思い出。



   決して忘れることのない思い出を、持っていますか?



   自分がどこに行っても変わることなく持っていられる、大切な思い出を今も信じていられますか?



   その思い出は、自分とは違う誰か大切な人とのものではありませんか?



   ………



   これは、私と、私の大切な親友との約束と、その約束にまつわる思い出のお話です。











     夏の彼方











   Yuichi Aizawa



「うぐぅ…祐一くん…嘘つき…」

「心外だな。嘘は言ってないだろ?」

 ある夏の日の週末の夜のこと。
 夜とはいえ昼間の暑さが残り、ここが冬には雪の降る町なのだということを忘れてしまいそうになる、そんな 夜のこと。
 事件は起きた。

 いつものことのように、あゆは水瀬家の食卓にいた。
 食卓に並ぶおかずを見て不満を漏らしている。

「だって、祐一くん『今晩のおかずはたい焼きだぞ』って言ってたのに……」

「間違ってないだろ。どう見てもたい焼きだ」

 テーブルのど真ん中にあるのは文字通り鯛を焼いたもの。
 鯛焼きと呼んで差し支えないはずだ。
 というか、晩飯にあのたい焼きはいくらなんでもありえないだろう。
 もっとも、秋子さんなら頼めば作ってしまいそうなものだが。

「祐一が悪いよ」

 と今度は名雪があゆを弁護しだす。

「まぁいいじゃないか。別に魚が嫌いなわけじゃないだろ?」

「うん。ボク、魚は好きだよ」

「ちゃんと骨も分けて食べられるか?」

「もうっ、ボクだって子供じゃないもんっ。それくらいできるもんっ」

「そうかそうか。なら食うとするか」

「うぐぅ……なんだかはぐらかされた気分だよ」

「じゃ、あゆちゃん。食べよっか」

「うんっ」

 秋子さんも加わり、いただきます、と声が揃う。

「うぐぅ……ささった……」

 期待通りのあゆの反応に俺は終始笑っていた。



 そんな何気ない、いつもの食卓のはずだった。
 俺と反対側の席に座るこの人の爆弾発言が飛び出すまでは。

 もっとも、この人の発言には突拍子もないものが多いということぐらい俺も前々から知ってはいた。
 新しく妙なジャムを作ると言い出したりなど、数え挙げだしたらキリがない。
 だが今回の発言ばかりかはさすがの俺も驚いた。

「ねぇ、あゆちゃん」

「うぐぅ……なに? 秋子さん」

 のどに刺さった骨を涙ぐみながら抜き終えたあゆに、秋子さんが問いかけた。

「あゆちゃんさえ良ければだけど、うちで一緒に住まない?」

「うんっ。いいよっ」

「待て待て待て待てっ!」

「祐一くん、食事中に行儀が悪いよ」

 あまりに唐突な発言。
 そして即答。
 言葉の意味を吟味すれば俺の突っ込みにおかしなところはないはずだ。
 俺、秋子さん、あゆ、それに名雪も加わり続く。

「秋子さん、今なんて言ったんですか?」

「あゆちゃんにこの家に住みましょうと言ったんです」

「すいません、できればわかりやすく説明してもらえませんか?」

「祐一、これ以上は無理だと思うよ」

「いや、経緯とかあるだろ」

「祐一くん、ボクがいちゃ迷惑なの?」

「迷惑なんですか? 祐一さん」

「祐一…酷いよ」

 三人一斉に俺へと集中砲火。

「……嫌ではない…ぞ」

「……ありがとう、祐一くん」

「って、なんか話が逸れてるぞ。どうしていきなり?」

「それは……」

 少しの、間。
 これは名雪とあゆも気になるらしく、秋子さんの方へと視線を送る。
 が。

「…企業秘密です」

「……」

 追求は許しません、を意味する言葉。
 この家ではもはや暗黙の了解。
 …結局、事の経緯などは明かされることなく、夕飯はお開きとなった。
 あゆの部屋もちゃんとある、とか、お金も心配しなくていい、といった話が片付けの最中も続いた。
 どうやらあゆの同居は秋子さんの中では揺らぎない決定事項のようだ。
 こうなると逆らう権限は誰にもない。

 ……なんでだ?





