準備はとうに済んでいた。むせかえるようなガソリンの匂い。時折、思い出したようにひぐらしが鳴く。あまりの不快に思わず目を逸らしそうになる。しかし、逸らした先にあるのも結局同じだった。いつかは薄れて消えてしまうもの。そんなものたちと、僕らは手を取り合って生きてきた。悲しくないはずがなかった。幸せでないはずがなかった。

 大きく息を吐き、僕は空を仰いだ。
 抜けるような青空が、そこにはある。

 もはや居ない誰かに向かって、僕は手の中にある小さな種火をゆっくりと手放した。







体育館を燃やす







 携帯の鳴く音に急かされ、僕はゆっくりと目を開いた。
 寝すぎたせいで肩とか腰とか、身体のあちこちが軋んでいる。窓からのぞくパチンコ屋のイルミネーション。怠惰の象徴のような光景に滅入り、僕はぞんざいにカーテンを閉じる。こんな行動をこの数ヶ月間、僕は飽きるほどに繰り返している。
 とりあえず何か食べようと立ち上がると、まだ鳴り続ける携帯が目に入った。メールじゃないみたいだと、ぼんやりした頭で思った。何気なくディスプレイを覗いてみると、そこに表示されているのは電話番号だけで、名前がない。知らない番号――と思ったところで、二ヵ月くらい前に使わない番号をあらかた消去してしまったことを思い出した。消そうと消すまいと、もとより僕のアドレス帳に意味のあるデータなどないと、僕は一人で勝手にそう結論付けていた。
 もしかしたら発信者は、その時消してしまった誰かなのかもしれない。僕は通話開始ボタンを押した。
「もしもし」
「おう、元気か」
 どちら様でしょうか。僕がそう続ける暇も与えずに相手は早口でまくしたてる。
「お前、いま暇か」
「暇だけど」
「おし。それじゃ、ちょっと出て来いよ。すぐ済むからさ」
 どうやら遊びの誘いの電話のようだ。こんな夜中に、非常識な奴だと憤慨し、即座に通話を切るような根性を、僕は持ち合わせてはいない。何より、高校生みたいな馬鹿なノリが懐かしくもあった。僕が高校生だったのは、実に三年も前のことになる。意図せぬセンチメンタルが、僕に思わぬ台詞を吐かせる。
「こんな時間から、一体何するんだよ」
 僕が乗り気なのに気をよくしたのだろう。電話口の向こうでにやりと笑ったのが空気を伝う。
「ああ、実はな――」


 もう春がそこまで来ているとは言え、三月の風はまだそれなりに冷たい。着慣れないコートにマフラーをひっかけて、僕は学校を目指し、真夜中の道をただひたすらに歩いていた。学校までは徒歩で大体二十分くらいかかる。アップダウンのない、実に平坦な道のりだ。
 ――じゃあ、学校の裏門に十二時な。
 それだけ告げると話者は一方的に電話を切った。黙殺することも出来ただろう。だが、現実に僕はこうしてこの道を歩いている。不思議な期待と不安を胸に、まるで遠足前の子供の頃のように、高揚して。それはなぜなのだろうか。僕は、僕自身に問いかける。答えなど、返ってくるはずもない。
 確か、ここを曲がれば裏門のそばまで行けるはず。おぼろげな記憶を辿り、薄暗い道をただひたすらに歩いていく。携帯で時間を確認すると、十二時はとっくに回っていた。歩く速度は徐々に速まっていく。最後の角を曲がった時には、駆け足に近くなっていた。
 そう、きっと何かがあると思っていたんだろう。
 僕の人生にはきっと他人とは違う何かがあるんだって、そんなことを、無邪気に。
「よう、遅かったじゃないか」
 裏門に辿り着く直前、背後からの親しげな声がして、僕は慌てて後ろを振り返る。
「黒川?」
「他に誰がいるってんだよ。んー、まぁいいや。久しぶりだな志賀。卒業式以来じゃないか?」
「ああ。そうだった、かな」
 曖昧に頷く僕を見て、黒川はにやりと口の端を吊り上げて笑った。

