そして、始まりには暗闇があった。

 そんな黒が支配する視界の片隅から、徐々に白い何かが、おそらく「それ」にとって最高のスピードで侵入し浸食し拡大していった。圧倒的な「それ」が「光」だと気づいたのは、白の侵攻がほぼ完了してからのことだった。
 頬を撫でるなま暖かい空気に誘われるように、俺はそろそろと瞼を上げていく。瞳を刺す光に目が眩みそうになる。

「……っ」

 目の前には、一人の女の姿があった。
 涙が雨のように俺の顔に降り注ぎ、女の長い髪と俺の顔はこれでもかというほどに濡れた。濡れるままに任せるには、女の顔があまりにも悲壮すぎていて、俺はベッドに横たえられている身体を起こそうとした。
 そして、次の瞬間世界が渦を巻いた。
 ぐわんぐわりぐをぉん、と音を立てながら、回る。マワル。廻る。
 脳を焼け爛れたた火掻き棒で滅茶苦茶にかき回されたように頭が痛んだ。

「うっ……ぐぅ……げぇっ……」

 俺が初めて発した声はおよそ人間とは思えないような、地獄に囚われた亡者の呻きだった。
 俺の異変に気づいた女は何言かを言い残して部屋を飛び出していった。

「はぁ……はぁっ……はぁ……っ」

 地獄はおそらく数分間続いた。
 無我夢中でもがいた手が、何か布製のものに触れた。その瞬間、誰かのささやきが聞こえたような気がする。その声は小さく、掠れて消えそうなほどに遠い。でも、確かにそこにあることを感じる。それは母の胸に抱かれたような安心感を俺に与えた。
 そんな一瞬の夢想の後には、頭をかち割られたような痛みも、脳をかき回されたような呻きも、幾分落ち着いていた。
 朦朧とした頭で、医者らしき白衣の女が俺の身体をあれこれと調べているのを感じた。傍らには、心配そうな顔でその様子を見つめる彼女の姿がある。

 ――あるいは。

 思い出せなければ、それで良かったのかもしれない。
 目覚めなければ、それで終われていたのかもしれない。
 だが、俺は目覚めてしまった。
 そして、思い出してしまった。
 それだけは塗り替えることの出来ない現実で、書き換えることの出来ない事実だった。

 彼女――長森瑞佳の瞳の中で横たわっている自分の姿が、やけに歪んで見えた。












 ヒトガタ












 無理矢理に動かした関節がぎしぎしと悲鳴をあげた。
 そりゃ、半年以上も動かされずにおかれたのだから、かちかちに固まってしまうのは当たり前。「だからリハビリは重要なんだ」と熱く語るのは俺の担当である坂上先生。医師で熱血というのもどうなのかと思わないでもないが、それは俺を積極的にリハビリに取り組ませるためのポーズなのかもしれない、とも思う。
 決められた運動を決められた回数だけ、一定のリズムを保って、後はただひたすらに動かす。衰えて動くことを忘れた筋肉に動くことを思い出させるべく、意識を筋肉に集中する。無心に、とよく言われるが、意識せずにする運動の効果は薄い。意識することによって初めて、身体は自ら動くことを思い出していくのだそうだ。
「はい、そこまで」
 凛とした先生の号令で動くのをやめる。
「かなり良くなってきたな。これならもうすぐ松葉杖なしでも歩けるようになるぞ」
「そうですか……っ……」
 動くのをやめた瞬間、また頭の痛みを思い出した。他のことに集中している時はいいのだが、意識が集中から解放された瞬間に痛みは襲ってくる。
「まだ、痛むのか」
「ええ」
「そうか」
「……」
「だが、気にすることは無い。定期の検診でも異常は見られないし、寧ろどんどん快方に向かっているんだ。その内に痛みも消える」
 俺を元気づけるように大げさな手振りで話す先生。いつまでも心配ばかりかけるわけにはいかない、と彼女を見てるといつも思わされるのだ。
「そうそう、病室の方にまたいつもの彼女が来ていたぞ。早く行ってあげるといい」
 はいどうぞ、と愛用の松葉杖を渡される。歩ける程度に回復してからはお世話になりっ放しの松葉杖だ。受け取り、ようやく慣れてきた病室に向かって歩き出す。トレーニングルームから俺の病室までは結構な距離がある。先生に言わせると「それもリハビリだ」ということらしいので、まぁ計算された作りなのかもしれないな、とは思う。
 通りすがりの病室から、病院にはおよそ似つかわしくない笑い声が聞こえる。あそこにはいつも仏頂面でベッドの上に胡坐をかいている爺さんがいたはずだ。結構気難しい爺さんなのだが、やはり家族の前では気も緩むのだろうか。

