返す波が、弄ぶ手つきでそれをさらっていく。傷つくことを知らない幼子の無垢な手は、波がそれを洗い流したことにも気づかずに、また初めからやり直す。作り直す。積み上げる。そしてまた波は全てをさらっていってしまう。際限のない再現、残酷なリプレイは、私たちの目の前で何度でも繰り返された。何度でも、何度でも。砂上に築き上がるはずの楼閣はどれだけの時間を費やしても、けして組み上がることはなかった。
 なんて悲しい光景なのだろうと、私は思った。崩されてしまうことが悲しいんじゃない。崩されてしまうことも知らない無垢な瞳が、報われない徒労を続けることが悲しいのだ。

 ね、もうやめようよ。
 あなたの歩いてるその道の先には、何にも無いことは分かっているでしょう?
 そんなに必死に探したって、足が棒みたいになっちゃうだけなんだよ?
 ね、やめよう?
 ね?

 分かっている。やめられるはずなどない。
 だって、私たちは元々そういうふうに作られているんだから。

 目を閉じる。
 目を開ける。

 目の前に広がるのは、海と、空、視界を汚す飛行機雲。幼子なんてどこにもいなかった。哀れな彼女は私が作り出した幻想、空想、妄想なんだ。だけど、隣で座り込んで私と同じ景色を眺めている彼女も、私と同じ幻を見ていたのではないだろうか。なぜだか、そんな気がした。

 そして私は。
 あの日あの子に言えなかった言葉を、彼女の前で組み上げることにした。

















遠き日の夢はゆりかごのように優しく揺れて彼女を。

















1.

「加治屋」
 帰ろうとした由紀の背中を呼び止めたうら若き女性の声は、間違いなく彼女の担任――谷渕の声だった。谷渕は外見こそハーフかと見間違えてしまうほど整った容姿を持っているものの、その仕草や言動に関しておよそ人間味というものを全く見せないタイプの人間で、クラスの評判はその容姿に反して良くはない。だが、由紀はそんな彼女のことが嫌いではなかった。
「はい」
 振り返り、必要最低限の応答をする。相手によっては無礼を咎められかねない態度だが、この教師に限って言えばそれで正しい対応なのだ。この一年間で学んだこのタイプの人間との距離のとり方。けして手が届く範囲に身を置かないこと。相手の温度を感じとる必要性はなく、逆に双方にとって害毒ですらある。声さえ届く範囲ならば、視界内にいることすら問題ではないのだろう。
「一つ、頼みたいことがある」
「なんでしょう?」
 あくまで事務的なやりとり。教師と学級委員の関係として見れば、谷渕と由紀の関係は限りなく類型的なもので、それ以上でも、それ以下でもない。
「卒業式のプログラムにはもう目を通したか?」
「はい」
「その中に全体合唱というのがあったのを覚えているか?」
 以前から由紀の学校において合唱というのは最大の売りだった。生徒数が減りだしてからはそれほどでもなくなったのだが、それ以前の年代で行われた校内合唱コンクールには、市会議員はおろか県議会議員や地域の有力者がこぞって足を運ぶほどのものだった。廃れても伝統は伝統、由紀たちのような過疎の世代になっても、それなりのネームバリューを持っていた。
 ネームバリューがあるということは、それに伴う外圧も並のものではなくなるということを意味する。事実、卒業式で披露する予定になっている三曲については、由紀たち三年も含め在校生全体での練習が半年も前から続けられている。
 覚えている。忘れるはずがない。由紀は軽く頷いた。
「全体合唱というのは、だ。全体で歌うから全体合唱というのだろう?」
「はぁ」
 普段から理知的で無機的な話し方をする谷渕にしては、喉にものを詰まらせたような物言いをした。微妙な違和感を覚える。
「何が仰りたいんですか」
 ストレートを投げ込む。すると谷渕は一呼吸置いて本題を口にした。
「一人、全体に含まれてない人間がいるだろう」
 その言葉で由紀は理解する。全体に含まれない仲間はずれ。無色透明に薄まるように擬態して、結果として集団から浮き上がってしまう異端。
「神尾さんのことですか?」
「ああ」
 不登校というほど学校から離れているわけでもないが、出席日数ぎりぎりのラインを縫うようにしか学校に姿を見せない。かといって不良というわけでもなく、卒業できないほど成績が悪いわけでもない。親しい友達は由紀の知る限り、一人もいない。虐めにあっているわけでもないが、いつも一人。神尾観鈴。
「率直に言うと、彼女をなんとか歌えるようにしてやって欲しいんだ」
「神尾さんを?」
「ああ」
「時間、もうあんまり無いですよ」
「無理を言っているのはわかっている」
「じゃあ」
「すまんが、頼めるのは加治屋くらいしかいないんだ」
 そう言われると弱い。
 もちろん言いたいことは山ほどある。第一、歌えないのは本人である神尾観鈴の責任だ。自由人を気取っているのかどうかは知らないが、ほとんど練習にも参加しない。出てきても小声でしか歌わず、自信のない箇所は歌っているふりをしてやり過ごす。一緒に歌っている人は気づいている人も多いのかもしれない。しかし、誰も彼女を言い咎めない。彼女の印象が薄いのも原因の一つだが、他の人にしても、結局のところ歌う歌わないは個人の自由だと思っているからなのかもしれない。
「なぜ、今頃になって?」
 由紀がそう問うと、谷渕は初めてその端正な表情をわずかに歪ませた。一年間付き合ってきた由紀にしても初めて見る表情。感情を揺らがせている。他人のそんな様子を見ることを、由紀は心のどこかで忌避していた。担任の教師として至らぬ点を指摘しただけのこと。ただそれだけのことを、由紀は後悔してしまいそうになった。
 谷渕は暮れ掛けた太陽の沈む方を見上げた。由紀はそれにつられて谷渕の見上げた方を向いた。古ぼけた校舎が夕焼けにさらされている。オレンジに染まる景色はそれだけで終わりを思わせた。万物は等しく終わりを持つ。始まれば終わる。夜明けがあれば日暮れがある。その程度のこと。由紀は痛む胸を押さえた。
「最後、だからな」
 目を細めてそんな言葉を口にする谷渕を、由紀は意外なものを見る目で見た。この人の心にも、こんな感傷があったのだ。人を知ることは、自分の心にその人を刻んでいくことだ。痛みに耐え切れなくなることも、きっと一度や二度ではない。
 由紀は黄昏を視認した。必死で目を逸らすが間に合わない。

