冬がきた。

 冬がきて、どれだけの雪が降り注ごうと、基本的にこの街は変わらない。冬がくるのが、日本の中でも早い方 に数えられるであろうこの街。変わるといえば街の色が一斉に目を覆わんばかりの白に染めかえられるというだ けの話だ。
 それはこの街に住む俺達にだって言えること。日々の仕事に雪かきが加わるくらいで、学校も会社も役所もそ れまでと何も変わらずに回り続けるのだ。

 全く、溜息が出る。

 変わらないものは、変わらない。
 変わるものは、変わる。
 そこには躊躇などはなく、遠慮も、謙虚も、根拠もない。
 あるのは無慈悲なまでの『現実』だ。

 水瀬先輩と一緒に走り続けた校庭にうっすらと雪が降り積もる頃、先輩は朝練をしなくなった。何か特別な理 由があるわけでもなく、ただ単に雪が積もった校庭では走れないからだ。授業後の練習も次第に筋トレがメイン になっていった。
 俺と先輩が接触する機会も、冬になり寒さが木々の葉を散らすように、少しずつその数を減らしていった。

 それが、俺の『リアル』だった。


「おい! クリリン! クリリン! 事件だ! 起きろ! おいっ!」

 聞き飽きた声に辟易しながらも、俺はぼんやりと体を起こした。
 時計を見ると、まだ一時間目の前。一時間目の現国を寝て過ごすつもりだった俺は、起こされた腹いせに小池 の足を思い切り蹴ってやった。
 小池は「うぎゃっ」などと品のない悲鳴をあげた。そして座り込み、涙目でこちらを睨みつける。
 別に可愛くもなんともない。
 むしろ、ウザい。
 もう一発蹴ってやろうかとも思うが、話が進まないのでこの辺で勘弁してやることにする。

「で? なんだよ一体。俺の貴重な睡眠時間を邪魔しやがって」
「く……このマイペース野郎がっ……! 聞いて驚け! ……水瀬先輩が男と一緒に登校してきたんだ よ!!」
「はぁ?」

 俺は小池が何を言っているのか分からなかった。







恋になれなかったもの(中編)







 相沢祐一。
 一応2年で、転校生。
 住所、不明。携帯番号、不明。学校の成績、不明。
 登校初日から水瀬先輩と一緒に登校してきて学校中の水瀬先輩ファンを驚かせる。やけに水瀬先輩と親しいの で、水瀬先輩との関係は親戚か何かと推測される。

 これが、小池が俺の所に持ってきた転校生・相沢祐一のデータである。

「不明ばっかじゃねーか」
「しょうがねぇだろ、実際まだ何にも分かってないんだから」

 まぁ問題の奴が転校してきてまだ半日なんだから、これだけ調べてきただけでも大したものだと思う。
 小池の情報収集能力は、日を過ぎるほどにますます向上するばかりだ。

「お前、高校出たら探偵かなんかやれよ」
「あぁ?」

 小池の声を無視して、購買で買ってきたヤキソバパンの攻略に取り掛かる。
 俺の目線の先には、毎日毎日飽きずに降り続く雪があった。
 この雪さえなければ、秋までのように今も先輩と一緒に走っていられたのだろうか。

 俺のあまりの無関心っぷりに怪訝な顔をする小池。

「お前、もしかしてあんまし興味ない?」
「ああ」

 ――そんなわけねーだろうが。

 喉まで出かかった台詞を、ヤキソバパンと一緒に飲み込んだ。


「今日はグラウンドが使えないので、屋内で筋力トレーニングをします」

 いつものように響く、水瀬先輩の声。
 またか、と部員からは不満の声が漏れる。

 グラウンドが使えなくなって3日目、今日も雪は降り続いている。
 俺は生まれた時から今まで、ずっとこの街で暮らしてきた。
 雪なんか、慣れっこだ。
 冬になればそこにあるもの。
 邪魔に思うことも、疎ましく思うことも、少なくとも今までは無かった。