 俺は笑い声が溢れる病室に目もくれず、ただ黙々と到達すべき病室を目指した。



「お疲れ、浩平」
 病室に戻ると瑞佳がパイプ椅子に行儀良く足を揃えて座っていた。
 夏を感じさせる淡いブルーのノースリーブに少し長めのスカート。こちらに振り向いてにっこりと微笑む。育ちの違いとか、そういうものは普段から醸し出す雰囲気に顕れるものらしく、瑞佳のそんな立ち居振る舞いは全て文句なしに美しいと言えた。
 俺はぎこちなく「ああ」と応えると、松葉杖を瑞佳に手渡して自分はさっさとベッドに戻った。ベッドの側の木製の棚の上に置いてある花瓶には昨日までとは違う花が活けてある。きっと、瑞佳が気を利かせて持ってきてくれたのだろう。そういう気遣いは、やはり素直にありがたいと思う。その花瓶にもたせかけられるようにして置いてある布製の薄汚れた置物も、どことなく嬉しそうだ。
「そういえばさ」 俺から受け取った松葉杖をベッドの脇に置きながら瑞佳が言う。柔らかそうな生地の瑞佳のスカートがふわりと揺れる。
「今日、七瀬さんたちがお見舞いに来るらしいよ」
 七瀬、留美。
 乙女を目指すかなり男っぽい女。前はよく俺たちとツルんで遊びに行ったりしてた。高校の同級生の中ではかなり仲の良い部類に入る。
 ――よし。
 検索完了。

「へぇ」

 俺は出来うる限りに気のある声色を装い、返事をする。
「七瀬か、久しぶりだな。高校卒業以来じゃないか?」
 そうだねーと瑞佳が相槌を打つのと、がやがやとやかましい団体が病室のドアを開いたのはほぼ同時だった。
 俺はほとんど無意識のうちに、入ってきた連中の顔をで識別し、そのビジョンに付随する情報を出来るだけ多くかき集める。
 ――七瀬、住井、氷上、里村、川名先輩。
 大丈夫、だ。
 俺はまだまだ大丈夫だ。
「よう、折原っ! 元気かっ」
「ちょっと住井ー、入院してたのに元気もクソもないでしょうが」
 皆口々に確か数年ぶりだったはずの再会を喜び合った。確かにあいつらは俺の記憶にある通りの悪友たちだ。
 だが俺のこの冷め方はどうだ?
 確かに「記憶」はあるのに、なのに、なのに何故? これではまるで、何の思い入れもない青春ドラマを漫然と眺めているだけのようじゃないか。
 実感が持てない。
 感情が揺れない。
 本当に俺はこいつらの中に居たことがあるのかどうかすら怪しいほどに。
 そんな感情をおくびにも出さぬよう、細心の注意でもって、軽く笑ってみた。

「よう。元気だったか」


   ∞ ∞ ∞



 大きな事故があった。平凡な昼下がりに、平凡な人々を乗せて錆かけたレールを走る電車。日常を描いた絵があればそれが似つかわしいだろうというほどにありふれた光景だ。小石一つで、たった一人の焦りでたちまち悲劇へと塗り変えられるものだと、予想出来る方が異常だ。
 いや、詳しい原因などは知らない。そして、出来れば知りたくもない。
 脱線事故、死者13名負傷者252名。身元不明者も合わせれば、被害者数はそれこそ数え切れない。その結果こそが事実で現実で、そして全てだ。
 全ては俺がその事故の半年後に意識を取り戻した時に人から伝え聞いたことだが、どうやら俺はその電車に乗っていたらしい。ちょうど窓際に立っていた俺は脱線と横転の衝撃で外に吹っ飛ばされた。俺の居た車両は最も多くの死者が出ている。そういう意味では俺は幸運だったのだろう。生きることすら許されなかった人だって、いるのだから。

