一目ぼれだった。

 こう書くとありきたりの純情恋愛少年のように見えるだろう?
 ところがどっこい、俺はこう見えても15年間空っぽに生きてきたわけじゃない。それなりの修羅場は潜ってき たつもりだし、何より女についても多少の経験はあったんだぜ。
 それでも、この俺が心を奪われてしまったのは、そいつが俺よりも、一枚も二枚も上手だったと。

 まぁそういうことなんだろう。

 さてこれはどうしたものかと、高鳴る胸を抱えて途方に暮れた俺を救い出してくれるものは何もなく、 夕暮れの校庭をただ一人走る名前も知らなかった彼女は、俺のことなんか知らん振りだった。
 ただ黙々と走るだけ。
 ただそれだけの光景がやけに神々しく見えてしまったのは、落ちかけた太陽の魔力のせいだけではないはず だ。
 それは彼女の結んだ髪が、その髪が反射するオレンジ色の光が、そのすらりと伸びた脚が、小さく揺れるその 胸元が、何よりも走ることが楽しくて楽しくてしょうがないとでも言いたげなその瞳が。
 その全てが俺の目の前で混ざり合い、溶け合った。
 その奇跡は、幾度と無く俺を魅了した。

 彼女が走るのを止めた時、俺も自然とその場に留まることを止め、一人きりの帰り道を歩き始めた。

「名前、何て言うんかなぁ……」

 次の日早速彼女について学校の事情通のダチに尋ねてみることを決め、俺はウキウキな気分で歩いた。



 俺は、本当に馬鹿野郎だった。






恋になれなかったもの(前編)






 何とか高校には入ることは出来たものの、俺はここの高校では俗に言う「オチコボレ」だった。
 学校は行くことは行くが遅刻早退は当たり前。毎晩毎晩夜遊びはする。一回なんて、暴走族の知り合いのバイ クのケツに乗って警察と一晩中カーチェイスをやらかしたこともあった。
 毎日毎日、その日その一瞬が愉快に過ごせれば、それだけで俺はゴキゲンだった。
 別に家に文句があるわけでも、学校がつまらないわけでも、友達がいないわけでもない。
 俺は俺がやりたいように、生きたいように生きてるだけだった。

 高校一年の夏休みが終わった時、俺と俺のツレ4、5人で夜の学校にアルコール類をたんまり持ち込んで朝ま で大宴会をやらかした。朝登校してきたセンコーが職員室で空き缶空ビンに囲まれて寝転がる俺たちを発見し、 即座に俺たちは外出禁止の謹慎処分が課せられた。
 ギャーギャーとワケ分からんことを怒鳴り散らすセンコーは、俺たちの目から見ても下らなかった。どうせこ いつらだって本気で俺たちをどうにかしたいわけじゃない。ただ自分がその学校にいる間に厄介ごとを起こされ たくないだけなんだ。

「大体その頭はなんだッ! もっと高校生らしい頭にしたらどうなんだッ!!」

 俺は当時、俗に言うロンゲで、赤く染めていた。俺に怒鳴ったセンコーの頭には髪はほとんど無く、荒野のよ うだった。
 いい加減説教にうんざりしていた俺たちだったが、そいつの「中年らしい」頭とその台詞のミスマッチさに噴 き出しそうになった。もう少しこの下らない説教が続いたら、誰かがブチぎれて大乱闘に発展していたかもしれ ないことを考えると、そのハゲ教師の果たした役割は決して小さくなかった。
 俺たちは、その教師の頭に免じて、その場で暴れることは止めることにした。

 そして、謹慎解除後初の登校日、俺はスキンヘッドで学校に行った。

 周りの連中があっけに取られたような顔で俺の顔を見ている。例のハゲ教師ですらあんぐりと口を開けている 。
 俺に向けられる奇異の視線が、妙に気持ちよかった。
 俺の苗字に「栗」という文字が含まれていることから、その日から俺のあだ名は「クリリン」になった。
 別にそのあだ名について不快に思うことはなかったが、太陽拳は使ってみたかった。

 しかし、授業終了後に呼び出されて、また俺は説教を食らう羽目になった。
 本当にどうでも良い内容だったので俺は完全に連中の話を無視して、窓の外ばかり見ていた。

 窓の外に見える太陽がゆっくりとオレンジ色に変わり始めた頃、ようやく俺は下らない説教から解放され た。
 ――今日は何して遊ぼうか。
 そんなことを考えながら昇降口で靴を履き替え、外に出た。

