ちきんふぃれお


「ハンバーガー、というものを食べに行きませんか」
 君子が口にした言葉に、俊雄は軽く驚きを覚えた。一応「昼飯に何が食いたい?」などと珍しく意見を求めたのは俊雄のほうだったが、そもそも家内から具体的な答えが返ってくるとは思ってもみなかったのだ。結婚して三十年、俊雄が覚えている限り、君子がこういう形で自己主張したことなど今まで一度もなかった。一歩下がって亭主の影を踏まず、と言うが、君子の場合は一歩どころか三歩くらいは下がっている。いつだって何かする時は俊雄が決めて、君子はにこにことそれに付き従うだけ。そんなふうにして、二人は三十年と言う長い時間を過ごしてきた。子宝には恵まれなかったが、それなりに幸せな三十年だったと俊雄は思っている。
「いらっしゃいませ」
 店内に入ると、ひんやりとした冷気と元気の良い女性店員の声に迎えられた。俊雄は君子の手を引いて、三、四人並んでいる列の最後尾についた。
「で、お前は何が食べたいんだ」
 レジの真上にある品書きらしきものを指差して言った。本当なら俊雄が全て決めてしまう所だが、生憎俊雄もハンバーガーショップなどには来た事がなかった。
「そうですねぇ……」
 君子は品書きを見ながら何やら考え出す。わかってはいるが、まどろっこしい。こうしている間にもどんどん列は進んでいる。レジまで到達した時にまだ君子が答えを出していなかったら、もう俺が決めてしまおうと俊雄は思った。
 順番待ちがあと一人となったところで、ようやく君子は口を開いた。
「じゃあ、この『ふぃれおふぃっしゅ』とかいうの、これのセットにしましょう」
「ふぃれお、なんだって?」
「ふぃれおふぃっしゅ、ですよ、俊雄さん。お魚のバーガーです」
「はぁ」
 なんだか、わかったようなわからないような。
 そうこうしているうちに順番が回ってくる。
「なんたらふぃれお、のセットで」
 よくわからなかったので、耳に残った「ふぃれお」という言葉をそのまま言ってみた。こんな変な名前のバーガーはきっと二つとないだろうし、一部分だけでも言えばわかるだろう。
「かしこまりました! 少々お待ちください」
 一応店内で食べることにした。どれだけ待たされるのかと俊雄が気をもんでいると、二分と待たず品物が出てくる。
「簡単なものなんだな」
「そうですねぇ」
 君子はふんにゃりと笑った。
 一階の席に空きがなかったので、階段で二階にあがった。一階に比べて二階は空いている印象だった。窓際の二人席に君子と向かい合わせで座る。
「お前、ハンバーガーなんて食べたかったのか」
「なんとなく、ですよ」
 君子のふんにゃりした笑顔を見ながら、不器用に包装を解いていく。食べたかったなら、もっと早くに言えば良かったのにと、どうでもいいことを思った。それを君子にさせなかったのは俺かと、さらにどうでもいいことも思った。
「いただきます」
「いただきます」
 俊雄に続いて君子が言う。言うが早いか、俊夫はあんぐりと口を大きく開いて、かぶりつく。
「ん?」
 一瞬のうちに、違和感。
「君子」
「はい」
「これ、食べるな」
 俊雄の突然の制止に、君子の手が止まる。
「どうしてですか?」
「お前、これ魚のバーガーだって言ったろ。これの中身、魚じゃないぞ」
「何なんですか?」
「鶏肉……だな、多分」
「鶏肉、ですか」
「ちょっと待ってろよ、すぐに代えてもらってくるからな」
 ひょいとトレイを持ち上げる。
 畜生、あの店員、しれっとした顔しやがって、注文間違えやがったな。若干の苛立ちも覚えた。店員の対応によっては、こっちにも考えがあるぞ。
 つかつかと歩いていこうとした時、不意に服の裾を掴まれた。
 君子だ。
「なんだ」
「俊雄さん、私、それでいいです。食べましょう」
「だって、あの店員、注文間違えやがったんだぞ。取り代えて貰うのが筋ってもんだろうが」
 君子はふるふると首を振りながら、笑った。
「今回は私が注文したものですから、私がそれでもいいと思ったんですから、それでいいです」
「でも」
「ね?」
 本当に、どうしたんだ今日の君子は。ハンバーガーが食べたいと言ってみたり、俺が代えてきてやると言ってるのに、止めてみたり。どうにも気が削がれ、俊雄はまたどっかと腰を降ろした。
「お前がそういうなら、いいさ」
「ありがとうございます」
 改めて、食べ始めた。
「俊雄さん、中々美味しいですよ。このハンバーガー」
「そうだな、悪くはない」
 君子が美味しそうに食べているというだけで、まぁいいか、と思えた。そうやって落ち着いた気持ちで食べてみれば、鶏肉のハンバーガーも悪くはなかった。
「注文したものと違う物が出されたって、満足出来るものだな」
「そうですね……うふふ」
「何を笑ってるんだ」
「いえ、別に」
 何やらツボに入ってしまったようで、しばらくの間君子は小さな肩を揺すって笑い続けた。
 ひとしきり笑うと、笑いすぎて涙目になった瞳を向け、こんなことを言った。
「俊雄さん、三十年前に私にプロポーズしてくださった時、何て言ったか覚えてます?」
「……いや、すまんが覚えてない」
「『どんな時でも君を置き去りにしたりしない。どんなことでも二人で共有しよう。どんな困難も、幸せも、決断も。だから、俺と一緒になってほしい』」
 すらすらと、淀みなく君子は言った。
「俺は、そんなことを言ったか」
「はい、言いました」
「そうか」
 柄にもなく俊雄は顔を赤らめた。若き日の自分の台詞に照れたのではなく、その台詞をもってして結婚したにも関わらず、自分の勝手な決断に四六時中つき合わせてしまった最愛の妻に対する過去の自分の言動に対して、恥ずかしいと感じたのだ。
 何かを決める時、君子の意見を聞かなくなったのはいつからだったろう。生来せっかちな俊雄は、人よりもおっとりしている妻の意見を聞くことを、いつからか面倒だと思うようになってしまっていた。それでも君子は何も文句を言わなかった。何かを言いたいこともあったろう。腹に据えかねたことも一度や二度ではきかないのではないか。それでも君子はこうして自分の傍で、あの頃と変わらぬ笑顔を浮かべてくれているのだ。
 負けたと思った。
 男として、これ以上の負けはありえないのではないだろうか、と思った。
「俊雄さんが、珍しく私に聞いてくれるものですから、ちょっと調子に乗ってしまいました」
 うふふ、と笑って君子はトレイに手をかけた。セットとやらは、いつの間にか食べ終わってしまっていた。
 俊雄はぽりぽりと頭をかきながら、こう言った。
「旨かったか」
「え? 何がですか?」
 笑顔で問い返してくる妻の顔が小悪魔に見える。
 それを俺に言わせる気か、この野郎。
「ハンバーガー、旨かったかって聞いたんだ」
 妻の背中に吐き捨てる。
「美味しかったですよっ!」
 と、君子はまたふんにゃりと笑うのだ。



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