旅に出ることにした。理由は特にない。日常に飽きたわけでもなく、ここではないどこかへ逃れたいわけでもなく、明日への不安に耐え兼ねたわけでもない。ただ、俺の目の前には大きく口を開けて乗り手を待ちわびる特急電車があり、そして俺には差し出すだけの時間があった。
 乗り込んで二つ目の停車駅を過ぎたあたりで車掌に乗車券の提示を求められた。入口付近で数人の若者と一緒に座り込んでいた俺は形式的に鞄の中を探るような仕草を見せた。俺以外の人はみんなちゃんと券を持ってるみたいだ。結局「すみません持ってません」と答えた俺は、まるで無銭乗車をしたような罪悪感にかられる。
「で、どこまで行かれるの?」
 少し考えた後に適当な地名を言って、俺は車掌いくらかのお金を支払った。車掌は次の車両に消え、俺はまた地べたに座り込む。たまたま持っていたiPodのスイッチを入れる。少しずつ、景色が音に埋もれていく。

 自殺する前に人肉を食べたいと考えたある男が逆に食べられたいと考えた女と接触し関節で切り落とした女の腕を焼いて二人で食べる話を携帯で読んだ後に少しまどろんだ俺は、吊された知り合いの死体が徐々に腐り落ちていくのをただ眺めるという夢を見た。ぷんとした腐臭に蛆虫がたかり、生気を失った目玉を烏がつついていた。髪が抜け、つらつらと地面に舞い落ち、削げ落ちた肉にまた虫がたかった。俺は泣きながら吐き、吐きながら泣いた。自分がなぜ泣いているのかわからなかった。悲しいのだとしたら、それはなぜ。腐り落ちる死体。かつて誰かだった何か。いつか誰かの何者かであったはずの何か。日が暮れる。ここにいたい。ここがいたい。くるしい。むねがつまる。こぼれる。君は、果たして、誰だった?
 速度がゆるやかに失われていき、俺は目を開けた。俺の側で降車を待つ人の列が出来ていた。電車は停まり、大きく息をついて扉が開く。iPodはいつか止まっていた。

 流されるままに下車し、すぐに次の特急の乗車券を買った。一時間後の特急。時間がぽかっと空いてしまい、俺は駅舎の外に出た。適当な店に入って盛そばを頼む。周りは年をとった客ばかりで、ある程度若そうに見えるのは俺だけだった。
「花火、見に来られたんですか」
 御品書きを持って来てくれた女性が言う。俺は「いいえ」と答えるほかない。
「花火があるんですか?」
「はい、みなさんよく遠くから見に来られるのでね」
 窓から外をのぞくと、確かに浴衣姿の人が多い。夏の祭の空気が、ここまで匂ってくるようだ。
「どうです? 何も予定がないなら、見て行かれたら」
「いえ、行くところがあるので」
 俺がそう言うと彼女は「そお? 残念ねぇ」と笑った。つられるように、薄く笑う。

 そばを堪能し、少し買い物をした後で、俺は今日二本目の特急に乗り込んだ。今度は指定席に座る。座り心地は悪くはないが、良くもない。またまどろんだ隙に、さっきと同じ夢を見る。今度は、俺が宙に浮いている。少し上空から、腐り落ちる死体とそれを見て泣いている誰かを見下ろしている。死体は腐り、誰かはやがて泣き止んだ。無音の世界。不思議に思った俺は宙を滑るように移動し、さっきまで泣いていた誰かの顔を覗き込む。
 死んでいた。

 ――ういん。

 うぃん、うぃん、ういん。どこかで響く歯車の音。錆び付いた鎖がぎちぎちぎちと、さっきまで泣いていた誰かだったものの足を持ち上げていく。足、両足、ふともも、関節が折れる、まがる、腰、腹、裂ける、肩、肩甲骨、鎖骨、ぼき、胸、心臓、赤い、黒い、頭、目、鼻、口、がらんどう。
 声が響く。喉が震える。泣いているのは、おれだ。吊されていく。ハングドマンは、おれだ。全部、おれだ。おれ、おれだった、何か。おれだった、誰か 俺は、泣いた。悲しくて、ただ悲しくて、泣いた。俺は、俺が死んでいくことが、例えようもなく悲しかった。俺は死んで、やがて俺だった何かに変わっていくのだ。誰にも気付かれないようなスピードで、しかし確実に。毎日どこかで誰かに殺され、時には自分で殺し、変わっていき、俺はまた涙を流すのだ。

 気付くと、頬を涙が伝っていた。鼻と耳の奥に薄い膜が張っているようだ。俺はさっきの店でもらったポケットティッシュを取り出し、顔に思い切り押し当てた。

 やがて特急は終点に着いて、駅のホームで俺は携帯を取り出し、使い古したメモリーを呼び出す。
「なんだ? どうしたんだ馬鹿兄貴」
「いや、今日暇だったからすぐそこまで来たんだけどな、……やっぱ帰るわ」
「すぐそこまで来たのに寄らずに帰るのか? 相変わらずわけわからん行動を取るな、きょーすけは」
「すまんな、理樹にはよろしく言っておいてくれ。あと――」
「ああ、うちの馬鹿息子にも言っておく」
「頼む」
「あいつは本当にきょーすけきょーすけだからな、また近いうちに遊びに来てくれ。あいつきっと、くちゃくちゃ喜ぶ」
「ああ――、またな」
 ぴ。
 軽い電子音に途切れた糸。ごお、とすぐそばを通過列車が通り過ぎる。鈴、鈴、と口の中で小さく呼んでも返事などあるはずがない。列車に例えるなら、俺の牽引をあいつは必要としなくなった、ただそれだけのことだ。繋いでた手を離して自分の足で駆けていったあいつは、うずくまり日々死んでいく自分に涙するだけの俺を知ったら、果たしてどんなふうに思うのだろうか。それが少し知りたくて、知りたくなくて、またiPodのスイッチを入れる。動かない。












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