 由紀たちの通うこの学校は、この春をもって廃校となる。


   ◇◆◇◆◇


「死」は常に人間の背中に張り付き、その獰猛な牙を剥き出しにして宿主の隙を今か今かと待ち構えている。目には見えないから、耳には聞こえないから、気付かないだけだ。一度意識の舞台に上がったなら、それまで演じられていた喜劇がハリボテに思えるほどの圧力で、人の言葉で言う希望とか、未来とかってやつも、根こそぎ覆い隠してしまうんだ。

 目を凝らせば。
 耳を澄ませば。

 ほら、
 そこにある。

 嘘だと、思ってるでしょう?


   ◇◆◇◆◇ 


 やはり、夕方は良くない。本当に良くない。
 東端から徐々に深くなっていく藍、その中赤く燃える橙のパノラマは、心のどこかにあるセンチメンタリズムをくすぐる前に、万物にプログラムされた終わりという概念を想起させてしまう。無意識にピントを合わせてしまう。照準を合わせてしまう。あとはトリガーを引くだけという状態に放り出され、結局足が笑ってしまう自分を、由紀はそれほど嫌いではなかった。自分という空っぽの器の中に残された僅かな人間性という気がしたからだ。
 夕暮れよりも夜に近い境界線上の時、人のいなくなった学校を後にする。鞄の中では残り少なくなった授業のために持ってきた教科書、わざわざ街まで足を運んで手に入れたお気に入りの小説、そして卒業式の全体合唱のパート別の楽譜が、互いに混ざり合って揺れている。持ち主である由紀の脳内と同じく、混沌としていた。もっとどうしようもなく掻き混ざるように、意識的に腕の振り幅を広げる。自然と歩くスピードが上がる。由紀の学校はちょうど山の中腹に位置していて、最寄の駅まで下りの早足でも大体二十分近くかかる。軽快なリズムに少し心が軽くなったが、このスピードで歩いていてはとても駅までもたないので、結局あるべきリズムへと還元されることになる。やや早送りだった景色もいつものリズムに安定し、動揺していた内心もそれに伴うように鎮静化していった。
 蛇のようにくねくねと捩れる道の向こう、木造の古ぼけた駅が見える。駅員はいない。電車を待っている人影もない。まるで呼吸することを忘れてしまったかのような。由紀がいつも使っている駅はそんな穏やかな時間の中にじっと佇んでいる。
 実際のところ、由紀たちの学校が廃校になるのは、この路線の不振が大きな要因である。バスも来ない、タクシーもない、人を集めるための観光資源だって一つもない。元々過疎気味だったこの地域において、この路線は文字通りの意味で生命線だった。それがこの春、廃線になるという。三年ほど前に決まったことだ。それからというもの、この古びた路線と寄り添うように生きてきた集落の荒廃は加速し、故郷を見限った若者たちは次々と未来を求めて都会へ逃れた。その流れの中、当たり前のように由紀たちの通う学校は廃校を余儀なくされた。
 駅に着く。由紀の乗る電車が来るまでまだ十五分ほど余裕がある。
 ささくれが目立つ木造のベンチに腰掛け、空を見上げる。生まれたての夜空はそこら中に散りばめられた星屑でデコレーションされている。
 空の本質は夜なのだ、と由紀は思う。確かに、奇跡のような太陽が顔を出す昼の空は青く澄み渡り、そこに暮らす人々に自由や希望、可能性といったイメージを与える。その煌びやかなイメージに導かれ、人はここまで成長できたのだろうと思う。しかし、それは空の仮の姿。夜の闇こそが普遍で不変、昼の明るさこそが奇跡で異端なのだ。世界は、普遍の闇に生じたほんの小さな隙間の中で、かろうじて生かされているに過ぎない。
 ため息を夜空に向けて吐き出すと、線路が僅かに軋んで列車の到着を告げた。馴染み深い音を立てて、列車はゆっくりとその口を開いた。乗る人の少ない車内。横に並べられた座席に腰を下ろすと、列車は静かに無人の駅を滑り出す。あと何度自分はこの電車に乗ることが出来るのだろうか。考える意味もない感傷が頭の隅をよぎる。陳腐で使い古された言葉で言うなら、由紀たちの学校は生と死の狭間、始まりと終わりの最中、昼と夜の隙間の黄昏に在る。最後だから、と口にした谷渕の言葉を思い出す。彼女もまた、由紀と同じ黄昏の中にいるのだろうか。
 取り留めのない思考の最中、由紀は不意に神尾観鈴のことを思い出した。きまぐれにふらりと学校にやってきて、誰にも染まらず、受け入れられず、受け入れず、ただなんとなくガラス越しの空を見つめて時が流れるのを待っている彼女。授業が終わればまたどこへとなく消えていく。クラブにも委員会にも属さない。存在感はまるでないのに、なぜか空を見上げる横顔だけは脳裏に焼きついている。まるで空気のようだ、と由紀は思った。誰も意識しないし、感謝もしなければ、罵倒もしない。しかし、そこに存在していることだけは、確かなのだ。

 なぜ、あなたは空を見つめるの?

