるものではなかったはずだ。
しかしあの日以来、彼女には目には見えない「我が子の自殺」という十字架が科されてしまった。もう彼女は望む望まざるに関わらず、その十字架を降ろす事は許されない。死ぬまで重すぎる十字架を背負って眠れぬ夜に歯を噛み締めるしかないのだ。
ほら、生きる事はこんなにも罪深い。
「このメール、受け取らせてもらって、いいですか?」
彼女はええ、ええと2回頷いた。
僕はそれを見届けて、素早く送信ボタンを押した。あの日倉橋が僕に送ることが出来なかったメールはいとも容易く送信され、脇に抱えたカバンにしまい込んだ携帯を軽快に震わせた。
その時受け取ったメールは、こんな文面だった。
『ごめん。ぼく、先にいきます』
日常的に交わされる友達同士のメールだとしたら、何の変哲もない。しかしこれは倉橋が死の間際で震える手を抑えるようにして打ったメールのはずだ。そこには途方もないほどの意志が込められていなければならない。
「先にいく」とは『先に逝く』という意味だろうか。遺書とするには少し簡潔すぎるがオーソドックスの範疇だ。しかし、生きる事への未練を全て断ち切るにしては明らかに簡素すぎる。
そして、思う。
なぜ、僕でなければならなかったのか、と。
∞ ∞
それからというもの、僕は暇さえあると倉橋のことを考えるようになった。あのメールのこと、遺影の笑顔のこと、そして何より倉橋の生き方そのものを、僕は事あるごとに考察した。もう死んでしまった人間の事を今になって必死に理解しようとしている僕を、倉橋は笑うだろうか。
僕に知る術は無い。
死が、影のようだった倉橋を浮かび上がらせている。
事実、数日間学校内は倉橋の話題で持ち切りになった。あいつはなぜ死んだのか、その理由は、原因は、本当に自殺だったのか、実は自殺は偽装でどこか他の国にでも誘拐されたのではないか、などなど。実に下らない、他愛もない妄想ばかりだった。
しかし、ある時気付いた。いつだってその手の雑談は他愛もない推論や妄想に終始して、それが尽きれば誰からとなく他の話題とすり替えてしまう。誰も彼との思い出話を語らないし、誰も彼の人柄を語らない。そして、それが不自然なことであることに、誰も気付かない。
1週間も経った頃、学校内で倉橋のことを口にする奴は誰もいなくなった。
結局、誰も「倉橋知樹」がどんな人間だったかを知らなかったということだろう。
きっと倉橋は誰とも傷つけず、傷つかず、心を寄せ合わせず、衝突せず、思い出を共有しなかった。結局の所「生きる」というのは人と人との間の摩擦に心をすり減らすことだというのに。
そんなことが生きている人間にとって果たして可能なことのかと考えた時、僕は初めて倉橋の生き方に戦慄を覚えた。
その結実として、倉橋は忘れられようとしている。
いなかったことに、なろうとしている。
それを以って、倉橋の死は完成する。
そんな気がした。
何の目的も無く街を彷徨った挙句、まるで吸い寄せられるように倉橋がその命を散らした陸橋へと辿り着いた。
そこから下を見る。目も眩むほどに高く、遠い。
動悸が激しくなる。呼吸が荒くなる。線路と電車と人が発する魔力に、たまらず僕は橋の内側へと倒れこんだ。
なぜこんなことをしているのか、自分でもよく分からなかった。こんなことをしたって、僕は倉橋にはなれない。ここで死を選んだ倉橋の理由なんて、永遠に誰も分からない。
僕は倉橋の生き方に戦慄を覚えるとともに、心のどこかで憧れのようなものを感じていた。あんなふうに生きれたら――と。
でも、それは間違いだった。
歯の根が噛み合わなくなったように僕はガチガチと震えていた。動悸は相変わらず激しく荒い息をついているにも関わらず、身体の芯から凍りつくように冷え切っていて、僕はたまらずに自分の身体を抱き締めた。
僕は、怖い。
死ぬのは別に怖くない。
でも、自分という存在が忘れ去られ、完全に「無かったこと」にされるのだけは、耐え切れないほどに怖かった。