     §





   あの人がいなくなり、私に遺されたのは、すっかり広くなってしまった我が家、


   そしてまだ産まれてもいない、小さな命。


   その鼓動は確かなもので生きてるんだなと、しっかりと主張しているようだった。


   だけど…


  「ごめんね…」


   小さくこぼれた言葉。


   同時に、涙もこぼれた。


   少しだけ大きくなった私のお腹。


   私には……その命を幸せにしてやる自信が、なかった。


   親友からの電話は、そんな時にきた。


   家の静寂を打ち破る音。


   電話の音。


   私の嫌いな、嫌な知らせばかり運んでくる、電話の……音。


  「……はい」


  「久しぶりだね、秋子っ」


   聞こえてきたのは、懐かしいはずの声。


   数年来の親友の声だった。











   Nayuki Minase



 夕飯が済むとわたしは部屋に戻り、机に向かった。
 忘れられてるかもしれないけど、わたしも一応受験生だ。
 夜は暗記科目がメイン。
 広げてみたのは2ページに渡る英語の長文。

「……」

 単語にしよう。
 うん、何事も基本が大事。
 単語からやろう。

 長文の問題集を閉じ、O文社のよく売れてる単語帳・スナイパー19000を開く。
 ゼロが一つ多くないかな?
 多すぎだよ……。
 げんなりした気分でため息をつく。

 ふと、今日の夕飯のこと思い出す。
 夕飯を終えるとあゆちゃんは片付けを手伝い、また、いつものようにおうちに帰っていった。

『おうちの人とも、ちゃんと相談してね』

『はい』

 帰り際、お母さんはあゆちゃんにそう言って見送った。
 相談して反対されても、お母さんは押し切ってしまうと思う。
 どうやら、お母さんは本気らしいから。

 しんとした部屋の中。
 聞こえるのは冷房の機械音だけ。
 少し強すぎたのか、肌寒い。
 ふとペンをおく。

「うにゅ……寝ちゃおっかな…」

 机に広げられた膨大なアルファベット。
 本当に19000語もある…。

 あゆちゃんは、退院した日からうちに遊びに来ることが多かった。
 今日みたいに夕飯を一緒にとるのも、今日が初めてというわけじゃない。
 もう家族と呼んでもいいくらい。
 けれど、お泊まりまでは遠慮することがほとんどで、今日もまた、やっぱり帰ってしまった。

 一緒に住めたら素敵なことだと思う。
 祐一だって嬉しいはずだよ。

『こんなに遊びに来ることが多いんなら、いっそのこと俺みたいに一緒に住めばいいのにな』

 そう言い出したのは祐一なんだから。
 わたしもやっぱり考えることは同じで、あゆちゃんと一緒に住めたら楽しいだろうな、って思ってた。
 何より、わたしはお母さんからあの話を聞かされてしまったから。
 だから今日のお母さんの提案は、わたしも驚きはしたけど、嬉しい提案だった。

「名雪、ちょっといいか」

 ドアをたたくノックの音と一緒に祐一の声がした。
 わたしがいいよ、返すと祐一が扉を開け、部屋の中に入ってきた。

「辞書あるか? 学校に忘れたみたいだから貸してくれ」

「うん、いいよ」

 祐一は勉強熱心だった。
 転校してきたばかりの時は進度が違ったらしく、あまり奮わなかったけれど、
 三年生に進級してからは、わたしはあっという間に抜かれてしまった。
 この前も受験する大学を訊いてみたら、凄い名前が返ってきた。
 わたしも祐一と同じ大学に行きたいから、頑張ってる。
 でも、少し辛いよ…。