 ――今から、高校の体育館を燃やしに行こうと思ってるんだ。一緒に来てくれるよな。

 僕に拒否する理由はない。例えそれがどんなことであろうと、そんなふうに決する大抵の事柄には意味なんてない。
 まだ薄く霧がかかったような頭で、僕は他人事のように考えていた。



 いくら辺りが暗かろうが、ここは高校時代慣れ親しんだ廊下だ。職員室があって、その隣が進路指導室、資料室。まだ記憶通りの校内は、その静けさだけが日常とは異質な雰囲気を醸し出している。
「懐かしいな」
 僕の少し前を歩いていた黒川が呟く。
「ほら、あの資料室とかさ。俺、生徒指導のダンに二時間近く監禁食らったことあるぜ」
「それ、確か二年の秋だろ。お前、あの時何やったんだっけ」
「ガラス、ガラス。器具庫の」
「あぁ。あれね」
「あの時いなかったのお前だけだったんだよな。ラッキーな奴だ」
「仕方ないだろ委員会だったんだから。あれはあれで疎外感みたいなもんあったんだよ」
「まぁな」
 そう言って、二人で笑い合う。たとえ表面上だけのことだったのだとしても、再会してすぐに高校生の頃の空気感を思い出すことが出来たのは、あの頃が僕にとって特別な時間だったことの証明のように思えた。
 ――折角だから、校舎を一周して行かないか。
 とても体育館を燃やしに行こうとしているとは思えない発言だったが、それも一興と、僕はその案に乗る事にした。元より僕は愉快犯という名の共犯者である。
 黒川は、バスケ部時代の友達だった。親友と言えるほど近くはなかったが、卒業して三年やそこらで顔まで忘れてしまうほど薄くもなかったようだ。僕が気まぐれを起こして朝練の開始時間より早めに体育館に着くと、黒川はもう一人でシュート練習を始めていて、汗まみれの顔で「今来たばっかだよ」などとうそぶいてみせる。黒川はそんな人間だった。
「黒川」
「おう」
「なんで体育館を燃やそうなんて思ったんだ?」
 先ほどまでと同じ調子で、何気なく聞いてみた。冗談が好きな黒川のことだ、今度のことも僕をからかってのことに違いない――その時の僕は、きっとそんなことを考えていた。電話口で聞いただけのその行為に、不可思議な引力を感じたことなど、僕はとうに忘れてしまっていた。
 黒川は振り向かず、僕の質問を黙殺した。さっきまで笑い合っていたのが嘘のような冷たい空気。きゅっきゅと、ラバー製の靴底がリノリウムの廊下とこすれる音。
「志賀」
「なんだ」
「お前っていつもそういう奴だったもんな」
「何がだよ」
 黒川はそれ以上口を開かなかった。だけど僕は、黒川の言わんとしたことがなんとなく分かるような気がしていた。
 ――お前、もっと自分で考えたらどうなんだ。
 高校時代、他ならぬ黒川に言われた言葉が蘇る。他人に遠慮することを優しさだと勘違いしていた僕の欺瞞を、見事に一言で打ち抜いてみせた黒川。当時の僕は、憎んでさえいたのかもしれない。お前、このままだとロボットみたいになっちまうぞ。そんな忠告に隠した言外の意味がわかるようになったのは、ごく最近のことだ。ただ言われるまま、命令に逆らわないロボットのような自分を、僕は小さい頃からせっせと組み立ててきた。メンテは行き届いているか。歯車はさびついていないか――
「――だから、お前じゃなきゃ駄目なんだ」
 黒川が小さく呟いた言葉は、廊下の向こうの暗闇に溶けていった。


