「杏、あんた……本当にこれで良かったの?」
 手にした筒でポンポンと凝り固まった肩を叩く。大した重みもないその筒では、肩叩きにもなりゃしない。ムキになってガシガシと叩いていたら、周りの皆様から非常に生温かい視線を頂戴してしまい、私は渋々筒を下した。
「ちあきの仕草は時に物凄く親父くさいから気を付けた方がいいわよ」
「そんな話はしとらんわ」
 わかってるわよ、と言う代わりに足元の小石を思い切り蹴り上げる杏。勢いがついた小石はてんてんてんと、私たちを3年間苦しめた長い長い坂道を転がっていく。削れて削れてまた削れて、角が取れてまん丸くなっていく小石を想像すると、何故だか分からないが涙が出てきた。
「あれ、ちあき、泣いてるの?」
「う、うるさいっ! そういう杏こそっ」
 目を真っ赤に腫れさせて、小石が転がっていくのを眺めているのは杏にしたって同じだ。
 坂道のサイドを飾るはずの桜はまだ時期が早いのかまだ咲いてはいない。今にも零れそうな大きなつぼみは、咲ける瞬間を今か今かと待ちわびているのだろうか。待たせるだけ待たせて結局咲けない花だって、その中にはきっとあるのだと思う。
「はぁ」
 どちらからともなく溜め息を吐いた。
「幸せが、逃げるよ」
「もうとっくに逃げてるよ」
「そういうコメントに困るブルー発言禁止」
「はぁーい」
 杏が、素直だ。ちょっとびっくりした。やっぱりそういう自覚は、あるのかもしれない。
「終わっちゃったねぇ、高校生活」
「うん」
「あーあ、もっといっぱい遊びたかったのになぁ」
「杏は大学、4年制だからまだまだ遊べるじゃない。私なんてさ、頭悪いもんだから、短大だよ? 遊ぶ間もなく勉学に追いまくられて、2年経ったらソッコー就職なんてさ。もう、お先真っ暗」
「私だってそんな遊んでる時間なんてないわよ。先輩に聞いたんだけど、実習実習レポートレポートだって。はぁ」
「そっかぁ、杏は幼稚園の先生になるんだもんね」
「幼稚園の先生になっても、アンタの子供の面倒見るのは真っ平御免だわ」
「ちょっと、それどういう意味よ」
「見たまんまじゃない」
「あはは」
「あは」
 こうして杏とくだらないことで笑い合うのも今日が最後かと思うと感慨深い。卒業してしまったら、杏も私も互いに多忙な日々に否応無く巻き込まれて、こうやって二人で会える時間などほとんんどとれなくなってしまうだろう。今までなんとなく過ごしてきた時間がどれだけ大切な時間だったのか、失くなってしまう時になってやっとそれが分かるなんて、まったく皮肉なものだ。
 こうして騒ぎながらも、刻一刻と終わりの時間は近づいてくる。ゆっくりと坂道を下る私たちは、その終わりを敏感に感じ取っていた。
「こんなに、この坂、短かったかなぁ」
 杏も私と同じ事を考えていたみたいだ。杏がいつも乗っていたバイクが置いてある坂のふもとまで、後数十メートル。私たちは一歩ずつかみしめるように、ゆっくりゆっくり下っていく。
「ねぇ、杏」
「なに?」
「もう最後だからさ、本当のこと言おうよ」
 私は、最後の最後に、容赦なく杏の傷口に触れた。もちろん避けることも出来た。杏につけられたこの傷口を、見て見ぬふりをして別れるなんて、私は死んでもしたくなかった。
 だって、杏と私は、友達なんだから。

「杏、本当に後悔してないの?」

 杏は、少し笑った。杏らしくない、本当に杏らしくない、目を背けたくなるような痛々しい笑顔だった。かちゃり、とバイクのエンジンをかける杏。私の中には、彼女にかける言葉など、ただの一つだってありはしなかった。
 ぶるん。
 杏のバイクが静かに震え、杏は走り去った。いつもの、間抜けな排気音をあたりに撒き散らしながら。それが、高校生活最後に見た藤林杏の姿だった。

