「理樹のことか?」
 柔らかくも鋭い恭介の先読みに「むぐ」と、鈴は言葉を詰まらせる。少し困ると、途端に黙り込んでしまうのは鈴の悪い癖だ。快活な見た目からは容易に想像出来ない引きこもり属性持ちの妹に、恭介は小さくため息をつく。ちょんまげよろしく頭のてっぺんに結ばれたポニーテールもどきが、ふらふらと所在なさげに揺れている。
「なんだよ。違うのか?」
「……違わない」
「鈴」
 ぽむ、と両肩に乗せられた手。即座に鈴の内部で第一級警戒警報(恭介専用)が発令される。
「婚約、おめでとう」
 音速の蹴りが恭介のテンプルを襲った。
「痛いぞ」
「ううううっさいぼけーっ!!」
 公道の端っこで思いっきり愛を否定する。
「ったく……お前は可愛くないわけじゃないが、いかんせん手が出るのが早過ぎだ。そんなんじゃいい嫁になれないぞ」
「いい加減嫁から離れろ馬鹿きょーすけ」
「へいへい」
 女にしておくのがもったいないほどに鈴の蹴りは鋭い。もしも彼女が男だったら、果てはサッカー選手か、K‐1か。夢は尽きない。
「で、理樹がどうしたんだ?」
「……むー」
 唸り出した。一度タイミングを逃すと中々言いにくいものらしい。
「きょーすけ、むちゃくちゃ言いにくいぞ」
「あぁ、今のお前を見てれば誰だってわかるさ」
「いや、これはもうぐちゃぐちゃだな。ぐちゃぐちゃ言いにくい」
「なんかえらく響きが汚くなったな」
 そのあともしばらくうんうん唸っていた。恭介は粘り強く妹の準備が整うのを待った。唸り始めて五分、ようやく小さな覚悟が決まったらしい。
「……苦手だ」
「苦手って……もしかして理樹のことか?」
 うん。
 大きく頷いた。
 鈴の苦手なもの。数え出したらきりがないくらい、たくさんある。人付き合いは特に苦手だ。知らない人とは話せないし、仲良くなれない。だから、鈴が誰かと仲良くなるためには、恭介という優秀なフィルターを必要とした。真人と謙吾にしても、結局は恭介を通じたからこその友だ。本当の意味で鈴に触れることの出来る人間は、兄である恭介しかいない。
 恭介はつい最近仲間になったばかりの少年の姿を思った。ひ弱で頼りなく、いつも寂しそうな目をしている。人恋しいくせに、どこか根っこのところで人を信じきることが出来ない。
「あたし、あいつ、苦手だ」
 鈴は自分で自分の発した言葉を確認するかのように繰り返した。恭介は「そうか」とだけ口にして、それ以上を言葉にしようとはしなかった。
 恭介は鈴に先んじて歩き出す。鈴はその背中を追うように駆ける。道路脇で揺れる街路樹からは蝉の声がしている。辺りには夏の匂いが満ち満ちている。












