「いってきまーすっ!!」
「おう」

 戸口から元気良く飛び出していく汐を見送って、俺はようやく一仕事を終えた満足感に浸りつつ一服することが出来るわけだ。
 口に咥えたタバコに火をつけ、窓から顔を出して学校に向かって駆けて行く汐を確認する。汐は律儀にもこちらを振り返りながら走っていく。「ったく、あぶねーな」とぼやくが、勿論悪い気はしない。
 吸う。
 吐く。
 俺の吐いたタバコの煙程度じゃ、何の足しにもならないくらいに青すぎる空だ。時折吹いてくる強い風が、雲の一つや二つ運んで来ないか、と思う。雲の影でもなけりゃやってられないくらいに暑い日だ。

 なぁ――渚?

 俺はよっこらせ、とオヤジくさい掛け声と共に立ち上がり、脇にある写真の前にある湯飲みを手に取り、中に入っているお茶を換えてやることにする。冷蔵庫にある麦茶。ついでに自分の湯飲みにも冷たい麦茶を注ぐ。勿論もう一方の湯飲みにも。表面張力の限界を試すかのように、目一杯入れてやる。それを写真の前に置き、手を合わせる。
 何も言わず、ただ手を合わせる。
 写真の中の笑顔を前に、今日も汐を初めとする俺の周りにいるみんなが笑顔でいられますように、と願う。
 そんな動作をもう何年も続けてきた。汐を守るため、がむしゃらに働いてきた。時折渚の面影を目蓋の裏に映して汐と二人、貧しいなりに暮らしてきた。
 そうしているうちに、俺と渚の娘である汐はもう中学生になった。今日だって「部活の練習だからっ」などと抜かして、こんな朝早くから出て行った。まだレギュラーにもなれてない1年坊主のくせしやがって。まったく、誰に似たんだか律儀な奴だ。
 俺はごろんと寝転がる。今日は久しぶりの休みだ。ゆっくりしないと、損だ。勿論掃除だ洗濯だと、やることは山ほどある。
 ――後回し、後回し。
 そんな感じで少なくとも午前中はのんびりしようと決めた時だ。

 コンコン。

 そんな時には決まってこんな控えめなノックが静寂を破るのだ。
 そして、ノックの主を無視できるほど俺は無神経にはなれないことは、この年になればもう嫌になるほど分かっている。

「朋也さんっ! 突然ですけど、ピクニックに行きませんか?」
「はい?」

 早苗さんはいつだって唐突だ――というわけでもないが、これは唐突と言っても差し支えはなさそうだった。












虹を越えて
  Written by えりくら












 バスに乗って20分。電車で10分。目指す自然公園はそんなところにある。

「いい天気ですねっ」

 はしゃぐ早苗さんを見てると、とても中学生の孫がいる年とは思えない。
 というかむしろ俺と同じくらいか、俺より年下にみえるんじゃね? と、年甲斐もなく胸を高鳴らせてし――

「せんせーきょうはどこ行くのー!?」
「せんせーおなかすいたー」
「せんせーといれ、といれどこー?」
「せんせー」
「せんせー」
「せんせー」

 ――まうということなどあるはずもないだろうがこの馬鹿野郎。
 『引率の人が今日どうしても行けなくなってしまって、すいませんが今日だけ一緒についてきてもらえませんか?』と早苗さんに頼まれたら断るわけにもいかず、早苗塾の恒例企画であるというピクニックに着のみ着のまま付いてきてしまった。オッサンは本業のパン屋が忙しくて来れないそうだ。俺と早苗さんの周りには小学生くらいのガキ共が大体10人くらいいる。

「せんせーこのおじちゃん誰ー?」

 その中の一人が俺を指差して早苗さんに聞く。
 おじちゃんだってさ。
 余計なお世話だっての。

「この人はね、先生のツバメさんなんですよっ」

 ぶ――ッ
 俺は道々飲んでいた清涼飲料水を盛大に口から噴出した。

「うわっこのおじちゃんきたねーっ!!」

 後ずさる子供達。ハンカチを差し出しながら早苗さんが言う。

「朋也さん大丈夫ですか?」
「アンタのせいだろうがっ!!」

 来なけりゃ良かった、と一瞬本気で後悔したりした。

「なんちゅうこと教えとるんですかアンタは……」

 溜息と共に吐き出した言葉は、早苗さんのいつもの微笑みと共に俺のところに返ってきた。

「色々ですよっ」


    ☆   ☆   ☆


 早苗さんが週2回自宅という名の早苗塾で「色々」教えているという子供達は、元気だった。

「おじちゃーん、おさかないたよーっ! つかまえるの手伝ってーっ」
「おうっ」
「おじちゃーん、おままごとするから赤ちゃんの役やってーっ」
「おうっ……じゃなくて、バブバブ」
「おじちゃん、といれ、といれどこ?」
「おうっ……ってお前さっきからそればっかな」

