きっかけは、ほんのささいな事だった。
 放課後私が帰り支度をしていると、後ろからクラスの学級委員長、美坂さんが急に話しかけてきた。
「さっきの、よく分かったわね」
 振り返ると、彼女がゆったりと微笑んだ。
(……何の用だろう、美坂さん)
 美人で、羨ましいくらいのルックスを持つ彼女。
 でもどちらかといえば、目立つ彼女に横に立たれると、他の男子の視線も集まってきて、緊張するから少し苦手だった。
「さっきの?」
 オウム返しに返すと、彼女はクスリと笑う。
「前の時間のホームルームで話し合ってた文化祭向けの歴史の問題、あなた一人だけ、間違いに気づくことができたでしょ」
 うちのクラスは、三月に行う全校揚げての卒業生追い出し会の出し物で、優勝者を一人三百円で予想させて、その賞金を元手に、トトカルチョ形式クイズビリオネアもどきのクイズイベントを行うことになっていた。
「あ、さっきの?……まあ、たまたま知ってたから」
「それだけじゃなくって、同じクラスになった時くらいから、いろいろ博識だな、とは思ってたんだけど」
「……それは、どうも」
「ところで匂坂莉美(さぎさか・りみ)さん。あなた本、よく読むの?」
 ますます美坂さんの質問の意図が掴めず、私は眉根を寄せる。
「どうして、そんなことを?」
「なんとなく。だってあなた、よく図書館で見かけるから」
「よく、知ってるのね」
 プライベートを、自分の知らないところで覗かれていたようで、私は少しだけ不快感を露にする。すると美坂さんは慌てて、誤解を解こうとするかのように、胸の前で手のひらをひらひらとさせた。
「だって私、図書部だから。図書館で、姿はよく見かけてたのよ。残念ながら話しかける機会は、無かったけれど」
「そ」
(気がつかなかったな……でも、関係ない)
 私は、会話を終わらせようという意思表示で、立ち上がる。すると美坂さんは、さらに絡んできた。
「で、あなたを見込んで、頼みがあるの」
「……なに?」
 戸惑いを含んだ声で返すと、そんな私の様子もまったく気にならない様子で、彼女は余裕の笑みをみせる。
「できれば、場所を変えたいわ。図書館まで少しつきあってもらえないかしら。そんなに時間はとらせないから」


 そうして、私達は図書室へ向かった。
 いつも彼女を追い回している北川君は、ついてこようとしたけれど美坂さんに追い返された。それでもって、やっぱり従順に学級で待っているのかな。ご苦労なことだ
(彼も顔は、結構悪くないんだけどな)
 私はぼんやりと考える。でも彼の場合、性格がアレで、美坂さんに対するアプローチがさらにアレなもんだから、クラスの女子からも、すっかり微笑ましく見守られる存在になっちゃってるわけで。……非常に残念。
 ちなみに我が校の図書館は、五年前の改築の結果、近代的な迷宮と化したわが校舎から少し離れた別棟の二階にある。
 鉄筋三階建て、一階には視聴覚室、三階にはステージを有する、全館エレベーターセキュリティ冷暖房LAN配線完備で、さらに全フロアにウォシュレットつきのトイレを配備した、学生に対して無駄に豪華な建物は、はたして北海道政財界に根を張る裕福な同窓会有志の、趣味の寄贈物だと聞く。
 そうしていつもどおり人気が少ない、閑散とした図書室に入ると、カウンターにおとなしそうな、ふわふわした髪の毛の王子様系の男の子が座っているだけで、他には誰もいなかった。
 そんな男子に向かって、美坂さんが声をかける。
「変わりない?」
 すると声をかけられた男子が、苦笑しながら返してくる。
「ちわす。美坂先輩」
(人は、見かけによらないなあ)
 文科系の、どちらかといえばさわやかな雰囲気を持つ彼の口から、まるで体育会みたいな言葉遣いが飛び出してきて、私は内心驚く。そういえば図書室の受付なんて、ほとんど事務的な事以外言葉交わさないから、今まで目に入っていても、気に留めてなかっただけかもしれないけれども。
 そして美坂さんは私に向かって振り向くと、彼を軽く手で示して私に紹介した。
「彼が、副部長の久瀬晃一君」
「えっと……あれ、久瀬って」
 どこかでその名前を聞いたような気がして、私は軽く目を瞑り、そうして思わず手を叩いた。すると美坂さんが私に向かって、 楽しそうに目配せをしてくる。
「久瀬生徒会長の双子の弟さんなの、彼」
 すると久瀬王子は、さわやかに笑顔で挨拶をしてくる。
「は……初めまして」
 私はその兄である生徒会長と弟君のイメージギャップに動揺しながらも、とりあえず挨拶をする。それにしても、冷徹で猪突猛進破壊神キャラの兄とは違い、弟さんはずいぶんと穏やかな人だという衝撃は、どうにも抑えられない。
 やがて、美坂さんが切り出した。
「で、早速なんだけど、本題に入ろうか」
 すると久瀬君も心得たように、カウンターから身を乗り出してきて、こう言った。
「例の件だね」