今はもう奈落の底に沈んでしまった倉橋を思った。
もう倉橋は恐怖を感じることもないのだろうか、と。
「和也君? 何やってるの、こんなところで」
突然頭の上から響いた自分の名前に驚いて、慌てて上を仰ぎ見る。
「山本さん」
手に持った粗末な花束を風に揺らめかせ、僕のクラスの世話好き学級委員長は悠然とした態度で路上にへたりこんだ僕を見下ろしていた。
「ここの花も山本さんが?」
粗末な花をそのままその場所にぽんと置いて二人一緒に手を合わせた後に聞いてみた。教室の花の世話をするのは学級委員の仕事の一つだからいいが、それこそ教室外の花まで彼女が世話をするのは理屈に合わないように感じた。
「ううん。たまたま昨日ここを通ったらもう花が枯れちゃってたから、折角だし」
「やっぱり山本さんは、世話好きなんだね」と言うと、
「私はちゃんとしてないのが気に入らないだけよ」とぴしゃりと返されてしまった。
僕は普段の彼女の様子を思い出して「確かに」と深く頷いた。
「納得しすぎ」
「へいへい」
少し長めの沈黙が僕らの間に訪れた。僕は線路に背を向け、彼女は先ほどまでの僕のように線路を覗き込んでいた。
「結構、高いね」
「ああ」
「落ちたら、痛いだろうね」
「そう、だね」
はぁ、と深く息を吐いて彼女はくるり、と線路に背を向けた。
「やっぱり嫌なものだよね、人が死ぬって、さ」
僕は何も言わずに頷いた。
頷きながら、僕は倉橋のメールについてとある可能性を考えていた。
考えてみれば、実に単純でくだらない事ではあるけれど。
「山本さんはさ、倉橋とは仲良かったりした?」
「うーん、確か去年は同じクラスだったけど……でも、特に話したこともなかったし、それは今年も同じ」
「そっか」
「あ、でも」
彼女は思いついたように、手をぽんと打った。
「一回だけ、あるかも。倉橋君と話したこと」
「どんなことを?」
別に大したことじゃないんだけどね、と彼女は耳にかかった髪をかき上げながら話してくれた。
「私と倉橋君て、去年の学園祭の実行委員だったのね」
「うん」
「あれって準備するのはいいんだけど、片付けるのって凄く面倒くさくて大変でさ。でも、学校としても終わった次の日から授業始めなきゃいけないから、先生達も結構必死で片付けしたりするの。大半の人はすぐに帰っちゃうんだけどね」
そう言ったところで、彼女はその大半の人の一人である僕を見た。
少し申し訳ない気持ちになる。
彼女は気にせず、続けた。
「終わったら打ち上げもあるし、みんな必死になって片付けして何とか夕方の6時くらいには全部終わらせたのね。で、打ち上げに行こうってことになったんだけど、私は一人足りないのに気付いたの」
「それが……」
彼女は首肯する。
「そ、倉橋君。倉橋君の担当してた場所って地下の倉庫でさ、物凄く大変な場所だったの。そして、倉橋君って結構目立たないし自己主張しなかったじゃない? みんな倉橋君のこと忘れて打ち上げに行っちゃったのね」
「置いていったの?」
「もちろん私はすぐ戻ったわ。そしたら倉橋君まだ作業してるの。置いていかれたっていうのに別にどうでもよさそうな顔してさ。その時戻ってきた私に彼、何て言ったと思う?」
僕は首を横に振った。
「『僕のことはいいから、山本さんは早く皆に合流して』」
彼女はきっと倉橋の口調を真似て言ったのだろう。無機質な感じを出そうとして失敗したようだった。
「私、怒っちゃった。一体何様のつもりって。あんた一人でやってるわけじゃねぇんだよッて、思いっきりそのスカした顔ひっぱたいてやろうかと思ったわ」
叩かなかったけどね、と彼女は笑った。
「で、そこから二人で必死に片付けてさ。終わった時にはもう辺りは真っ暗。当然打ち上げもとっくに終わっちゃってて。でも」
「でも?」
「帰る時の倉橋君、なんか凄く嬉しそうでさ。私、倉橋君のあんな顔初めて見たから少しびっくりしちゃったけど」