 ゆったりと流れる夜の景色を横目に、由紀は自分自身に問いかける。目の前にいるのが神尾観鈴だったら、直接彼女に問いかけた言葉だったのかもしれない。だが現実に由紀は一人で夜空を追いかけている。問いかけても返ってくるのは自分自身に他ならない。

 由紀が黄昏に「終わり」を見出しているように。
 神尾観鈴もまた、青空の向こうに自身でしか知り得ない何かを見出しているのかもしれない。

 列車が駅のホームへと滑り込む。鉄と鉄が擦れ合う不快な音を残して、列車は走りを止めた。先ほどよりも意志の光が宿った瞳で、列車から降りる。手にした鞄の中は相変わらず混沌としていた。由紀の頭の中とは、対照的に。
 神尾観鈴と、関わってみようか。
 そう、思った。










2.

 私は小学校を卒業すると同時にこの町に越してきた。以前住んでいた所は有体に言うと都会で、子供の目から見てもごみごみとしていた。人の口に戸は立てられず、何かあると噂は半日も立たずに広まってしまう。人の数と、その面積。密度だけは他の地域よりも濃密だったが、人と人との繋がりは酷く希薄だった。居心地が良かったようで、悪かったようで。その頃のことは、ほとんど思い出すことが出来ない。だが、この土地に来たばかりの時の感覚は、三年が経とうとしている今でも鮮明に残っている。

 私は――異人だ。


   ◇◆◇◆◇


「神尾さん」
 授業が終わり、帰宅直前の彼女を捕まえて声をかけた。人間関係において面倒なことを嫌っている由紀は、最低限の愛想と社会性は装備している。仲良くなる必要がある相手、そうでない相手。気を使う人、使わなくてもいい人。由紀の人付き合いはそんなカテゴライズによって成り立っている。どんな相手でもそれにあてはめてそれ相応の対応をすれば大きな間違いは起こらない。面倒もない。判断基準は第一印象と話した感触、その他諸々の独断と偏見によって決定される。神尾観鈴は、由紀にとってどのカテゴリーに属するのか。
「……」
 無視。またの名をシカト。どちらにしろ、同じ意味だった。
 神尾観鈴はすたすたと歩いていく。まるで自分の名を呼ばれたことに気づいてないかのような振る舞い。由紀は彼女は本当に気付いてないのだと判断して再度を声をかける。先ほどよりも少し大きめの声で、
「神尾さん!」
「……え……あ、あ……は、はいっ!」
 由紀が驚いたのは、彼女の呼ばれ慣れていない反応ではなく、周囲のざわざわとした視線だった。はっきりとした悪意や敵意ではないが、どこか異物を見るような目をしていた。
 しかし、こんなところで動揺していたら全ては台無しである。折角関係を作ると決めたのだ。二人きりになれる場所を選択する必要がある。由紀は咄嗟の判断に身を任せる。
「――行きましょう」
「えっ……ええっ!?」
 逃げられないようにがっしと右手を掴んで、連行する。この子の自主性に任せていたらいつまでも話が進まないような気がしたし、第一この場に留まり続けるのは色んな意味で危険な気がした。目指すは、屋上。教室を出て階段に差し掛かるまでは慌てたように暴れていたが、精神的な山を越えたら多少は落ち着いたようだ。素直に由紀の後ろについてくる。掴んだ手は、離していない。どこか、太陽の匂いがした。

「よし」
 屋上。人はいない。この学校の屋上には安全対策のためのフェンスなどという高尚な物は設置されていない。遠くに海を一望することは出来るが、それだけだ。ごく稀にカップルの逢引に使われることがあると小耳に挟んだことはあるが、まぁ問題はないだろう。
 神尾観鈴は相変わらず所在無さ気な様子だ。酷くおどおどしている。この状況が一体何なのか皆目見当がつきません。そんな顔をしていた。由紀は軽くため息をつきたくなった。
「神尾さん」
「きょ!」
 由紀の頭の上で、はてなマークがタップダンスを踊った。
 きょ?
 きょって何?
 新しい挨拶か何か?
「きょ、きょ、今日はいい天気ですねっ!!」
 超大声で叫ばれました。下校中の数人の生徒が何事かと振り向く。見ようによっては、この状況は何か別の神聖なロザリオ的な何かを連想させてしまうのではないか。由紀は慌てて下から見えないところまで神尾観鈴を引っ張っていく。
「ほほほ本日はお日柄もよくっ! おおおお招きいた、いた、いただききょ、きょうえつしごくにぞ」
「落ち着け」
「はわっ!?」
 脳天にチョップを食らわす。神尾観鈴、轟沈。
「はい深呼吸」
「すーはーすーはー」
「吸ってー」
「すぅ―――――――」
「吐いてー」
「はぁ―――――――」
「……よし」
 なぜ相手を落ち着かせるためにこんな時間と体力を消費しなければならないのか。由紀は少し後悔しそうになった。
「落ち着いた?」
 こくこくこく。
 神尾観鈴の首は上下に高速回転する。
「じゃあ、なんで呼び出されたのか、わかる?」
 ぶんぶんぶん。
 今度は左右に高速回転だ。
 由紀は谷渕に言われたことを要約し、噛み砕いて、分かりやすく伝えた。伝えるごとに神尾観鈴はずぅーんと落ち込んでいく。
「そっか……わたしがサボってるのバレちゃってたんだ……」
「それでね、とりあえず卒業式までにはちゃんと歌えるようにしろってさ」
「どうしよう……」
「私も、手伝うから」
 そう言うと彼女はさっきまでの鈍くさい動きから一変、がばっと身を起こし、高速で顔の前で手を振り出した。
「そっそんなっ! いいですよっ、迷惑ですしっ」
「でも、一人じゃ練習できないでしょ?」
「だだ大丈夫ですよっ! うん、本当にっ」
 何をそんなに慌てているのか、由紀には全く分からなかった。相互理解は遠い。
 彼女は一人でやれると言う。しかし、本当に一人でやれることであれば、これまでの時間で出来たはずなのだ。彼女の現状がどこにあるのか。確かめる必要があると由紀は考える。