「実は、匂坂さんにお願いしたいことっていうのは、今度図書館で本の買出しをやるんだけど、本を選ぶのにつきあってもらえないかなってことなの」
「……へ?」
 こんな人気の無いところまで連れてこられ、いったい何事を頼まれるのかと、内心びくびくしていた私は、その依頼内容の普通さに、正直拍子抜けをする。
「そんなことのために、ここまで呼んだの?」
 その私の反応に、今度は美坂さんが少し気分を害した表情をする。でもそれは一瞬だった。
「結構そんなこと、でもないのよ。今回は今年の図書購入として与えられた予算が大きい分、あんまり誰でもよいってわけでも無かったんだから」
「いくらなの?」
 思わず問い返した質問に、美坂さんは苦笑いをする。
「百万……」
「いったい、何冊買う気よ」
 私は驚いて、ついぽかんと口を開いてしまう。するとそんな様子を見た美坂さんは、ため息とともに続けた。
「本来なら、こういう話は執行部か、委員会に行くべきなんだけどね。彼ら図書館での活動実績はほとんど無いから、分からないだろうって話になって……実際図書カードの管理や受付とかも、うちが部活動の場所確保の条件と引き換えに、事実上やってきていたし」
「それにしても、すごい額ね。毎年、そんな予算なの」
「まさか、いつもの年の五倍。今年はこの図書館を建てた卒業生有志から、図書館建立五周年記念だとかいって、ぽんっと出てきたらしいわ。しかも、五周年は今月までだから、今月購入分で使い残した分は返せだって」
「ふええ」
 私はそのゲームでもするような感覚についていけなくて、思わずこめかみを押さえた。
「選択肢が広がるのはありがたいんだけど、ここまで広がると、ちょっと私達だけでは手に余るのよね。逆に金額に惑わされて視野も狭くなるし……だから、思い切って外の応援を呼んだ次第ってわけ」
「金持ちの考えることは、時々分からないわ……それになんだか、深夜番組のネタみたい。大金渡して一晩で使い切れってやつ」
 呆れてついそんなことを言ってしまうと、以外にも美坂さんが食いついてきた。
「そういえば、あったわね。そういうの」
「知ってるの?そういうの、美坂さんはまじめそうだから、そういうの、あんまり知らないかなって思っていたんだけど」
 すると美坂さんは、少し寂しそうに笑って、こう言った。
「夜、眠れなくて、勉強も手につかないときは、よくテレビ見てるから……」
「ふうん」
 でも、話を聞いてみると、百万円好きな本に費やせる権利というのはおいしい。
「で、なんで私なの?」
 若干乗り気になった私を感じたのか、美坂さんはもとの凛々しい彼女に戻って、こう言った。
「まんべんなくジャンルに通じていて、図書館にもそこそこ通いなれてる。……それに、本が好き。適任だと思ったからよ。それは、クラスで言ったつもりだったけれど」
「伝わってなかったわ。だって美坂さんの言い方って、時々少し強圧的なんだもの」
「……そう、なの?」
 彼女がすねたように口を尖らせるのが可愛くて、私は思わず噴出してしまった。
「やだ、美坂さんて、意外と可愛い」
「……匂坂さんも、私が持っていた印象と、結構違うわ。意外と話せる人だったのね」
 すると、美坂さんに同調するかのように、久瀬君も頷く。
「そうだね。もっと匂坂さんっておとなしい人かと思ってたよ、僕も」
「それは、どういう意味よ」
 今度は私が口を尖らせて問い返すけれども、二人は意味ありげに笑い合って、答えようとしない。もっとも別に深く追究するつもりもないのだけれど。
 悪意は、無いらしい。私を評価しての依頼らしい。それだけ分かれば十分だ。
「いいよ、OK。引き受けるわ。なるべくみんなが読みたい本を選べるよう、努力する」
 すると美坂さんは、ふわっと微笑んだ。
「そんなに気張らなくても、いいわよ。この場合、本が好きっていうのが、一番重要だったのだから」
 なんていうか、女神の笑顔。
(うわ、この人やっぱり美人だよ)
 勝気な顔もいいが、彼女が本当に笑うとこんななんだ。これはすごい。
 女なのに、不覚にも見とれてしまう。北川君がメロメロになるのも、少し分かる気がする。
「……短い間だけれど、ま、よろしく頼むわ」
 おかげでびっくりしてしまった私は、どこかのツンデレキャラみたいなこんな発言でしか、締めくくることができなかった。


 翌日、たまにやってくる図書館の司書用の休憩室で、お昼を食べながら打ち合わせようという話になって、弁当箱をぶらさげながら廊下を歩いていると、向こうの方からパタパタとかけてくる可愛らしい下級生に声をかけられた。
「あの、美坂香里……お姉ちゃんのクラスってここですよね。もう、お昼行っちゃいましたか」
「あ、えっと」
 よほど急いできたのだろう。肩で息をしながら、ボブカットのその下級生は必死で聞いてくる。私はその勢いに、思わず気圧された。
 すると同じクラスの相沢が、戸口のところに手をかけながら、その下級生に声をかけてくる。
「美坂ならもう行ってしまったぞ、栞」
 すると名前を呼ばれた下級生の顔が、相沢の顔を見るなりぱあっと明るくなる。……分かりやすい。
(それにしても、もう既に、この下級生も名前呼びですか。転校してきて半年もたたんのに)
 私は思わず、相沢の顔をじっと見た。すると視線に気づいたらしい相沢が、怪訝そうな顔をする。
「なに?」
「いや、別に」
 私は軽くため息をつき、そのまま相沢に背を向けた。
(お嬢さん……でも、この男かなりプレイボーイらしいから、気をつけたほうがいいぞ〜)
 なんて、何の面識も無い下級生のために声を出せるわけも無いから、軽くスルーすることにする。
(相沢も、顔はいい。顔も声もかなり好みなんだが……いかんせん、節操の無い男は嫌だ)
 世の中顔がよくて、性格もよいなんて男はそうそういないことは分かっている。でも、顔がよいことも一つの才能なのだから、 ぜひそれを磨いてほしいと願うのは、欲張りなんだろうか。北川といい、相沢といい、あの性格は才能の浪費だ。
 ついついそのもったいなさに、手に力が入る。
(水瀬さんだけじゃ飽き足らず、上級生にも粉をかけてるというし、今度は下級生か……しかも、美坂さんの妹)
 そんなことをぼんやり考えながら歩いていると、気がつけば図書室に着いていた。ガラス張りの部屋をのぞくと、オプション北川君は、しっかりと美坂さんの横に貼りついていた。
(ここにも、才能の無駄遣いがいる)
 その北川の必死な姿に、哀れな心持さえ覚え、私は深くため息をつく。
(なるほど図書館に向かった美坂さんを見て、久瀬君を牽制しに来たか。本当に、ご苦労さん)
 顔はいいのに。恋をすると、盲目とはいうけどね。
 なんとなくうなだれてドアを開けると、私を脱力させた原因が意外そうな声を上げる。
「あれ、匂坂。どうしてここに」
「それは、こっちの台詞よ」
 一応、北川にはお決まりどおりの返答をしてみるが、動機は分かりきっていた。
 そして空いていた美坂さんの向かいの席に座ると、美坂さんが少し笑って言う。
「遅かったわね」
 瞬間、意識する間もなく私の脳内に、アドレナリンが放出されるのが分かった。
(……なんだか、美坂さんって、やっぱり華やか)
 そこまで、考えて私ははっとする。落ち着け自分。
 また、そうこうしているうちに、現実世界では、北川が美坂さんに命令されていた。
「じゃあ、匂坂さんも来た事だし、北川君はもう行ってくれないかな。これから、打ち合わせがあるの」
「ええ、俺がここにいたっていいじゃん」
 軽く抵抗する北川。しかし美坂さんは、そんな北川を不機嫌そうに小さく一喝した。
「いいから、行って」
 おお、相変わらずの女王様だ、美坂さん。
 そして、逆らえずに北川が、すごすごと退出する。そのすれ違いざま、北川は私の肩をぽんと叩いて、のたもうた。
「匂坂、頼むな」
(何をだ)
 その情けない姿に、私は彼をチラリと一瞥しただけで、リアクションをしなかった。けれどもドアが閉じる音がすると、さすがに可哀想にもなってきて、一応フォローを試みてみる。
「別に北川君、いてもよかったんじゃ……」
「関係者じゃないもの。必要ないわ」
 けれども、やっぱりあっさり美坂様は北川を切り捨てられる。まあ、いつもの見慣れたやり取りだし?さほど気にすることもないか。
 それにしても、しょっちゅうこんな仕打ちをされてる北川君って、美坂さんにこうされるのを好んでいる風にも見えるよね。本当はM嗜好?……まあ、どっちでもいいけどね。


