どこか、懐かしい場所にいる。
 ここにはお母さんがいて、お父さんがいる。二人は寄り添って笑っている。ヴェルカとストレルカは私の周りを縦横無尽に駆け回り、そのあまりのスピードに、私は目を回してしまう。そんな私たちを、お祖父さんはただただ幸せそうに眺めている。どんな諍いも、そこには存在しなかった。懐かしさだけが、募っていく。そこで私はこれ以上ないくらいに幸せな笑顔を浮かべる。
 そして、これが夢だと気付く。
 気付いた瞬間、世界はあっけなく崩れていく。ゆっくりと数を数えるかのように、一つずつ幸せが消えていく。お父さんが消え、お母さんが消えた。お祖父さんが消え、ストレルカ、ヴェルカも。まるで、手に手を取って駆け出していくように、私だけを置き去りにして。最後に残された緑の風景すらも消えた時、私に残されたのは永遠のような常闇だけだった。
 さっきまで自分がいた場所が思い出せないんだ。あの懐かしい場所がどこだったのか、どこを目指せば辿り着けるのか分からないんだ。
 そして、私はようやくの気付きを得る。
 どこにもいることが出来なかった私には、最初から懐かしい場所などありはしなかったんだ。そんな当たり前のことに、今さらながらに気付いた。涙は流れない。あるのは、ただ茫漠とした虚無。鎖につながれた、私の抜け殻。世界を動かす歯車になれなかった私。

 でも。
 それでも、私は帰りたいと思った。
 それは今までいたどの場所でもなく、曖昧な記憶を残した祖国でもなく。母の胸でもなければ、お祖父さんの笑顔でもない。

 なら――どこに?

 私は、叫ぶ。










えとらんぜ










 それが黒い影だと気づいた時にはもう遅かった。踏み出す一歩、まさにその足が着地するべき地点にそれはあった。
 賞賛されるべきは、それが何かを判別するよりも先に回避を行った井ノ原真人の反射神経だろう。踏み出しの足を力尽くで方向転換した真人は悲鳴を上げる間もなく豪快にすっ転んだ。仰向けに転がった真人の目に映ったのは、暗闇と星屑。さっきまでそこにいた太陽はいつの間にか姿を消し、代わりに月が雲間から顔を出していた。どこからどう見ても夜にしか見えなかった。
「……すかー」
 間抜けな音を発していたのは、まさに真人をすっ転ばせた元凶であるところの黒い影。それが何であるかを認識した時、真人の中でふつふつと目覚めつつあった転ばされた怒りが、瞬時に呆れとため息に転化した。概して短気で喧嘩っぱやい真人だったが、その人物に対して怒りをぶつけても何にもならないむなしい行為である、というくらいの認識は持ち合わせていた。
「こんなとこで何やってんだクー公……」
「すかぴー」
 寝息で返事されても、悲しくなるくらいにどうしようもなかった。能美クドリャフカの行為が昼寝であると言い張るにはさすがに時間が遅すぎる。そんな冬の夕暮れだった。
「おーい、起きろー。風邪ひくぞー」
 ぴしぴしと平手で容赦なくクドの頬を叩く。安らかな寝顔が段々歪んでいく。途端に謂れのない罪悪感に苛まれていく。北風を妙に冷たく感じ始める。
 不意に、唇がかすかに震えた。
「――たい」
 ぱちりと、音がしたのかと思った。それは、大きくて不思議な色をした瞳が開かれた音だ。
「――ふにゃ?」
 びびって少し引いた真人の情けない顔を、寝惚けた眼に映した能美クドリャフカ。