ダイブ














「うおおおぉぉぉ―――りゃああぁぁ―――――っ!!」
「どおおおぉぉぉ――ああぁぁぁ―――――っ!!」
 真人と謙吾の馬鹿でかい叫び声がこだまする。じーじーと、夏の入口のような空の下で鳴く蝉の声に紛れて、じょーじょーといかにも情けなさそうな水の音がする。裂帛の気合いから発せられる聖なる水流――ぶっちゃけ小便である。
 彼らの小水が標的としているのは、小さな町の小さな道には到底似つかわしくない車両。車体はいやらしく黒光りしていて、高価であるはずなのにやけに下品に見えた。
「――来たぞ」
 電信柱の陰に身をひそめて辺りをうかがっていた恭介から鋭い声が飛ぶ。
「にげるぞっ! 急げっ!」
「「…………」」
 じょー。
 じょー。
「どうした? 撃ち方やめ」
「そんなんすぐに止められるかあああぁぁぁ――――――っ!!」
 謙吾がキレた。さもありなん、である。
 恭介が皆に伝えたのは車の持ち主の接近だった。サングラスに似合わない黒のスーツの二人組。
「へへっあのババアもあと一押しでオチますねアニキ」
「バカヤロウそんなこと天下の往来で言うもんじゃねぇ。だからおめぇはいつまで経ってもこんな木っ端仕事しか回ってこねえんだよ、わかってんのかサブ」
「すんませんアニキ」
 分かりやすさ満点の地上げ屋だった。
 恭介率いるリトルバスターズが正義の鉄槌の矛先をこの二人組のクルマに向けたのは、二人組の狙いが彼ら昔馴染みの駄菓子屋の土地だったから、というのもあるが、直接的な原因は「この車ムカつくな。ションベンかけちまおうぜ」という井ノ原真人の一言だったりする。正義執行の理由など基本的に後付けである。
 車の上に乗って足をぶらぶらさせていた鈴は不穏な空気を肌で察して、身軽にそこから飛び降りる。局部丸出しの二人を意識する様子は見られない。
「へっ、怖じけづいたか謙吾」
「……なんだと?」
「ついこの間まで無敵の剣道ヤロウだったってのに、人間丸くなるもんだぜ」
「いや俺は別に剣道やめてないが」
「オレは逃げねえ……こういう日のために鍛えに鍛えた筋肉だ、思い切り暴れてやるぜ!」
「チ○コ丸出しで立ちションしながら言っても全然しまらないからな」
 恭介の突っ込みも徐々に焦りの色を帯びてくる。
「しょうがないな――鈴、理樹」
 理樹は突然呼ばれた自分の名前に驚いているように見えた。リトルバスターズが五人になってまだ幾日も経たない。この気弱な少年は、いまだにこの五人の中に於ける自分の身の置き所を手探りしているようだった。
「お前達は先に逃げろ。落ち合う場所は――鈴、わかるな?」
 こく、と小さく頷く。この前蜂を退治した場所のすぐ近くにある、リトルバスターズしか知らない秘密の場所だ。
「恭介くんは……どうするの?」
 理樹がおずおずと口を開く。その様子からは明らかに不安が見て取れた。
「俺はこの小便小僧たちを回収してから合流する。なあに、捕まるようなヘマはしないから心配するな」
 そこで「なあにやってんだこのクソガキどもがあ――――ッ!!」という怒号が道の向こうから聞こえてくる。
「早く行けっ!」
 恭介の鋭い声に弾かれるように鈴は駆け出した。鈴と恭介を一瞬見比べた後、理樹もそれに続く。背後からは「うおおぉぉ―――っ!! オレのチ○コが真っ赤に燃えるううぅぁあああぁぁぁ―――っ!!」などという叫び声が聞こえてくる。前を走る鈴の背中も、後ろの喧騒も、ぐんぐん遠ざかっていくように理樹には思えた。鈴の足は、それこそ理樹など問題にならないくらい速かったし、地上げ屋と真っ向から対決する三人の度胸には敵うべくもない。慎重に、距離を測るようにして、理樹は走る。
 鈴はそんな理樹の様子を背中越しに確認し、口の中で小さく舌打ちをした。



 足が痛い、と鈴は思った。
 コンビニの壁にもたれていると、通り過ぎる人たちがこぞって好奇の視線を向けてくる。何か微笑ましいものでも見たような笑顔には閉口したが、太もも上で安らかな寝息をたてる全ての元凶を放り出すことも出来ない。一発くらい殴ってやっても罰は当たらないのではないか。そう思って振り上げた拳も、彼の額の上でデコピンに変わる。
 ぺちん。
 情けない音がして、鈴は再度ため息をつく。
 空を見上げれば悔しくなるくらいの青空だ。近くの木に止まって鳴きわめいていた蝉はじじじっと小さく別れを告げてどこかへ飛び去っていった。お前は自由でいいな、と半分本気で思った。
「ん……」
 かすかにうめくような声がして、鈴は太ももの上の寝顔を覗き込む。いくら苦手な少年といえど眠ってしまえば同じだ。可愛いとさえ思ってしまう。がらにもなく。
 愛用のジーンズにほんのわずかな冷たさを感じる。それは一目見れば明らかな部類のことで、とりたてて特別な感想もない。ただ、なぜ、とだけ思う。理由が知りたいわけではないが、何を考えているかくらいは知りたいと思った。気付けばまじまじと彼の顔を見つめている自分に気付く。こんなことは初めてで、顔を離そうとも思わなかった。
「う……ぅん……」
 そろそろと開いていくまぶた。正面衝突する視線と視線。
「ふぎゃッ!!」
 尻尾を踏まれた猫のような悲鳴を上げて三メートルくらい飛び下がる。ごちん、と。彼の後頭部とアスファルトがこんにちわをした音がした。