 あれから4年が過ぎた今も、私はあの日の答えを未だに受け取っていない。



   ∞ ∞ ∞



 平日よりも少し華やかさを増した駅前の雑踏を眺めながら、私は無意識のうちにぱたぱたと足を踏み鳴らしていた。俗に言う貧乏揺すりというやつかもしれない。この間の給料日に大枚はたいて買ったエルメスのミュールは、高いだけあって流石にいい音を出している。
 私の真上にある、待ち合わせの目印の時計を見る。9時半。約束の時間のちょうど30分前だ。
「――はぁ」
 私が、約束の時間に30分くらい遅れても、「ごっめーん! おまたせー!」とかぬかしてにっこり笑えば許してもらえるような女だったら良かったのに。もし、私がそんな真似の出来る可愛い女だったなら、私の人生はもうちょっとくらい明るいものになっていたのかもしれないとは思う。だけど、実際にそんなことをしている女を見ると、胸がムカムカしてくるのも事実だった。
「ごめん、ちあきっ! 待った?」
 約束の時間までまだ間があるってのに、たかたか走って現れたのは、私と同じく可愛くなれない女、藤林杏。 「まったく、あんたも相変わらず可愛くないわね」
「朝っぱらから、喧嘩売ってるなら買うわよ? 高値で」
「そういうところが可愛くないのって言ってるの!」
 杏のこういう所は高校時代から変わってない。自分の事を棚に上げて言うならば、杏はもっと自分を可愛く見せる術を身に付けるべきだと思う。男は、綺麗なだけの女より自分に好意をもっていると錯覚させてくれる女の方が好みなのだと、やっと私も最近分かりかけてきた。問題は、私も杏もそんな雰囲気を計算で出せるほど男擦れはしていないということだ。私たちくらいの年齢になってそんなことを言っていてもいいものかどうかは判断に困ってしまうのだけど。
「でもさ、杏。あんたよくOKしたわね。今日のこと」
 そんなことを言いながら、さりげなく杏の服装を上から下までチェックする。茶色のシンプルなローファーに少し短めのスカート。クリーム色のスウェットに胸元のリボンはちょっと制服チック。左サイドに結ばれた白リボンは高校時代からの御馴染みのスタイルだ。
「ん、まぁね」
 杏は曖昧な返事をして答えを濁した。杏は困ったことや答えたくない事を聞かれた時、往々にしてこんな答え方をする。こんな所も高校時代から変わっていない。
「べ、別に他意はないわよ。そういうちあきだって現にこうして来てるじゃない。あんたこそどうなのよ」
「私は可愛い可愛い杏たんの終身名誉保護者だもん。えっへん」
「……」
 返す言葉も失って沈黙する杏。その目が哀れんでいるように見えるのは、きっと私の気のせいだろう。うん。
 肩を並べて、心の底では待ってもいない人間を待ち続ける私たち。傍から見たら酷く滑稽に見えるのだろう。いや――ごめん。嘘吐いた。傍から見たって、私たちが滑稽なのかどうなのか。そんなことを判別する方法なんて無い。滑稽かどうかを決めるのはいつだって自分でしかない。
 大事にしなければいけないものって、きっと私たちが思うほど、そんなに多くはないんだと思う。受け売りと決まり文句で構成された下らないポップソングに教えてもらうまでもなく、恋愛が人生の全てを埋め尽くすことが出来ないように。
「……ぁ」
 杏よりかは多少目端の利く私は、目当ての人物を人ごみの中からまんまと見つけ出してしまう。視線と視線が出会ってしまう前に、私は瞳を閉じてしまう。このまま放っておけば、彼らが私たちを見つけるだろう。杏が彼らを見つけてしまうという事態は、あり得なくはないが果てしなく確率は低い。ならば、このまま。問題先送りそのまんまの膠着状態を維持。あちらが勝手にこちらを見つけるのを、私たちはただ待てばいい。
 合コン後初デート、遅れてきた男どもに笑顔で手を振ってしまうような間抜け女にだけは、けしてなってはいけない。