 汐も普通の子供と比べると元気なほうだったから、俺は比較的元気な子供の扱いには慣れている。慣れているはずだったのだが……

「ぜぇぜぇ……」
「朋也さん、大丈夫ですか?」

 このザマだ。
 早苗さんが心配そうにコップになみなみと注がれたお茶を差し出している。
 俺は息も絶え絶えにそれを受け取ってぐびぐびぐびと一息に飲み干す。

「……んっ……んっ……んっ……ぷはぁ――っ」

 これは年のせいだろうか。それとも流石の俺でも、元気な子供×10人は正直荷が重かったか。
 何年も前から保育士を勤めていて、今も毎日ピンピンしている杏の偉大さを改めて知った。子供と遊ぶのは、思ったよりも重労働なのだ。

「ごめんなさいね、大変でしょう?」
「いえいえ、とんでもない。早苗さんの頼みなら、もういくらでもどんとこいですよ」

 それでも早苗さんの頼みだから、まだまだ頑張れるような気がする。おっと、こりゃオッサンと渚に怒られちまいそうだな。オッサンと渚が二人して怒っている図というのは中々イメージし難いものがあるが、そこはそれ、意外性がスパイスとなって、これは中々のエンターテインメントなんじゃないだろうか。
 ふと横を見ると早苗さんが笑っている。
 ふふふ。
 優しい笑み。
 ふと、口元に手をやる。当然のように笑みの形をしている俺の唇。
 不意に自分が笑っていたことに気づいた。そして、俺が笑ったから早苗さんも笑っていたという事実にも。これは思い出し笑いというやつなのだろうか。でも、実際にあったことではないから「思い出し」というのはどこか違う気がする。

 でも、幸せな――妄想。

 何故か早苗さんには、俺がなんで笑っているのか、その理由さえも全て見透かされているような気がして、ぷいと視線を横に逸らした。まるでガキのような仕草だな、と俺はまた自己完結な笑みを浮かべてしまう。

「うん? 朋也さん、どうしました?」
「いや、なに、その……はは。まったく、楽しそうに遊んでやがるなぁ、と思って」

 そう言いながら俺は子供達のほうに目をやる。
 それにつられて、早苗さんも。
 何も喋らずに、ただ子供たちを眺める。
 ほんの少し、あるいは、長い間。
 無邪気に遊ぶ子供たちに、俺は自分の愛する娘の姿を投影する。あんな頃があったな、などという甘くてほろ苦い感傷と共に。隣で微笑を浮かべて佇む早苗さんは彼らの様子に誰を投影しているのか。
 それは、きっと考えるまでもないことで。
 そして、考えるべきことでもないはずだった。

「――本当、ですね」

 そして俺はちらりと隣の彼女を盗み見る。
 やっぱりいつもの通り、誰よりも美しい女性の横顔がそこにあった。
 それが母親の顔だったかどうかは、わからない。


    ☆   ☆   ☆


 ぽつりぽつりと頬に当たる生暖かい感触の意味を理解しかけた頃には、空は分厚い黒色の雲で覆われていた。

「うっわ……こりゃやべぇな……早苗さんっ」
「とりあえず皆こっちに避難させましょうっ」

 俺たちは公園の中にある屋根のあるベンチに腰掛けていた。この屋根なら子供の10人や20人、物の数ではない。

「みんなーっ! 雨降るからーっ! こっちにきてくださーいっ!!」

 早苗さんが大きな声を出して呼ぶと、連中はざざざと早苗さんの周りに集まってきた。いつも思うけど、なんとも絶大な早苗人気である。
 子供たちが避難し終わると、それを見計らったかのように風呂桶をひっくり返したような大雨になった。

 ズガガガガガガガガ……

 まるでマシンガンを連射しているような凄まじい打撃音のせいで、他の音が全く聞こえてこない。雨の音に混じって時折雷のような音まで聞こえてくる。
 一瞬、辺りが光に包まれたと思ったら、間髪入れずに大地を力ずくで引き裂いたような雷鳴が響き渡る。子供達は皆一様に身を竦めて早苗さんの側に寄り添っている。大人しそうにおままごとをして遊んでいたおかっぱの女の子も、川で魚を取ったり水を掛け合ったりしていたやんちゃ坊主も。