 そして、俺はまるで運命のように彼女と出会ったのだった。


    ☆   ☆   ☆


 次の日、珍しく一時間目から授業に参加した俺は、休み時間になってすぐ、俺が知る限りこの学校一の 事情通である小池のところに行って、昨日見た人間について聞いてみた。

「ああ、そりゃ水瀬先輩だよ。なんだお前、知らなかったのか?」

 なんでも昨日見たあの人は俺が思う以上に学校中の有名人だったらしい。

「知らねーよ。なんだよ、俺みたいなボンクラ学生でも知ってなきゃいけないほど……うーん、なんつーか…… スゲー人なのか?」
「どうだろうな。でも――やっぱこの学校で一、二を争う美人だからな。俺らみたいな寂しい男の子としては、 そりゃ気になるでしょうが」
「まぁ……な」

 美人。
 そこだけは、頷くしかなかった。

「お、なんだよクリリン、お前まさか――」
「ま、そんなとこかな」

 何か気づいたような顔してニヤニヤ笑い出した小池を放っておいて、俺はさっさとその場を後にした。


 下らない授業を上の空で聞きながら、先ほど小池から仕入れた情報を反芻する。

 名前は、水瀬名雪。
 俺の一つ上の二年生。
 昨日見たとおりの外見と、誰にでも受け入れられる人懐っこい性格。ちょっと天然入ってるところもあるらし い。学校の成績は中の上で、授業中の居眠りが彼女のトレードマーク。美化委員。一年の頃から陸上部に所属し ていて、県下でも有力選手の一人とされる実力を持つ長距離ランナー。この夏からは弱小の男子部を差し置いて 陸上部の部長を務めている。一応今の所フリー。
 大体そんなところだ。

 さて、さしあたって俺はどうするべきなんだろうか。
 陸上が得意な学校中の人気者と、何のとりえもない不良もどきのこの俺。接点などは何も無く、これからだっ てそうだろう。
 こっちから何か行動を起こさないかぎりは。

 ――そうなのだ。
 なんだってそうだ。
 自分から何かをしない限りは変わらない。
 世の中だろうが、周りの人間関係だろうが、それは変わらないこの世の原理だ。

 俺は、腹をくくった。


「は? す、すまんがもう一回言ってくれんか」

 ――何度言わせんだこの野郎。
 口から出かかった言葉をすんでのところで噛み殺す。
 目の前の教師は目をパチクリさせながら、俺の言葉を理解できずにいる。
 ムカつく野郎だが、ここで一悶着起こしたら全てが台無しなので、こいつをぶん殴るのは今の所我慢してやる ことにする。

「――入部届け、だよな? これ」
「他に何と読めるんだよ」
「お前が、陸上部に?」

 うんうん。
 俺はブンブンと首を縦に振る。

 俺は早速購買で封筒と紙を買って即興で入部届けを作成した。内容は適当だ。
 そしてズカズカと職員室に堂々と入って、陸上部顧問の所に行った。

「それで、今日から早速陸上部の練習に参加したいんスけど」

 続けざまに爆弾を投下する。
 二秒間ほど絶句する目の前の名前も知らない教師。

「し、しかしだなぁ……陸上部って、練習厳しいぞ? 冷やかしなら止めておいたほうが――」
「もう決めたんス」
「そこまで言われるとこちらとしても歓迎はするしかないが……」
「いいッスね?」

 こういう話は引き伸ばすと後から何を言われるかわからない。
 さっさと話を決めて、文句を言わせる前に立ち去るに限る。

「んで、練習に参加する前に部長さんのほうに挨拶をしたいんですけど」
「あ、ああ2−Bの水瀬だな――って待て待て! 俺もついて行こう!」

 ちぇっ。
 付いて来なくてもいいっつーの。



 陸上部の顧問に後ろに付いて、水瀬名雪の教室に向かう。
 昼休みが終わるにはまだ三十分くらいある。上手くいけば話くらいは出来るかもしれない。
 柄にも無く俺の胸は高鳴る。
 顔が赤くなっていないだろうか。
 今更ながら教師へのあてつけだけでスキンにしてしまった暴挙が悔やまれる。この頭を見て水瀬名雪がなんと 思うかが、気になりだした。
 他の誰になんと思われようが今更そんなことに興味もないが、ただ一人水瀬名雪に変に思われるのだけは何と なく嫌だった。

「おい水瀬ーっ! 水瀬はいるかーっ!」

 教室のドアを適当に開けた教師が教室の中に向かってその名を呼ぶ。
 案の定、不意打ちにあったような教室の中は、シーンと静まり返り、教室内の視線は一斉に教師と、その後ろ に隠れるように立っているスキンヘッドの俺に向けられる。
 マジでこの教師、後で殴る。
 もうちょっと考えて行動できねぇのか。