   ◇◆◇◆◇


 カチャッと機械音がして、名だたる音楽家たちの視線に嬲られながらカセットテープの演奏が止まる。ぶっちゃけ写真なのだが、こう並ばれるといささか気味が悪い。学校の怪談にはよく音楽室が絡むが、その要因は絶対あの写真群にある。
「……うーん」
「……にはは」
 由紀は唸っていた。出来ないだろうとは踏んでいたが、まさかこれほど出来ないとは。神尾観鈴の半笑いもかなり引きつっている。
 伴奏テープを先生から借りてきて、ついでに音楽室の鍵まで失敬してきた。合唱の練習に使うのだと言ったらあっさりOKされた。まぁ、実際そうなのだから誰も文句は言えないはずなのだが。
『一人で出来るって言うなら、実際に歌って見せてくれないと納得できない』
 と言って、強引に歌わせてみた。
 結果は、惨敗という言葉で間違いないだろう。
 一人で練習とか、絶対無理。
「歌詞くらい覚えててよ……」
「ごめんなさい……」
 音程が分からなくなったのならともかく、歌詞を丸ごと忘れてしまうのはどうかと思う。さっきコピーしてきた歌詞の写しを手渡しながら、愚痴が思わず口をついて出てくる。彼女に悪気がないのは分かっているのだが、この状態はさすがに酷いと思う。
「よし!」
 覚悟、完了。同時に由紀は立ち上がった。
「加治屋さん?」
「卒業式まで時間が空いてる時は、私も神尾さんと一緒に練習します」
「え、ええっ!?」
 歌えない。彼女は確かに歌えないのだが、彼女の歌声はどこか温かく、聴いた人を優しくさせるような気がした。
『最後、だからな』
 そう呟いた谷渕の声がよぎらなかったと言えば嘘になる。しかし、これはその言葉を差し引いても自分で決めたことに対して胸を張れる決断なのだと思えた。
 窓から太陽の光が差し込んでくる。陽はまだ高く、夕暮れまでにはまだ間がある。授業後から練習を開始するとして、一、二時間で切り上げるようにすれば、日が暮れる前には帰れるだろう。ちょっとした部活のようなものだと思えばいい。由紀は一人でそう結論した。
「そ、そんなっ、わたしっ、加治屋さんの迷惑になるしっ」
「由紀、でいいよ。友達はみんなそう呼ぶし。ゆっきーでもゆっこでもおっけー。なんならゆきりんでも可」
「あ……」
 友達。
 その単語に神尾観鈴は反応した。目が潤んでいるように見えたのは光の加減だったのかもしれないが。
「ね?」
 由紀は、笑った。
 新しい友達を祝福するために作られた笑顔。自然か不自然か、とうにそんな判断はつかなくなっていた。笑顔は他人との関係を近づける。意図的であろうと、なかろうと。その過程に差異はなく、結論があるだけだ。今はそれでいい、と由紀は笑うことが出来た。
「うん」
 手を差し出すと、おずおずと握り返してきた。さっきの強引な握手とはまるで別物だった。行為自体は同じものであるはずなのに。
「私も、観鈴、でいい、です」
 チョップ。
「はうっ!?」
 涙目になる。嫉妬しそうになるくらい可愛かったり。
「ど、どうしてっ」
「敬語禁止」
「あ……」
 そして、破顔した。
「うんっ!」

 友達になれると思っていた。
 例え彼女にとっての空に、意味があろうと、なかろうと。
 黄昏が訪れる前に、別れることが出来るなら。










3.