「トレーニングがてら夕食前に一汗かこうと走ってたら足元でクー公が寝てて、あわてて避けようとしたら豪快に転びました」
 真人がそんな意味のことを至極簡単に説明すると、案の上すごい勢いで謝り倒すクドがいましたとさ。 「まぁ、いいけどよ」
「本当にごめんなさいでした……」
 しゅーんとしているクドを見ているとなんだか自分がいじめている気になってしまう真人だった。空気を変えるため、わざと陽気な声を出す。
「けどよ、クー公はなんであんなとこで寝てたんだ? 日も暮れちまってるし……だいち、寒いだろ」
 自分で口にしたら、寒さが思い出したように襲いかかってきた。かき始めの汗のしずくは冬の風に吹かれて、みるみるうちに体温を奪っていく。ぶるっと、真人は身体を震わせた。
 そして、真人はようやくきょとんとした顔をしているクドに気づく。
「いや、こんな所で寝てたら寒いだろって」
「ううーん……」
「寒くねぇの?」
「あんまり」
 そう言ってたははと笑うクドの顔にやせ我慢は見えない。どうやらクドは本当に寒さに強いみたいだ。実は寒さに弱い真人にとってそれは、小さな感覚の非共有。
「私のお祖父さんはとっても寒いロシアの人ですから、私もお祖父さんみたいに寒さに強いのかもしれないです」
「ロシアってそんな寒いのか?」
「そりゃもう! ここよりもっと、もーっと、寒いんですよっ!」
 ぐーんと腕を目一杯伸ばして振り回すクド。平均気温や気候など、はっきりしたことは何も分からなかったが、とにかく物凄く寒いのだということだけは伝わった。その土地の実際のことなんて、行ってみなければ分からない。ここまで実感の篭った説明をするのだから、きっとクドはロシアで長い間暮らしたことがあるのだろうと思った。
 予想はあっさりと裏切られる。
「でも、実はロシアにはたった一回しか行ったことがないのです……」
「は? じゃあクド公はロシアの人ってわけじゃないのか?」
「違いますよ」
 クドにしては鋭い口調だった。しかし、クドが浮かべているのは口調に似合わない笑顔。クドがたまに見せる、ふにゃっとした微笑みだ。
「私が生まれたのはテヴアっていう南の方にある小さな国です。ロシアみたいに寒くないですし、どっちかっていうと暑いです。私、暑いのは実は苦手です。だから、そこにいる間はちょっと大変でした……そんなに長い間いたわけではなかったので、良かったですけど」
 事も無げに、「良かった」というクド。
 クドの生い立ちは、どこかで小耳に挟んだことがあった。商社に勤めていた祖父に連れられて、クドは世界中を回ったという。どこか一箇所に留まることもなく、流れるように土地から土地へ。
「井ノ原さん、えとらんぜって何のことか分かります?」
「なんかの食い物か? ゼリーみたいな」
 真人がそう言うと、クドは笑った。
「私みたいな人のことをそういうんだそうです。どこかの言葉だったと思うんですけど、どこの言葉だったか忘れてしまいました」
「英語じゃね? クド公、英語苦手だろ」
「そーかもしれないです」
 風が吹いていた。風は冷たさを増し、夜がどんどんと深まっていくことを教えていた。もはや太陽の名残は空にない。二人の間に不自然な沈黙が流れた。そういえば、あいつらはもう飯食ってやがんのかな。いつでも一緒にいる四人のことを、不意に思い出した。けど、不思議とこの場を離れようという気にはなれなかった。
「井ノ原さんは、どうですか?」
 唐突にクドが口を開いた。
「私、自分の生まれた国の話しましたから、井ノ原さんの話も聞きたいです」
 悪戯っぽい目が、こちらを射抜いている。成長したなクド公。夏までの彼女なら、きっとこんな顔は出来なかったような気がする。春が過ぎ、夏が過ぎて、秋まで過ぎ去り、今がある。感慨深いものが無いではなかった。
 見ると、わくわくという擬音が聞こえてきそうなクドの顔だ。そんなこと話すのなんてガラじゃねえと、普段なら思ったかもしれない。だが、辺りはもう夜だった。夜は、下らないものや凄い物、その他色んなものを闇に覆い隠してくれる。少しくらい話してもいいかな、という気になった。あくまで、少しだ。自分の小さい頃にいいことなんて、一つもありはしなかった。
 あいつらに、出会うまでは。
「……オレのふるさとは、別に何にもねぇところだ。面白いもんも、楽しめる場所も、何一つありやしねぇ。こっからすぐ近くの駅から電車にのりゃ三十分もあれば行ける。つまんねぇ町だよ」
 苦いものを噛み下すように言葉にした。本当に言葉どおりで、思い返そうにも何もない。
 それでも、言葉に出来ない思いもそこにはある。信じられないくらい愉快な奴らと出会った町だ。自分はここにいてもいいんだと、生まれて初めてそう思えた町だった。
 そんな思いが間違えて、表情に表れたのかもしれなかった。
「羨ましい、です」
「はぁ? 何がだよ」
 とぼけて見せるが、本当は見透かされていることも知っている。
 えとらんぜ。
 なぜかクドの言葉が頭に引っかかった。それがどんな意味を持つ言葉なのか、真人は直感でそれを知った。喜びと共に脳裏に蘇った、孤独だった自分の姿がクドとリンクした。えとらんぜ。
「戻りましょうか」
 そう言ってにぱっとほころんだクドの笑顔を直視出来なかったのはなぜだろう。それは普通に普通すぎるほどにいつものクド。「よいしょ」とクドは立ち上がり、スカートについた草のくずを払う。帽子もかぶり、愛らしい笑顔を装備する。そこにいるのは、完璧な能美クドリャフカ。
「――お腹すきましたっ! 井ノ原さん、行きましょ!」