「そういえばさ」
 打ち合わせの前に、私は切り出す。まだ雑談の続きだけど、ここに来る前から、とても気になっていたこと。
「なに?」
 美坂さんが問い返してきた。
「ここに来る前、香里さんの妹さんが、美坂さんをうちのクラスに探しに来ていたよ」
「ああ……」
 すると彼女は、照れたように少しだけ頬を赤く染め、下を向いた。
(なに、どうしたっていうの)
 その可愛らしい仕草は。
 するとどう声をかけていいか分からず黙ってしまった私を、フォローしようとしたのだろう。久瀬君が苦笑しながら、補足説明を耳打ちしてくれた。
「美坂さんはまだ、栞ちゃんと一緒にお昼するのに抵抗感が、あるんだ」
「久瀬君!」
 すると美坂さんが、少し非難めいた視線をこちらに向け、小さく唸った。
(うわ、今度は耳たぶまで赤くなってるよ)
 ツンデレ女王、ここに光臨。
「で、栞、どうしてた?」
 そして蚊の鳴くような弱弱しい声で、女王は聞いてくる。
「いないって言ったら、相沢君と一緒にお昼に行った……と思う」
 そんな美坂さんを見ているうちに、なんとなく申し訳なくて、語尾が弱くなった。
 相手は、あの女にだらしない奴って分かっていたのに。お昼だけで終わるかも、わかんないし……て、それはさすがに、飛躍しすぎってわかってるけど。
 ……でも、あんな純粋そうな娘。二股、三股かけられてんの、可哀想だな。やっぱり止めるまではいかなくても、一言くらい声をかけておくべきだったか。でも、なんて?
 私の頭の中で、相沢狼の毒牙にかかった、いたいけな下級生の子羊ちゃんのイメージがぐるぐる回り始めて、罪悪感で一杯になる。だが、意外にも美坂女王はそれを聞いて、ほっとしたような小さな溜息をもらした。
「そう、それなら大丈夫ね」
「そう?でも、やばくない?相手はタラシの相沢だよ」
「そうでもないわ。相沢は、そんなに悪いやつでもないわよ」
 すると美坂さんは、こちらを向いてきっぱりと断言した。
(美坂さん、まさかあなたまで毒牙に!?)
 私はその彼女の相沢へのどこか芯の通った信頼に一瞬のけぞったものの、でも結局その口調に、私は肩をすくめた。
「……まあ、私も確かめたわけじゃないしね」
 だって栞ちゃんが望んで、美坂さんが認めているのなら、怪しんでていても、私の出る幕じゃないし。
「私、あなたのそういうところ、嫌いじゃないわよ」
 美坂さんが、優しい表情で微笑む。
「それは、どうも」
「で、それでだ。本題の本の購入の件だけど」
 話がまとまったところを見計らった副部長が、切り出したところで授業開始五分前のチャイムが鳴った。
 キーンコーンカーンコーン。スタンダードな間延びした鐘の音が校舎中に、響き渡っている。
「あら、時間切れね」
「……ごめん。私が遅刻したせいだわ」
 私は、素直に謝って頭を垂れた。すると副部長の久瀬君が、慌てたように言う。
「気にしないで。まだ放課後もあるし、時間はたくさんあるよ」
 その時、私はなぜかその副部長の言葉に、ピクリと反応した。
「……匂坂さん?」
「ん。なんでもない、また放課後ね」
 時間はまだ、たくさんある。
 その言葉を聴いた瞬間、正直嬉しいと思ってしまった。短い付き合いだといったのは自分なのに。
 嬉しくて、表情が緩んでしまった自分に、我ながらびっくりする。
(参ったな。私、この人達を心地いいと思い始めてるよ)
 そして、自覚してしまった気持ちが、なんとなくこそばゆくて、私は頭をぽりっと掻いた。
 ……だけど、その時の私には、そう感じてしまった本当の理由は、まだ分かっていなかったのだった。


 放課後。曇天が多い冬には珍しくすっきり晴れてくれたので、軽く昼休みの打ち合わせの続きをした後で、美坂さん、久瀬君、北川君と駅前の比較的大型の書店へ、下見に行くことになった。
 2月上旬の街は、どこもかしこもバレンタインデーの装飾一色で、あちらこちらにハートだの、ピンク色だの、羽だのがふわふわと飛び交っていて、少しだけ気分がウキウキとする。
 私は商店街に差し掛かったところで、地元の有名洋菓子店が、街頭で新作の試食販売をしているのを発見し、駆け寄っていった。
「ちょっと、待ってて」
「あの、匂坂さん!?」
 少し慌てたような美坂さんの声にすぐだから、と答え、その言葉通りに二人分の試食用のチョコを持って、すぐに戻ってくる。
「匂坂さん?」
「食べてみてよ。ここのチョコ、毎年この時期の新作は、手が込んでいて美味しいんだから」
 言うが早いかまずは私が頬張ってみせると、美坂さんも私の勢いに仕方なく、おずおずと口の中へチョコを入れた。
「美味しい!」
 次の瞬間、美坂さんが、目を丸くして絶賛をする。彼女の反応に気をよくした私は、勢いづいて言った。
「でしょう!私のお勧めなんだ、ここ。でもおかげですっかり有名になっちゃって、最近なんかコンビニで売ってたりもしてて、地元民としてはちょっと残念だったりもするんだけどね。……で、美坂さんは、今年はどうするつもりなの?」
「え、どうするつもりって?」
 尋ね返してくる彼女に、私は片目をつぶってからかうように返した。
「この時期にそういう質問するって言ったら、決まってるじゃない。バレンタインよ。美坂さんは手作り派?買い物派?」
 私がその質問をするなり、「バレンタイン」という言葉に反応したらしい北川の体が、ピクリとした。
「そうね……今年は、栞が頑張って手作りするって息巻いているから、一緒に作ってみるのも悪くないかなって思ってる」
 美坂さんは、少し俯いて照れながら、嬉しそうに答えてくれた。
 美坂さんが、栞ちゃんの話題を出すときは、いつも目が優しい。栞ちゃんがとても大事にされているのが分かる。
(そうか、美坂さんの今年のバレンタインは、とりあえず彼氏よりも栞ちゃんか……)
 目の端に、手作りと聞いた北川が小さくガッツポーズを作るのが映ったけれど、無視を決め込んだ。この期に及んで、まだ自分のためにチョコを作ってもらえるって信じて疑わない痛々しい希望は、そっとしておいてあげるていうのが、優しさってもんだろう。うん。
「匂坂さんは、どうするの?」
 そんなことをつらつらと考えていると、今度は美坂さんに問い返された。
「うーん、私?……実はさあ、あげるアテすらまだ決まらなくて、ちょっと困ってるんだよね」
 苦笑しながら返すと、美坂さんはからかうような視線で、少し意地悪な笑いをする。
「本当に?」
 そんな風に言われても、ごまかしでなく真実なので、苦笑して返すしかない。
「残念ながらね。そ、そうだ久瀬君はどうかな」
「久瀬君?」
 美坂さんからの追及を交わそうと必死の私は、さっきから会話に加わらず、黙ってニコニコとしていた久瀬君に、不意に気がついた。
「そういえば、久瀬君はどうなの?」
「え?」
「バレンタイン、もらうアテあるの?」