「にしても、秋子さん、どうしたんだろうな、急に」

「何が?」

「さっきの話だよ。突拍子がないのは百歩譲っていいとしてだ、何か理由があるはずだろう」

「そ、そうだね……」

 わたしは少し、苦笑いを浮かべる。

「……名雪、何か知ってるな?」

「しっ、知らないよ?」

「嘘つけ。知ってるだろ。正直に話せばイチゴサンデーおごってやるぞ?」

「うにゅ……祐一、卑怯だよ」

「何とでも言え」

 祐一の尋問が始まっちゃった。
 困った、逃げられない……。

「ゆ、祐一、わたし、勉強しなきゃいけないんだよ」

「なら手伝ってやる」

「ダメだよ、勉強は一人でやらなきゃ……」

「安心しろ。お前が正直に話せばすぐに出ていく」

「……極悪人だよ…」

「あぁ。極悪人でいいから話せ」

 どうしよう……。
 お母さんからは特に話しちゃダメとは言われてない。
 でも、昨日のことはあまりむやみに話しちゃいけない気がする。

「昨日、名雪って秋子さんとどこかに出かけただろ?
それと何か関係があるんじゃないのか?」

「うっ……」

 祐一、鋭いよ。
 ダメだよ、わたし、嘘はつけないタイプみたい……。
 すぐに態度に出てしまうのが悲しいかった。
 今度香里にポーカーフェイスのコツとか教えてもらおう、なんて考えても、もう遅いんだよね…。

「ごめん祐一、やっぱりダメ」

「なに?」

 わたしは半ば強引に祐一の背中を押し、部屋から追い出してしまった。

「折りを見てちゃんと話すからっ」

「お、おいっ」

 ドアを閉め、小さくため息。
 さすが祐一、勘が鋭い。

 昨日、お母さんと一緒に行った場所。
 そしてお母さんから聞いた話。
 それは嬉しさもあったけれど、悲しさも込み上げてきた、そんな話だった。
 ううん、きっとあれは、悲しい話…。

 お母さんがあゆちゃんを引き取ろうと考えるわけ。
 昨日話してくれたことと関係がないわけがなかった。





     §





  「久しぶりだね、秋子」


   誰だったろうと戸惑うけど、それは一瞬のことだった。


   忘れるはずもない声。


   だけど、今聞くには、懐かしすぎた声。


   大切な親友の声。


   昔と変わらない彼女の声は、今の私とでは隔たりが大きくて、返す言葉に悩んだ。


  「高校の卒業式以来だよね?」


  「そうね…」


   確かに、彼女と最後に別れたのは卒業式だった気がする。


   また会おうね、絶対、と言葉を交わした卒業式。


   でも、まさか、こんな時になってまた声を聞くことになるなんて、思いもしなかった。


   しばらくは、昔の話を彼女がしてくれた。


   私は曖昧な答えを返すしかなかった。


  「実はね、秋子にすっごいニュースがあるんだよ。何だと思う?」


  「さぁ…」


  「本当は秋子を驚かせようと思ったんだけど、我慢できなくなっちゃって」


  「……」


   私の雰囲気を、電話口からも悟ったのか、彼女は喋り続けてくれた。


  「実はね、私にも子供ができたんだよ」


  「……え」


  「予定日は12月くらいかな。秋子の赤ちゃんもそれくらいだよね?」


  「…うん」


  「名前も決めてあるんだ。聞きたくない?」


  「そうね、聞かせて」


  「名雪」


  「なゆき?」


  「そう。名前の名に私たちの町の象徴でもある雪で、名雪。いい名前だよね」


   彼女は軽快な口調で自分の子供の名前を教えてくれた。


   これでも何日もかけて一生懸命に考えたんだよ、と言った。


   必死に頭を捻らせる彼女の姿が目に浮かぶようで、思わず、笑みがこぼれた。


  「そうね、いい名前。……でも、まだ男の子か女の子か、わからないんじゃない?」


  「女の子に決まってるよ。それで、秋子の赤ちゃんとも仲良くなれるはずだよ。私たちみたいにね」


   彼女の明るい声は、まるで、私を励ましているみたいだった。


   いや、本当に励ますつもりだったのだろう。


   驚かそうとして結婚のことまで黙っていた彼女のことだ。


   妊娠のことも黙ったまま、私を驚かすつもりだったのだろう。


   それをやめてまで、わざわざ私に電話をくれた理由。


   その気持ちは嬉しい、素直にそう思った。


   …だけど、私の中にあったのは…。


  「……秋子?」











   Ayu Tsukimiya


 夏の夜、静かな風が吹いていた。
 心地いい、昼間とは違う優しい風。
 時折聞こえる虫たちの声。
 綺麗な星空と、月。
 やわらかい光に照らされて、夏の夜道をボクは歩いている。