「ゆっこ、ちょっといい?」
 観鈴と由紀の放課後の練習が続いたある日のこと。声をかけてきたのは、由紀がここに越してきて以来の友人である美琴。普段から温和な彼女だが、珍しく眉間に皺がよっている。
「いいよ、何?」
 返事をすると、手招きをして由紀を廊下に連れ出す。どうやらクラス内で聞かれるとまずい話のようだ。由紀には大体話の内容に見当がついてきた。
「あんたのことだから心配いらないとは思うけど――」
「観鈴のことでしょ?」
 何か言わせる前に先手を打っておく。話は出来るだけ自分のペースで進めねばならない。こういった類の話ほど、人は冷静でいられなくなるものだから。
「さすがにゆっこは察しがいい」
「まぁ、美琴が言いたいことも分かるけどね」
 人は異変に敏感なものだ。つい昨日までクラスにおいて空気のような存在だった少女と会話を交わす。そんなことでも狭いコミュニティーの中ではちょっとした事件になってしまう。どんな意図があって、どんな経緯で、どんな結末を迎えるのか。誰にでもある野次馬根性。
 別に気にすることじゃない。心配するな。
 由紀は美琴にそう言いたかったのだ。しかし、
「違う、違う。そういうことじゃないの。これは由紀が知らないことだから」
 心配なんだ。美琴の目はそう語っていた。自分に対する気遣いや心配は、素直にありがたいし、嬉しい。得難いものだと、素直に思う。なぜなら、その手の感情とは選択性を内包するからだ。誰のことを心配して、誰のことを捨て置くか。誰を重視して、誰を軽視するか。愛するということは、愛さないということで、優しくするということは、冷たくするということだ。どんなに言い繕おうともそれは真実で、現実の不平等さの典型例だ。多少の醜さは免れない。
 ならばこの場合、選ばれたのは誰で、選ばれなかったのは誰なのか。考えないようにしていても、思考は半ば自動的に回っていく。
 由紀は、美琴の話を聞くことにした。


   ◇◆◇◆◇


「ここは――じゃない?」
「うーん、ちょっと違うかな。――だよ」
「あー! あー! わかったわかった!」
 相互理解が得られたところで、もう一度カセットテープを再生する。伴奏と歌うべきメロディーが流れ出し、二人はそれに合わせて歌ってみる。今度は上手くいく。練習の成果は着実に歌に現れる。日ごとの成長を眺めることは楽しい。
 二人が歌っているのは音楽室ではなく、屋上でもなく、観鈴の家の近くの海辺だったりする。観鈴の家と由紀の家は割と近いことが最近わかった。ならば、山奥に立っている学校よりも家の近くで練習した方がより時間が取れるだろうという由紀の発案だった。ラジカセに単一電池を入れれば準備万端、潮風に吹かれながら歌うのは存外に気持ちよかった。たまに近所のおばあちゃんが現れてお菓子をご馳走になったりした。
「ちょっと休憩しようか」
「うんっ、じゃあジュース買ってくるねっ」
「あっ、ちょっと待って、アレは出来れば」
「飲まないの?」
 罪のない瞳で問われると些か罪悪感を感じないでもない。しかし、ちょっと考えて欲しい。あの『どろり濃厚』とか言う飲料――いや、飲料という単語を使うのもおこがましい――に対して飲むという表現を使うのは一種の欺瞞ではないか。違うのか。おい、コラ、どうなんだ。
 ここに来た初日に飲まされたどろり濃厚は、由紀にとってある意味革命的な出会いだったと言えよう。なんせそれを一口すすっただけで喉を詰まらせかけたのだから。それ以来ここで観鈴に頼むジュースは専らカゴメの野菜生活である。野菜生活。健康にはいいに違いない。由紀は何の疑問もなくそう思っていた。
「お待たせっ」
「ありがとー」
 二人して、海と空を眺めながらジュースをすする。歌い枯れた喉に野菜生活が気持ちいい。
 由紀は横目で観鈴を伺う。力いっぱいどろり濃厚を吸っている。その力み具合がこちらまで伝わってきて、由紀は堪らず苦笑した。
 この分なら美琴の心配は杞憂に終わりそうだ。由紀は、そう思った。
「ねえ」
「うん?」
「観鈴は空が好きなの?」
 気付いたら自然に問いかけていた。ずっと心の奥に引っかかっていた疑問で、その割に問いかけても意味のない質問でもある。どうとでも答えられるし、はぐらかせる。しかもどんなに上手く答えようとも、きっと納得できる答えなどない。おそらく問うこと、それ自体に意味があるのだと由紀は思った。そして、案の定観鈴は返答に困っている。
「いや、ほら観鈴ってよくぼうっと空を眺めてるし。好きなのかなぁって」
「ぼうっと……してるかなぁ」
「してるしてる。よくしてるよ」
「どんな時?」
「授業中とか、体育の暇な時とか、下校途中とか、ここで練習してる時だってたまに」
 言いながら、由紀は自分が頻繁に観鈴のことを目で追っていたことを自覚した。そんなことはこれまでほとんどなかったのに。観鈴に対してはどこか過剰になってしまう傾向があるように思える。由紀自身その原因に対しては、自覚的ではない部分でしか感じ取ることしか出来ていない。
 見られていたことに気付き顔を紅潮させる観鈴。見られていた、つまり、彼女に対して関心があったということ。観鈴はその事実をそう解釈したのかもしれない。そして、彼女は口を開いた。自分に対する好意へのお返しだと、彼女は考えてしまったのかもしれない。
「空はね、好きだよ」
 不意に観鈴は身体を起こしながらそう言った。潮風が彼女の長い髪を揺らした。
「ずっと前から好きだった。なぜかはわからないけど、空を見てるとなんだかお母さんに抱かれてるみたいに感じて落ちつくの」
 両手を広げる。翼のように。
「空を飛べたらって、ずっと思ってた。もっと空に近いところに行ければ、もっと空と同じものになれたら、私は――」
 突風が二人の顔をしたたかに打った。由紀は咄嗟に目を閉じる。それほどの風だった。耳鳴りは段々と晴れていき、風が通り過ぎたことを感じて目を開く。すると、
「――観鈴?」
 観鈴は先ほどまでと同じ姿勢のまま、そこに立っていた。座っていた由紀でさえも風の力をもろに食らって倒れそうになったというのに。まるで観鈴のところだけ風がよけていったような。観鈴は何も起こらなかったかのような顔をして微笑む。何も無かったのかもしれない。そう錯覚させられるような笑顔だった。
「私は――」
 先ほどまでの言葉の続き。それは結局語られぬままに終わることになった。なぜなら、
「……観鈴?」
 ぽたり、ぽたりと。観鈴の瞳から大粒の涙が零れだした。一つ、二つ、三つ、四つ。そこからはもうカウントすることは出来なかった。
 観鈴は、泣いた。
 小さな子供が母を求めて泣くように。
『あの子ね、泣くのよ』
 美琴の言葉が蘇る。小学生の頃から観鈴のことを知っていた彼女は、その様子を克明に由紀に語った。友達同士で仲良く遊んでるとすぐ。下手をしたら授業中だってお構いなし。小学校低学年から中学年にかけてが一番酷かったらしい。一度それを見てしまうと、誰もが彼女を気味悪がって近寄らなくなる。事実自分がそうだった、と美琴。
 観鈴の慟哭が辺りに響き渡る。こんな時に限って誰もここを通りすがらない。しかし、誰に助けを求めたとしてもどうすることも出来ないのは、本人が一番自覚しているはずだった。
 美琴の話を聞いておいて良かった。皮肉ではなく、由紀はそう思った。事前に知っていなかったら、きっと由紀は逃げ帰っていただろう。それが本当に良かったのか。後になってからも、考えてしまうことがあった。
 由紀は、泣きじゃくる観鈴の傍にいた。何も出来ず、ただ彼女の傍に腰掛けて嵐が通り過ぎるのを待つように。一時間が過ぎ、二時間が過ぎた頃、辺りは赤く染め上げられていた。諦念が由紀という器を満たし始める。人間という種が使う必要のない感覚器官が開いていく。結局自分は黄昏の時まで彼女に付き合うことになってしまった。由紀はそのことを後悔したのかもしれない。しかし、それでもなお由紀が観鈴のそばを離れなかった理由。それこそが全てを物語っていることに、観鈴も、そして由紀も、とうとう気付くことはなかった。
 由紀は観鈴を透かして黄昏を見る。ゆっくりを頭をもたげる一つのビジョン。奇妙な高ぶりと、どうしようもない落胆が同居するバッドトリップの最中、どうしてだか由紀はずっと前からこうなることを望んでいたような、そんな満足感を覚えた。由紀は自分に嘘を吐いていた。本当は観鈴を始めて見た時からずっと感じていた。
 私は彼女の終わりを知りたい、と。
 なぜだろう。そんな自分にはほとほと嫌気がさしていたはずなのに。どうして彼女を見ると高ぶる? どうして私は彼女の終わりを望む? 何一つまともな解答は得られず、また得るために具体的な行動を起こすきっかけもなかった。自分から進んでそれを見たがるような外道ではないと。由紀は自分がそういうものではないと信じたかったのだ。
 そして、由紀が自ら張った予防線も破られてしまった今、果たして彼女の網膜に映し出された一つのビジョンがあった。