 そんなことを思っていると、静まりかえっていた教室内で声が聞こえる。

「ほら、名雪。名雪ったら。陸上部の先生が呼んでるよっ。ほらっ!」

 長い髪をした生徒が、机の上に広がっている髪の毛お化けを揺すっている。

「うにゅ……?」

 その髪の毛お化けはゆっくりと起き上がった。
 糸目。
 すげぇ眠そうだ。
 ――あれが、水瀬名雪か?
 昨日見た神々しいまでの姿が幻だったのかと思えるほどに、眠そうだった。

「ほらっ! 名雪っ! しっかりしなさいっ!」

 パシンッと長い髪の女生徒に背中を殴られる水瀬名雪。
 その衝撃につんのめりそうになっていた。

「わっ、わっ、わっ! ちょ、ちょっと香里ひどいよー」
「あんたが目覚まさないからでしょ! ほらっ! 先生呼んでるよっ!」

 そう言われると水瀬名雪は今改めて気づいたかのように(実際そうだったんだろうが)「わっせんせー」と驚 き、はいはーいと、とてとてとてと、こちらに小走りでやってきた。
 うわ、やべぇ。
 こっち来たよ。

「すいませーんっ! どうかしました?」
「それがな、練習に今日から参加させてほしいって言ってる男子の一年がいるんだが、一応お前に面通しくらい はと思ってな。ほらっ、おいっ! 自己紹介!」
「は、はい!」

 急に振られて少しドモってしまう。
 やばいやばい。
 深呼吸深呼吸。

「あ、ども。栗林です。クリリンって呼んでください。今日から陸上部に参加させてもらおうと思って……よろ しくっす」

 途中軽く声が裏返る。
 緊張してるのが丸分かりだ。
 隣で聞いてる教師も訝しげな目をこちらに向けた。
 しかし、当の本人はそんなことはお構いなしに、

「クリリン君だね。わたしは、陸上部の部長さんをやってます、水瀬名雪です。よろしく」

 と、にっこり笑って言った。
 その笑顔にしばし見とれた。

「それじゃ、水瀬。後はよろしくな」

 教師はその様子を見届けると、そんなことを言いながらそそくさと退散した。
 へっ。
 帰れ帰れ!

「クリリン君?」
「は、はいっ!」
「今ね、男子部員が少なくて困ってたんだ。入ってくれて、すっごく嬉しいよ。ありがとう。これから一緒に頑 張ろうねっ!」

 にっこり。
 ――この先輩、やべぇ。

 差し出された手を、しっかりと握った。


    ☆   ☆   ☆


 それから、俺は変わった。
 学校に行くようになった。水瀬先輩は秋の大会に向けて朝練をするから、先輩目当てに俺もその練習に参加し た。水瀬先輩はいつも糸目で登校してきて、糸目のまんまで練習するもんだから危なっかしくて見てられない。 いつも俺が見ててやらないと、と思って毎朝先輩と一緒に練習した。
 夕方の練習も暇さえあれば、先輩と一緒に走った。陸上部はかなり放任主義で個人個人でどんな練習をしよう が自由。俺は先輩と一緒の種目を選択して、面倒を見てもらうという名目で、練習中はずっと一緒にいられるよ うになったわけだ。先輩が走る分だけ俺も走る。いつの間にか俺までそこそこ速く走れるようになった。
 授業中は練習の疲れでグースカ眠る毎日。日課だった夜遊びもいつの間にか止めた。
 休みも返上で練習練習。先輩が言うには、秋の大会は来年のインハイに向けてかなり重要な大会らしい。

「結局は、速く走れないと駄目なんだけどね」

 そう言って水瀬先輩は毎日毎日走り続けた。周りの連中を見ると結構適当に手を抜いて練習しているのがよく 分かる。先輩だけ、一人でバカみたいにずっと走っていた。
 一度だけ、何でそんなに走ってばっかいるのか聞いてみた。
 そうしたら先輩はいつものように、にっこりと笑顔を浮かべて、

「だって、わたし、走るの好きだもん」

 とあっけなく言ってのけた。

「そりゃ走る事以外にも好きなことはあるけどね。勿論試合に勝ちたいっていうのもあるけど。でも、やっぱり わたしは走ることが大好きだから、走ってるの」

 走ることが好き。
 臆面もなく言い切れる先輩は、他の誰よりも輝いていた。


 俺はいつの間にか部内の長距離走者の中では一番速くなっていた。勿論弱小男子部の中での話しだが。 俺はまだまだ水瀬先輩には及ばない。でも、男子部ではトップ。その結果俺は水瀬先輩と一緒に長距離の選手 として秋の大会に出場することになった。
 渡されたゼッケン入りのユニフォームは水瀬先輩と同じ。また少し胸が高鳴った。