「もうっ! 筋トレもしっかりやんないとなんだからねっ!!」

 先輩がブンブン手を振り回しながら筋トレの重要性を訥々と語りだそうとし時、初めてのろのろと動き出す部員達。
 俺もその動きの最後尾にそっと加わる。

 筋トレには大層な器具などは使わない。基礎的なところで、腕立て、腹筋、背筋、スクワット。それが終わったらラダー。最後に階段ダッシュ上り下り10本。それを合計3セット。これで終了。時間にして一時間弱。特に疲れるメニューでもないが、気分的に感じる疲労感はグラウンドでの練習に比べて約3倍だ。
 暗い屋内で閉じ込められた室内で淡々とこなすメニューと、広々としたグラウンドでの練習では、比べようにも比べられない。

「いっち、にー、さーん、しー……」

 先輩の号令に合わせて1、2、3、4。

「ごー、ろーく、ひーち、はーち……」

 5、6、7、8。

 俺の視線はやはり水瀬先輩に向かっていた。
 今日いきなり男と登校してきた先輩。
 今までそんな浮いた話など一つとしてなかったのに。

 ざわついた胸の中を吹き飛ばすには、灰色の空と見飽きた室内は陰気すぎた。


「お疲れ様でしたー」
「お疲れ様でしたー」

 ふぅ、やっと終わった。
 わいわい仲間達と騒ぎながら、部室に向かう。

「あ、クリリン君っ! ちょっと待ってー」

 部室に入ろうとした時、背後の声に呼び止められる。
 振り向くと。

「あ」

 間抜けな声が漏れる。

 先輩。
 水瀬先輩がいつもと同じ笑顔で、俺の方を見ている。

 きっと先輩は、俺が先輩に対して抱いている気持ちを、知らない。
 俺が友人を使って、先輩のことを根掘り葉掘りと調べていることを、知らない。
 相沢祐一。
 そいつのことについて先輩に直接聞いてみたいと思っていることを、知らない。
 そいつに対して俺が抱いているどす黒い感情を、知らない。
 先輩のことを思って、俺がどんなに眠れない夜を過ごしたか、知らない。

 急に胸の奥がざわつく。
 ざわついた物が、時を経て棘になる。
 棘はいつか鋭い槍となり、やがて俺の心臓を貫くだろう。
 いつか、きっと。

「何すか?」

 自分でも驚いてしまうほど、抑揚の無い声が出た。


 先輩の話は、冬の間の練習のことについてだった。
 前の大会で俺の知名度は同地区内ではある程度の水準に達していた。その結果、指導者達の会合にて俺は見事地区の強化選手として指定されたらしい。強化選手は2月から強化合宿に参加し、レベルの高い指導を受けることになる。
 ちなみにこの学校で強化選手として指定されたのは、先輩と俺だけらしい。

「頑張ろうねっ!」

 先輩の声に、はいと、気のない返事を返す。
 しかし、胸の内はそれどころではなかった。

 先輩と一緒に、合宿。
 先輩と二人で、合宿。

 正確に言うと二人でもないし、練習自体も男女は別メニューなので一緒でもない。
 それでも、その時の俺には十分だった。

 瞬間的に、しばらく先輩と朝練をしていないことも、夕方の練習でも久しく一緒に走っていないことも、今朝先輩と一緒に登校してきたという相沢祐一のことも、忘れた。

 代わりに、先輩と二人で走り続けたあの秋の日々のことを思い出す。
 先輩に揉んでもらった肩の感触と、その時首筋にかかった先輩の吐息を思い出す。

 その時は、それだけで幸せだったのだ。


    ☆   ☆   ☆


 それからはしばらく何もない日が続いた。

 雪は毎日飽きもせず降り注ぎ、相変わらずグラウンドは使えなかった。先輩との朝練は復活するはずもなく、 俺の登校時間は自然と他の生徒と同じような時間になった。
 もうすぐ実力テストがあるというが、俺は全く勉強していない。それに関しては、学校随一の情報屋である小池も同様である。奴は勉強以外の記憶力は抜群だが、こと勉強となると、からきし駄目だった。

