空色グライダー       アルエム



 彼女はもぞりと、寝ていたベッドの上で身じろぎをした。時刻は正午を過ぎているが、カーテンが締め切られているため室内は薄暗かった。ただ部屋の隅に置かれたデスクトップパソコンだけが、低い唸り声じみた音を響かせながらボンヤリと周りを照らしていた。
 緩慢な動作で起き上がった彼女は、その光をボーっと見詰める。控えめにあけた口から欠伸が零れた。ベッドから降りると覚束ない足取りで台所に向かう。目を擦りながら、そこにあった冷蔵庫をあけると彼女は口をへの字に曲げた。中はからっぽだった。それはもう見事に。
 引き返すとベッドの脇に置かれた携帯電話を取った。履歴から目当ての人物を見つけ出し通話ボタンを押した。
『はいはーい、皆のアイドルはるちんですヨ!』
 すぐにボリューム調整のノブが壊れてしまったかのような、やかましい声が聞こえてきた。即座に後悔した。だが彼女には、それなりにのっぴきならない事情があった。ため息を一つ零し、心を落ち着ける。目覚ましとしては最適な声ではないか。心の理論武装を数秒で完了させる。
「おはようございます。三枝さん」
『今はもうお昼ですヨ!』
「そうですか? それよりも三枝さん」
『ん? なに?』
「喉が渇きました」
『は?』電話口の相手、三枝葉留佳の素っ頓狂な声が聞こえてくる。『それはもしかして、このはるちんに買って来いってことですか?』
「はい、そうなりますね」
 彼女は涼しげな声で、さも当然のことを告げるように言い放つ。それはもう聞いてる相手のほうが自分がおかしなことを言ってるんだと思わせる程に。
『私これから授業ですヨ?』
「そうですか。あ、出来れば柑橘系の飲み物をお願いします」
『それでも行けと!?』
 葉留佳の絶叫が聴こえてくる。けれどその声より一足先に彼女は携帯を耳から離していたりした。尚も小さく漏れ出る葉留佳の文句を通話終了ボタンを押して終わらせる。そのまま携帯を投げ捨てると、締め切っているカーテンを開けた。飛び込んできた初夏の清清しい日差しに目を細める。
 あの不可思議な体験をした学生生活から早数年。大学2年生になった彼女──西園美魚は、現在、絶賛引き篭もり中だった。





 結局、葉留佳が美魚の住むアパートに来たのは、太陽が傾き始めた頃だった。四角く切り取られた窓から茜色の光が漏れていた。
「はろー、美魚ちん。いい子でお留守番してましたかネ?」
 片手をズビシっと上げて陽気に話しかけてくる葉留佳を一瞥する。ついっとその視線を今度は、窓のほうへと移す。もう一度、葉留佳を見る。今更何しにきやがった。唇をきゅっと結んで葉留佳のことをねめつける彼女の瞳には、ありありとそんな言葉が浮かんでいた。「うひーっ」とか奇声を上げながら葉留佳は、手に持っていた紙製の箱を顔の前に掲げる。
「美魚ちんの絶対零度光線ですヨ! 冷たいとか通り越してもはや熱い! このドライアイスアイ娘ー!」
「帰ってください」
「美魚ちん、ひどっ! いや、だって仕方ないじゃないかー。ていうか自分でいけばいいじゃん! すぐそこに自販機あるし!」
「細かいことを気にしてはいけません。ハゲますよ?」
「うら若き乙女に向かってハゲるとかいうなー!」
「乙女?」
「なんだぁ。その三枝さんが乙女なら、マングースだって乙女と呼ばれる資格がありますね。みたいな顔はー!?」
「……もうそれなりに長い付き合いになりますが、三枝さん、エスパーだったんですね」
「肯定するなー!」
「三枝さん、隣室の方に迷惑ですよ」
「はぁ……なんか最近、美魚ちんが冷たいですヨ」
 葉留佳は、ため息を付く。この二人の関係はいつもこんな感じだった。いつもノリだけで突っ走る葉留佳。大人しくあまり目立たない美魚。相反する二人があのメンバーの中で、一番交流を続けていた。皆忙しいのか、ニート化した今の美魚の元に尋ねてくるのは葉留佳だけだった。そういう意味では三枝さんは貴重なのかもしれない。これはもしや親友と呼べるのではないだろうか。美魚は、その考えに苦笑する。ありえない。たしかにこの二人の関係を現す言葉としては親友よりも、腐れ縁というほうが近かった。それに美魚には、葉留佳が自分に構う理由に心当たりがあった。