「おじちゃん」

 小さな声と共に、ベンチに座っている俺の膝に縋りついた小さな重み。
 ああ、この子は、さっき俺と一緒におままごとをした、確かお母さん役の……

「なのかちゃん?」

 遊ぶ前の自己紹介で、まだ小学1年生だと言っていた。今年から早苗さんのところに来た古河パンの近所の子。
 俺が名前を呼ぶと、ズボンをぎゅっと握る手の力がさらに強くなる。左膝から下にかけて感じる温もりと確かな存在感。震えている小さな身体。

「大丈夫。すぐ止むから」

 そう言ってその小さな頭をそっと撫でてやる。
 すると、小さな身体を支配していた震えは段々と止まっていく。
 不思議なものだ。
 汐も小さい頃は雷が大の苦手で、夏の初めの季節はこの子のようによく俺の側にぴったりくっついて震えていた。そして俺が大丈夫と言いながらそのちっぽけな頭を撫でてやると、自然と震えは止まっていったものだ。
 汐と同じ反応をこの子が見せることを不思議に思ったが、子供とはえてしてそうしたものかと思い直す。
 俺にもこんな頃があったのだろうかと遠い昔を思い返そうとするが、遠すぎる記憶には自然と靄がかかるようになり、最近はほとんどイメージすることが出来なくなってしまった。自分を振り返ることよりも周りの人間のことを思うことのほうが、自分にとって重要なことになっていったということなのだろうか。
 いつ頃からか。
 汐と暮らし始めてからか。
 渚を守ると誓ってからか。
 これが他人を愛するということなのだろうか。

「大丈夫ですよ。そう長くは続きませんから」

 なのかちゃんの頭を撫でながら思考に耽っていた俺は、隣から不意に聞こえてきた声に現実に引き戻される。  激しい雨の音にもかき消されずに聞こえてきたその言葉は早苗さんから発せられたもの。

 嫌なことは、そう長くは続きませんから――

 何故かはわからないが、やけに耳に残る言葉だった。

「あ」

 俺の腕の下でなのかちゃんが声を漏らした。
 その声につられて頭を上げる。
 いつの間にか雨はかなり小降りになり、雲間からは薄っすらと青い空が覗いていた。
 そして。

「虹だぁっ!!」

 この子らの中で一番のやんちゃ坊主の子が、大きな声で叫ぶ。
 早苗さんにひしとしがみついていた子達もその声につられて次々と顔を上げる。

「うわぁ……」

 なのかちゃんも。

「へぇ……」

 そして、俺も。

 こんなにはっきりとした虹を見れたのは久しぶりだった。
 折り重なった光の橋は七色と表現されることが多いが、実際は色と色の境界で複雑に混ざり合って確かにこれと判別できる色は少ない気がする。
 風が吹いている。
 ふと虹が揺らめいた気がした。
 ゆらゆらと揺れているのは、はたして虹なのか。
 俺の心じゃないかという気がした。
 俺は何に動揺しているのだろう。虹を見つめるこの子達の瞳の、あまりの真っ直ぐさにだろうか。この子らの瞳に映っている虹は、俺の見ているそれとは全く別物なのかもしれない。この虹の美しさをそのまま瞳に映すには、俺はあまりにも汚れすぎたのかもしれない。
 ふと、子供達と俺との間に一つの境界線が見えたような気がした。それは一歩で踏み越えられるように見えて、きっと永遠に越えられない一つの壁。それはきっと――

「―― 一つ、理科のお勉強をしましょうか」

 いつもの調子の、早苗さんの声。
 虹を見ながらきゃいきゃい騒いでいた子供達は、ぴたっと早苗さんの方に視線を向ける。

「虹って不思議だよね。さっきまであそこには何にも無かったのに、今見たらちゃんとそこにあるでしょう? じゃあ、どうやって虹は出来てるんでしょうか、分かる人ー?」

 途端にはーいはーいとそこら中から手が挙がる。

「んー、じゃあゲンタ君」
「はいっ! えーっとね、すげー人がちょーのーりょくでびびびっと作ったー」

 馬鹿でー、違うよ違うよーと四方八方から突っ込みを受け、でへへと笑う随一のやんちゃっ子のゲンタ君。
 早苗さんも「ぶぶーはずれー」と、笑顔。

「よーし、じゃあ次はなのかちゃん」
「はい、雨がふってて、たいようが出てて、空の中でその二つがまざってできてる」

 へぇ……
 少し俺は彼女に対する認識を改めた。なのかちゃんはこの中では最も幼いが、その答え方は堂に入っているし、その考えも極めて理性的だ。これだから子供ってやつは侮れない。