 すると久瀬君は、一瞬戸惑った表情を見せ、それからはにかんで言った。
「残念ながら、もらうアテなんかないよ。彼女もいないしね」
「じゃあ、もらいたい女の子は?」
「いないよ」
 久瀬君は、あっさりと笑って答える。
 彼だって、格好いいとはいかないまでも、優しそうなルックスで、もてそうなのに。
 なんでこの学校の男は、そろいもそろって、勿体無い奴ばかりなんだろう。私は、そのクールな返答に地団太を踏む。
「そういう無難な答えは、面白くないんだってば〜」
「そんなこと言われたって……」
「じゃ、じゃあ意識してる女の子くらい、いるでしょう?」
「うーん。だけど今は図書部の業務が忙しくって、それどころじゃないから」
 いくら食いついても、相変わらずしぶとく、のらりくらりと交わしてくる。私はやがて、がっくり肩を落とし、久瀬君に訴えた。
「あう〜、枯れてる、枯れてるよ、久瀬君。こういうところは、北川君のほうがやり方はともかく、好きな女に積極的じゃんか〜」
 すると久瀬君は、ぷはっと噴出すように笑って言った。
「僕と美坂さんは、そういうんじゃないし」
「ああ、はいはい。もうなんかさあ。久瀬君って、こういう話題ごまかすの、本当に上手だよね」
 そして私は、ヤケクソ気味に久瀬君の顔を見上げる。それでも久瀬君に張りついたその笑顔は、いつも通りの久瀬君の笑顔だった。
「……あれ?」
 ただ、なんとなく違和感、といったらいいのか。
 あまりにも普段通り過ぎて、表情が見えない。まるで何かを鉄壁に隠しているようで、逆に不自然で。
 そして、気がつく。私は「好きな女」と言ったのであって、「美坂さん」とは言っていない。
「……ちょっと待って、久瀬君、今、何て言った」
 気がつくと、そんな言葉が口をついていた。
「え?」 「美坂さん、なの?」  そして私の目の前で、不意を突かれたように、一瞬久瀬君の視線が揺れる。
(マジ?)
 まずいとは思いながらも、妙な緊張感で目が離せない。
「……嘘」
 そして私が喘ぐように何か話そうと口を開きかけたところで、美坂さんが会話に割り込んできた。
「どうしたの?」
 急に沈黙を破られて、びっくりした久瀬君と私は、体をびくっとさせる。  しかし美坂さんは美坂さんで、私と久瀬君が話している間、何やら北川とやりあっていたようで、今の久瀬君との会話は、聞いてなかったらしい。私達のリアクションに不思議そうな顔をする。
「……え、な、なんでもない、よ?」
「?」  しかし、勢い不審な返事になってしまった私だったが、美坂さんはそれ以上何も聞いてこなかった。
 そしてその後すぐ、今度は突然携帯が鳴る。あまりのタイミングの良さに、私は少し飛び跳ねた。
「うひゃ!」
「あ、匂坂さんの携帯みたいだよ」
「……ほんとだ、ちょっと待ってね」
 いつも雑然としている私のカバンの中、私の手は焦って、なかなか自分の携帯を探し当てられない。
 それでも慌ててカバンをあさり、ようやく手に取った携帯の表示を見ると、それは自宅からのメールだった。
「何だろ」
 開いてみるとお母さんからで、早く帰ってこいという一言だった。
 一笑に付して携帯をしまおうとして、手が止まる。私の両親は、どちらかというと放任主義で、そんなことをするキャラではない。それをあえてそんなことしたというのは、何かあったのではないか。
 いつもとは違う何かに、胸騒ぎを覚え始める。
「ちょっとごめん。電話、かけてくるわ」
 結局三人に断って、少しはなれたところで自宅に電話をかけた。
 しかし何度鳴らしても誰も電話に出てこず、代わりに着信を拒否するような、ツーツー音が鳴るばかり。
「……むう?」
(どういうこと?)
 よく状況が分からないまま元の場所へ戻ると、美坂さんが心配そうな顔をして言った。
「大丈夫?」
「よく、わかんない。家から早く帰って来いってメールが入って、電話は繋がんない。一応、返信は打っておいたけど」
「ふうん……どうする?今日のところは、このまま帰っておく?」
 美坂さんからの提案を、我ながら少し大袈裟だと思いながらも、素直に受け入れることにした。
 嫌な感じがする。思い過ごしならいい……だけど、こういうときだけ私はなぜか勘が当たる確率が高かった。
「ん、そうする。ごめんね、なんだか気になるし」
「別にいいのよ。今回の目的は下見のわけだし。今日はせいぜい書店から出版目録集めて、あとどれくらいのカテゴリーの本が、そこで取り扱っているか調べるくらいだしね。また、夜にでも電話するわ」
「わかった」
「買い物の時は、つきあうのよ」
「了解。今日の借りは、きちんと返すから」
 私はおどけて、軽くガッツポーズを作った。
 けれどこの約束も、あの約束も。彼女との約束は、結局何一つ果たされることは無かった。
 だけどその時の私は、そんなことなど思いもよらず、とても軽い気持ちで彼女達と別れた。