 葉留佳は、近くにあったベッドの上に腰掛けると先ほどまで脇に抱えていた紙製の大きな箱を、乱暴に投げる。
「それ、なんですか?」
「これはですネ。サークルからちょっぱってきたのですヨ」
 葉留佳は、美魚のほうへと銃のような形を作った両手を向ける。そこはかとなく楽しそうだった。どうやら先ほど沈んだボルテージが、また上がってきたらしい。美魚は、しまったっと思うがもう遅かった。ブレーキの壊れた騒がし娘は急には止まれない。葉留佳は、箱の上蓋を取ると美魚のほうへと向ける。そこには青く塗装された歪な板が二枚と、まるでミニチュアの飛行機の胴体が入っていた。
「これ、なんだかわかる? ねぇ、わかる?」
「なにっといわれても……三枝さん、サークルって漫研じゃありませんでしたか? これ何かのプラモデルに見えるのですが?」
「ふっふーん、美魚ちんは情報が古いなぁ。漫研? あんなとこ、やめましたヨ」
「……また、ですか?」
 美魚は葉留佳の言葉を聴いて、ため息を零す。彼女の記憶の限り葉留佳がサークルを変えるのは、これで10度目だった。
「だってさー。面白くないんだもん。私が折角フレンドリィに接してるのにさぁ。あそこの人たちはさぁ」
 また美魚はため息を付いた。葉留佳は性格が災いしてか、人とソリが合わないことが多かった。それはサークル以外、教室などでも同じだった。まだ美魚が学校に通っていた頃、昼時に一人でご飯を食べる葉留佳の姿を何度も見ていた。
「今度入ったサークルは、模型関係か何かですか?」
「そうそう。RCグライダー愛好会っていうサークルなんですヨ」
「グライダー、というとハンググライダーですか? RC?」
「ラジコンのグライダーってことですヨ。お、美魚ちん、もしかして興味あり?」
「はぁ……」
 呟きながらいつかテレビでみたグライダーの映像を思い出す。青い空を滑空する大きな翼。どこまでも続く青の切れ間を風に乗り飛んでいく。まるで鳥のように。ドキリと胸が一度高鳴った。美魚の中に忘れかけていた情景が去来する。気が付けば「そうですね」と呟いていた。
「ホント? いやー、よかったよかった。これ美魚ちんと一緒に作ろうと思ってさ」
「わたしと、ですか? どうして?」
「ヒッキーな美魚ちんは、どうせ暇してるだろうと思ったからですヨ」
「大きなお世話です」
「まぁまぁ。んでさ、これで面白かったら同じサークルに入ろうよ」
「というより、わたしは興味があると言っただけです。勝手に作る方向に話を進めないで下さい」
「え、作らないの?」
 不思議そうに首を傾げる葉留佳を見て、美魚は口を噤む。先ほど思い出した情景が美魚の心の奥にこびり付いていた。まぁ、時間は一杯ありますしね。
「……作ります」





 数日後、ディスプレイに写る文字の群を見て美魚は途方に暮れていた。青や赤など派手な色をしたRCグライダーについて、という文字が画面にデカデカと映し出されている。彼女は、数回瞬きをすると、ふぅと短く息を吐く。手に持っていたA4サイズの紙を眺める。もう何度も見た文字の羅列が変わらずに並んでいた。その紙こそ今、目の前にあるRCグライダーの説明書だった。頭が痛くなってきてこめかみを軽く抑える。書かれている内容が美魚にはさっぱりわからない。説明書に書かれている文字は日本語どころか英語ですらなかった。先ほどとは違う、深いため息が美魚の口から漏れた。
「みーおーちーん。ため息ついてたら幸せが逃げちゃうぞぅ」
 ベッドに寝転がって小説を興味なさ気に捲っている葉留佳が、間延びした声を上げる。ピクリと美魚の片方の眉が僅かに釣りあがった。
「三枝さん。言い出したあなたがサボらないで下さい」
「えー、だって説明書が読めないんだもん」
「だから、こうしてインターネットで調べているんじゃないですか」
「おお、インターネットですか。美魚ちんサイバーですネ」
「三枝さん、あなたいつの時代の人間ですか?」
「えーと、美魚ちんと同じ時代ですヨ? そんなことより、何かわかった?」
「ええ、まぁ……」