 程なくして僕らは体育館にたどりついた。当然のことながら体育館には鍵がかかっていて、普通では入ることが出来ない。そして、僕らはもちろん普通ではない。
「懐かしいな」
「ああ」
 立て付けの悪い窓ガラスを音もなく外しながら、黒川が再度呟いた言葉に同意する。
 これはバスケ部に代々伝わる秘密の抜け道だ。テスト期間など体育館が閉められてしまう時、僕たちはこうやって侵入し、心ゆくまで練習することが出来た。
「でもさ、これって絶対先生たちにはバレてたよね」
「そりゃ、そうさ」
 言いつけを守らない僕たちを苦々しく思っていたのか、それとも微笑ましく思っていたのか、どっちかはわからない。しかし、在学中に僕らの秘密練習が咎められたことは、結局一度もなかった。
「あれだけボールの音が響いて、それでも気付いてなかったとしたらだ。そいつはきっとよっぽどの阿呆か、つんぼだよ」
 ガラスが外れた。黒川は外れた窓枠から、ひょいと身軽にその身を滑り込ませた。僕もそれに倣う。思った通り中は暗い。だけど、二階の窓から月明かりが真っ直ぐに差し込んでくるせいで、何も見えないほどではない。
 僕らはなんとなく体育館の中をうろついた。さして広くもない内部を歩いている途中、体育器具庫の前で黒川は立ち止まり、こちらを振り返る。
「志賀、知ってるか」
 月明かりに照らされた黒川の顔は、片側の唇が不敵に吊り上っている。何か大きな声で話せないような話をする時、黒川はそんなふうに笑う。
「橋本の奴、長瀬との逢引にここ。使ったことあるらしいぜ」
「えっ。長瀬って、あのB組の長瀬か」
「他に誰がいるんだよ」
「うっそ、まじかよ。僕、結構好きだったんだよ」
「わかってるって。だからお前には言わなかったんだ。でもこれ、部内では結構有名な話だぜ」
 そう言って黒川は楽しそうに笑った。僕は建前上悔しそうな素振りを見せる。卒業してからもう三年も過ぎた今だ。正直な所、ちょっとお気に入りだった程度の女の子の顔なんて、卒業アルバムで確認したって思い出せやしないだろう。
「今も付き合ってるのかなぁ」
「いや。橋本は一回浪人しただろ。んで、長瀬は他県の国公立に一発合格。勉強の邪魔になるから、とかもっともらしいこと言われて振られたらしいぜ」
 二人して笑い合う。本当に、テンプレのような振られ方だ。
「でも、良いよな。なんだかんだいいながら、長瀬と一発やれたんだからさ」
 軽く言ったつもりだったのに、僕の声は少しの湿気を含んでいた。話しながら僕は全く別のことを考えていたからだ。体育館に入る前に、黒川が口にした言葉。
 ――外の茂みに、ガソリンが隠してある。それを二人でばらまいて、火をつける。
 それを言った時の黒川の瞳に光はなく、まるで感情を全て失くしてしまったようだった。戦慄した僕は、思わず「燃やす前に、最後に二人で中を確認しよう」と提案していた。黒川は複雑な面持ちでそれに同意してくれた。だから今、僕らはここにいる。
 正直言って、これは黒川が企んだジョークの類だと僕は思っていたのだ。母校の夜間探索にちょっとしたスリルのスパイスを。その程度のことだと、校門の前で黒川に会った時感じていたのに。焦りに駆られ、無意識のうちに僕はボールに手を伸ばしていた。両手で慣れ親しんだその重みを確認するように、持ち上げて、抱え込んで、弾ませる。音を立ててはいけないとか、そんなことは頭の中から飛んでしまっていた。もしもこれが現実だったとしたなら、これもあと数分後には消えてしまうのだから。
 まさか、黒川は本当にこの体育館を、この世界から消してしまうつもりではないのか――
「もういいだろ」
 さっきまでとは一変した黒川の声。感情を押し殺した声が、黒川の中にある狂気を駆り立てている。僕の両手はボールを抱えたまま、ぴたりと動きを止める。
「ガソリン、取ってくる。お前はここで見張っててくれ。いいな」
 僕は頷けなかった。沈黙は全てを肯定する。
「じゃ、行ってくる。すぐ戻ってくるから」
 黒川は踵を返した。二階の窓から差し込む月明かりの中、迷わず外へと歩いていく。

 待て。ちょっと待ってくれ。本当は大声を出して叫びたかった。だけど、僕の喉は凍りついてしまったかのように、動いてくれない。このままだと、消えてしまうぞ。大切にしていた物、大事な物。あの頃僕らが生きていた証。そんなもの、全て、全て。