「瑞佳。実際の所、どうなの」

 七瀬の声によって、まどろんでいた俺の意識は一気に覚醒した。薄目を開けて部屋の中を見ると、七瀬と瑞佳以外は誰もいなかった。他の連中はもう帰ってしまったのだろうか。
「どう……って?」
「折原のことよ」
 息を潜め、聞き耳をたてる。
「良好だよ。あれだけ……」
 瑞佳はそこで不自然に言葉を切る。
「……大きな事故だったのに、後遺症も今の所大丈夫だって言われてるし、リハビリだって、順調」
 一応は明るい材料のはずなのに、瑞佳の声は何故か浮かない。
 七瀬がふぅ、と息を吐き出した。
「まぁ他でもない瑞佳と折原のことだから言っちゃうけどさ、こいつ、何か変じゃない?」
 びくり、と反応してしまいそうになる身体を必死で押さえ込む。
「なんかうまく言えないけど、折原って昔からこんな感じだっけ? って感じるのよ。違和感っていうのかな。話してても、なんかピンと来ないの。瑞佳はどう思う?」
 瑞佳は、応えない。
 病室に飾られた古めかしい時計がかつかつと、妙に意識を奪われる音をたてる。瑞佳はじっと口を閉ざしたまま、このやり切れない時間が通り過ぎていってしまうのを待っているようにも思えた。
「浩平、頭を強く打ったの」
 独り言のような調子で、漏れだした言葉があった。
「それは、知ってる。頭を手術したって……成功、したんでしょ?」
 瑞佳は僅かに首肯した。
「確かに手術は成功したよ。さっきも言ったけど後遺症だってほとんどないし……でもね、わたし、手術が終わった時に先生から言われたことがあるの」
 ずきり、と頭が痛んだ。
「脳には部位によって色々な役割があって、それぞれがバランス良く働くことによって人は成り立ってる……浩平の手術は成功したけど、一カ所の破損だけはどうにもならなかったって……その部分は、うれしかったり、悲しかったり……そういう感情を司る部分だったらしいの……」
「えっ、で、でも、折原はちゃんと喋れてるし、普通の人と全然変わらないじゃないっ!?」
 瑞佳は、首を静かに横に振った。
「性格とか、その人らしさとか、そういうものが変わっていっちゃうかもしれないんだって。今まで我慢できていたものが我慢出来なくなったり、急に理由もなくふさぎ込んだり……下手すると、今までとは全く違う人みたいになっちゃうかも……しれないの」

 どくん、どくん。
 俺の心臓が、まるで自分のものじゃなくなったみたいに騒ぎだす。止めようもない、暴走。俺の傍らで言葉を失ったまま俯く二人に聞こえてしまいやしないかと不安になる。

 思えば、そうだ。

 目覚めてからというもの、いつだって姿の見えない不安と戦っていた。
 せめて正体を見せろと大声で叫びたかった。
 姿さえ確認出来るなら、どんなに強大な敵であろうと、勇敢に戦い抜いてみせるから。
 しかし。
 姿なんか、見えるはずはなかったんだ。自分に自分が見えるはずもない。
 寝返りをうつ。そこには図ったかのように、卓上鏡に映し出された俺の顔がある。
 それを、見た。

 ――お前は、誰だ?



   ∞ ∞ ∞






 魂の奥底に刻み付けられた一つの約束があった。



 果たされぬままに悠久の時を越えたその願いは、繰り返す季節、繰り返す命、繰り返す営みの中、ただひたすらにその成就を待ち続けていた。



 例えその間、どれだけ傷つけられ歪められ、そして形を変えようとも。



 その願いは最早擦り切れ磨耗して、読むことも出来ない。



 だがそれは、この身を想像も出来ないほどの高みへと導く道標。



 同時に、おそらく叶わぬであろう望みへと、この身を縛り付ける呪いでもある。



 突き抜けるような青の下、混沌をして暗澹とした惨憺たる道のりの果てを思う。






 視界の隅を侵した影が、それへと続いていることなど、知らないままに。






    ∞ ∞ ∞



 また――あの夢だ。
 迫りくる巨大な影。足は金縛りにあったように動かない。しかし、意識だけは異様なほどに覚醒していて、視界を覆う青が段々と黒い影に侵食されていく様が、あたかもスローモーションのように見える。視界の全てが闇に染め替えられる瞬間に俺は目を覚ますのだ。
 額には尋常じゃない量の汗。服は汗でびしょびしょ。こんなに晴れた日に、何もかも忘れて屋上のベンチで昼寝したらさぞかし気持ちいいだろうと思ってきたのだが、これならクーラーのきいた談話室で適当に流れているTVでも見ながらぼうっと過ごしていた方が良かったのかもしれない。
「ふぅ」
 しかし病院の屋上はこの時間基本的に人がいないので落ち着ける。俺は適当に配置してあるベンチに横たわった。勿論松葉杖は脇に置いておく。
 こうして病院の屋上で寝転がってゆっくり空を眺めると、まるで自分が空の一部になったような気がして、何だか穏やかな気持ちになれる。昔はこんな趣味はなかったのだが、何故だか最近はこんな風に過ごす時間が無性に恋しくなるのだ。