 それは、――。

 最早誰のものともしれない叫び声が響き、由紀は脱兎の如くその場から走り去った。
 少しでも遠くへ、もっともっと遠くへ。
 あのイメージが追いつかないくらい遠くへ逃げないと。
 しかし、どこまで逃げようとアレからは逃げ切れない。
 誰も逃げることは出来ない。
 出来ないんだ。

 由紀が見たのは、紛れもなくこの星の終わり、そのものだった。










4.

 私には昔から人とは違ったものが見えた。私の目が生まれつき特別製だったのかもしれないし、成長のどこかで拾ってきたのかもしれない。そんなことは、割とどちらでもいい。私にとって重要だったのは、物心ついたくらいの頃から、夕暮れになると私は他人の終わりの瞬間、すなわち死の瞬間が見えてしまうということ。それは自分の意志では制御できないこと。瞑ることの出来ない目など、ただの拷問に過ぎない。
 始めはそれが何だか分からなかった。実際の目で見ているその人に重なって見えるビジョンが一体何を意味しているのか。分からないままに私は成長した。映画や何かでどんなに凄惨な場面が演じられようと、私はけして怖がらなかった。もっと生々しいイメージを見慣れていたからだ。
 その日、私はたまたま出会った近所のおじいさんの終わりを確認した。もっともその頃はそれがその人の死だなどということは分からなかったから、ただ通りすがっただけのことだった。
 十分後、家の周りがやけに騒がしくなった。私はおじいさんの様子が気になって家の外に出た。すると、道端でおじいさんは哀れな肉片へと成り果てていた。私はそれを見て、自分の見ているビジョンがなんだったのかを知った。私は家に駆け込むと、すぐさま胃の中にあった全てのものを吐き出した。何のことはない、私が見ていたのはその人の「死」だったのだ。私は、私の周りにいる全ての人の死を確認していることになる。イメージが私を取り殺そうとしていた。行動パターンを変えよう。夕暮れと他人を一緒に見ないようにすればいい。だが、そんなこと可能なはずはない。誤って見てしまうことは何度でもあった。その度に私は何度も吐いた。数え切れないほどの終わりを確認した後、私は他人に対して興味を示さない子供になっていた。もちろんそれを表に出すことはない。表面上は普通を取り繕わなければならない。過疎地への転居が決まった時は内心喝采を挙げた。人が少ないに越したことはない。叶うなら、あんなもの一度だって見たくはない。
 しかし、そんな気持ちとは裏腹に、私の興味は死そのものへと向かっていった。死を想起させる音楽、絵画、芸術に興味を持ち、死後の世界に思いを馳せた。最も私の心にある死のイメージと合致したのは、夜の空だった。底知れぬ夜の闇に包まれると、どんなものでもいつかは終わることをイメージとして知ることが出来た。そうやって全てを諦めることが出来ればどんなにいいだろうと、いつだって夜空を見上げて妄想した。しかし、私は同時に自分がその境地に至ることは永遠にあり得ないこともまた事実として知っていた。
 こんなに壊れてしまってもなお、私は青い空への憧れを捨て切れないでいるのだ。