「歯切れ悪いなぁ。なんか初心者でも作れるように解説しているところなかったの?」
「あるにはありましたが」
「なんだ。じゃぁ簡単じゃん。部品だってこんなに少ないんだからさ。ぱぱっと出来ちゃいますヨ」
 美魚自身、当初はそう考えていた。パーツ点数の少なさから、それほど高度な技術は必要ないだろうと。しかし、ネットで情報を集めていく内に、見通しが甘かったことを思い知らされた。バランス調整など経験者にしかわからないこともあり、初心者が簡単に作れる代物ではなかった。
「ネットによると、初心者用の簡単なものもあるそうなのですが」
「ああ、そういえばありましたネ」
「……どうしてそれではなく、こちらを持ってきたんですか?」
「だってこっちのがかっこよかったんだもん」
「……今すぐ取り替えてきてください」
「えー、これでいいじゃーん」
「いいもなにも、そもそも作れません」
「むぅ……じゃあさ。一緒に行こうよ」
「嫌です」
「なんでー。同じ大学なんだし、ちょっとぐらいいいじゃん」
「尚更、お断りします」
「そんなこと言わずにさー。久しぶりの学び舎は楽しいぞぉ」
 葉留佳は、ニマニマと口元を緩めて美魚の頬を突付く。それを鬱陶しそうに避けながら、冷たい視線を向けた。執拗に誘ってくる葉留佳に、少しだけ苛ついていた。
「どうして、そう一緒に行きたがるんですか?」
「だって美魚ちん、もう半年以上大学来てないしさ。ここらでサークルだけでも見てみれば、来る気になるかなぁって思ったのですヨ」
「なりません。行くなら一人で行ってください。大学で一人なのが寂しいからって、わたしを巻き込まないで下さい」
「……え、えーと、よ、よく聞こえなかったなぁ。おかしいなぁ。耳になにか詰りましたかネ」
 おどけて葉留佳は、耳に指を突っ込む。顔は笑っているが、引きつったようにぎこちなかった。美魚の心の中に、もぞりと悪戯心が沸き立つ。
「大学で友達がいなくて寂しいからって、わたしと大学生活を送りたいだなんて思わないで下さいと言ったんです」
 美魚はニヤリと小さくほくそ笑む。美魚ちん、ひどっ! そんな風に目を見開いて抗議してくる葉留佳の様子がありありと想像できて更に口元を緩めた。だが、意に反して葉留佳は何も言ってこない。ただ顔を伏せたままで、その場に佇んでいた。「……るさい」やがて小さく聞き取れないほどの声が室内に響いた。
「うるさい! 私は、私はただ美魚ちゃんのこと思って……」
「さ、三枝、さん?」
 突然、激高し始めた葉留佳を見て、美魚は目を丸くする。その様子さえ癪に障ったのか、葉留佳は肩を震わせながら怒鳴った。
「ああ、そうですネ。私は友達いないよ。でもさ、あんたに言われる筋合いないよ。ずっと引きこもって。こんなことなら、あの世界であの子と変わったままのほうがよかったんじゃない?」
 その言葉を聴いて、まるで激鉄を落としたような鈍い音が彼女の頭の中で鳴る。ザワザワと心が粟立つ。美魚は、ぎゅっと唇をかみ締めた。
「あの子のことを、そんな風にいわないで下さい」
「あ、何怒ったの? でもさー。一番浮かばれないのは、あの子だよね。態々現れて肩を押してハッピーエンドだったのに。それが今では引篭もりだなんてさ」
 葉留佳は、美魚のことを嘲る様に口元を吊り上げると、ケタケタと笑い出した。頭に血が上っていき、美魚から冷静な思考を奪っていく。今まで言わないでいた言葉を分別無く吐き出そうと唇が動く。心の中にいる美魚が「あなたらしくないですよ」と言ってくるが、もう止められなかった。
「言ってくれますね。でしたらお聞きしますが、わたしのことを思ってといいましたがホントにそうですか?」
「どういう意味?」
「自分が一人ぼっちなのが嫌だから手近なわたしを友達の代用品にしようとしただけなんじゃないんですか? 誰でも良かった。ただ近いところにいた知人のわたしに目をつけただけ、違いますか?」
「そんなこと……」
 ない。たしかに口はその発音を形作ったが、言葉として発せられることはなかった。葉留佳は、断言できなかった自分に対して悔しそうに唇を噛んだ。
「図星でしたか? それでわたしのため、ですか? よく言えましたね。三枝さん、あなたの考えはとても傲慢で利己的です」