 向かう先はボクの住む家。
 ボクの足取りは少し重い。
 さっきまでいたあの家が名残惜しかったから。
 大好きな人、大切な親友、そしてお母さんみたいな人がいる、あの家が、ボクは大好きだから。

「うぐぅ…」

 決して今いる家が嫌いなわけじゃない。
 だけど、どうしてかな、あの家にいることが時々当たり前のように思えてしまう。
 日が暮れたら、帰らなきゃいけないと知ってるのに。
 なのに、ボクはあの家が大好きだった。

「どうしよう…」

 秋子さんに言われたことを思い出してみる。
 あの時は、つい二つ返事で答えちゃったけど、よくよく考えてみたら難しいことだよね。
 それが叶ったらもちろん嬉しい。
 ボクだってもっと祐一くんと一緒にいたい。
 名雪さんや秋子さんにいろんな料理を教えてもらいたい。

 だけど、やっぱり難しいことだよね。

「……あれ?」

 そういえば…秋子さん、どうして急にあんなこと言い出したんだろう?
 祐一くんも不思議がってたけど、確かにわからないよ。
 立ち止まって考えてみた。

「…うぐぅ」

 …そうだよね。
 わかるわけないよね…。
 自分で言って、少し悲しかった。

 でも…。

「叶うと…いいな…」

 もうしばらく歩いて、ボクは家に到着した。





     §





  「……秋子?」


  「ごめん、電話、切ってもいいかな?」


  「待って。ねぇ秋子」


   親友の、恐る恐る訊くような声。


   勘がいいのも相変わらずだった。


  「……もしかして…産むつもり…ないの?」


  「……」


  「…怒るからねっ! そんなことしたら、絶対許さないからねっ!?」


   私なんかのために、本気で怒ってくれる。


  「そんなことしたら、今すぐそっちに行って、殴っちゃうからねっ!?」


   それが嬉しくて、本当に…。


   だけど……


  「……ごめんね」


  「秋子……」


  「私ひとりじゃ……この子を幸せにする自信……ないから…」


  「……」


   電話は、私がそこで切ってしまった。


   膝が崩れてしまった。


   涙がこぼれてしまった。











   Yuichi Aizawa



 部屋に戻ると俺は名雪の分厚い辞書を机に置いた。
 さっきまで気になっていた単語の意味は、どうでもよくなってしまった。
 大体、俺の単語帳「単語神22050」にも載ってない単語だ。
 知らなくてもいいのかもしれない。

 ベッドに横になり考え込む。
 どうして秋子さんは急にあんなことを言い出したのか。
 俺にわかるはずもないが、名雪が何か知っているのは間違いなさそうだ。

 だが、結局あいつには逃げられてしまった。
 確かにあゆがうちに来るなら、俺は嬉しいし、秋子さんや名雪だって同じだろう。
 もちろん、あゆ自身も。
 むしろ、秋子さんの過去の実績を考慮すれば、今回のような提案が今まで出なかったことが不思議なんだ。

 だが、何かきっかけみたいなものぐらいあるだろう。
 多分、名雪と出かけたとか言う昨日の出来事が関係しているんだろう。
 昨日のことを思い出してみる。
 出掛ける前もそうだが、帰ってきた二人にも特におかしなところはなかったはず。

『ただいまです』

『ただいま、祐一』

『あぁ、おかえり』

『祐一、あゆちゃん、まだいるかな』

『まだいるぞ。上で香里と格闘してる』

 昨日、あゆは夏休みの宿題を香里に教えてもらっていた。ついで俺も。
 一応名目上は名雪も加えての勉強会だったのだが、実体は香里の学習塾だった。

『そっか』

『どうかしたか?』

 おかしなところ…一つだけあったな。
 名雪の言動とか、その他諸々。
 暑かったとか疲れたとかの愚痴も溢さず、二階へと駆け上がった。
 その後は、いつも以上に、あゆとの会話を楽しむようだった。