「お、こんな日にこんなところで日向ぼっこか。真昼間から、良いご身分だな」

 首をひょいと入り口の方に向けるとそこには坂上先生の姿があった。先生はポケットに手を突っ込んだままひょいひょいと駆け寄ってきて、俺が寝ているベンチの隣に腰掛ける。
「ベンチは他にもあるじゃないですか」
「私がどこに座ろうと、別にお前には関係ないだろう」
 まるで聞く耳持たない。
 しかし、今の俺には坂上先生の気軽さがありがたかった。
「最近あの美人の彼女は、来ないのか」
「大学の授業が結構忙しいらしくて」
「そうか」
 嘘だった。
 七瀬たちが来た日以来、俺は瑞佳と上手く接することが出来なくなっていた。どこにどうストライクゾーンを設定したらいいのか分からないままに野球の審判をするようなものだ。どれだけ派手にジェスチャーを決めようとも、自信を持って判断できるはずがない。
 瑞佳は自分が毎日のように来ることが、逆に俺に気を遣わせてしまっている、とでも思ったのだろう。見舞いに来る日にちも、病室に滞在する時間も、以前に比べればずっと少なくなった。
 だが、そのことはこの人には知られたくない。坂上先生にまで気を遣われるような人間に、俺はなりたくはなかった。

「全く、奇跡的だな」

 先生が独り言のように呟く。
「何が、ですか」
「お前がこうして話したり歩いたり眠ったりしてることが、だよ」
「生きてることが、ですか」
 そうだ、と先生は言った。
「正直な話、ここにお前が運ばれてきた時は、どう考えても助からんと思った。処置するだけ無駄、こいつに時間を割くぐらいなら、まだ助かりそうな患者をこっちに回してくれればいいのに、とまで思ったぐらいだ」
「本人に向かって言う台詞じゃないですね」
「生きてるからこそ、言えるんだ。死んでしまったら、もう聞くことすら出来ないんだぞ」
 間違いない、と俺も先生も笑った。
「どうして無理を承知でやってみようと思ったかって言うと、お前の彼女だ。お前という人間が死んだせいであんな健気な子が泣くことになったら可哀相だな……ってな。あの子がいなかったら、お前はとっくの昔にあの世行きだ。感謝するんだな、彼女に」
 俺は「はい」と殊勝に頷いた。
 瑞佳。
 彼女との記憶。
 それは俺の持ってる記憶の中でも、一際輝いていた。
 それだけに、『昔』の俺と『今』の俺の落差に、心が痛む。
 欠けてしまった、自分の一部分。
 それが彼女への『想い』、周りにいる人たちへの『想い』だと、認めたくは――ない。

「俺は――欠けてしまったんですか? それとも――」

 変わってしまったんですか、と。
 声にならない声で問う。
 この人に聞いても、どうにもならない。そんなことは分かっている。しかし、聞かずにいるなんてことは、俺には出来なかった。
 先生はしばらく俺の顔を見つめた後、大きく溜息をついた。