「そうね。高学年の人たちには前にも説明したことの繰り返しになっちゃうけど、もう一度説明します。小さい子達はまだ知らない人が多いもんね。
 虹は、雨上がりに見えることが多いよね。それは空気の中に雨粒の残りが、虹が出来る上では重要なことなの。虹は、空気中に残った雨粒に太陽の光が当たって跳ね返ることによって出来ているの」

 へぇ、と子供達の中から溜息にも似た感嘆の声が漏れる。
 それを聞いた早苗さんは「こらこら、この前も高学年の子には話したでしょ?」と苦笑気味。

「へぇー! じゃあさじゃあさっ! 虹にはどうやったら乗れるのっ?」
「馬鹿だなぁ今の話聞いてなかったのかよ! 虹はよーするに水滴なんだから、乗れるわけねーだろっ!」
「何をー! じゃあ俺が乗れたらお前何してくれるんだよ!」
「そんなの……何にもするわけないだろ!」
「あー! やっぱお前ひきょーもんだなー! よーし絶対いつか乗ってやるぜー!」

 わいわいがやがや。
 収拾がつかないバトルに発展していきそうな彼らを止めたのは早苗さんの手を叩く音。

「はいはい! じゃあ雨も止んだみたいだし、また遊んでいらっしゃい! 危ないところには行っちゃ駄目ですよー!」

 はーい! と元気良く返事をした彼らはまたばらばらに散っていく。
 それを見送った俺と早苗さんはどちらからともなく小さな溜息を漏らした。
 顔を見合わせて軽く笑いあう。

「いつもいつも大変ですね」
「ええまぁ……でも慣れてますし、みんな良い子ばかりですから」

 そう言って早苗さんはにっこりと笑う。
 早苗さんの目はいつだって子供達に向いている。こうして俺と笑いあっている今も。

「虹に乗る、かぁ……そんなこと考えたこともなかったなぁ……」

 溜息とともに吐き出した言葉は、それを不可能とも思わずにさらりと越えていってしまいそうな彼らへの羨望なのだろうか。
 自分でもよく分からなかった。ただ、愛しかった。ただそこにいる存在そのものが。たまらなく愛おしいと感じた。早苗さんも、やはりそうなのだろうと思う。
 不意に視線を感じた。
 肌を刺す感覚に誘われて横を向くと、いつの間にか彼女の視線は子供達から俺の方へとうつっていた。期せずして見つめ合ってしまった俺と早苗さん。何故だか年甲斐も無く胸の鼓動が早まってしまう。早苗さんはそんな俺の内心の動揺を見透かしたのだろうか。その顔色からは到底判断できない。

「虹の向こう側――」
「――え?」
「虹の向こう側ってどんな場所か、行ってみたいって思ったことありませんか?」

 早苗さんの口から発せられた言葉は俺の想像を遥かに超えていた。
 当然のように返答に詰まってしまう俺。

「えっ、その――」
「ふふっ」

 少女のような笑み。
 それは早苗さんの持つ雰囲気とぴったりで、引き寄せられるような魅力がある。

「わたしもあの子達くらいの頃は夢見る女の子でしたから。雨の後に虹を見れば『ああ、虹の向こうにはきっと夢のような世界が待っているんだわ』なんてことを考えていたりしたんですよ。ふふっ、おかしいでしょう?」

 早苗さんが一言発する度に、どんどんと時間が逆に流れていくような、まるで俺と早苗さんだけを切り取って時間を戻してしまったような、そんな感覚が生まれる。
 早苗さんは、虹の向こう側の世界を信じていた頃の早苗さんに。
 俺は、光り輝く世界で自分の目の前を埋め尽くしていた頃の俺に。
 虹の向こう側へ、本気で行けると信じていたあの頃に。