『何かあったんですか? 名雪、妙にあゆと仲がいいようですけど』

 玄関で名雪とあゆを嬉しそうに見ていた秋子さんに訊いてみた。

『企業秘密です』

『……そうですか』

 その時は特に気にはならなかったせいか、俺はそれ以上は訊くことはなかった。
 今思えばどう考えても昨日の行き先が関係している。
 といっても、その二人が口を閉ざしているんだから知りようがない。

「はぁ……」

 これ以上考えても仕方ない、と一先ず俺は机へと戻り勉強を再開した。
 集中するまでに、随分と時間を食った。





     §





 二時間ほどしただろうか。
 勉強の最中に、尿意をもよおした俺はトイレへ行こうと部屋を出た。
 夜も10時を越えようという時間、下の階の明かりがついてることに気づいた。
 名雪が起きているわけがない。
 必然的に秋子さんだとわかる。
 トイレで用を済ますと、俺は階段を降りた。
 居間で机に向かっている秋子さんがいた。

「何してるんですか」

「あら祐一さん、まだ起きてらしたんですか」

「こんな時間に寝る受験生は名雪くらいです」

 あいつにとっての受験勉強の最大の敵は睡魔だ。
 無論、連戦連敗。
 というか、戦っているという気配すらない。
 むしろ、一番苦戦しているのは毎朝起こしている俺の方だ。
 秋子さん曰く、夏は寝苦しいらしく、一度寝ついたら冬以上になかなか起きてくれない。

「あの子も困りましたね」

 少し笑顔を溢しながら言っていた。
 秋子さんが机に広げていたものを覗き込んでみる。
 少し大きめの本、いや…。

「……アルバム、ですか」

「はい。私の高校時代の写真です」

「見てもいいですか」

「もちろんです」

 …秋子さんにも高校時代があったのか。
 当たり前なんだが、相手が相手なだけに仕方ない発想だろう。
 と、それはいいとしてだ、写真の中には俺たちとそれほど年の変わらない秋子さんの姿があった。
 制服は俺たちと同じだが、写真から伝わる校舎や生徒たちの雰囲気は今とは明らかに違っていた。
 世代の違いというやつを感じた。

「……名雪と、よく似ていますね」

「そうですか?」

「そりゃ似てますよ、親子ですから。それにしても、若いですね、やっぱり」

「そうですね。私もすっかりおばさんです」

「……あ、いや、今のは老けたとかいうわけではなくて…」

「いえ、構いませんよ。このころは私もまだまだ子供でしたから」

 自分の発言に焦ったのは一瞬のことだった。
 子供だった、という秋子さんの目はどこか憂いを帯びていた。
 俺は適当な写真を指差して、続けた。

「この人、よく一緒に写ってますね」

 二人仲良く並んで写った写真。
 多分卒業式だと思う。
 振袖姿がよく似合っていた。
 穏やかな秋子さんの笑顔の横に、元気のよさそうな女の子の笑顔。
 その写真の他にも多くの友人たちと撮った写真があるが、大抵その女の子が近くにいた。

「……親友ですから」

 穏やかに、言った。

「今は何してるんですかね」

「……そうですね。今は…ちょっと遠くにいます。
 ただ、今もこんな風に笑ってくれてるのか、少し心配です」

「……?」

「さ、もう寝ましょうか。祐一さんも、明日も早いんでしょう?」

「あ、はい」

 アルバムはゆっくりと閉じられた。
 そんなアルバムを大切そうに抱えて秋子さんは寝室へと戻っていった。
 俺はその背中をじっと見送っていた。

(…俺も寝るか)

 階段を上り、部屋へと戻る。
 机に散らばったノートや教科書もしまって、明日の準備をした。
 明かりも冷房も消し、布団へと潜る。
 真っ黒な天井。
 今年の一月は違和感を覚えていた景色。
 だけど、今はもう、すっかり見慣れた光景。
 不意に、アルバムの写真が思い出された。

(そういえば…)

 妙な既視感。
 少しだけ背の低い、秋子さんの親友だという女の子。
 あの写真の女の子は誰かに似ている気がした。





     §





   受話器を置いた手に、涙が落ちた。


   電話の受話器は…もう手に取りたくない。


   電話の鳴る音も嫌い。


   悲しい知らせばかり運んでくるから。


   あの人の思い出が詰まったこの家は…私には広すぎた。


   床や壁、空気ですら、ひんやりと、冷たかった。


  「ごめんね…」


   もう、何度目になるんだろう?