 日々を重ねる内に、段々と謎の転校生である相沢祐一の正体が見えてきた。
 奴は水瀬先輩の従兄弟で、昔この街に来ていたことがあるらしい。水瀬先輩と相沢祐一はその時からの付き合 い、俗に言う幼なじみというヤツか。
 これは聞いた時は自分の耳の調子を疑ったが、なんと奴は水瀬先輩の家で寝泊りしているらしい。
 水瀬先輩と相沢祐一は、いつも一緒に登校している。余裕の時も、ギリギリの時も、滑り込みアウトの時も、 豪快に遅刻の時も。聞いた話だと奴は水瀬先輩に付き合わされる形で毎朝登校という名の朝練をこなしているら しい。いつも奴は先輩の後ろで、ゼーゼーと始業のチャイムに急かされながら走っている。いい気味。
 また、相沢祐一には先輩の他にも仲良くしている女が数人いるらしい。それは、奴と同じクラスで学年主席の 美坂香里だとか、学校一の不良と目される川澄舞だとか、隣のクラスにいる地味めな天野美汐だとか、とにかく 色々だ。奴が凄腕のプレイボーイであるかどうかはまだ判断がつかないが、警戒が必要なことは確かなようだっ た。


 そしてまた、日々は何事もなく過ぎていった。

 俺と先輩の関係には何の変化もなかった。
 元々それが目的で入った陸上部だったが、今では陸上部の活動自体が楽しくなってきていた。
 先輩が走るから、俺も走る。
 ただそれだけだったはずの『走る』という行為の意味は、最早それだけではなくなっていた。

 俺も、走ることが好きになり始めていた。
 この場所が、気に入りかけていた。
 今の自分を、好きになりかけていた。
 先輩と、同じように。

 先輩の事は誰よりも好きだったが、その気持ちを告げることで今俺がいる場所を崩してしまうことが怖か った。
 結局、何も出来なかった。

 時間は、飛び去るように過ぎていき、あと少しで2月の強化合宿を迎えようかという頃。
 それは、起こった。


 突然、先輩が学校を休んだ。
 前日に、相沢祐一と一緒に校内放送で呼び出されてすぐに、早退していったのは知っているが、先輩が学校を 休む理由は分からなかった。

 その日の昼、顧問に呼び出された。
 顧問の言うことが理解出来ずに、呆然とする俺。

 先輩の母親が交通事故に遭い、危篤となっていること。
 先輩自身も精神的に大きなショックを受けているため、強化合宿を辞退せざるをえないだろうということ。
 先輩が休んでいる間、先輩がやっていた主将の役割を俺がやる羽目になったこと。
 先輩は、おそらくしばらくは戻ってこれないだろうということ。
 もしかしたら、退部する可能性もあるということ。
 
 渦巻いた情報が竜巻となって俺の思考を襲い全てを吹き飛ばしてしまったかのように、俺の決して良いとは言 えない頭は論理的思考を組み立てる能力を失った。

 俺は早口でまくし立てる顧問を無視して、ふらりと職員室を出た。


 その後のことは良く覚えていない。


 いつの間にか俺は鞄を持って、初めて先輩を見た場所に立っていた。

 時間は、午後五時過ぎ。
 きっと今頃部活では、代理の代理キャプテンが声を張り上げて号令をかけているに違いない。

 不意に、先輩の走る姿を思い出す。
 夕日に照らされ輝いていた先輩。
 もう、あんな輝く笑顔で走る先輩を見ることは出来ないのだろうか。

 ――先輩、先輩、先輩。

 そうと決まったわけでもないのに、何故か俺は泣いていた。
 全てが終わってしまったような気がした。
 俺は立っていられなくなり、蹲って膝を抱えた。
 抱えた膝の間に、頭を埋めた。
 あの日よりもかなり伸びた髪の毛が腕にちくちくと触れた。
 尻の下には、あの日にはなかったはずの雪があった。

 全ては雪のせいなんじゃないか、と思った。
 そうだ。
 雪が全ての不幸を連れてきたのだ。
 雪がなければ、先輩と一緒に走れたあの時間が奪われることもなかった。
 雪がなければ、相沢祐一などという奴が現れることはなかった。
 雪がなければ、先輩のお母さんが事故に遭うこともなかった。
 雪がなければ、俺の制服のズボンがこうして湿っていくこともなかった。

 何かのせいにしたかった。
 今の俺には「悪者」が必要だった。
 全ての不幸の責任を取ってくれる「悪者」が。
 それは、陸上部顧問でも、相沢祐一でも、先輩のお母さんでも、隣のクラスの天野でも、今も降り続く雪でも 、何でも良かった。