 視界が滲んだ。
 景色が揺らいだ。

 僕は消えてほしくなかった。過去は今の自分を肯定してくれはしない。そんなことは分かっている。

 だけど、大切なんだ。
 いつまでも守り通せるなんて思ってはいない。
 だけど、だけど。
 いつかその役目を終える、その日までは。
 せめて。

 いつか、なくなってしまうものたちへ。
 僕がそれらに出来ることって、本当にこんなことなのか。

 なぁ、黒川。
 どうなんだ――

「黒川っ」
 気付くと僕はボールを持って駆け出していた。背後から迫るドリブル音に、黒川は慌てて振り返る。
「志賀っ?」
 ディフェンスの体勢も整えられない黒川を、僕はワンフェイントで置き去りにする。黒川の背後にあるゴール。僕はふわりとボールを置いてくる。
 レイアップ。
 入部当初バスケ未経験者だった僕が、初めて覚えたシュート。教えてくれたのは、黒川だった。
 ボールはリングに触れることなく通過し、ダンダンとやかましい音を立てて転がっていった。僕は荒い息を整えることもなく、黒川の瞳だけを見つめていた。黒川は魂を抜かれたような顔をして、転がり続けるボールを眺めている。ボールがバウンドをやめると、体育館は元あったとおりの静寂を取り戻した。ただ一つ、僕の乱れた息遣いだけが、静寂の世界に紛れ込んだノイズだった。
「二点、先制」
 僕は高らかに宣言した。ここからだと影になっていて、黒川の表情をうかがうことは出来ない。奴は今、どんな顔をしているだろうか。
「次、黒川のオフェンスな」
 そう言って黒川の方にボールを投げてやる。
「さぁ、来い!」
 太腿を手の平で叩くと、ジーパンがパァンと高い音を立てた。これは現役の時からの、気合を入れる時の僕の癖だ。当時部員だった人間で、僕の癖を知らない奴はいない。
 次の瞬間、黒川は弾けるように笑い出した。校内中に響くんじゃないかと心配になるほど大きな声で。黒川の笑いがやんだ数秒後、雲が月を隠したのか、体育館はより一層深い闇の中に沈んでいく。僕は暗闇の中、黒川からのボールをじっと待ち続けている。
「参った! 志賀、参った!」
 ボールが投げられる。僕はそれを受け取り、投げ返す。ゆらりと黒川の姿が揺れ、流れていく。僕はそれを懸命に追いかける。

 そうだ。僕はいつでも黒川の姿を追いかけていた。練習中、試合中。黒川のカットインを完璧に止められる奴は、当時の部員の中には誰もいなかった。黒川は僕のバスケの師匠であり、目標であり、憧れだった。そんなことを今更ながらに思い出した。


「この体育館さ、もうすぐ取り壊されるんだ」
 夢見るような1on1の後、黒川がぽつりと漏らした。現役時代、結局縮まることのなかった実力の差がまるで嘘だったかのような接戦に、先に音を上げたのは黒川だった。
「ほら、俺らが入った窓とか見ても分かるだろ。もうあちこちガタが来てんだ。限界、なんだと」
 耐震とか、安全性とか、僕にはよく分からない単語が通り過ぎていった。そして、きっとそれは黒川にとっても同じなのだろう。
「だから、誰か他の人間に壊されるくらいなら――」
 俺の手で壊してやろうと思ったんだ――
 そう言った黒川は、真っ直ぐに僕の瞳を見つめた。僕の瞳を通して何か別のものを見ていた。気付かぬうちに薄れて消えていってしまいそうな何かを黒川は見ていたのだと、後になってから僕は気付いた。ゴール、上に張られたネット、舞台、器具庫。この体育館には隅々まで僕らの思い出が染み付いている。黒川は感触を確かめるように、床板の隙間を指でなぞっている。
「そんなこと、僕は全然知らなかったな」
「俺だって小耳に挟んだ程度さ」
 そう言って立ち上がると、黒川は慈しむようにボールを弾ませた。月明かりの下、ボールが手の平に吸い付いているように見えた。
「なぁ」
 ボールが放たれる。見惚れるようなジャンプシュート。ボールは美しい放物線を描き、ゆっくりとゴールに吸い込まれた。
「なんでこうも大事な物ばかり、なくなっていってしまうんだろうな」
 僕は答えることが出来なかった。ボールのバウンド音は小さな反響音を残して、やがて消えていく。名残を惜しむように、僕らはじっと耳をすませた。
「黒川、本当はガソリンなんてなかったんじゃないのか」
 今度は黒川が黙る番だった。黙ったまま、転がっているボールを拾いに行く。
「本当は――確かめたかっただけなんだろ。なぁ、そうなんだろ」
 蚊が鳴いたようにか細い僕の声は、黒川のドリブル音にかき消されたのかもしれない。黒川は「何を」と問い返さなかったから。だけど、きっと僕も黒川も、それが何なのかを知っている。
 もう一度だけ放たれたボールは、リングに跳ね返されてどこかへ転がっていってしまった。それを見た黒川は、どこか満足げに笑った。唇の片側だけ吊り上った、いつもの笑顔で。


