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「あっ! あーっ! 岡崎君もしかしてわたしの名前忘れてるっ!? 忘れてるっ!? ひっどーーいっ! わたしとのことは、遊びだったんだぁーーっ!!」
「なっ……人聞きの悪いことを天下の往来で叫ぶなっ!」
「ぐすんぐすん……じゃあわたしの名前覚えてるの?」
「ぐっ……っておいっ! ちょっと待てっ! 今思い出すからっ! ……え〜〜っと……」

 また考え込む俺を見て、心底呆れたように溜息をついた彼女は、

「もう……じゃあこれでどう?」

 そう言ってセミロングの髪を後頭部で両手で一つに結んだ。
 ……ん?
 あのポニーテールは……
 昔、高一の時の教室で、杏と仲が良かった……

「……もしかして、日高?」







 そんな彼女の、もう一つの、オリオン。














Another Orion
















 秋の風がわたしたちの少し冷たくなった頬をさらりとなでた。
「なんか今年は急に寒くなっちゃったね」
「うん」
 もしもこれが男と女で、恋人同士で、アツアツらぶーな関係だったら話はもっと盛り上がるのになぁとか思うけど、現実はそんなに甘くはないんだよね。でも、辛くもなければしょっぱくもない、今の所は何の味もしない私の現実。変えてみたいなって、高校生の頃二人で日が暮れるまで話したことをふいに思い出したりして。
「ぷっ」
「うん? どうしたの?」
「いや、だって、杏の頭っ」
 もみじがちょこんと可愛くのっかってんだもん。かわいーかわいー。
「杏すっごくらぶりー」
「ほえっ」
 珍妙な鳴き声をあげて頭の上を手加減なしでわっしゃわっしゃ払ってる杏の姿は女の私から見ても、
「欲情せずにはいられないのだった」
「殴るわよ。手加減抜き甘さ控えめで」
「ミルクは入れてよね」
「善処するわ」
 ごちん。
 鈍い音が鳴ったと思ったら、わたしの目の前でお星様が2、3個並んで仲良くタップダンスしている。
「いたい」
「痛くしたもん」
「杏の鬼ー」
「辞書使わなかっただけありがたいと思いなさいよね」
 ちょっとだけ血の気が引いた。高校生の時からずっと怖くて聞けないんだけど、杏って一体どこから辞書出してるんだろ? そんなにおっきなバッグ持ち歩いてるわけでもないし、四次元ポケットだって多分持ってない。
「まさか、投影魔術じゃ」
「え、なにそれ」
「いや、こっちの話だよん」
「はぁ、アンタの言う事は相変わらずよくわかんないわ」
「杏のツッコミ属性をいい感じに刺激するでしょ」
「アンタといると誰だって否応無くツッコミにならざるを得なくなんのよ」
 高校卒業以来久しぶりに出会った杏と私は、少し冷たい秋風の中、2時間くらいこんな調子で馬鹿話をしたのだった。進んだ大学も違うし、高校の時にしたって1年生の時に1回同じクラスになったきり。でも、わたしがこんなにも気を許せるのは杏だけだし、私の思い上がりでないのなら杏にしたってそうなのだろうと思う。例えどれだけお互いが変わってしまっていても、私と杏の関係は変わらないのだろうし、そうあるべきだと思っている。
 要するに、簡単に言えば私は、杏のことが好き――なんだな、うん。
「さて、これからどうしよっか」
 杏はまるで踊っているような軽やかなステップで反転し、わたしに向かってにっこり笑いかける。
 うん、やっぱり杏には笑顔が似合う。そんなこと、私たちみたいに長い間親友やってなくたって、すぐわかんなきゃいけないことだと思うんだ。そうでしょ?
「とりあえず飲めるところ――っ! いこっ!」
 さっきのお返しとばかりに、ばしっと強めに杏の肩を叩く。
「いった――い! こらっ、ちあきっ! 待てコラっ!」
 まるで10代に戻ったかのようにはしゃぎ回る。お酒は飲めるようになったし、選挙にだって行けるようになった。出来るようになったことは山ほどあるけど、その代わり出来なくなったことだって山のように、ある。こんなふうにはしゃぐことだって、その中の一つなんだろうと思う。
 私たちは一体どれだけのものを失くしてきたんだろう。そんなこと、考えたってわかんない。考えたってしょうがない。
 とりあえず今言えることは、
「あ、杏の奢りだよね」
「辞書の出番かなっ」
「あっ嘘っ、じょーだんだってー」