「……ただいまぁ」
 玄関をドアを開けると、家の中が静まり返っていた。
「?……」
 玄関にはお父さんの靴もお母さんの靴もあるのに、TVの音も話し声すら聞こえない。廊下の向こう、台所からだけ明かりがぼうっと光っている。
「お父さん、お母さんいるの?」
 返事が無い。明らかに人がいる気配がするのに、返事も無い。私の中で不安が膨らんで、心臓が妙にバクバクと脈打ち始めた。
 靴を脱ぐのもそこそこに家の中で唯一明かりのついていた台所へ向かう。
「なによ。いるんなら、返事くらいしてよ・・・・・・」
 視線の先に両親の姿を見つけ、私は大きく息を吐いた。
 両親はテーブルを挟んで座っていた。父はがっくりと肩を落とし、母は俯いたまま静かに泣いている。
「……いったい、どうしたっていうの?」
 私の声に反応した父が、力なく振り向いて答えた。
「莉美か、帰ったか」
「どうしたの、この暗さ。異常よ」
 すると一つだけ明かりのついた薄暗い台所で、今度はうな垂れたまま、お母さんがこちらを見ようともしないでぼそりと言う。
「会社が、倒産したの」
「え……?」
「父さんの会社が、二度目の不渡りを出したんだって……つまり、倒産したの。それでね」
 それからお母さんの言葉を、お父さんが引き継いだ。
「実はこの家も抵当に入っていてな……すぐに借金の取りたて屋が来る。その前に、ここを出て行かなければならない」
「それって……」
「夜逃げってこと。とりあえず二、三日はお母さんの親戚にかくまってもらえることになったから、すぐに荷物をまとめなさい」
 棒読みの口調で言葉をかけるお母さんもまた、現実から逃避するかのように宙を見ていた。
「ちょ、ちょっと待って。……ちょっと、何言ってるのよ、二人とも……」
 非現実のような現実。そして私は、今まで考えたことも無かったようなお父さんとお母さんの台詞を、麻痺しかけた感覚でふわふわと受け止めている。
「……ちょっと、なんで黙っているのよ……」
 私は思わず後ずさり、二、三歩後退したところで、膝から力が抜けて尻餅をついた。
「……莉美、ごめんね」
 不意にお母さんが、手で顔を覆って泣き始めた。
「ちょっと、泣かないでよ……」
「莉美、すまない……すまない」
 お父さんも涙をぽろぽろと流す。今まで見たことも無い両親の嗚咽に囲まれて、私は言葉を失った。
 夜逃げ。言葉だけは知っているけれど、まさか自分の家がそうなるなんて、考えたことも無い。
(逃げる・・・・・・もう、学校も行けないんだ)
 不意に、美坂さんや北川や久瀬君の姿が脳裏をよぎった。
 そしてその瞬間、私の目からすっと涙が流れる。
「ちょっと、待ってよ……」
 それはすごくすごく、空虚な涙だった。
(もう、行けないんだ)
 不意に頭にそんな言葉が浮かんだ。
 砂のように自分の指の間から、自分の大切なものが流れ出していくような感覚に、気持ちがついていかない。
 当たり前のように、そこにあった日常。
 退屈で、平凡でとても緩やかな暖かい時間。
(だけど、もう)
 戻ることは無い。あの時間は、こんなにも突然終わりを告げた。
 ・・・・・・ひょっとしたら、とても大切なものになるかもしれなかったのに。
 私達はまだ、始まったばかりだったのに。
「学校も、やめなけりゃいけないの?」
「あきらめなさい」
 私の問いにまるで当然のことのように、お母さんが間髪いれずに返してくる。
「あきらめなければ、どうなるの?」
 反発するように返したその問いに、答えは無かった。
 ……けれど、本当は私も、無駄な問いだとわかっていた。
 だって今、この場所は絶望に包まれているから。
 あきらめなければ、両親は私を残して、出て行くのだろう。そして両親にはもう、きっと会えない。
 どちらか選べと言っているのだ。学校が家族か。
 そういう選択肢なのだということが、ぼんやりと理解ができた。。
 勉強や、クラスや通学路や、みんな明日には普通の朝が来るのに。
 家族と一緒にご飯を食べて、学校に行く普通の朝が来るのに。
(どうして!?私だけ……!!)
 理不尽さに怒るしかできなかった。突然日常を取り上げられてしまったその悔しさに、身を任せるしかできなかった。
 私はしゃくりあげる声さえ失って、私は廊下に座り込んだまま、人形のようにただ涙を流し続ける。
 そしてその日、私は未来を失った、と思った。


 翌朝、真っ暗でひんやりとした夜明け前に、ようやく夜逃げの話はまとまった。
 始発が動く直前のその時間に、私たちはこの街を出る。
(でもひとつだけ、やり残したことがあるの。……だから一時間だけ、時間を頂戴)
 そう言った私に、両親は何も返事をしなかった。
「……すぐに帰ってくるから。だから、死なないでよね」
 冗談ではなく本気で、でも雑談のような口調で私が続けると、玄関で背後から母が話しかけてくる。
「あんたは、ついてくる気でいるのね」
「選択肢なんか与えなかったくせに」
「……」
「嘘よ。誘ったんだったら、しゃっきりして」
 私は振り返って顔を歪める。本当は笑い返したかったけれど、うまくいかなかった。
「そりゃ、勿論ムカついてるけど。確認しなくても、大丈夫よ。私だってお父さん、ほっとけない」
「……分かった」
 すると意外にも、母が小さくクスリと笑った。
「一時間くらいなら、待っててあげるわ。あんたにみくびられるまでもなく、お父さんに変な気なんか起こさせないから」
 そうして私は黙って頷き、それから夜更けの町へ飛び出した。
(残された時間は、あとたった一時間)
 時間がない。自然と足が速まって、気がつくと走っていた。
 足を動かすと、自分の靴音が響く。真夜中らしくて、少し笑う。
 人気の無い街はあまりにも普段どおりに静かで、それが逆に私から現実感を奪っていた。
 ここは平穏なほうである住宅街ではあるけれど、女が安心して一人歩きするほど。治安がいいわけでもない。だけどその時の私は、ちっとも怖くなかった。
 昨日あれからさんざん泣きはらして、泣き疲れた私にやってきたのは、不思議な不思議な高揚感。
 ……こういう自分の気持ちの変化を、私は昔、話に聞いたパンドラの箱に似ていると思った。
 そうして家から走り通しで、息を切らせた私が辿り着いたのは、学校。
 がっちりと閉まった校門の閂のところに足を掛け、なんとか飛び越えると、学校の敷地内から不意に驚いたような声がかけられる。
「匂坂?」
「……相沢?」
 その聞いたことのある声に驚いて振り返ると、夜の学園の園庭に、相沢がなぜかコンビニの袋を提げて突っ立っていた。


「不審人物…・・・」
 思わず苦笑いしながらそう漏らすと、相沢も肩をすくめて返してくる。
「そっちこそ」
「こんな時間に何してんの、怪しい」
「その言葉も、そのまま匂坂に返してやるよ」
 そう言った相沢はとても軽くて、けれどこんな夜中にバッタリ会ったとは思えないくらい、彼の言葉はいつものクラスメイトの言葉だった。
「女子が出歩く時間じゃ無いぞ。こんな夜中」
「ていうか、一般的に人が出歩く時間じゃないわよ。まさか、試験問題でも盗みに?」
「……ひょっとして、疑ってるのか」
「勿論、冗談よ。まさか手弁当じゃ来ないでしょ」
 夜中だからなんだろうか。なんだか、クラスでいるときより、少しだけ今のほうが話しやすい気がする。
「ああ、これ?」
 私の視線に気がついたように、相沢はコンビニの袋を持っていたほうの手をあげた。
「だって、美味しそうな匂いがしてるもの」
「……腹、減ってんのか?分けてやろうか」
 相沢が哀れむような目つきをしたので、私はカッとなって言う。
「そういう意味で言ったんじゃないわよ。私もおやつくらい、持ってきてるもん」
「おやつって……匂坂、こんな夜中にいったい、学校へ何しに来たんだ?」
「秘密よ」
 私はそう言い切って、踵を返す。
「そういえば、私、急いでたのよ。もう、行くわ」
「おい」
 すると慌てたように、相沢が声を掛けてきた。
「校舎のほうには、夜中は行かないほうがいい。危ないから」
 その声に切迫したものを感じて、私は眉根を寄せる。
「どういう意味?」
「り、理由は言えないが。とにかくだ」
「大丈夫よ。私が向かっているのは、離れの図書館のほうだから」
「図書館?」
 相沢が怪訝そうな顔をするのを、私は遮って歩を進める。
「じゃあね」
 そしてそのまま相沢とすれ違い、それから再び一気に図書館のあるニ階まで走って、階段を昇った。