「――そこで、僕が眠っちゃったと」
「…………」
 鈴は無言で頷いた。
 十分に距離をとったと判断した鈴は最寄りのコンビニに入店、理樹もそれに続く。鈴の目的はガリガリ君。購入し、店の脇にある駐車場に腰を下ろし、ガリョガリョ食す。理樹も便宜上しかたなく鈴の隣に座ろうとする。そこで理樹の身体は大きく傾いで、鈴に覆いかぶさるように倒れ込んだ。脱力状態の理樹の身体は見た目に反して重かった。一度は払いのけようともしたが、そこらに放り出しておくわけにも行かず、しょうがなく大腿の上に理樹の頭を乗せ、目を醒ますのを待っていた――というのが大体の状況だ。
 そして二人にとってわかりやすい形の沈黙が訪れる。この理樹という少年は、鈴にとって、ようやく慣れかけた四人でいるという日常に紛れ込んだ異物でしかない。少しの時間とは言え膝を貸すことになった自分に少々戸惑いもしている。ちらりちらりと彼の方に視線をやるが、彼も自分と同じような居心地の悪さを感じているらしきことがわかる。落ち着きのない様子で、空や街路樹、通り過ぎる車など様々な事物に視線を行き交わせている。不意に視線がかちあってしまいそうになるたび、鈴は慌てて気のない様子を装わなければならなかった。そんな自分にも腹が立った。
「棗さん達は……」
 誰のことかと思った。棗さん。そんなふうに呼ばれたことなど数えるほどしかない。それは例えば学校の先生とか、クラスの連中とか。
「これまでずっと四人で遊んでたんだよね?」
 何を聞きたいんだ、お前。どこか怯えを含んだ声に苛立ちを覚える。
「……けんごと遊ぶようになったのは最近。まさともそんなに前じゃない」
 会話終了。そしてまた、先ほどまでと同じ沈黙が流れ出す。
 ああ。
 これだからあたしはこいつのことが苦手なのだ、と鈴は思った。上手く言葉にすることは出来ない。空気とか、雰囲気とか、そんな胡散臭い単語に頼らなくてはいけなくなるから。
 人といるのが怖い。馬鹿にされたり、仲間外れにされたり、上履きを隠されたりなんて、本当はとてもどうでもいいことだ。本当に怖いのは、信じたものに手の平を返されることだ。一人きりでいることが本当はすごく寂しいことなんだと、骨の髄まで思い知らされることだ。それが怖くて、怖くて、怖くて。
 だからいつだってお前は、興味のないふりをしているんだろう?
 理樹を見るたびに心の奥底から訴えかけるもう一人の自分の声。それを聞くのは、耐えられないほどに苦痛だ。
 だから彼女は苛立っている。その苛立ちの正体すら知らないままに。
「ねぇ、棗さん」
「……ん」
「棗くん……恭介くんはどうして僕なんかを仲間に入れてくれたのかな」
 鈴は答えられない。そんなこと、鈴にはわからない。もしかしたら恭介自身にだってわからないかもしれない。
「恭介くん達は学校一番の人気者じゃないか。君達と遊びたいと思ってる人はきっとたくさんいるよ。なんで僕なんだろうって思ったんだ。いや、本当、なんとなく、なんだけど……」
 蚊のなくような声は今にも消え入りそうだった。俯く彼の姿は温かい日差しの中に出来た小さな木陰へと隠れていくように見えた。彼はきっと鈴にではなく自分に問い掛けているのだろうと思った。
 重苦しい空気に堪えかねたように、鈴は立ち上がる。付き合いきれない、と思った。さっさと恭介達の待つ集合場所に向かってもいいし、もう一度ガリガリ君を調達しに行くのもいい。後ろのこいつはどうしようか。そうやって思考を巡らせた時にはもう言葉になってしまっている。
「なぁ。お前は寝る時いつもそうなのか?」
 それは何の含意もない、ただ単純な疑問だった。お気に入りのジーンズに残った小さな染みの意味。理樹は焦った様子で何かを言おうとするが、上手く言葉にならないようだ。しかし、それは鈴にしても同じだ。
「……ん!」
「え?」
「だから……んー!」
 業を煮やし、ストレートに自分の頬を指差して唸ってやる。自分が何を伝えようとしているのか、自分でもよくわからない。それを伝えて何かが変わるのか。苦手なものが苦手じゃなくなるのか。寂しさが寂しさでなくなるのか。
 何気なく理樹は自分の頬を撫でる。
「ぁ……」
 ようやく自分の頬のかさつきに気付いたようだ。慌てて、Tシャツの袖でそれをごしごしごしと拭う。一度渇いてしまったかさつきは簡単には取れない。「あれ、あれ」と言いながらこする、こする。
 鈴はそれを不思議な気持ちで眺めていた。泣いていたのは自分ではない。自分ではないのだから、自分が悲しくなる道理などない。なのに。
「あのな――」  口を開こうとしたその時だ。