 私――日高ちあきと、藤林杏は、唯一無二の大親友です。












 え、冗談でしょ? なんでなんでなんで? わけわかんない、だってあんたらうまくいってたじゃない? どうして、ねぇ、泣いてちゃわかんないよ――

 そう言って、杏を問いただすことしかできなかった私は、今にして思うと随分と残酷なことをしてしまったと思う。その時の杏はただひたすらに泣くばかりで、私の質問に一つもまともに答えることが出来なかった。壊れた機械のように、ただ一言を繰り返すだけ。

「しょうがないんだよ」

 今ならその言葉の意味を理解する事が出来る。でも、あの頃の私にとってその言葉は何の説明にもならなかった。恋ってものが、熟したオレンジのようにただただ甘酸っぱいものだって、何の疑いもなく信じられたあの頃の私には。


                    ∞  ∞  ∞


「やっぱり男は経済力がなきゃ」
 だよねだよねーと会議室を借り切っての弁当パーティーに花が咲いている。私はと言えば、二日酔いで痛む頭を押さえつつ、駅前で買った焼き立てがウリのパンを牛乳と一緒にほお張っている。やっべー飲み過ぎたーと思っても、後悔はけして先に立つことはないのだった。
 仕事柄なのか、職場の同僚の女性には姦しい女性が多い。まぁ私も人のことは言えないんだけど、彼女らの甲高い声は、二日酔い頭痛の私には堪えるんだよなぁ。
「ねぇ、日高も行くでしょ?」
「え」
 やべ、聞いてなかった。
 微妙に空気を読めない同僚がまくしたてる。
「ほっらーこの前言ってたアレだって! K社との合コン! 日高もこの前乗り気だったじゃなーい!」
「あーアレかぁ」
 そう言えば、そんな話もあったっけ。言われるまですっかり忘れてた私が言うのもなんだが、先週私自身も結構ノリノリで話を進めていたのを思い出す。
「あの話、一応今週の土曜ってことになりそうだから。空けといてよね」
「あー、らじゃらじゃ」
 オッケイ、とリーダー格の25歳独身彼氏無しが満足気に頷く。その年にもなると男探しも段々とのっぴきならなくなっていくのか、彼女が出す『彼氏に求める条件』は段々とゆるくなってきている。私のような若手社員にとっては思いっきり現実を見せられたような気になってブルーになるのだ。
 まず第一に、収入が安定していること。
 第二に、女性関係がそこまで派手ではないこと(全く無いのも困りものらしい)。
 第三に、生活観が合うこと。
 条件として挙げられるポピュラーなものは、大体そんなところだ。その人曰く、企業名で男の価値をある程度判断出来るらしく、よく「H社とかK社ならいい」とか「B社ぁ? 駄目駄目、パスパス」というようなことを言っている。最近は大分マシにはなってきているのだが。
 会議室で咲く話の花は、そんな女の打算と理想論で埋め尽くされている。いつもは私もその輪の中に入って、一緒にきゃいきゃい言ってる方なのだが、今日に限っては何故かそんな気分にはなれそうもなかった。別に二日酔いだから、とかそういうことではないと思う。
「あれぇ、日高元気ないじゃん。どうしたの?」
「いや、ちょっとねー」
 そう言って即座に他の話題を提供し、話の花を咲かせるのに一役買う。短大を卒業して就職してから1年半。こんなスキルばかり身につけてしまっている自分が少し悲しくなった。

 ――ねぇ、嘘みたいだよね。
 ――あれからもう4年も経っちゃうなんて。
 ――ねぇ、どう思う?