   ◇◆◇◆◇


 後輩が胸に黄色いリボンを付けてくれた。卒業式は体育館で行われる。入場行進の様子をテレビカメラが取材している。廃校になる学校をテーマにドキュメンタリーを作るのだそうだ。無論、由紀はそんなことに興味はない。辺りを見回せば、ほとんど見知った顔ばかりだ。ほとんどの人間はこの時点で既に進路は決定している。この街に残ることを選んだ人は少ない。皆どこかしらの都会へ行く。リボンを付けてくれた後輩の女の子も確か都会行きだ。由紀自身も、自分の性質と逆行するように都会へ行くことを決めている。なぜかは自分ですらよくわからない。終わっていく街にいたくないだけなのかもしれない。そしてそれは、みんな同じなのかもしれない。
 入場が始まろうとしている。終わりの始まり。由紀は身を竦ませる。
 無意識に集団の中に観鈴の姿を探した。当たり前のように彼女はいない。あれからずっと、彼女は学校にすら来ない。彼女には酷なことをしてしまったと、由紀は思う。結局の所、美琴が持ってきた彼女の噂は紛れもない真実だったのだ。仲良くなってきた頃に起こる謎の癇癪。小さい頃からずっと治らぬ彼女の悪癖。あの時の顛末を観鈴は未だに気に病んでいるのだろう。
 気にする必要なんてないんだ。私になんて気を使う必要はないんだ。私は黙って他人の終わりを覗き見するだけしか能のない卑怯者なんだから。
 そう言ってしまえれば良かったのかもしれない。しかし、そうするにはあまりにも彼女の終わりは鮮烈過ぎた。
 アナウンスと共に、この学校の終わりが幕を開けた。観鈴のいない卒業式が始まり、終わる。なんて空虚な喜劇なのだろうと、由紀は思う。


   ◇◆◇◆◇


 由紀は一人、終わってしまった学校をその頭上から俯瞰していた。笑顔で友と談笑する者、泣きながら不変の友情を誓い合う者、恋を告白する者、冷めた目であっさりと学校を後にする者、そして由紀の姿は学校の屋上にあった。
 観鈴の手を引いて、屋上に連れてきた日のことを思い出す。彼女は震えていた。今から思い返せば、あれは失うことへの恐怖だったのだ。原因不明の発作が、彼女の周りから人間を一人残らず奪い去っていく。望めば望むほど、希望が自分から遠ざかっていく悪夢の中に彼女はいる。どうせ無駄になるのに、わざわざ徒労を選ぶ人間がどこにいる? 由紀には、観鈴がとった無色透明の擬態の意味がわかっていなかった。諦念だ。この世の物が全て、すべからく無常であることへの儚い反抗だったのだ。
 どうせ失ってしまうのなら、最初から望まなければ良かったのだ。
 それは、由紀にとっての到達点でもあったのかもしれない。しかし、今となっては哀しいだけだった。ただ、哀しい。由紀の目からは涙も零れなかった。

 ――こつん。

 後頭部に何か軽い物がぶつかった感触に誘われて、由紀は後ろを振り返る。そこには由紀に観鈴と関わる覚悟をさせた人、そして由紀が唯一「終わり」を視認した担任教師の谷渕だった。
「な――」
「いいから、それ」
 谷渕は床に落ちたそれを指差す。紙飛行機だった。由紀はそれを恐る恐る拾い上げる。
「今朝届けられた物だ」
 宛名には、自分の名前が書いてある。堅そうな便箋に似合わぬ丸文字。差出人の名前を確認した後、由紀の耳は一切の情報も受け付けなくなった。
「神尾から、だ」
 谷渕は胸のポケットからタバコを取り出して火をつける。普段の彼女ならけして校内でタバコを吸ったりはしない。しかし、もう終わったのだ。卒業式をもってこの学校は終わってしまったのだ。そんな感慨が、彼女の手をタバコへと伸ばさせたのかもしれない。由紀の目はせわしなく紙面を縫う。
 やがて、読み終えた由紀の目からは一筋の涙が零れた。谷渕は紫煙を吐き出す。どこまでも見渡せそうな、澄んだ空気の好日だった。
「お前には、悪いことをした」
 谷渕の独白。由紀の耳を刺激する。
「私は、神尾が皆と歌えないことを知っていた。あいつの性質を知っていた、という意味だ」
 タバコを地面に捨て、踏み消す。地面に残る黒い焦げた跡。そしてまた新しいタバコに火を点ける。一連の動作が様式として確立されている様は、美しい。それが例えどんな行為であっても。
「私のやったことは、結局偽善だったな。無駄だとわかっていて、お前に面倒を押し付けた。悪いと思っている」
 そんなことはない。否定したい気持ちが渦巻くが、それが言葉になることはなかった。あの日の観鈴のように、涙が後から後から流れて落ちていた。
「しかし、神尾には知ってもらいたかったんだ。誰かと何かをする喜びを。そして、お前にも、な」
 目を丸くして谷渕を見る。谷渕は自嘲気味に笑っていた。
「同じ穴のムジナってやつさ。その手のムジナは同類の匂いには敏感なのさ」
 違う。私と同類なんていない。
 由紀は心の中で叫んだ。
「お前、全て無駄だと思ってるだろう?」
「……っ!」
 鋭い言葉を向けられ、由紀は息を呑んだ。
「否定はしないさ。この世界は考えようによっては全て空しい。いつかは何もかも全て無くなってしまう。でもな、お前に一つ、聞きたい」
 吸いきっていないタバコを指で弾いた。足元に転がる。手にした手紙が風に揺れていた。約束の場所を指し示すように。
 届かない場所がある。
 どんなに息を切らして走っても。
 しかし、走れる足を、お前は持っているんだから。
 そして谷渕は、言葉を紡いだ。

「お前が神尾と過ごした時間は、全て無駄だったのか?」











5.