「おめでとう! 試合、頑張ろうねっ」

 そう言って水瀬先輩は俺にそのユニフォームを手渡した。
 それはただの布のくせに、ずしりと俺の腕に重くのしかかった。

 意外と俺は期待されているらしいとは前々から聞いていた。タイム的には県内トップの連中と張り合うにはま だまだだが、上手くすれば地方大会ならば入賞くらいは出来るかもしれない、というところまでは来ていた。
 期待されることなんか初めてだった。不良が一転、陸上期待のホープへ変貌。教師どもまでが掌を返したよう に「頑張れよ!」と声をかけるようになった。俺はそんな時どういう態度を取ったらいいか分からずに、ただ戸 惑うばかりだった。


「そういう時はね、にこっと笑って『頑張りますっ』て言えばいいんだと思うよ」

 水瀬先輩は練習後にまたいつもの笑顔で言った。

「でも、大会になったらいつもみたいに出来ないかもしれないじゃないすか。そりゃ最近は大分速くなってきた かもしれないけど、調子悪かったら結構遅くなっちゃうし。いつもの力なんて出せないかも――」

 そう言って俺は肩を落とした。
 何のことはない。俺はビビッていたのだ。たかだか部活の大会程度で。
 所詮水瀬先輩のケツを追いかけて走っていただけなのだ。雑魚は雑魚らしく無様に負けて戻ってくれば いい。

 でも、いつも俺の練習を見てくれた水瀬先輩は、俺が普段の力も出せずに負けたら、がっかりするんじゃない だろうか。
 俺はそれだけが怖かった。
 水瀬先輩にがっかりされるのが怖かったのだ。

 ふにふに。

 突如俺の肩に何か温かくて柔らかいものが触れた。

「うわっ!」
「はいはい、じっとしなさい」

 先輩には珍しく有無を言わせない声色。
 先輩はゆっくりと丹念に俺の肩を揉み解していた。
 すげぇ気持ちいい。
 何か俺の肩に詰まっていた老廃物とか、何かよく分からないけど、余計なものが水瀬先輩の手によって どんどん押し出されていった。

「どう? 気持ちいい?」
「はい……」

 俺は先輩の手によってされるがまま。
 俺の首筋には先輩の吐息があたる。
 頭がクラクラした。

「わたしもね、昔先輩にこうしてもらったことがあるの」
「……?」
「試合前でね、選手に選んでもらったのはいいけど、自信なんて全然なくて、もう逃げ出したいっていうくらい 怖かったの」

 肩もみはまだ続いている。
 先輩の話もまだ続いている。

「わたしも先輩にこうしてもらったんだー。でね、その時先輩はこう言ったの。『別に負けてもいいんだよ。速 く走れなくたっていい。だってわたしは知ってるもの。名雪が、この部活でいっちばん一生懸命やってたのを、 わたしはこの目で見てちゃーんと知ってます』ってね」

 とんとんとん。
 軽く肩を叩かれる。

「肩にはね、余計なものが溜まっちゃうんだって。勝たなきゃとか、負けたらどうしようとか、そういう余計な ものは全部肩に溜まっていくんだって。だからね、誰かが肩を叩いて余計なものを全部抜いてあげないといけな いの」
「……」
「はい、おしまい」

 俺は後ろを向いた。
 そこには膝立ちでいつもの笑顔を浮かべる先輩がいた。

「クリリン君、負けてもいいんだよ。走れなくたっていい。だってわたしはクリリン君が、この部活でいっちば ん頑張って練習してたの、知ってるんだから」

 俺は何も言えなかった。
 違う。
 一番は、先輩だ。
 俺は、先輩がいるから、先輩が走るから、走ってたに過ぎない。
 一番は、先輩なんだ。

「せん……ぱい」
「がんばろっ! クリリン君。わたしも精一杯、頑張るからさ」

 そう言った水瀬先輩の髪を秋の風が揺らした。
 部活の時は後ろで一つに結んでいる、先輩。
 いつでも一生懸命走って、誰よりも楽しそうに走る、先輩。

 俺は、先輩が何故走ることが大好きなのか、分かったような気がした。


 結局、俺は善戦はしたものの僅差で、入賞することは出来なかった。先輩は地方大会は優勝したが、 県大会では思ったようにタイムが伸びず、僅かの差で優勝を逃した。

 それでも、やっぱり先輩は楽しそうだった。


 そして、この街に冬が来た。




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