 昨日の杏の言葉が二日酔いの頭の中をぐるぐるとかき回す。3年もの時間は私を大人にしたのだろうか。それなら大人になるってことは、汚れていくってことなのだろうか。
 杏は相変わらず綺麗だった。あの頃と何も変わらない。でも、杏に言わせると、私の方が凄く綺麗になっている、ということらしい。
 それは違うんだよ、杏。
 私のはただ、隠す技術と化粧の腕が上がっただけなんだ。
「どうしたの? 日高、大丈夫?」
 25歳独身彼氏無しが、私の顔を覗き込んでいる。探られても、私の顔からは何も溢れては来ないんと思うんだけどなぁ。
「それでさぁ、日高に折り入って頼みがあるのよ」
「え、何ー? 変なことなら」
 私は両腕をバッと勢いよくクロスして胸の前で罰点マークを作る。
「そんな変なことじゃないわよっ! あの、実はね。その土曜日なんだけど、キヨミが野暮用で来れなくなっちゃって、メンバーが一人足りなくなっちゃったのよ。向こうにはもう4人連れて行くって言っちゃったから早急に誰か必要になったわけ」
「ふむふむ……で?」
「日高、誰かいない? 適当な子」
 ちらりと一緒にランチしてる他の子達を見ると、皆一様に目線を逸らしやがった。あーそうですかそうですか。彼氏持ちはいいですわねー、ちきしょうめ。
「いくら私でもそんなホイホイとは」
「そこを何とかっ」
「うーむ」
 心当たりが無いわけではなかった。というか、むしろ大アリだった。
 私が言いよどんだ理由を、私自身は痛いほどに理解している。
 朱に交われば赤くなる、と昔の人は言った。あれから4年以上の時間が経ってなお純白の衣のような彼女を、選りにも選って私の目の前で朱色に染めてしまう事への躊躇い。私の思考が過保護過ぎるのかもしれないが、彼と別れてからの杏は、それくらい危ういバランスの上に成り立っているのだと思った。
 私は彼女に曖昧な返事を返し、「仕事があるから」と適当なことを言ってその場を離れた。
 会議室を出た私はデスクには戻らずに、社内に設置された自動販売機で飲み飽きた紅茶を買い、駆け足で階段を上った。最近運動不足の私は、たった3階分の階段を上るだけで呼吸が滅茶苦茶荒くなってしまう。はぁはぁ言いながら屋根裏のような薄暗い通路を抜けて、金属製の階段を駆け上がる。カンカンカンと、ハイヒールと階段がぶつかる小気味良い音がして、私の胸は期待でどんどん膨らんでいく。

 ――ほらっ、ちあきっ! 早く行こっ!

 不意にあの頃の私たちがフラッシュバックのように私の網膜を揺らした。何にも出来ないくせに、何でも出来ると夢ばかり見てた愚かな私達。そして、何でも出来るくせに、何か夢見るだけのパワーを失くしてしまった、今の私達。

 ねぇ――杏。
 私、そんな台詞、聞きたくなかったなぁ。

 屋上へと続く思い鉄の扉を、両手で思い切り押し開ける。目も眩むばかりの光の中に、私は意を決して飛び込んでいく。そこには私が期待した通りの青い空があった。こんなにも青いのに、どうして私は溜め息なんて吐いてるんだろう。まったく、嫌になっちゃう。

『私も早くあいつのこと、忘れないとね。いつまでも叶わない夢なんか見てたって、しょうがないもんね』

 杏をぶん殴る代わりに酒ばかり飲んだ私の頭は、青空の下、相変わらず二日酔いでぐるんぐるん回っている。とりあえず手帳に『土曜、合コン』と書き込んだ私は、空を仰いでもう一回大きな溜め息を吐いた。

「まだ、未練たらたらのくせしてさ……夢とか言ってんじゃないわよ、バカ杏」

 水しぶきが顔に当たった。飛んできた方に目をやると、ビル空調のために設置されている馬鹿みたいにでっかい機械が、ウォンウォンと今にも泣き出しそうな音を立て始めていた。



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