 そして千回目の夏が過ぎ、私はいつかの日に観鈴と歌ったあの場所に来ていた。

「そんなことがあったんか」
「ええ」
「……って、その手紙学校に届けたんは実はウチやったんけどな」
 そう言って晴子さんはがっはっはと豪快に笑った。観鈴の母親と、言われた瞬間はどうにも信じられなかったが、こうして喋ってみるとどこか同じ匂いがしている気がした。
「しっかし、ウチに言わせればや。いっちばん意外なのはアンタやな」
「わ、私ですか?」
「そ、アンタ。観鈴は、ほんっっっっとに友達いてへんかったからなぁ」
「あはは」
 間違いない。私は素直に笑った。
「友達らしきモンなんてな、ウチが知ってるうちでは、アンタの他には一人だけ」
「それってさっき晴子さんの話の中に出てきた男の人のことですか?」
「そ、国崎往人。どっかであったらウチの分までシバキたおしといてや」
 私にとっては、その男の人の存在こそ意外だった。観鈴はどう間違っても自分から男の人に声をかけるような性格をしていなかったはずだ。
 そう言うと晴子さんはまた笑った。
「うん、ウチもな。観鈴がアイツを連れてきた時は面食らったもん。後で飲みながらアイツは『実は強引に連れて来られたのは俺のほうだ』なんて言いよった。嘘やろーってな。その時は全く信じんかった」
 そして、私たちは言葉もなく海と空、視界を汚す飛行機雲を眺めた。
 私は浜辺で遊ぶ一人の幼子を幻視していた。これは憶測に過ぎないのだが、晴子さんもきっと同じものを見ているのではないだろうか。それを証拠に、何もない浜辺を見つめる晴子さんの目は酷く優しい。
「でもな、アンタの話聞いててな、なんとなく分かった気がするわ」
 立ち上がる。そんな仕草も観鈴とよく似ている。きっと観鈴はこの人を見て育ったのだ。そんな当たり前のことが今更ながらに感じた。
「きっと観鈴はアンタの真似をしたんやろな。自分から声をかけて、友達を作る。そんなウチらからしたら当たり前のことでも、きっとあの子にしたらえらい新鮮なことやったんやろ」
「そう……でしょうか」
「そうや。ウチが言うんやから、間違いない」
 自信たっぷりに言い切った。未だに自信が持てない私には、晴子さんの姿は眩しかった。あれ以来、夜の闇にも、光溢れる青空にも、等しく価値を信じられないでいる自分がいる。
「アンタ、さっき観鈴の『終わり』に、星の終わりを見た。そう言うてたな」
「はい」
 あのイメージだけは今でも忘れられない。それくらい私にとって鮮烈なものだった。
「でもな、あの子のゴールは、そんな大層なもんやなかった。最後まであの子らしく不恰好で、それでも必死で。あっこから、あっこまで。たったあれだけの距離や。たったあれだけの距離をえらい時間をかけて、よちよち歩きで、それでも歩き切って見せた。星の終わり? そんな大層なもんは一つもあらへんかった。でも、あの子にはウチがいて、ウチにはあの子がおった。そんなゴールやったんや」
 どこで彼女の運命は変わったのだろう。
 私が晴子さんの話を聞いた時に、そう思った。
「きっと、その国崎往人さん。その人が観鈴を良く導いてくれたんでしょうね。それに晴子さんも」
「そうやな、でも、ウチの考えはちょっと違う」
「……?」
 晴子さんは遥か空の彼方に思いを馳せている。そう見えた。その向こうに観鈴はいるのだろうか。
「観鈴の運命を変えたのは、多分アンタや。それまでのあの子はずっと家に閉じこもって、家の中から外を眺めるだけやった。物欲しそうな目ぇしてなぁ。アンタと出会って、あの子は変わった。それだけは確かや。自信持ってええ。アンタは人の運命を変えた。アンタがおらんかったらあの子は一生一人で不幸せな人生を送っとったかもしれん。長生きしたって、そんな人生、寂しいだけや。本当に、ウチはアンタに感謝してる」
 そっとハンカチが差し出された。私は自分でも気付かない内に泣いていた。恥ずかしくなるくらい大粒の涙を零して。こんな私にも、そんなことが出来たのだと思うと、次から次へと涙が溢れて、止められなくなった。そんな私の頭を撫でる温かい手。私は声を上げて泣いた。泣けなかった子供の頃の涙まで、全部。
 観鈴。
 観鈴。
 みすず――


 ――由紀ちゃん。


 遥かな時を越え、私を呼ぶ声を聞いた。
 手紙に書かれた待ち合わせの場所。
 それは私たちの思い出の場所。
 古びたラジカセのスイッチを押して、声を合わせて歌った約束の場所。


 そして私は。

 あの日あの子に言えなかった言葉を、彼女の前で組み上げることにした。




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