「タバコ――」
「はい?」
「タバコ、吸ってもいいか?」
「どうぞ」

 先生は白衣の内ポケットからしわくちゃになったタバコを取り出し、安物のライターで火を点けた。
 白煙はゆらゆらと揺らめいて、屋上を撫でて空に消えていく風に運ばれていった。
「先生はタバコ、吸うんですね」
「大学の時に、悪友に勧められてな。いらいらした時、悲しいことがあった時、どうしても決めなくちゃならない限界ぎりぎりの時、自分を落ち着かせるために吸うんだ。普段は吸わない」
「じゃあ今は、どんな時なんですか」
 さてな、とそ知らぬ顔ではぐらかされた。
「お前に謝らなくちゃいけないことが、一つだけ、ある」
 先生はそう言いながら無言でタバコを差し出す。
 俺は不器用にそれを口に咥え、火を点けてもらった。
「あの日、お前と一緒に運ばれてきた患者がいた。お前と同じくらいの年の若い男だ。僅かに息があったお前と違って、その男はここに運ばれてくる途中で事切れたようだった。無理もない。道を歩いてたらしいその男の真上から脱線してきた電車が落ちてきたんだ。助かるはずない」
 二人で同時に白煙を吐き出す。
 空が、青い。
「結論から言うぞ。私はお前を助けるために、その男の脳の一部を『使った』。それで100%確実にお前を助けられると思っていたわけじゃない。ただ、可能性は0じゃないからやってみる、というぐらいの事だ。そのまま指を咥えてたら、両方とも確実に死ぬ。なら、0.1%以下の確率に賭けてみようと思ったのさ」
 青い空に、タバコの先端から漏れ出す白煙は、妙に合っていた。
 かなり長い時間眺めていたのかもしれない。
 気づいた時には、俺のタバコも先生のタバコも、根元まで燃え尽きていた。
「そして、お前は一命を取りとめ、こうして私と二人で青空の下、タバコをふかすことが出来たわけだ」
 先生は燃え尽きようとしているタバコをアスファルトに投げ捨て足で踏み消した。俺もそれに倣う。
「お前、さっき言ったよな。『俺は欠けているのか』って」
「ええ」
「お前の彼女にも言ったんだが、脳に損傷を受けた人間が今までと全く違った人格になってしまう可能性を秘めてるのは事実だ。実際にそうなった例は、それこそいくらでもある。命だけはは助かっても植物人間になってしまう可能性だって低くはない。そこまではいかなくとも、頭に怪我を負うなんてのは本当に人の人生を左右する事故だ。事故前と事故後を比べて、同じ人間であるはずがない」
 俺は頷くにも頷けなかった。
「全く性格の変わってしまった奴もいるし、全く変わらなかった奴もいた。けど――」
 真っ直ぐに俺を見る先生の目。
「周りの人間がお前を『折原浩平』と認識している以上、お前は『折原浩平』なんだ。それだけは、絶対に変わらない」
「で、でも」
「考えてもみろ。もしもこの地球上にお前しかいないとしたらだ、自分が『折原浩平』であるなんて情報は全くの無意味だろう。自分が何者であるか、なんて命題は自分を認識する他者の存在があって初めて成り立つんだ。結局、自分という存在を決定するのはあくまで自分以外の他者、もっと言えば他人の中にある自分というイメージなんだ」
 他人。
 その言葉に込められた意味は違うのかもしれないが、今の俺にはその言葉が胸に突き刺さるような想いがした。

「折原、疑うなよ」

 おそらく初めて坂上先生から呼ばれた自分の苗字が、俺の中の何かを呼び覚ましそうで、恐怖を覚えた。
「自分自身であることを、疑うな」
「意味が、分からないんですが」
「理解らないなら、それでもいい。ただし」
「ただし?」
「お前が生きた証はきっと彼女だ。お前がそれを疑えば彼女だって信じられなくなる。どんな部分が欠けようと、どんなものに変わろうと、お前はお前なんだ。それだけは、忘れるな」



   ∞ ∞ ∞



 夜の暗闇が俺のいる病室を覆いつくしている。闇は深まれば深まるほどにその静寂を増し、人を生まれたままの姿にする。
 孤独に、する。
 俺は眠れずにベッドに腰掛けたまま、昼に坂上先生から言われたことをずっと考えていた。

 ――他者の中にある『俺』のイメージが、俺。
 ――俺が『俺』であることを疑えば、他の人間だって『俺』を信じられなくなる。

 世界を単純化して考えれば、そうなのかもしれない。坂上先生の言うとおりなのかもしれない。
 だが、ならば俺の中には。
 他人の中にある俺のイメージこそが俺なのだとしたら、逆に俺の中には一体何があるというのだろうか。

 確かに、俺の中には記憶がある。幼い頃に妹を亡くしたこと。失意の内に瑞佳と出会ったこと。何の気なしに進んだ高校で色々な奴らと出会ったこと。瑞佳と愛し合うようになったこと。一つだって欠けることなく、一つも矛盾することなく、記憶という名のパズルを構成するピースは正に俺、『折原浩平』そのものだ。
 開けっ放しにした窓から少し冷えた風が吹き込み、窓際を飾った花を揺らめかせる。
 しかし、俺は事故に遭った。