「――さっきの話の続き、します?」
「――はい?」
「虹の話、ですよ。今度は少し大人向けですけど」

 ふふっと笑って早苗さんはまるで先生のような口ぶりで話し始めた。

「虹は、空気中に残った水滴による太陽の光の屈折と反射によって出来ている、というのはいいですよね。だから虹は自分から見て太陽の反対側にしか出来ないですし、虹のできる位置も太陽の光の角度と観測する位置によって大体決まってしまうわけです。これがどういうことかわかります?」
「さぁ……虹の見え方の話ですか? 楕円形とか、二重に見えるとか」

 当てずっぽうに言うと早苗さんは首をふるふると横に振る。

「決して、虹の向こう側には行くことが出来ない――ということです」

 その言葉の響きはどこか寂しげで、それでもそこにいるのはいつもと変わらない早苗さんで、俺はどうしたらいいのか分からなくなる。

「だってそうでしょう? 虹の位置は太陽の光の角度と観測する自分の位置で決まってしまうんです。虹を追い越そうとしても、その虹を観測している自分自身が動いてしまっているんだから、虹の見える位置だって変わってしまいます。どれだけ追いかけても、追いかけている自分自身が虹を見ている限り、虹に追いつくことは――出来ないんです」

 早苗さんは続ける。

「それを知った時は、ショックでした。だってわたし、夢見る夢子ちゃんでしたから。頑張って走れば、いつかは虹を追い越せるんだって本気で信じてましたから」
「誰だって――」

 ――そうじゃないですか、と言いかけて、やめた。
 いつかは自分が何でも出来るスーパーマンにはなれないことを知る。自分がどんな願いも叶えられる素敵な魔法使いにはなれないことを知る。それが大人になるってことじゃないですか――と。
 でも、そんな台詞を言った早苗さんは正しく夢見る少女そのもので、俺は言うべき言葉を失った。

「でも、虹の向こう側に行くことは――実は、出来るんですよ」

 え、と俺は実に間抜けな声を出した。

「わたしがそれに気づいたのは……秋生さんと結婚して、渚が生まれてからでした。虹の向こうに行きたいと思いついてそれが不可能だと気づかされてから、ずぅっと後になってからでした」

 ――ああ、そうか。

 俺はあの日を思い出した。

 誰もあいつの背を押せなかった。
 誰もあいつを救えなかった。
 俺は悲しくなるくらいに無力だった。
 それでもあいつは自分だけのステージの上で、必死に自分の夢と戦っていた。
 一人きりで。

 けど、違った。
 あいつは一人じゃなかった。
 あいつの夢は自分達の夢だ、と。
 そう臆面も無く叫んだ二人がいた。
 あいつが一人だったはずがない。
 あいつはあの二人に救われた。
 あの頃の俺はそう思っていた。

 でも今にして思う。
 あいつが夢を叶えることで本当に救われたのはあの二人だったのかもしれないよな、と。

 遠くを見るような瞳。
 早苗さんの瞳が何を映しているのか、俺には何となくわかった気がした。
 
「それに気づいてから、わたしは気づかないうちに虹の向こう側に来ていたんだ、ということにも気づきました。想像もつかないくらい昔に思い描いた夢のような国に、いつの間にか辿り着いていたんだなって、気づいたんです。それは想像していたような所ではありませんでしたけど、想像していた以上に素晴らしい所でした」

 語り終えた早苗さんは一息ついて、くるりと視線をこちらに向ける。
 そして、笑顔。

「朋也さんは、分かりました? 虹の越え方――」
「答えは、教えてはもらえないんでしょう?」
「そうですね。早苗先生は優しいつもりですけど、見た目ほど甘くはありませんから」

 試すような目が、俺を見据える。
 ――舐めないでほしいな、早苗さん。

「満点取れる自信があるテストは、これが人生で初めてですよ」

 そう言って、広場の向こうで疲れを知らずにはしゃぐ子供達を見る。
 彼方に浮かぶ虹の下、笑顔が溢れている。
 その瞳には、それぞれ違った色合いで輝く光の架け橋が映っていることだろう。
 そんな彼らを眺める俺は、間違いようもなく幸せだった。

「だから早苗さんは――今でも子供達の先生なんですか?」

 俺が発した問いは、これ以上もないくらいに愚問だった。
 だから、早苗さんが弾けるように笑ったのは全くもって仕方のないことだったのだと思う。

「そうかも――しれませんねっ」


    ☆   ☆   ☆


「くー」

 背中からはなんとも幸せそうな寝息が聞こえてくる。
 ちっこい見た目とは裏腹に、意外とヘビーな抱き心地だった。

「すっかり懐かれちゃいましたねっ」
「くー」

 俺が背負ってるのは、古河家の近所の子であるなのかちゃん。行きと同じく公共交通機関を利用しての帰路だったが、一番年若いなのかちゃんは電車で座った瞬間に爆睡。古河家で解散した時も目覚めず、仕方なく家まで送り届ける羽目になってしまった。