 ポケットの中から、小さなひよこのついたキーホルダーを取り出し、図書館の扉の小さな鍵穴に差し込んだ。
(昼休み、ひょっとしたら遅れるかもしれないから)
 といって、美坂さんが貸してくれた図書館の鍵。放課後に返そうと思って、すっかり返し忘れてた。
 それがまさか、こんな風に使うことになるなんてね。……私も想定して無かったよ、家に帰るまでは
(ごめんね)
 しかも、不法侵入しちゃってます。
 ……本当に、ごめんなさい。
 大目に見てとは、言わないけれど。まじめな美坂さんは、怒るだろうね。
(そうだね、一度くらい怒られてみてもよかったかもね。……あいつみたいに)
 キイと小さな音をたてて、そっとドアを開く。誰もいない図書館は、さすがに薄暗かった。
 さすがに人に見つかっちゃうから、電気をつけるわけにいかない。
 まあ幸い月明かりが明るいし……夜中にこそこそ動くのには、問題はなかった。
「本当は、もっとここにいたかったよ」
 私はこみあげる寂しさのまま、ポツリと呟く。
 それからしんみりとした気持ちを振り切って顔を上げると、私は持ってきた一口チョコの山の一つをあけた。
 バリッとビニール袋が破れる音がして、カウンターの上に小さなチョコがざらざらと流れ出す。
 まだまだあける袋はたくさんあった。
 何袋も何袋も開けて、受付カウンターの上のチョコの山がどんどん大きくなっていく。
 途中のコンビニで、自分のありったけのお金で買い占めてきた。レジのお兄さんがちょっと、びっくりしてたね。
 レジのお兄さんの、必死で平静を装った顔を思い出し、私は少しだけふっと笑う。
 バリッ。バリッ。
 ひたすらに、チョコレートを積み重ねていく。
 夜中の図書室に、チョコの袋を開け続ける女。客観的に見ても、おかしいと思う。
 でも、私はチョコの袋を開け続ける。
 ……それは、二人の不器用な男達と一人の女王様のために。
 私の心の中には、いつかの図書館、三人と私、じゃれあったイメージがあった。
『遅かったわね』
 振り返った彼女はそう言ってくれたね。いつでも彼女は、本当に美人だった。
『匂坂、頼むな』
 北川は、いつも空回っていて、私達を呆れさせて、笑わせてくれてた。
『美坂さん、なの?』
 問い返した言葉に、一瞬隙を見せた。ずっと心の底に気持ちを隠してた、久瀬副部長。普段からスカところは、私に似ていたかもしれないね。
 甘い、甘いチョコレートをキミ達に。
 ガイズ、本当に二人とも結構いい線いってたと思ってたよ。
 空回っていて、でもその軽そうな外見の割りに、情に厚い北川。
 大人しいフリをしていて、でもその硬派そうな言動の割りに、お兄さん譲りの黒いしたたかさを持つ久瀬君。
 二人とも、美坂さんが好きで。大事にしていて。
 そんな二人のこと、いいと思ってたよ。
 だから、バレンタインにチョコレート。今年はきっと美坂さんは、栞ちゃんのものだから。
 誰からももらえないより、いいでしょう?
 ちゃんと気持ちは、こもっているから。
 ありえない量は、ささやかな嫌がらせ。だけど、これで終わりだから。
 美坂さんの傍にいられるこの場所は、今日であなたたちに返すから。
 今日一日くらいは、胸焼けするほど始末に困ってね。


   ……そして、美坂さん。孤高の女王様。意外と隙だらけなあなたのこと、本当は私も守りたかった。
 あなたの二人のナイトと、張り合って。いじめたり、からんだりしながら。
 卒業までこの場所で、一緒にすごしていきたかったよ。
 友達になりたかったよ。そんなのあえて口にするつもりも無かったけれど。
 こんなにも時間が無かったのなら、ちゃんと向き合っておけばよかった。
 この本の話が終わっても、北川か久瀬君にちょっかいを出したりして、ライバルでもなんでもいい。
 方法はなんだって、あったはずだった。
 カウンターの上に崩れんばかりのチョコレートの山。
 だけど私の気持ちは、本当はもっともっと、こんなもんじゃなくて。

 意地悪したい気持ちも。
 かかわっていたい気持ちも。
 そして、愛しい気持ちも、ずっと、確かにここにあったんだよ。

 美坂さんに話しかけられてから、たった数日しかたっていないのに。
 気持ちがこみ上げてきて、私は爪が食い込むほど拳を握る。
もう、三人とは会えないかもしれない。
 夜逃げする人間の末路は本でしか知らないけれど、連絡を取ることは許されない生活が待っているんだと思う。
 巻き込みたくないから。
 それに変わってしまうであろう私は、もう二度と三人の前に顔を出せない人間になっているかもしれないし
 だから今の「私」はここに置いていく。存在、思い出、そのようなもの全て
 そのために、ここに来た。来たのに。
「畜生……畜生」
 素の私の言葉が零れる。本当の私は、こんなに言葉が汚い。外ではいつも、すましてたけどね。
 そんな私に、あなたたちは気づいてた?
 これから教えていくはずだった本当の私を、少しでも知ってくれてた?
 切なくて苦しくて、呻く。でも泣かない。泣くわけにはいかない。
 家には、あの弱々しい両親が待っている。私がここで崩れてしまったら、誰があの人達を支える?
 だから……だから、ここは早く立ち去らなきゃいけない。
 分かっているのに、足が動かない。これから失ってしまう時間が重たくて、辛くて動けない。
(たいせつ……だったよ)
 愛してる。愛してた。本当は、一目惚れだったんだ。あなた達がいるこの場所を。
 本当は分かっていたよ。ここは、ずっとあなたたちが三人だけの場所。
 私はほんの少し、立ち寄らせてもらっただけ。私がいなくなっても、すぐに戻るだけだね。
 だからこれは、私が勝手に感じてるだけ。
 だけど、だからこそ私のこの気持ちは誰にも、否定できない。
(愛してる)
 不思議だね。こんなにも私を、重苦しい気持ちにさせるこの言葉が、少しだけ今の私を強くしてくれる気がする。
 学生時代の終わりに、あなたたちに会えたことが、この残酷な幕引きの救いになる気がするよ。
 終わりたくなかった。ずっと一緒にいたかった。だけど、そんなあなた達に会えたことが。
 ……私はよかったと思う。
「……!」
 そして気持ちを振り切るように、ようやく私は図書館を出た。
 鍵を閉め、でも来たときとは逆にゆっくりと、しっかりと大地を踏みしめて歩く。
 どんなに後ろ髪を引かれる想いでも、足を一歩一歩進めていれば、体は進んでいって。
 そして校門に辿り着いてしまい、私は校舎を見上げた。
(本当は、教室に寄っていくつもりだったけれど)
 手には、さっきのひよこのキーホルダー。本当は帰りに教室に寄っていって、美坂さんの机の中に戻しておくつもりだった。
 だけどきっと今、校舎には相沢がいる。そして校舎には来るなと言っていた。
 ……いつもの私なら、夜中の校舎で、逢引でもするつもりかと疑うところだけど。
 だけどさっきの相沢からは、そういう雰囲気は感じられなかった。
 人は、見た目からは分からない。そんなことは百も承知だけど、さっき相沢が手にしていたコンビニの袋は、まるで単純に誰かへの差し入れのようで。
 ……というより、ただの願望かもしれない。せめて今夜くらいは、優しい夜でありますように。
 彼には、きっと彼の事情があるのだろう。そう、思いたい。
 私は踵を返すと、自分の持っていたバッグから切手を貼った封筒を取り出し、ひよこのキーホルダーを放り込んだ。
(用意がいいのも、いいんだか、悪いんだか)
 そんな自分に苦笑する。万が一不測の事態で、学校に入れなかった時用に用意していた予備の封筒だった。
 宛先は、美坂さんの自宅宛。こういうとき、クラスメートだと住所がすぐに調べられて、便利だ。
 そうして角を曲がったところにある郵便ポストに放り込む。手を差し込んで引き抜くとガコッと蓋が閉まる音がして、封筒が吸い込まれていった。
 それから私は白い息を吐いたまま、上を向いて目を閉じる。透き通った空気に冬の星空の光が、瞬いて目に残った。
 ……これで、本当に終わり。さようなら、私の学校だった場所。