 葉留佳のことを嘲るかのように口元を吊り上げる。葉留佳の手の平は血が滲みそうなぐらいきつく握られていた。美魚はマグマのように湧き上がる激しい感情を押し殺した声で葉留佳に投げつけた。それは驚くぐらい冷たいものだった。
「自分のことしか考えてない癖に、ただ大学前から知り合いというだけで友達面しないで下さい」
「……──っ!?」
 葉留佳は目を見開くと、弾かれたように手近にあったRCグライダーの箱を手に取った。それを美魚へと投げつけようと振りかざす。美魚は反射的にギュッと目を瞑った。けれど一向に何かがぶつけられる感触は襲ってこなかった。恐る恐る美魚は瞼を上げる。そこには瞳に涙を溜めた葉留佳がいた。葉留佳は唇を震わせながら美魚のことを一瞥した後、くるりと振り返り駆け出した。バタンっというドアの乱暴にしまる音が聞こえてくる。呆然と美魚は、葉留佳のいた場所を見詰める。そこにはRCグライダーのパーツが散らばっていた。美魚はなんとはなしにそれを拾い上げる。手が小刻みに震えていた。部屋には、ただパソコンのファンが廻る低い音だけが響いていた。静けさが堪らなくて美魚は、すがる様に辺りを見回した。見慣れすぎた部屋は色彩が抜けたように空ろだった。それが自分の閉じた唯一のスペースだということが更に美魚の胸を詰らせた。
 ふいに美魚の頭の中に映像が浮かぶ。自分のことを呆れたような目で見つめる複数の瞳。少しは空気読んだら? という嘲るような友人達の言葉。美魚は奥歯をかみ締める。西園美魚は、一般常識は人並み以上に持ち合わせているが、少し前まで人付き合いを避けてきたため人の心の機微に疎かった。端的に言えば空気が読めなかった。そんな美魚にとって不幸だったのはリトルバスターズのメンバーがあまりに優しすぎたことだった。
 学生時代、妹に後押しされて掴んだ答えが、今揺らいでいる。だから彼女は、また捨て去った。いや、逃げ出したのだ。今の美魚にとってリトルバスターズだけが拠り所だった。自分を自分と認め、受け入れてくれる人たち。
 唐突に先ほどの涙を目に一杯溜めた葉留佳の顔が過ぎった。目をそむけるように美魚はパソコンのディスプレイへと視線を向けた。変わらず写っている極彩色の文字をしばらく眺めた後、彼女は手に持っているパーツを見つめた。作れるかどうかはわからない。けど何かに没頭していたかった。美魚は、散らばったパーツを全て拾い上げるともう一度ディスプレイに浮かんだサイトを一から眺め始めた。 





 美魚は、グライダーを作ることに没頭していた。ネットで情報を収集してはたどたどしい手つきで組み立てていく。睡眠時間はおどろくほど減っていた。寝ようとすると頭の中に先日の葉留佳とのことがちらつき、巧く眠れなかった。美魚は、葉留佳の涙に濡れた瞳を思い出すたびに頭を振って手を動かし続けた。そのため、作業は初心者とは思えないペースで進んでいた。
 ある日の深夜、美魚は胴体部にモータを入れるスペースを削って作っている時、誤って手を切ってしまった。白い指の先からぷっくりと浮き出た赤い雫を口に含む。鉄の味が口内に充満して彼女は顔を歪めた。部屋の隅にある小物入れから絆創膏を取り出すと患部に巻いていく。ふと、誰かに見られているような視線を感じた。美魚はカーテンを開けると、周りを見渡した。外灯の弱い光に見える範囲には人影は見えなかった。美魚は頭を軽く振ると、カーテンを閉める。それと同時に電柱の影から女性が姿を現した。口元は何かを我慢しているかのようにきゅっと結ばれていた。女性は何も言わずただ明かりの点った部屋を見詰め続ける。手に持ったコンビニの袋と、特徴的なツーテールが夜風に揺れていた。





 どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。空は白み初め、未だ残った深い藍色を半分だけ顔を覗かせた太陽がかき消し始めていた。町のほぼ中央部にある河川敷に美魚はいた。隣には数時間前に完成したばかりのグライダーがひっそりと置かれていた。これまでの苦闘を表すように美魚の両手にはいくつもの絆創膏が張られていた。グライダーはひどく不恰好だった。幾重にも傷が入った胴体部。塗装が所々剥げ落ちた両翼。美しくないです。彼女は朦朧とした頭で、そう思った。拙い手つきで最終チェックをすませるとグライダーを持ち上げようとする。その時、後ろのほうからがさりと雑草を踏みしめる音が聞こえてきた。そこには、憮然とした表情をした葉留佳がいた。喉元に固形物を突っ込まれたような苦しさを美魚は感じる。葉留佳は何か言いたげに美魚をしばらく見詰めていた。目元の周りに色濃く浮き出た黒いくまが出来ていた。
「それ」葉留佳はぶっきら棒に美魚の手の中にあるグライダーを指差す。「持ってきたの私だから」
「……え?」
「だからそれ私が持ってきたんですヨ! だったら私のじゃん!」
「でも作ったのはわたしですよ」
「そんなの関係ないですヨ!」
 二人とも言いたいことがあるのに口から出る言葉は、まったく別のものだった。言いたいことを素直にいえるほど彼女達は子供ではないし、折り合いをつけられる大人でもない。やがて無意味な所有権争いに飽きたのか葉留佳は「わかった」と短く呟いた。
「じゃぁ見てる」
「はぁ……そうですか。それはどうぞ、ご自由に」
「別に美魚ちゃんの承諾なんて求めてないですヨ!」
 葉留佳は口を尖らせて不平の声を上げながら、美魚から2mぐらい離れた場所まで歩いてきた。そちらを一瞥して美魚は一度、深呼吸をする。そしてグライダーを掲げあげた。両翼の長さが自分の腕を伸ばした状態ぐらいまであるグライダーを不恰好に抱えながら美魚は、助走をつける。適度にスピードが載った所でグライダーを投げ放つ。
 歪なグライダーは風に乗ってゆっくりと高度を上昇させ始めた。美魚はそれを確認して信じられないという風に目を見開いた。横から「おお!」という葉留佳の感嘆の声が聞こえてきた。グライダーはグングンと高度を上昇させていく。二人はその光景を心を奪われたように、見詰め続けていた。太陽はもう既に、その姿をほとんど出し空は藍から青へと変わろうとしていた。その只中を飛ぶ青色のグライダー。それはまるで空へと溶け込むような、同調するような感慨を抱かせた。
 だがその同調はふいに崩れた。唐突に安定していた両翼がガクンっと揺れた。すぐにグライダーは墜落するかのように高度をグングンと下げ始めた。それを見て美魚はあることを失念していたことに気づいた。彼女は脇に下げていた黒い箱型──RCグライダーの送信機を手に取るとレバーを動かす。
「あれ? えっと……これは?」
「ちょ! なにやってんの美魚ちん。落ちてる。落ちてますヨ!」
「わかってます。わかってますけど……」
 落下するグライダーと送信機を交互に見ながら、美魚は忙しなく手を動かす。けれどグライダーが機首を持ち上げることはなく、グングンと地面へと近づいていく。ふいに美魚の眼前ににゅっと手が現れた。
「あー、もう美魚ちん貸して。私がやりますヨ!」
「やりますも何も三枝さんは、どういう風にやるか知らないじゃないですか!」
「こういうのはフィーリングですよ。フィーリング!」
「フィーリングで、なんとかなるならとっくになんとかなってます!」
「美魚ちんじゃ無理! だって機械音痴じゃん!」
「インターネットをサイバーとか言った人に言われたくありません!」
 やいのやいのと体を密着させながら二人は騒ぐ。そんな二人の視界に落下を続けるグライダーが映った。美魚は体を強張らせる。元々、巧く飛行するとは思ってなかった。不恰好で、なんとか形を取り繕っただけの物が成功するなんて思ってなかった。けれど、それでも美魚は強く思った。飛んでほしいと。その想いが彼女の口から零れ出ようと唇を振るわせる。だがそれより一瞬早く、隣から「飛んでよ!」という切迫した声が聞こえてきた。そこには何故か泣き出しそうに顔を歪めた葉留佳がいた。
「あんたは飛ぶために出来たんでしょ。少しぐらい変な形だからってなんだ。あー、もうなんだっていいから飛べー!」