      ∞ ∞ ∞


 片手にシューズケースをぶら下げ、平坦な道を一人歩いている。着慣れない礼服の下にじんわりと汗がにじむが、我慢できないほどの暑さではない。あの日歩いた道端に、蝉の死骸がいくつも転がっている。そういえばもう夏も終わりだなと、変わらず無為に過ごした日々を思った。

 あれからすぐに入院した黒川が死んだのは、つい先週のことだ。黒川の家族にも、継続的に連絡を取り合っていた友人連中にとっても、それは予想し得なかった事柄ではなかったらしい。もう助からないと、彼が医師に宣告されたのは今年の春先のことだったそうだ。蚊帳の外だったのは卒業後疎遠にしていた僕一人だけだったのだと、後になってから聞かされた。
 
 ここを曲がれば、あの日黒川と落ち合った裏門はすぐだ。だが僕は、見当違いの場所で道を外れる。道の脇、昼でも薄暗い藪の中をがさがさと探ると、ほどなくして“それ”は姿を現した。
 灯油の缶に詰められた、あの日黒川が準備してきたガソリンだ。

 ――道連れに、しようと思ったんだ。
 黒川が入院したという知らせを聞き、見舞いに出向いた僕に開口一番、奴が言ったのは、あの日置き去りにしたガソリンの処分のことだった。裏門に向かう道の脇にある藪の中。黒川の話の通りの場所に、それはあった。
 ――志賀の好きなように処分してくれ。
 本当に、いいのか。
 間抜けな顔をして確認するまでもないことを確認した僕を、黒川は唇の端を少し持ち上げて笑った。
 ――ああ。志賀に、任せる。

 校庭の真ん中に運んだガソリンを、せっせと黒川のバッシュに振り掛ける。バッシュはみるみる内にガソリンにまみれていく。体育館を燃やすはずだったそれは、バッシュに振りかけたくらいではまるで減らない。
 黒川と一緒に焼かれるはずだったバッシュを彼の母親から譲り受けた時、僕は理由を話すことが出来なかった。燃やすために、手に入れる。自己満足に過ぎないことは、百も承知だった。どうせこの世は、いつかなくなってしまうもので溢れている。でも僕は、それを悲しいとは思わない。
 鼻をつく匂いがして、僕は目を上げる。真新しい体育館が太陽の光を受けて、虹色に輝いていた。

 大きく息を吐いて、僕は空を仰いだ。
 抜けるような青空が、そこにはある。

 僕は、不器用につけたマッチの火を、ゆっくりと落とした。小さな種火は一瞬で大きな炎となり、辺りの酸素を食い散らかしながら燃え盛る。黒川が青春を捧げたものの象徴は、あっという間に炎に包まれてゆく。ゆらめく蜃気楼はやがて黒い煙となって、僕の視界を闇に染めた。僕は動くことを忘れてしまったかのように一人校庭に立ち尽くしていた。
 黒い煙はゆらゆらと揺れながら舞い上がり、青い空に吸い込まれるように消えていった。


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