「なのかちゃん、秋生さんにだってそんなに懐かなかったのに、流石朋也さんですねっ」
「そりゃオッサンのほうに問題があるんじゃないですか?」

 ああいう24時間お祭り男が苦手な女の子はこの世にゴマンといるだろう。みんながみんな、渚や早苗さんや汐と同じじゃないんだ――

「お、小僧」
「パパーっ!! やっほーっ!!」

 んなことを考えているもんだから、愛娘とオッサンが同時に現れるなんて悪夢が現実の物となったりするんだ。

「あれっ、パパ、いつの間に早苗さんと子供作ったの?」
「ぐうおおおお!」

 汐の言葉に雨上がりのアスファルトの上に転がり悶え苦しむオッサン。

「あっきーあっきー、分かってると思うけど冗談だからね、冗談」
「ちきしょおおおお小僧ぉッ!! てめえの血は何色だああああッ!!」
「聞いてないし……」
「お前がきっかけ作ったんだからな、お前が何とかしろよ。責任持って」
「えーそんなーパパがなんとかしてよー」
「ふにゃ……」

 この騒ぎでは、流石のなのかちゃんもそりゃ目を覚ますわな。
 ちら、と視線を送る。
 なんとかしてください早苗さん、と視線を送る。
 こくんと頷いた早苗さんの目を見る限りは「わかりましたっ」と言ってる気がした。

「秋生さんっ!」
「さ、早苗……」

 オッサンは早苗さんの怒った顔に少なからず動揺しているようだった。
 そうだいけっ!
 いけいけ早苗さんっ! 

「わたしのツバメさんをいじめないで下さいっ」

 どうっ
 オッサンは泡を吹いてぶっ倒れた。
 ちなみに、俺はなんとか堪えた。
 いや、流石に2回目だし。

「ふぅ。それじゃ朋也さん、今日はありがとうございました。良かったらまた付き合ってくださいねっ」
「あれ? 早苗さん、なのかちゃん送ってってくれないんですか?」
「わたしは秋生さんを連れて帰らないといけないですし……それになのかちゃんは完全に朋也さんに取られちゃったみたいですから。家、わかりますよね?」
「うん、わたし知ってるから大丈夫ー」

 意外にも汐はなのかちゃんの家を知ってるらしい。
 早苗さんは意外にも軽々とオッサンを背負っている。

「それじゃ、また。まぁ覚えてはいないと思うけど、オッサンによろしく」
「はい、それじゃ」

 そう言って早苗さん達と別れた。
 早苗さんの後姿をつい眺めてしまう。
 今日は早苗さんと沢山話をした。
 あれだけの時間、あれだけの密度で誰かと話をする機会など社会人として普通に働いていればそうそうあるものじゃない。
 心に刻み付けられたいくつかの言葉。
 それらはまるでささやかな宝物のように――

「パパぁ〜、な〜に見とれてんの〜」

 後ろからぶすっと膨れた汐の声が聞こえてくる。

「ああ、悪い悪い」
「もうっ、なのかちゃんだって疲れてるんだからっ。早く家に送り届けてあげよっ」

 汐の言葉に促され、俺たちは歩き出す。
 辺りは夕暮れ。雨の後特有の湿った生暖かい風が俺と汐の間を吹きぬける。
 背中のなのかちゃんと、俺の前を少し早足で歩く汐。

 俺にも確かにこんな頃があった。
 虹さえも越えていけると、真っ直ぐに信じられたあの季節が。
 子供たちはきっと越えていくだろう。
 俺が見ている虹なんか一足で通り越して、遥かな世界へ羽ばたいていくだろう。
 それはきっと自分が行くのと同じくらい素晴らしいことに違いない。

『お前の夢を、自分達の夢にしたんだっ!!』

 俺だって、きっと誰かから夢を預けられた。
 その夢は渚と一緒になり、時を経て、やがて汐へ、そしてまた誰かへと繋がっていく。
 だから俺は。
 いや。
 俺たちは、願うんだ。

 越えていけ――と。
 虹を、越えていけ――と。

「パパーっ! 早くーっ!」

 俺たちの頭上で、虹が確かに笑った。

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