   ∞  ∞  ∞



 ある晴れた休日前の金曜日のことだった。

「ちあき、ちょっと相談があるんだけど」
「いいけど、高いよ?」
 無言で殴られた。痛い。
「こっちは真面目な話だってのに。こいつは」
「ガンジズムは死んだーっ」
 非暴力、非服従の偉い人の名前を出しても、杏の拳は基本的にノンストップ。杏のクラスが世界史やってないせいだ、ちくしょう。
「こちとら覚えたくもない片仮名ばっかし覚えさせられてるというのに」
「いい加減話聞いてよぅ……」
「あ、杏がいじけた」
 レアだ。
 珍しさのあまり写メりたくなる衝動は私の悪戯心をくすぐるのに余念が無いが、ここは我慢とぐっと抑えて話を聞くことにする。
「とはいえ、杏の話と言えば専ら岡崎君のことに違いないので、また散々のろけ話を聞かされる羽目になる自身の運命を、私は呪うのだった」
「声に出てるわよ」
「でも、事実」
「うぐぅ……」
 変なうめき声が杏の口から漏れた。あまり公言したくないことではあるが、ぶっちゃけあまり可愛くないと思う。
 そして、杏は語りに語った。語りまくった。次の日の土曜日が岡崎君との初デートであること。何を着ていくか。どこに行くのか。話題は。手をつなぐべきか。はたまた腕を組むべきか。キスは何回目のデートでするべきか。それとも行き着くところまで行ってしまうのか。行っちゃうのか。のか。
「イっちゃうのかっ!?」
「ば、ばかっ! 声が大きいっ」
 口をふさぎにくる杏の手。もみあい、もつれあい、じゃれあった。
 楽しかった。誰にでもある高校時代の思い出、そのほんの一幕。親友の恋の成就は少し複雑だったけど、概ね良好なものだったと言える。少なくとも私にとっては。前々から本当にお似合いの二人だったし、ありがちな嫉妬心すら起こらない微笑ましい二人だったはずだ。
「……杏? どうしたの?」
 杏はたまに呆然として言葉を失うことがあった。理由は分からない。だが、その兆候が表われ始めたのは確か杏が岡崎君と付き合うようになる少し前からだったと記憶している。
「……え? ……あ、ごめんごめん、何だった?」
 だが、その時私は気付かなかったのだ。杏が視界の端に映したある人の影。今になって思えば、それは杏自身が作り出した幻だったのだ。確証はないが、きっと。人の中に棲む怪物は、誰かの姿をとって人を苛むのではないか。杏は楽しい日々の影の中、ずっとその怪物を飼い続けた。自分でも気付けないほどのかすかな違和感。私が、杏の瞳の光にその影を見ることになるのは、それよりもずっと後になってからのことだったが。
 廊下の方から妙な視線を感じて、ちらりと伺う。数人の女生徒がひそひそと話していた様子。見覚えのある顔、無い顔。確か隣のクラスの子だ。何を話していたのだろう。分からないが、少し前から杏についての良くない噂を、私は耳にしていた。
「杏」
「うん?」
「明日は、しっかりねっ」
 にっこり笑ってVサイン――ならぬ、拳を握り中指と薬指の間から親指を突き出してみた。途端、杏の顔はみるみる内に朱色に染まっていく。
「ち〜あ〜き〜」
 杏が懐に手を差し入れるのを見て、私は即座に駆け出した。
「待てこら――――――――――っ!!」
 待つもんか。止まったら最後、辞書地獄が私を待っているのだ。
「待たない――――――――――っ!!」
 私と杏は走った。廊下も先生の注意も構わず。
 暑かった。
 確か、夏の少し前だったように思う。

 岡崎朋也は、藤林椋を弄んだ挙句に捨て、代わりにその姉の藤林杏にその毒牙を向けた。
 受験勉強の合間の戯れ、三年生の間でそうまことしやかに囁かれていた頃のことだった。



next
back
戻る



inserted by FC2 system