 翌朝、登校すると、教室の入り口のところで、副部長の久瀬君が私に向かって手招きをしていた。
「おはようございます、美坂さん。ちょっと聞きたいことがあって」
「おはよう……どうしたの?」
 朝から、しかも彼が同じ図書部とはいえ、違うクラスに顔を出すことなど滅多に無い。怪訝な顔をする私に、久瀬君は声を潜めてこう言った。
「美坂さん、今朝図書館行きました?」
「それが……昨日うっかり、図書館の鍵、匂坂さんに貸しっぱなしにしちゃってて。私としたことが、うっかりしてたわ。しかも、どうやら彼女、今日学校休みらしいのよね。困ったわ」
「……そうですか」
 しかし思わせぶりにそう言ったきり、久瀬君は俯く。
「どうしたの?」
「詳しくは、昼休みになってから話します」
「……?」
 そこでチャイムが鳴り、久瀬君は自分の教室へ戻っていく。空席のままの匂坂さんの席を見ながら、私は妙な胸騒ぎを覚えていた。
 そして、昼休み。
「今朝、たまたま忘れ物を思い出して、朝早めにで図書館行ったんだけど、そしたらこんなものがカウンターの上に、置いてあったんです」
 そう言って、久瀬君が持ってきた手提げをテーブルの上に置いた。流れで中を覗き込んだ北川君が、驚いて声を上げる。
「げ、なに、このチョコレートの量」
 そこには、学校指定のサブバックにいっぱいの一口チョコレート。  私も覗き込んでその量にびっくりしする。 「そうか、今日、バレンタインデーだものね」
 ……我ながら、間が抜けてるコメントだったと思う。 「久瀬こんなにチョコレートもらったのか……意外と、いろんなところに手を出してんだな、この色男。俺は香里のだけで十分だからね〜」
 すると、まるで貶めようとするかのような響きさえする北川君のそんな発言を、久瀬君が一蹴した。
「そんなわけあるか。人の話をちゃんと聞け、朝学校にきたら、図書館のカウンターの上にこれがあったんだ。午前中に図書館に掃除のおばさんが入るから、驚かしちゃいけないと思って、とりあえず回収してみたけど……」
「悪戯か、忘れ物か……どちらにしても、この量は半端じゃないわね」
「久瀬に昔ひどい捨てられ方をした、怨念のこもった毒入りチョコレートだったりして」
 北川君がなおもそう言いかけるのを無視して、私はそのチョコレートに見覚えのあるマークを見つけて、手を伸ばす。このお店のマーク、どこかで見たことあるような気がする。……どこだっけ。
「香里?」
「このチョコレートって……」
 その時、ふと気づいたかのように、久瀬君が言った。
「そういや、匂坂さんは遅いですね?今日は来ていないんですか」
「休みだってさ。……なに、匂坂のことも気になるのか?」
 北川君の言葉に、久瀬君は鬱陶しそうに、眉根をひそめる。
「だから、なんでそうなる。いつも来ているから、今日はどうしたのかと聞いただけだ」
「ふうん。なら、まあいいんだけどさ」
 それから北川君は意外なほど声のトーンを落とし、いつもとは違うまじめな表情になって言った。 「……実はさっき、職員室でたまたま聞いちまったんだけどさ。匂坂が休みの理由、ひょっとしたら、結構ヘビーかもしんないからさ」
 私はその言葉を聴いた瞬間、とても悪い予感がして、胸がドキリとした。
「それ、どういう意味?」
 おそるおそる、問い返す。すると北川君は軽く息をつき、それから話し始めた。


「どうやら今朝いきなり学校宛に宅急便で、あいつの親からあいつの退学届が届いたらしい」
「退学!?」
 思いもよらない北川の言葉に、美坂さんの目が見開かれる。
「ああ、さすがに学校側もびっくりしたらしくって、慌ててあいつの家に電話したらしいんだけど、誰も出なくって……それでその、なんていうかあいつの家、どうやら夜逃げしたらしい。
「え……」
 そう言ったまま、美坂さんが絶句する。俺も言いようが無くて、黙って俯いたまま、唇をきゅっと噛み締めた。
 北川は、続けて彼女の意図を探るように問いかけた。
「で、どうする」
 当然のように、彼女についていく。奴はそう言っているのだろう。
「……とりあえず、放課後、彼女の家へ行ってみるわ」
 気を取り直そうと、気丈であろうとする彼女。そういう気質は、彼女を彼女たらしめていて、そんな美坂さんを俺は嫌いじゃなかった。
「ま、まずはそっからだよな」
 するとその時、北川が今まで軽口ばかり叩いてた奴と同一人物は思えないほど優しい表情で、美坂さんの頭をぽんぽんと叩いた。
「気安く触らないで」
 しかし美坂さんはそんな北川の腕をにべもなく払いのけ、それを見た北川は、少し嬉しそうにさえしながら、ヤラレキャラを演じる。それはいつも通りの、日常の光景。
 ……しかし俺はそんな二人にびっくりして、絶句してしまった。
 それは、北川なりに美坂さんを元気付けようとしたのだろう。それはまだいい。
 驚いたのは、美坂さんが弱っている自分の頭に北川が触れることを許し、その上でわざと払いのけたのだ。
 まるで、わざとそうさせたかのように。
 そういえば苦しいとき、困ったとき、どうしていいか分からないときでも、立ち止まることを選ばない。彼女は凛と前を向き、北川がまとわりつくように彼女についていく。どんな時でも、それが二人なりのスタンスだった。
 まるで思い出せと言わんばかりに。そして、まさに今それを目の前で、実践された。
(まいったな……)
 俺は、頭を掻いた。まいった、見せ付けられた。
 美坂さんを女性として意識していることでさえ、たまたま近い距離にいるせいで感じているだけだから、惑わされてはいけないものだと、頭から思い込んでいた。
 だけど、思い知る。
 彼女も自分も、自らここにいることを望んでいるんだ。
 ……思えば、最初っから、そうだったんだ。惑わされるのがイヤなら、自分の性格なら図書部など辞めて、とっくに逃げていたはずだ。
 それなのに現実は、逃げるどころか、北川にまで鬱陶しく絡まれるほど、馴れ合うことを許してしまっている。それは認めたくは無いが、自分の中のどこかが、そのことを是としているってことだ。
 ……目の前にあいつらがいるのは、俺が望んだ結果だ。
「行ってみてどうするんだ。相手は夜逃げしてるんだぞ」
 俺はようやく、覚悟を決めて口を開く。半分やけくそ気味の台詞。ああ、俺もつきあってやる。とことん、お前らにつきあってやるさ。
 すると俺の言葉に、間髪いれずに北川が言い返してきた。
「だけど、手がかりくらい見つかるかもしれないじゃねえか」
「じゃあ、見つけてどうする。やむにやまれず逃げた相手を追って、連れ戻しでもするつもりか?」
「……っ!」
 言いこめられて、悔しそうに北川が口をつぐむ。
(さあ、どうする?どんな答えを、聞かせてくれるんだ。)
 しかしこの時、今まで黙っていた美坂さんが、顔を上げて意外なことを言った。
「探すわ……だって居場所が分からないと、ホワイトデーのお返しができないじゃない」
「は!?」
 今度は俺が絶句する番だった。
「だって、このチョコレートの犯人、匂坂さんだもの」
「……どうして、そんなこと、分かるんだ?」
 話の脈絡がわからない。呆然として、俺は問い返す。すると彼女は確信に満ちた言い方で、こう答えた。
「今、思い出したの、昨日このチョコレートのこと、彼女と話したのよ。彼女、ここのチョコレートが好きなんだって、無駄足かもしれないけど……そう考えれば、手がかりはゼロじゃない。調べてみる価値はあると思うの」