 ――視界の隅を侵す影のイメージ。
 ――削り取られた自分。

 完成していた記憶という名のパズルはその土台からバラバラに壊された。吹き飛ばされたピース。丹念に探して、丁寧に作り直した。失くしたピースはただの一つもなく、組み上げ方だって失わなかった。
 失われたのは、俺だ。
 パズルのピースが描き出した一枚の絵が何を意味しているのか、最早俺には理解らなくなってしまった。
 理解らないものを、判らないままに愛するなんて、俺には、出来ない。
 出来ないんだ。

 ――坂上先生。
 ――俺の中には、何も無かったよ。

 膝を抱えて身体を縮め嗚咽を外に漏らさないようにしたのは俺に残された最後の誇りだった。
 これ以上俺が、無意味になってしまわないように。
 無意味で組み上げられた俺の誇りまでが無価値になってしまわないように。


 ひょこり


 何かが動いた気配があった。
 咄嗟に視線をドアの方に向けるが何も動いた気配はない。
 しかし、何かが、いる。

 どくん、どくん、どくん、どくん。

 心臓の音がやけにうるさい。まるで周囲の気配を全て遮断するかのように俺の中で踊り狂う心臓。その圧倒的な圧力は俺を内部から押し広げる。自己が肥大していく。
 相変わらず部屋の中では何かが動いている。
 人じゃ、ない。
 もっと小さな、何か。
 それは俺の中の猛りを鎮めに来たかのように、ぽとりと、ベッドの上に降り立った。
 夜の風がカーテンを吹き上げ、部屋の中にまで月明かりが導かれる。まるで計算しつくされたスポットライトのように『それ』を照らし出す。

「――人形?」

 それは非現実的な光景だった。
 薄汚れたちっぽけな人形が生意気にも己が存在を主張するかのように、跳んだり、跳ねたり、踊ったり。シーツの表面に出来た皺のような小さなギャップに足を取られて転んだり。
 恐怖は無かった。
 まるで慣れた仕草で、俺はその人形を鷲掴みにする。

 月明かりの下で、人形は静かに笑っていた。

 俺はその微笑みにしばし愕然とした。
 その人形は、俺がここに搬入された時から握りしめていたものだと坂上先生に教えてもらったことがある。事故の時に誰かの持ち物を咄嗟に手にとってしまったんだろうと先生は話した。捨てた方がいいと瑞佳には何度も諭されたが、何故か捨てる気にはなれず、そのまま花瓶の横にもたせかけてそのままにしておいたものだ。
 何度も俺はその人形を目にしたはずだ。なのに、俺はその人形が微笑んでいることなんて、一度だって気づかなかった。
 俺は、それが当たり前であるかのように、人形を立たせ、手をかざし、目を閉じて、意識を集中する。
 人形は先ほどまでと同じように、踊り狂っている。
 俺の、思い描いた通りに。

 左、右、返してステップ、ジャンプ、着地に失敗、照れたように頭を掻き、次は――

 初めてのはずなのに何故か懐かしかった。
 俺は時を忘れてその行為に没頭した。



 いつしか俺は人形を踊らせていることすら忘れ、人形の笑顔だけをじっと眺めていた。その優しげな笑顔は、まるで忘れていた温もりを直接心の中に染みこませてくれているようだった。
 鳥の声に気づき、俺は窓の外に目をやる。
 薄っすらとした光が、かつては全てを覆いつくした夜を侵していく様を眺めた。


 俺は、『俺』でなくてもいいんじゃないか、と思った。

 他人の中の『俺』。
 俺の中の『俺』。
 その一つ一つの不整合に心擦り切れ磨耗してしまうくらいなら。

 人のそれを真似て紡がれたその微笑みだけは、きっと許してくれる。



 辺りはもうすっかり明るくなった。朝の太陽が、夜に包まれていた街を優しく照らす。
 人形は踊りつかれて眠ってしまったのか、もうぴくりとも動きはしない。俺が手をかざして起こしてやれば、眠い目を擦って頑張ってくれるのかもしれないが、流石にそれは酷というものだろう。
 俺は起き上がり、人形をもとあった場所にそっと置いた。



 ただ一つ、瑞佳の笑顔が心に引っ掛かった。
 昼間、瑞佳が来ると決まって腰掛ける椅子を引き寄せると、ぎぎぎと歪んだ音がした。




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