   私の口から出た言葉。


   誰に向けているのか、だんだんわからなくなってくる。





   どれほど時間が経ったろう?


   家の中は静かだった。


   虫の声。


   風の流れ。


   月の光り、星。


   昼間の暑さはもう過ぎ去っている。


   そこに場違いな音が響いた。


   悲しいくらいの静寂を破る音。


   チャイムが鳴る音。


   私がドアを開けるとそこには彼女がいた。


   いくぶんも大きくなったそのお腹を抱えて、苦しそうにしていた。


  「秋子っ」


  「……どうして」


   私の顔を見るなり、彼女の目は涙でいっぱいになった。


   今にもこぼれそうなくらい、たくさん涙をためていた。


   唇を噛み締めて、一生懸命にこぼすまいとしているようだった。


  「バカッ」


   彼女の手が私の頬をはたいた。


   本当に…殴りに来てしまったようだ。


  「寂しいこと言わないでよっ」


  「……」


  「あたしには…秋子の苦しみなんてわからないかもしれないけどさ…」


  「……」


  「でも…産まれてくる子は…きっと秋子を幸せにしてくれるっ。絶対」


   彼女の、こらえきれなかった涙が、ぽろぽろと落ちた。


  「だからっ……だからっ…」


  「でも……」


  「…ダメ」


  「……え?」


  「秋子がちゃんと産むって言ってくれるまであたしは帰らないから」


  「……」


   私の答えも待たずに、彼女は家に上がり込んでしまった。


   大きな鞄もあった。


  「ちょっと、どうする気?」


  「お邪魔します」


  「そうじゃないでしょ」


  「もう決めたんだもん。秋子がちゃんとお腹の子を産むって言ってくれるまで、帰らないって」


  「……」











   Nayuki Minase



「うにゅ…」

 一瞬、今ある目の前の光景が現実なのか、夢なのか、判断に困ってしまった。
 しばらく考えて、さっきまで見てたのが夢なんだと気づく。
 そして、今わたしの前にあるのが、現実。
 それくらいの不思議な夢だった。

「はぁ…」

 変な気分。
 自分で言うのもおかしいと思うけど、
 わたしがこんな夜中に起きるなんて滅多にないどころの騒ぎじゃない。
 しかも困ったことにすっかり目が覚めてしまっていた。
 眠れないよ…。

 猫さんを数えてみようか。
 猫さんが一ぴき、猫さんが二ひき、って。
 でも、逆効果だよ…。
 興奮しちゃうもん…。

「……うぐぅ」

 あゆちゃんの真似をしてみた。
 特に深い意味はないけど。
 ベッドの中でゴロゴロしてみる。
 ケロピーもあれだけフサフサじゃ抱き締めてあげられない。
 だって、暑くて寝られないんだもん。
 ゴメンね、ケロピー。

「でも…暑いよぉ…」

 いっそのこと一枚脱いじゃおうか。
 きっと気温は80℃くらいあるから、一枚くらいなら平気だよ。
 でも…祐一に見られちゃうのは…ちょっとヤだな。
 あゆちゃんにも怒られちゃうだろうし。

「……?」

 不意に部屋の外から誰かの気配がした。
 祐一かなって思って、時計の針を見た。
 深夜10時。
 祐一だよね、こんな真夜中に起きてるのは。
 階段を上る足音はわたしの部屋の前を通りすぎて、やがて扉を閉める音に変わった。

「う〜ん…」

 祐一は随分お母さんの提案を気にしていた。
 わからないでもないけど、細かいこと気にしすぎなんだよ。
 祐一だって、あゆちゃんと一緒になれたら嬉しいんだろうから。

「……」

 あゆちゃん…か…。

 さっきの夢がふと思い出された。
 すぐに忘れてしまうはずの夢。それがどうしてか、鮮明に頭に残っていた。

 夢に出てきた人。
 わたしの知ってる誰かに似た人。

『じゃあ約束っ』

 元気のいい声。
 女の人だった。
 夢にはお母さんもいて、二人は一緒に何か話をしていた。

 それは、わたしにとっても大切な約束。
 そして、彼女が誰なのか、わたしは何となく想像できてしまった。
 不思議だよね、わたしはその人に会ったこともないのに。
 わたしが夢の中で描いた人。
 お母さんの親友だった人。
 今はもう、天国に逝ってしまった、お母さんの親友。