 俺はなんて醜いんだろうと思った。

 時間は過ぎ、夜の帳が下りる。
 俺は蹲ったまま、動かずにいる。
 このままここにいたら、凍死してしまうかもしれないと思うほど寒い。
 でも、俺はそれでもいいかもしれないと思った。


「お、こんなところにいたか」


 とっさに顔を袖で思い切り拭き、振り返る。

「小池……」
「よぉ」

 小池はぞんざいに手を挙げる。

「何だよ」
「何だよはねぇだろ。折角センコーからの頼まれもん持ってきてやったってのに」

 小池はピラピラと一枚の紙を揺すっている。

「それ、何だ?」
「さぁ、わかんねぇ」

 小池は、大げさに肩を竦めるポーズを取る。
 昔RPGの主人公がやっていたような。

「でも、どうやら水瀬先輩に渡さなきゃいけない紙らしいぜ。まぁ、お前にやる」

 ほらよ、と紙を手渡される。
 慌てて、紙が地面に落ちてしまわないように受け取る。

「どうしてお前が……?」
「そんなもん誰が持ってったって同じだろ? お前んとこの顧問が先輩のところに届けてくれる人間を探してた から、かっさらってきた」

 ニヤニヤと口だけで笑う。
 俺は、阿呆のようにぼぅっと手渡された紙を見つめている。
 「強化合宿申込書」と文頭に太字で書き込まれている。

「さて、小池探偵事務所からお得意様のクリリン君に情報提供だ。相沢祐一は水瀬家を出て何故か今の時間にな っても戻ってきてねぇ。水瀬先輩は家から出てないから、まだ家の中にいるだろう」

 思考が小池の言葉に追いつかない。
 何だ?
 こいつは何を言っている?

「まぁ……なんだ、別に深く考えることはないんじゃないか? 会いたかったら、その人んとこに会いに行きゃいーんだ。相手のことなんて知ったことか。常識なんてクソ食らえだ。な? そうだろう?」

 ニヤッと会心の笑顔を浮かべる小池。
 そうだ。
 俺たちは、不良だった。
 常識や、相手のことなど知ったことか。
 ただ、自分が本心から望むことを――

「こんなに遅くなっちまったのは、お前がこんなところに隠れてたからだぜ。言っちまえば、お前の責任なんだからな。――ほら、行くなら行けよ。早くしねぇと、夜が明けちまうぞ?」

 その言葉に小さく頷いて、俺は弾かれるように走りだした。

 ――サンキュー、小池。


 一度だけ、先輩の家まで一緒に帰ったことがある。まだこの街に雪が降る前、秋の大会の前のことだ。
 その時の俺はよほど舞い上がっていたのか、先輩にどんな話をしたか、先輩がどんな話をしたか、よく覚えていない。気づいた時には先輩が家のドアノブに手をかけて笑顔で手を振っていた。

 あのドアが閉まる前に、気持ちを伝えていたら、今という時間は変わっていたのだろうか。

 俺はあの日以来通ることのなかった道を、力の限り走っている。
 先輩が毎日眠い目を擦りながら登校していた道。
 雪が降り始めてからは、相沢祐一と肩を並べて歩いていた道か。
 俺の掻き消えそうな勇気が、少し萎んだ。
 そうやって立ち止まりそうになるたびに、胸の中のなけなしの勇気を振り絞って走り続けた。

 ――はぁ、はぁ、はぁ。

 自分の呼吸する音がやけにうるさい。
 しかし、まだ走れる。
 鍛えてきて、良かった。
 昔の俺ならきっと、こんなになるまで走れやしなかった。
 それもこれもみんな先輩のおかげだ。

 俺は先輩に、ありがとうと伝えたかった。
 俺は先輩に、ごめんねと伝えたかった。
 俺は先輩に、この胸の痛みを伝えたかった。

 俺は先輩に、何を伝えたかったか、わからなかった。

 それでいい、と思った。
 それでは駄目だ、と思った。

 それでも、俺は先輩に会いたかった。
 何を伝えたかったのか、もう分からなくなってしまったけど。

 それだけで、俺はきっとどこまででも走れた。

 ――はぁ、はぁ、はぁ。

 見覚えのある橋を渡った。
 あと少しだ。

 走れ。
 走れ、走れ、走れ!
 俺の心臓は激しい16ビートを刻んだ。
 この秋から鍛え上げた足が、期待されるラストへ向かって唸りをあげた。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 膝に手をつき、呼吸を整える。
 もうこの角を曲がれば先輩の家だ。
 葉っぱが一枚もなくなった木の枝の隙間から先輩の家の屋根が見えた。
 ここまで来れば、小細工は何もいらない。
 全ては、心のままに――