「くおぉるあああぁぁぁ――っ!! 待ちやがれぇぇあああぁぁぁ――――――っ!!」

 閑静な住宅街にはまるで似つかわしくない、騒々しい幾つかの足音、怒声。まさか。思わず顔を見合わせる鈴と理樹。そっと曲がり角から顔を出してのぞいてみる。恭介、それに少し遅れて真人がいる。真人はなぜか半袖のTシャツにパンツ一丁という出で立ち。そして、必死で彼らを追いかけるガラの悪そうな二人組。さっき車のところで見た連中だ。
 恭介は曲がり角からちょこんと顔を出した二人を目敏く見つけ、少し後ろを走る真人に何ごとかをささやく。それを聞いた真人は「へっ、しゃーねぇな」とニヤリと笑み、おもむろに上に着ていたTシャツを脱ぎ捨て、大声をあげて恭介が曲がったのと反対方向に向かって走っていった。恭介は曲がった瞬間に鈴と理樹を連れ、物陰に身をかくす。恭介を見失った二人組は、上半身裸のパンツ一丁になった真人を追いかけていく。
 恭介は状況を理解できていない二人の顔を見てほっと一息つく。ずっと走ってきたにも関わらず、恭介の息は驚くほど乱れていない。呆れた顔でこう呟いた。
「なにやってんだお前ら」
「それはこっちの台詞だ。なんでまだ追いかけっこしてるんだ?」
「ああ、あいつら意外としつこくてな、撒こうにも撒けなかったんだ」
「まさとは一体どうしたんだ? あいつ、気でも狂ったのか?」
「真人は囮だ。ちょっとの間あいつらをひきつけてくれって言った」
「服も脱げっていったのか?」
「いや、それは言ってない」
 相変わらず服を脱ぐ理由が謎な真人だった。
「ったく、だからお前らには先に逃げろって言ったんだ。面倒なことになるだろ、このままだと」
「恭介くんは」
「おっ?」
 不意に口を開いた理樹に少し驚いた様子の恭介。
「これからどうする気なの?」
「これからか」
 恐る恐る聞いてみた、というような様子の理樹に向かって、恭介は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「決まってるだろ。やっつけるのさ、あいつらを」