 昨日、お母さんが連れていってくれたのは、その人の、お墓だった。

 そのお墓に行く途中に教えてもらったことが、わたしが産まれるより少し前の話。
 わたしはもしかしたら産まれてこなかったかもしれないという、お母さんと、お母さんの親友の、思い出の お話。

『優しい人だったんだね』

『…そうね』

 話を聞き終えた後、そんな素直な言葉が溢れた。

『ねぇお母さん、どうしてわたしの名前が名雪なの?』

 話の最後にわたしはお母さんに訊いてみた。
 墓前にいたお母さんは、何かを語りかけているようだった。
 合わしていた手を下ろし、お母さんはゆっくりとしたいつもの口調で教えてくれた。

『名前をね、交換したのよ』

『交換?』

『そう。あの人が考えた“名雪”って名前をあなたにつけて、私が考えた名前をあの人の赤ちゃんにつける。
 お互い、自分の子供を精一杯育てよう…幸せにしよう…って』

 それが、私たちの交わした約束、お母さんはそう告げてまた目をつむった。

 暑い日差しの中の、わたしはその約束をただ黙って聞いていた。
 わたしより一歩前にいたお母さんの表情はよくわからなかった。
 わたしはお母さんにもう一つ訊いた。

『…お母さんは、その子に何て名前をつけたの?』

『それは…』

 お母さんはわたしに笑顔を見せるだけで、教えてはくれなかった。
 たった一言

『企業秘密よ』

 とだけ告げて。





 でもね、お母さん。
 なんとなくだけど、わかっちゃったよ、お母さんが、その子に何て名前をつけたのか。
 きっとわたしもお母さんもよく知ってる名前。
 そしてわたしはお母さんの親友の墓前にもう一度手を合わせた。

 二人の交わした約束と十八年前の誓いに答えるように。
 だからもう、安らかに眠ってほしいと願うように。

 わたしは今、幸せです、と。



 うにゅ…なんだか、また眠くなってきちゃった。
 明日こそきちんと勉強しなきゃね。
 だから、今日はもう寝よう。
 わたしはまた、目を閉じた。





     §




   彼女が居座りだして三日目の夜のこと。


   唐突に彼女は毅然とした目で私を見た。


   優しく、手を握ってくれた。


  「どうしても、産む勇気、出ない?」


  「……」


  「……仕方ないね」


  「……?」


  「じゃあ、約束っ!」


   彼女の顔が少しだけ穏やかになった。


  「私の赤ちゃんの名前、秋子の赤ちゃんにあげるよ」


  「……え?」


  「秋子の赤ちゃんは名雪ちゃん。それで、秋子は私の赤ちゃんに名前をつけてあげて?」


  「待って。まだ男の子か女の子かなんて……」


  「女の子だよ。私がいうんだもの、絶対だよ」


  「……」


  「精一杯、育てよう? お互い、自分の赤ちゃんをさ……」


   その言葉で、また、涙がこぼれてしまった。


   もう枯れてしまったと思っていた、私の涙。


   まだ、こんなにも流れるんだね……。


  「私ね、思うんだ。きっとこの子たちは私たちが幸せにするんじゃないんだよ。
   この子たちが、私たちを幸せにしてくれるんだよ」


   彼女は変わらずに、私の手を握っていてくれた。


  「だから、みんなで幸せになろう? 約束だよ」


   笑っていてくれた。


   私は妊娠していると知ったときのあの人の喜ぶ顔を思い出していた。


   ……そうだよね…この子は、確かにあの時の私たちを幸せにしてくれたものね…。


   あんな日々がまた訪れることを、期待してもいいのだろうか?