 扉が、開いた。


 あまりにも予想を超えた展開に、俺のただでさえ小さい心臓は衝撃に耐えかねて止まってしまうかもしれないと思った。
 そこには、見るからに必死な表情をした先輩がいた。
 何故?
 何故何故何故?
 理解出来ない。
 理解不能理解不能理解不能。

 この状況を俺が理解する前に先輩は走り始めた。

「嘘だろ、おい……!」

 俺も、先輩を追って走り出す。
 先輩は普通の服に、普通の靴。
 それなのに、グラウンドで走っている時よりも数段速いような気がする。
 そりゃ俺だってここまで走ってきたんだから、体力はかなり消費している。
 しかし、それを抜きにしても、速い。
 俺は全開で走っているのに先輩との距離を詰めることが出来ない。
 距離を詰めるどころか、どんどん引き離されている。

 これが、俺と先輩の距離なのか。
 どんなに走っても、届かないのか。

 大きな声を出して呼んでやろうかとも思った。
 俺はここにいるぞ、と。
 しかし、声は出さなかった。
 俺は、先輩に教えてもらった俺の走りで、先輩に追いつかないと意味がないと思ったから。
 それに。

 ――きっと俺の声は先輩に届かない。

 何故だかそんな気がした。

 先輩のスピードが落ちてきた。
 そりゃそうだ。
 準備運動もせず、ペース配分も考えず、最初からトップスピードで馬鹿みたいにぶっ飛ばしてれば例え先輩じゃなくてもすぐにバテる。

 ――チャンス。

 俺はこの機を逃さずに、さっきまでで離された分の距離を一気に詰めにかかる。
 どんどん俺と先輩の距離は詰まっていく。
 脇を走る車の音がうるさい。
 きっと先輩には俺の足音すら聞こえないだろう。
 でも、俺には先輩の足音はおろか、耳をすませば荒くなった呼吸や鼓動まで聞こえてくる気がした。

 右に折れた。
 このまま走れば、この先は駅前の広場だ。
 このペースなら広場に着く前に先輩を捕まえられる。

 相変わらず俺たちの脇は、車が通り過ぎていく。
 こんな真夜中に走り続ける俺たちなど、目にも入らないと言わんばかりに。
 それなら、それでも構わない。
 そばに先輩さえいれば、それで構わない。

 距離はどんどん詰まっていく。
 15M……10M……5M……

 捕まえられる。
 この俺が、あの、先輩を。

 ここまで距離が詰まっても、先輩は全く俺に気づいた様子はない。
 どれだけ足がもつれても、ただただ前を向いて走り続ける。
 呼吸は荒く、歩調は乱れ、フォームなどはまるで素人だ。
 先輩はそれでも走り続けた。

 ――先輩!

 ――先輩、先輩、先輩!


 もうまともに振れなくなっているその腕を掴もうとした、その時。


「――祐一っ!!」


 その声が、最後だった。

 力が抜けた。
 ガクンと膝が折れた。
 今まで積もり積もった疲労が、群れをなして襲いかかってきたようだった。

 先輩の背中がみるみる遠ざかっていく。

 ――止まるな。

 理性は必死で叫ぶ。

 ――でも、もう駄目なんだ。

 頭ではなく、心でもなく、魂で理解した。
 俺は先輩に届かない。
 それは、これまでも。
 そして、これからも。
 永遠に埋まらない距離。
 終わらない徒労。
 絶望は、こんなにも俺の近くにいた。

 最早立っていられなくなった俺は、雪の地面の上にみっともなく膝を着き、両腕を着けた。

「……くっ……くははっ……」

 笑えてきた。
 笑っているはずなのに、俺の目からあふれ出すその雫は、目の前の雪を少しずつ溶かした。

 そして、俺は理解した。

 ――もう、走れない。


 俺は、翌日、顧問に退部届けを提出した。




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