 木の葉がかさかさ揺れるたび、神経を尖らせる。音を立ててはいけない。そういった配慮に必要以上に過敏になるのは、きっとアドレナリンのせいだろう。鈴はどこかわくわくしている自分を感じている。
「とりあえず、真人にはこのまま逃げ続けてもらう。真人には逃走ルートは指示してあるから問題ない。謙吾はあいつらをひっかける罠を準備してもらってるから、あとはお前たち次第だ。頑張れよ」
 恭介の合図は手鏡で二人組を引きつけている真人が来たら、恭介が合図を出す。その辺りに潜伏している謙吾が二人組を罠にかけ、最後に木の上にいる二人がとどめをさす。単純な作戦だ。
 三分後。恭介はそう言って持ち場についた。鈴と理樹も持ち場につく。道に大きく張り出した木の枝は二人が乗っても悲鳴を上げる様子はない。
 鈴はちらりと理樹を見る。わけもわからずただ手を引かれるままに巻き込まれるだけだった少年は、今木の上にいて震える腕をおさえるように、必死で木の幹を掴んでいる。瞳には明らかに怯えとは違う色も浮かび始めている。理樹自身でさえその感情を持て余しているように見える。
「棗さん」
「なんだ?」
「どきどきする」
「ああ、するな」
「うん」
 少し先のほうにいる恭介の方を伺う。恭介からの合図はまだない。予告の時間は刻々と迫っている。
「これを上手くやれたらさ、僕も、君たちと一緒に遊べるかな」
 もう一緒に遊んでるじゃないか、と鈴は思った。思ったけど、それを口に出すのはなぜか正しくないような気がした。彼の声はちょうど遠足を待ち切れない子供のようにどこか躍っていて、異論を挟める余地などないように感じた。それに、よくわからないことに意見を言うことを、鈴は苦手としていた。
 何を見ようと苦手なものはやはり苦手だ。鈴は笑った。
 一瞬二人の視界が真っ白に染まった。来た。合図だ。
「ねぇ、今の」
「わかってる」
 短く返す。緊張が高まっていく。
 向こうから真人と、二人組が来る。今日一日で彼らはどれだけ走ったのだろう。車に小便かけられたくらいで、子供を追いかけて何時間も走れる二人組みはもちろん凄いが、走らせた恭介たちも凄い。一体どんな挑発をしたら人はそこまで走れるのだろう。想像もつかない。
 流石の真人も疲労困憊といった様子だった。彼は既にパンツしか身に着けていなかったが、不思議と違和感はなかった。パンツの似合う男、井ノ原真人である。二人組はというと、こちらも負けず劣らず疲労困憊している。もはや惰性で追い続けているとしか思えない。二十四時間テレビもびっくりの大激走だが、終わってもきっと自分で自分は褒められないのが残念な限りではある。
 そこで、もう一度恭介からの合図。カウントダウンが始まる。口の中で走る彼らに合わせてテンカウント。10、9、8。真人が二人の下を通り過ぎる。7、6、5、4。
「いまだっ!」
 恭介の声。