  “名雪”


   私の、赤ちゃん。


   彼女がくれた、私の大切な赤ちゃんの名前。


  「……ありがとう」


  「……え?」


  「もう、名前まで決まってしまったものね」


  「……そうだよ」


  「大切に、育てなきゃね」


  「……うんっ」


   彼女の目からも涙がこぼれていた。


   笑みを、こぼしてくれていた。


  「あ、じゃあ次は秋子だね」


  「そうね、あなたの赤ちゃんにも名前をつけてあげなきゃね」


  「可愛い名前、よろしく」


  「……うん」


   私がつけた、彼女の赤ちゃんの名前。


   それは……











   Ayu Tsukimiya


「えぇっと…」

 いつもとは少し違う雰囲気がこの家に流れていた。
 みんなのボクを見る目はいつもよりも温かで、照れ臭いような、嬉しいような、変な気分になる。

「どうした、あゆ」

 大好きな祐一くんが悪戯っぽく笑う。

「だって、だって……うぐぅ…」

「あゆちゃん、大丈夫だよ」

 一番の親友と呼べる名雪さんも笑ってた。
 背中の大きな荷物が軽くなるような気がした。
 ボクには言わなきゃいけない、大事なことがあるんだ。

「秋子さんっ」

「はい。あゆちゃん」

 いつもの、優しい笑顔を見せてくれるお母さんみたいな人。
 ボクをこの家の家族にしてくれた人。

「えっと…これからっ…よろしくお願いしますっ」

「えぇ。こちらこそよろしくね」

 穏やかに、迎えてくれた。
 それが、嬉しくて。

「ばか。泣くことないだろ」

「うぐぅ……だって…だって…」

「あゆちゃん、これかも、よろしくね」

「名雪さん……うんっ、よろしくお願いします」

「そんなにかしこまらなくてもいいんじゃないのか?」

「祐一、こういうのは初めが肝心なんだよ」

「そうだよ、祐一くん」

「だけど、これから一段と騒がしくなりそうだな」

「でも祐一? 嬉しそうだね」

「そうですね祐一さん、嬉しそうです」

「祐一くん…ボクが来て…嬉しい?」

「……」

 女性陣の一斉攻撃っ。
 祐一くんも、照れ臭そうだよ。

「……そりゃ…な」

「…ありがとっ、祐一くん」

「ラブラブだね〜」

「ラブラブですね」

 こんな優しいこの家がやっぱりボクは大好きだった。

「あゆちゃん、あゆちゃんの部屋、案内してあげるよ」

「わぁ、ありがとう」

 名雪さんに手を引かれて、ボクはこの家へと足を踏み入れた。

 今日から一緒に住む、この家に。
 大好きな人たちのいる、この家に。





     §





   もう十八年も昔の約束。


   だけども、忘れることのない誓い。


   私は今、果たせているのだろうか?


   彼女は笑ってくれているのだろうか?


   もう…私のことで泣いたりはしないだろうか?


   答えは、今もまだ、私にはわからない。


   だけど、彼女がもし、どこか憂いることがあるとしたら、


   それはきっと、遺されたあの子の存在。


   八年前、私は何もできなかった。


   彼女の死を悲しむばかりで、あの子を助けてあげられなかった。


   だから、今度こそ、彼女が泣かないよう、笑ってくれるよう、私は頑張ってみようと思う。


   それが、私にできる彼女への精一杯の恩返しなのだから……。











   END











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  あとがき


 こんにちは。二条です。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 大変長く、しかも初めてのKanonSSということでしたが、いかがでしたか?
 楽しんでいただけたのなら幸いです。

 あゆシナリオの補完&アフターのSSで、秋子さんの過去話でもあります。
 ところで、秋子さんがどんな名前を付けたのかとか、
 秋子さんの親友が誰なのかとかわかりましたよね?
 最後まではっきりとは明記しませんでしたが、大丈夫、ですよね?

 ちなみに、これは久弥直樹先生の「夏日」をベースとしたものです。
 久弥先生本人が「夏日」は二次創作だといっているのでこの作品は三次創作ということになるんでしょ うか?
 まぁどっちでもいいですけど、僕の完全なオリジナルではないということは強調しておきます。

 またKanonSSを書くかどうかは激しく疑問ですが、機会があればまた作ってみたいですね。
 では、その時にまたお会いしましょう。

 二条




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