 そして放課後。
「買い物行けなくなったのは、仕方が無いよ〜。また、今度行こうね〜」
 その身体能力とは比例しないゆるい話し方で、名雪がにぱっと笑う。
「本っ当にごめん。この埋め合わせはきっと、するから」
 私は平身低頭で、名雪の前で両手を合わせた。本当はこの日名雪とは、何ヶ月も前から約束していた、デパートのセールに出かける約束があった。
「仕方ないよう〜。とっても大事な用事なんでしょ〜」
 そして名雪は気にするなと、ひらひらと手を振る。
「うん」
「頑張ってきてね〜。……それに今、香里、ちょっといい表情してるよ〜」
 意外なことを言われ名雪を見返すと、名雪は再びにっこり笑って両手を自分の眉毛にあてた。
「香里って、いつも眉毛がこうきゅっとなっているんだけど、これがもう少しほんわかしてて、だけどとってもカッコイイ表情してる〜」
 自分の眉毛をぐにぐに動かしながら、一生懸命説明してくれる名雪に、自分を励まそうとしている気持ちを感じて、私はとても暖かい気持ちになって、噴出した。
「そ、そう?」
「うん〜」
「ありがと」
 するとその時、後ろから相沢君と北川君が話しかけてくる。開口一番、相沢君は言った。
「あー、さっき北川から聞いたんだけどさ。今日、匂坂の家に行くんだって」
「ええ」
 匂坂さんの名前に反応して、一瞬、私の中に軽い緊張が走る。すると相沢君は、こう続けた。
「しかも匂坂、行方不明なんだってな。……でも昨晩、学校で匂坂、見たぜ」
「どこ!?いつ!?」
「お、落ち着け。多分明け方前だったと思う。校門の近くで会ったんだけど、あいつ図書館のほうへ走っていったぜ」
 私は北川君と、視線を合わせて頷いた。
「それ以外に、何か覚えてない?……どんなことでもいいから」
「そうはいってもなあ。……そうだな、なんか妙にテンション高かったかも。なんか夜中なのに、おやつ持ってきたとか言ってたし」
 おやつ……それは、きっとチョコレートのこと?
 まるでパズルのピースが合わさっていくかのように、あの日の夜の彼女の行動が見えてくるような感覚。
 それからしばらく相沢君から話を聞いたけれど、それ以上有効な情報は得られず、私達は先生に聞いた匂坂さんの住所へ向かった。
 その道すがら、久瀬君が尋ねてくる。
「それにしても、よくこのチョコレートが、匂坂に結びつきましたね」
 その質問を聞いて、私の脳裏に匂坂さんの嬉しそうな表情が、一瞬よみがえる。
 そういえば、そんな彼女の笑顔を見たのは、初めてだった。
『私のお勧めなんだ、ここ。でもおかげですっかり有名になっちゃって、最近なんかコンビニで売ってたりもしてて、地元民としてはちょっと残念だったりもするんだけどね』
「みんなで街に行ったとき、彼女、街頭試食をしていたチョコレートをわざわざ取ってきてくれて、食べさせてくれたの。それが、このお菓子やさんのチョコレートだったのよ」
 たった昨日のことなのに、なんだか懐かしくて思わず微笑んでしまう。すると不意に、北川君の手からチョコレートがニ、三個バラバラと渡された。
「そういうことなら、どんどん食おうぜ。ただでさえ、山ほどあるんだ。頑張って食べないと、無くならないぜ……あ、大丈夫。もう毒見はすませてあるから。ちゃんとうまかった」
 そう言うが早いか、例のチョコレートが詰まったサブバックから一掴み掴んで久瀬君に押し付けると、北川君も自分の口に放り込んだ。私はそんな北川君を見て、苦笑する。
「もうっ……仕方ないわね」
 そういって、チョコレートを一つ口に入れる。
 上品な甘さが、口に広がっていく。やっぱり美味しいね。あのときのチョコレートも、美味しかったものね。
 久瀬君も、一つ口に入れた。
「本当に、うまいな。これはちゃんと、お返しをしないと、後が大変そうだ」
 すると、北川君が慌てたように久瀬君のほうを見返す。
「げ!?……そうなのか!?」
「知らないのか?ホラ、よく言われてるじゃないか……バレンタインデーのお礼は三倍返しとかなんとか」
「それは、結構とんでもない量になるんじゃ」
 手元のチョコレート詰めの手提げを見ながら、青くなって北川君がぶつぶつ言った。
「量の問題じゃないでしょ」
 そして、私も再び軽く突っ込みを入れて、空を見上げる。冬の空はどんよりしていて、だけどその分少しだけ、雲が埃を吸い取ってくれているようで、空気が綺麗になっている気がする。
「でも、頑張って見つけようね。ちゃんとホワイトデーお返しやんなきゃ、大変だものね」
 久瀬君の言葉を借りて、再び言う。
 ふと、北川君が気がついたように、問い返してきた。
「やる気なとこ、悪いんだけどさ。ホワイトデー、香里もやるのか。あれって男が女に返す行事だろ」
「やるわよ。私だって女の子からチョコレートもらったのは初めてだけど、受け取っちゃったからにはね。何年かかっても、いつか絶対に」
 あっさりと答えた私に、久瀬君が失礼なことをぼそりとのたもうた。
「こういうところは、無駄に漢らしいな美坂さん」
 私はそんな男二人に、ニッと微笑む。
「当然でしょ」
 そして、心の中でもう一人の私の友人に声をかける。
(だから、早く帰ってらっしゃい。ここで私達は待っているから)
 そして声をかける。
「さあ、行くわよ」
 目の前には、主を失った匂坂さんの家。
 曇天の北海道の下、私達のくだらない、ささやかな、気の長いクエストは、こうやって彼女によってもたらされたのである。




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