 何故そうしようと思ったのかは、真人自身にもわからない。

 とりあえず、走っていこうとするクドの細い足首をヘッドスライディング気味に払った。
「とうりゃ!」
「ぎゃんっ!」
 情けない声を出してすっ転ぶクド。さきほどクドのせいで豪快にクラッシュしたことを都合よく思い出す。わはははいい気味だー、とおもくそ笑い飛ばしてやる。
「クー公!」
「ははははいっ!」
 気合を入れて名前を呼んだら、なぜかクドが敬礼してた。気をつけ! の状態。
 そんなクドをびしりと指差し、言ってやる。
「オレが思うに、お前に足りないのは――筋肉だ」
 真人は堂々と世界の真実を宣言した。誰が見ても明らかな真理だ。それを真実と呼ばずに、なんと呼ぶ。
「だからお前は弱っちいんだ。だから、三枝葉留佳なんかにひんぬーわんこなどと呼ばれるんだ」
「す、すみましゅしゅ」
 悲しくなるくらいに言えてなかった。
「だが、安心しろ! そんな貧弱なお前だって鍛えれば筋肉はつく! トレーニングによって育まれた筋肉はお前を裏切らない! いついかなる時にもだっ! クー公、きいてんのか!」
「きーてますっ!」
「うおおおおっしゃあああぁぁぁ―――――っ!!」
 担いだ。
 真人の頭の上で、はわはわわと慌てまくる。とったどー! とばかりに真人は獲物・クドを頭上に抱えてるんたったー、るんたったーと暴虐の限りを尽くして暴れまくる。不幸にもその狂気に巻き込まれた男子学生は、後にその様子を「あああれはこの学校に代々語り継がれる伝説の筋肉旋風(マッスル・センセーション)っス! 先輩の、そのまた先輩から話だけは聞いてて、初めて見たけど間違いないっす! マッスルっす!」と、トラウマ気味に語った。

 筋肉いぇいいぇい!
 筋肉いぇいいぇい!

 クドを肩の上に担いだまま、高らかに歌い上げるは歓喜の歌。時にはスキップで、時には駆け足で、またある時にはサンバのリズムで。歌えば喜びの代わりに筋肉が溢れた。
 真人の熱は、頭上に伝導する。クドは担がれながら、自分の身体の奥からふつふつと溢れ出す筋肉の波動を感じた。溢れる脳内麻薬で、なんでも出来そうな気がした。具体的に言えば、腹筋背筋腕立て伏せとか、そういった類のものだ。

 筋肉いぇいいぇい!
 筋肉いぇいいぇい!