 3。

 持ち上がる誰かの手。
 転ぶ二人組。

 2。

 顔を見合わせ、小さく頷きあう二人。

 1。

「てやあああああぁぁぁぁぁ―――――――――っ!!」
「うわああああぁぁぁぁぁあああ―――――――――っ!!」

 弾みをつけ、飛び降りる。
 風を感じた。





「結局最後まで謙吾がどこにいたのかわからなかったぞ」
 鈴が今日二個目のガリガリ君を食べながら言った。
「ふん」
 謙吾は笑う。
 恭介に言われて逃走から離脱したのは、鈴と理樹に会う少し前のことだった。
「お前らがわからんのも無理はない。なにせ俺の潜伏技術は親父の仕込みだからな」
「何を教えてんだよお前の親父。剣道じゃなかったのかよ」
「いや、剣道だが」
 剣道にそんな技はいらないのではないかと、そこにいた誰もが思ったが、そこはあえてスルー。いわゆるひとつの優しさである。
 謙吾は理樹たちの持ち場の少し前方に位置していた。あらかじめ電柱に結び付けておいた縄跳びを真人が通りすぎた瞬間を狙って一気に持ち上げたのだ。疲弊して集中力を欠いていた二人組はそのまま転倒し、鈴と理樹の飛び降り攻撃の餌食となった。伸びた二人を縄跳びでふんじばり、放置して一丁上がりである。即現場を離脱し、家の傍のコンビニで小休止を取り今に至る。
「そういえば真人はなんでTシャツ脱いだんだ?」
「いや、なんとなく流れで」
「そんな流れ感じたのはお前だけだ」
「なんだと? てめぇ……もう一回言ってみやがれ」
 ちなみに真人は今もパンツ一丁である。いくらすごんでも迫力に欠けることこの上ない。
「ほう……この俺にケンカを売るつもりか? いいぞ、買ってやろう。罠を張るなどという女々しい作戦で、少々身体が鈍っていたところだ」
「へへ……今日こそお前のそのすかしたツラをぐちゃぐちゃにひん剥いてやるぜ」
「グロいわっ!」
 鈴様、ハイキック。
「ちなみにツラはボコボコにするもので、ひん剥くものじゃないからな」
 恭介が優しく教えてやるが、昏倒した真人にはおそらく聞こえていない。
「そうだ理樹」
「ん、なに?」
「お前、そろそろ俺たちのこと、君づけはやめにしないか?」
「えっ、ええっ!?」
「そうだな。俺も少々気になっていた。皆呼び捨てで呼んでいるのに、今さら君づけもないだろう」
「今日は理樹の初手柄だったしなっ! 素晴らしき筋肉・真人オブ・ザ・イヤーでも何でもいいぜっ! お前の好きに呼べよっ!」
「長いわ。素晴らしきパンツ・真人オブ・ザ・イヤー」
 真人と謙吾は喧嘩に興じた。それを見て、みんなで腹を抱えて笑う。
「で、どうなんだ。理樹」
「うん、じゃあ」
「呼んでみろよ」
 恭介はニヤニヤ笑っている。恥ずかしがる理樹を眺めて、きっと楽しんでいるに違いない。
 鈴は改めて理樹の顔を見る。いつもよりも皆の輪に半歩近づいている。あの二人組をノックアウトした興奮はいまだ冷めやらずといった様子で、顔色はいつもより赤い。年相応な子供の顔がそこにある。
 鈴は今さらながらに、理樹を見た時の不思議な不安感がいつの間にか霧消していることに気付いた。恭介以外の誰かとこんなに長く二人きりになったのは初めてのことだったし、単純に慣れたということなのかもしれない。
「恭介」
「おうっ」
「真人、謙吾」
 おうっ、と喧嘩しながらも律儀に返事を返す二人。
 そして、理樹は鈴に向き直る。
「鈴」
「――っ!?」
 飛び下がり、そのまま恭介の後ろに隠れた。
「おいおい、今のは自分も呼ばれる流れだったろ? 心の準備くらいしとけよ」
「ううううるさいわぼけっ!!」
 真っ赤な顔で「ふかーっ」と尻尾を踏まれた猫のような声で威嚇する。恭介は苦笑し、理樹は名前を呼んでしまった気恥ずかしさと、鈴の態度に対する困惑で、おろおろと落ち着かない様子だ。
「ま、徐々に慣れていけばいいさ。理樹、アイス食うか? 俺のおごりだ」
「いいの?」
「ああ、理樹は頑張ったからな。ご褒美だ」
 そう言って、理樹と恭介は連れ立ってコンビニの中に入っていく。鈴は慌てて、恭介の服のすそを掴む。
「ん、どうした?」
「あたしも」
「は?」
「あたしもがんばった。ごほうび」
「お前は駄目」
「なんでだっ!」
「お前、理樹が折角名前で呼んでくれたのに、返事出来なかったじゃないか。だからだめ」
 そう言うと、三個目のガリガリ君が遠のいた鈴はがっくりと肩を落とす。恭介はあからさまにため息をついた。
「わかった。じゃあもう一回チャンスをやる」
「ほんとかっ」
「ただし、今度はお前が理樹って呼ぶんだ」
「うぐっ……」
「出来ないのか? じゃあアイスはなしだな」
 恭介はくるりと背を向ける。理樹はどこか寂しそうな顔をしている。
「待てっ」
「なんだ?」
「……………やる」
 すぅ、はぁ、と深呼吸をする。
 自分の鼓動の音がやけにうるさい。さっき飛び降りた時よりもどきどきしてるじゃないか、と鈴は思った。顔に体中の血が集まっていくように感じた。きっと顔は夕焼けの太陽みたいに真っ赤に染まっている。でも、アイス。それに、この苦手な少年の寂しそうな顔。
「………………………………………理樹」
 呼んだ。目を伏せる。彼の顔が見れない。
「……うんっ!」
 前髪の向こうには嬉しそうに笑う理樹の顔があった。
「おっけ。じゃあついてこい」
 改めてコンビニに向けて歩き出す恭介。その後ろを理樹がついていく。鈴はそんな二人の後姿を見つめたまま、なぜか動けずにいる。じーじーと、どこかで蝉が鳴いている。背後では、謙吾と真人がまだ喧嘩を続けている。
 理樹。
 もう一度だけ、小さく口に出した。うん、響きは悪くない。
 そして、耳元につけた鈴をちりんと鳴らし、鈴は二人の元へと走った。












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