 落下していくグライダーが葉留佳にはどう見えたのか。あるいは大学で一人きりの自分に重なって見えたのかもしれない。彼女は叫んでいた。その声に紛れてカチャリと軽い音が手元でなるのを美魚は聞いた。送信機の中央部にあった赤いボタンを二人の親指が重なり合って押していた。「あ」美魚の口から短い声が漏れた。同時に落下を続けていたグライダーがグンっと唐突に機首を上げた。そのまま上昇を始める。
「……飛んだ。美魚ちん、飛んだ。飛びましたヨ!」
 葉留佳が青の中へと向かっていくグライダーを指しながら興奮した声を上げる。美魚はバツの悪そうな顔をして口をヘの字に曲げた。
「……忘れてました」
「え、何を?」
「このグライダーは一定高度に到達したらこのボタンを押して、ホバリングさせないといけませんでした」
「は?」
 言っていることが理解できなかったのか、葉留佳は首を傾げる。
「えーと、つまり墜落しそうになったのは、このボタンを押してなかったから?」
「はい」
「じゃぁ、えっとこう、わたしの青春まっしぐらな声を聞いて飛んだとか、そんなどらまちっくなことが起こったとかでは?」
「ありませんね」
 二人の間にいいようのない雰囲気が流れた。どこからか列車の走る音が聞こえてきた。ランニングをしていた中年の男性が見詰め合っている二人に訝し気な視線を投げかけていく。ふいに美魚は可笑しくなってクスリと噴出した。釣られるように葉留佳も口元を緩めた。そのままクスクスと二人で笑う。二人の笑い声が、朝日へと吸い込まれていく。空には上ったばかりの太陽の光の中を旋回するグライダー。美魚はそれを見上げた。空へと溶け込むように飛行するグライダー。けれどそれは光を受けてみれば全然、溶け込んでない。無数についた傷が、歪な胴体が、同じ青の中にあってその存在を浮き彫りにしていた。太陽の光線を受けて幾重にも入った傷が様々な角度から反射する。美魚は、それを美しいと思った。そんな彼女の耳に「あのさ」という歯切れの悪い葉留佳の声が届いた。葉留佳はグライダーを眺めたまま、言いづらそうに口をモゴモゴとさせる。そんな葉留佳の様子を隣で感じて美魚はクスリと笑った。
 あの日美魚が葉留佳に言った言葉はどうしようもないほど間違ってない。傲慢で利己的。そう言った美魚自身にもそれは当てはまる。きっと誰も彼もがそういう部分を持っている。友情と言う綺麗な言葉で装飾したものの実はそんなものでしかないのかもしれない。けれど、見方を変えてみればそれは綺麗に輝く瞬間がきっとある。

 例えば葉留佳のことを考えて睡眠不足になった美魚のように。
 例えば美魚の様子が気になっていつも部屋の電気が消えるまで、外で見ていた葉留佳のように。
 例えば美魚と葉留佳、二人が同じことを思った一瞬があったように。

 それは共感ともいえない小さな繋がり。おそらくは錯覚。けれど美魚はその錯覚を素敵だと思った。尚も言いづらそうに口ごもっている葉留佳のことを見る。所在なさ気に葉留佳は手を小さく振っていた。美魚はその手を掴もうと腕をピクリと動かした。だが、そんなことをするのは自分達らしくないように感じ、手を引っ込める。この騒がし娘が親友と言われれば、やっぱり否定する。それでも美魚は、今、葉留佳が隣にいることを、少しだけ嬉しいと思った。
「今日、一限の授業なんでしたっけ? ……葉留佳」
 その唐突すぎる言葉に葉留佳は、首が音を立てそうなほど勢いよく顔を向けた。気づいているのに美魚は尚もグライダーを見詰め続ける。その頬は仄かに赤いようにも見えた。
「え、えっと、たしか……なんだったっけ?」
「……使えない人ですね」
「まってまって。大丈夫。うん、教科書とか私の見ればいいし! ていうか美魚ちん、さっき私のことなんて呼んだ? ねぇ、なんて呼んだ?」
 美魚は嬉々とした声で尋ねてくる葉留佳に、「さぁ」とそっけなく応えた。葉留佳が不満そうに声を上げる。それを聞きながら美魚は、空の青に交わらない歪な青を見た。自分は自分だと言い切ることはまだ出来ない。引きこもりを脱出できるかもわからない。それでも、きっと。
 後ろでぎゃあぎゃあ騒いでいる葉留佳がいれば、退屈だけはしないだろう。
 そう思って、美魚は口元を綻ばせた。

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