 くるくると回りながら、筋肉が傍にある喜びに二人は酔いしれた。いつの間にか川原まで来ていた。左のちょっとした林の向こうには野球場が見える。叫ぼう、高らかに。踊ろう、軽やかに。今宵この場は筋肉祭だ。よっく見とけやお嬢さん、そこのけそこのけ真人が通る。そして、真人の足下にはちょうどいい大きさの石が転がっていた。
 踏んだ。
 コケた。
「わふ―――――――ッ!!!」
 悲鳴の一秒後には、見事な水柱が二つ上がった。
 冬の空はこうして束の間の狂騒を忘れ、静寂を取り戻した。




 月明かりの下、さっき馬鹿騒ぎしながら通った道を肩を並べて歩く。二人とも食事はまだだったが、ここまで濡れ鼠となってしまっては、もう食事どころではない。早々に濡れた服を脱いで温かいシャワーを浴びなければ風邪をひく。というか、もうひいてるかもしれない。
「なぁ、クー公。一つ聞いていいか?」
「はい。なんですか?」
「お前、あそこで寝てる時、なんか夢見てただろ」
 びくっと、分かりやすい反応をするクド。
「聞くつもりじゃなかったんだけどよ。お前、なんか変なこと言ってたから」
「私、なんて言ってました……?」
 恐る恐るこちらの表情を伺っている。クドは自分がどんな夢を見ていたか、鮮明に覚えていた。修学旅行に行く前から見始めた、自分が全てのものからおいてけぼりを食らう夢。
「『はやくどこかにかえりたい』」
 辺りには二人の足音だけが響いている。くしゅくしゅ、と水を吸った靴が立てる水の音。背後に連なっていく足跡。
「どこかって、どこだよ」
 はたと、クドは足を止めた。風が濡れた服を叩く度に、凍えそうになった。
「わかんないです」
「わかんないのに、帰りたいのか」
「はい」
「そか」
「はい」
 このまま外にいたら凍えてしまいそうだった。いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。そんなことはわかっていた。結局、足を動かすしかないのだった。クドは真人の少し後ろを歩いていた。理樹ならばもっと優しいやり方で、クドと話してやることが出来たのかもしれないなんて、らしくないことを思った。
「実はそれ、漫画の台詞です」
 ぽつりと、背後からもれた言葉。
「西園さんに貸してもらったんです。結構前の漫画だったんですけど、すごく面白くて一気に読んでしまいました。主人公の男の子が格好いいんです。影を背負った恭介さんみたいな感じです。『はやくどこかにかえりたい』って、その男の子の台詞なんです。男の子の生まれたところは、色々あってもうなくなってしまって、それでもその男の子は優しさとか、家族のあったかさが欲しくて、でももうその場所はなくなってしまってて、それでもその子は帰りたいんです。もう自分の帰る場所はなくなってしまったから、その場所に帰ることはもう出来ないけど、それでもその子は『どこか』に帰りたいんです。言ってること、わかりますか」
「ああ」
「その子は『えとらんぜ』なんです。私とおんなじに、どこに行っても変わらずに『えとらんぜ』だったんです」
 少し先に女子の寮が見える。絶対防衛ラインをUBラインと呼んだのは、一体誰だっただろうか。気まずくなってしまったのか、クドは駆け足でその向こうへと姿を消した。

 結局、オレがしたのはクー公をずぶ濡れにしたことだけだったな。

 一瞬女子寮の方を振り返る。クドが歩いた後には、川の水に濡れた足跡がぽっかりと浮かび上がっている。
 帰りたい、とクドは言った。
 きっといつか、彼女にも帰る場所が出来るだろうと思う。一人きりだった自分に仲間が出来たあの日のように。いつか、きっと。彼女がその思いを忘れなかったなら。今はまだその時ではないのだろう。時が全てを解決するのかもしれない。長い長い、時が。
「はやく、どこかにかえりたい」
 もう一度それを口にして踵を返す。今度はもう振り返らない。まっすぐに自分のいるべき場所を目指して、真人は歩いた。




 コスモナーフト、クドリャフカ・アナトリエヴナ・ストルガツカヤの母が暴徒に処刑された日から数えてちょうど半年が過ぎた、冬の日の夜のことだった。












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