そうか、と僕はすとんと憑き物が落ちたような気がした。
やっぱり倉橋は――間違えたんだ。
僕の名前は山本和也で、彼女の名前は山本和美。漢字で書けば一文字違いで二人とも同じく4文字。そして携帯のアドレス帳は設定を自分で変更しない限り、大抵は五十音順に人名が並ぶ。
僕は一応の確認のために、聞いてみることにした。
「山本さん、倉橋とはメールアドレスは交換したこと、ある?」
彼女は「どうだったかなぁ……」なんて言いながらカチカチと携帯を忙しく操作している。
「あ、あったあった!」
これで僕の確認作業はほとんど終わったと言ってもいい。今さら倉橋の家に行ってアドレス帳を確認する必要もない。
そんなことを思いながら、きっと倉橋の人生をある一部分では救ったであろう彼女を見た。
きっと倉橋は単純に嬉しかったんだ。
自分を忘れないでいてくれた彼女と、彼女の怒りが。
だから、死の間際でも律儀に彼女にメッセージを送ってしまった。その律儀さをもっと他の部分で発揮していれば、倉橋の人生はもっと違ったものになっていただろうにと思うとやり切れなかった。
「ねぇ、山本さん」
「ん、何?」
「死にたいって、思ったことないかな」
「そりゃ、あるわよ」
「やっぱり?」
「こんな息詰まりそうな社会で暮らしててさ、逃げ出したいって思ったこともないほど鈍感な人なんて、きっとそうはいないよ」
「だよね」
先ほど二人揃って手を合わせた花が、風で揺れている。しかし、前に見た枯れた花と違ってしばらく花びらは散りそうになかった。
「和也君」
「うん」
「死なないでよね」
「どうして」
「だって、和也君ってどことなく倉橋君と似てるもの」
彼女の目は笑っていなかった。
まっすぐに人の心に入ってきて、そのまま貫いてしまいそうな視線だ。
僕は、気圧された。
「……そうだね、そうかもしれない」
もう一つの可能性もあるのかもしれない、と僕は思った。
それは、倉橋は送信先を間違えていないという可能性。
もしも倉橋が僕から自分と同じ匂いを敏感に嗅ぎ取っていて、それを教えるために、僕に最初で最後のメールを送ったとしたら。それは先に耐え切れなくなった同類へ、謝罪と贖罪のメールへとその意味を変える。
『ぼくはもう駄目だけど、君は負けないで』
果たして真実はどこにあるのだろう。
僕には、それを確かめる術はない。
正解なんて、それこそ無数にあるのだろうから。
もう沈んでしまった太陽と、空を覆い出した夜。彼女が手に持っている携帯の明かりがその二つを交互に照らしている。
頼りなく左右に揺れながら。
「どうせ使わないんだし、倉橋君のアドレス消そうかなってさっきちょっとだけ思ったの。本当に、ちょっとだけ」
風のせいだろうか、彼女の身体が小刻みに震えているように見えた。
「でもね、消せないんだよ」
「うん」
「そりゃ、私と倉橋君はほとんど喋ったことないし、友達だったなんてとても言えない」
「うん」
「でも、やっぱりそんなに簡単に忘れられないよ。アドレス帳だったら簡単に消せるけど、本当に少しだけでも触れ合った人のこと、私はきっと忘れられない」
「うん」
「消したくても消せないアドレスがもう1件増えるなんて、私は絶対ごめんだからね」
そう言って彼女は静かに泣いた。
ともすれば、僕も泣いていたのかもしれない。
なぁ、倉橋よ。
お前の遺した十字架は、こんなところにもあるんだ。
それは、とても小さくて、ともすれば容易く消えてしまいそうに儚い物なのかもしれないけど。
それでも、確かにここにあるんだ。
十字架という名の――お前の生きた証が。
ほら、どうだ。
生きるって事は、こんなにも罪深いじゃないか。
ぽつりと、涙がまた一つ新しい雫になって僕らを支える頼りない陸橋に吸い込まれていった。
下の方ではまた新たな電車がホームに滑り込んだようだ。陸橋のかすかな震動がそれを僕らに教えていた。