たった一つの本当の嘘       雨音



「ごめん、沙耶。やっぱり僕は、ちっちゃい女の子が好きなんだ!」
 フラれた。

 校舎裏への呼び出しがあったのが三十分前、「また野外か」とワクワクしながら待っていた時間はもう戻ってこない。あんまりにもあんまりな別れの言葉だった。
 は? 今の何? 何だったの?
 全身をセメントで固められたように、指一本動かせなかった。
「そんな貴女にこの一品。どんな年増でも瞬く間に幼女へと変貌出来てしまう魔法のキャンディーです」
「げぇっ、西園さん! その格好はなに?」
「野生の喪黒福造です」
「いや、あいつは最初から野生だと思うけど……」
 胡散臭い真っ黒なスーツ姿の彼女の手には赤いキャンディーがあった。
 どうやらそれが幼女へと変身する魔法のキャンディーらしい。
 恐る恐る指を伸ばして持ち上げてみるが、見た目には普通の飴と変わらない。
「安心してください。着色料及び添加物は一切使用していません」
「け、健康食品みたいな売り文句ね?」
 とはいえ、その鮮烈な赤色は明らかに自然のものではない。
 胡散臭さここに極まれりといった感じだ。
「なんでキャンディーなのよ?」
「幼女に変身するといったらこれでしょう」
「そうかもしれないけど、何か無性に怪しいんだけど」
 顔を顰めながら太陽にかざしてみると、不思議なほど透き通って輝いていた。星のような無数の影が丸い球面の内側に散っている。宇宙を外側から眺めているような印象だ。いったいどういう製法なのか。
 吸い寄せられるように、と言ったら変かもしれないが、本来中心に居るはずのあたしが寄っていく形でキャンディーは口の中に納まっていた。固まっていたはずのそれは、まるで砂糖のように溶けて喉へと落ちていく。強烈な渋みと酸味が舌を襲い吐き出しそうになったけど、何とか飲み込む事が出来た。
「げぇっ、ぐげええっ!」
「とても女性とは思えない嗚咽っぷりですね」
「何味? これ、何味なのっ!?」
「それはともかく、ご自身の身体を確認してください」
 こちらの質問をさらりとかわされてしまった。
 だが、とりあえず嘘はなかったらしい。
「な、なるほど。確かに幼女だわ」
 瞬く間に身体がしぼみ、気付けばそこに居たのは、記憶にあるものと変わらぬ幼い頃の自分そのものだった。胸に手を当ててみても、何の感触もない。それがちょっとだけ寂しく思えたが、愛の力で振り払った。
「これで理樹くんもイチコロね!」
 幼くなってしまった諸問題を忘れ、あたしは理樹くんを探した。もしかしたら狩人の目になっていたかもしれないが、止むを得ない話だろう。あんな別れ方、許せるはずがない。どんな別れ方なら良いのかって聞かれても答えられないけれど、少なくとも地球上に存在する中であれは最悪の部類だろう。
 
 だから、こんな間抜けな姿になってみたのだが。
「凄い! 凄いよ、沙耶!」
「……ありがとう」
 この歓喜極まった彼の姿に軽く絶望した。
 だってこっちは幼女の姿なのだ。
 目の端に感涙さえ輝いて見える理樹くんに引いてしまうのも仕方がないと思う。
「絶妙な膨らみ加減だ! 揉めるほどじゃないけど、確かな柔らかさを感じるぞ。手のひらでこね回すには丁度良い感触だ。更にどうした事だろう! この先端部にも眼を見張るものがあるね。鮮やかなサクランボ色じゃあないか。しかも通常時は陥没しているときた! 蕾が開花するように、徐々に膨らみ浮き上がってくる陥没乳首! それは少女の健気な性感を如実に示すものであり、羞恥に染まる頬の彩りを添えればまさに至高のペタおっぱいと言えるよ!」
「……うん」
「更に更に……うん! 下も見事なパイパンだよ! 触れただけでは気付かない、しかし頬でなぞれば気付く程度の柔らかな産毛。黒々とした毛穴など何処にも見えない、剃っただけではこうはならないんだよね〜。究極のツルマンだと言わざるを得ないな!」
「そう……って、スカート捲るなパンツ下ろすな!」
 油断しているとすぐこれだ。
 主にセクハラ行為に関して理樹くんは間違いなく歴戦の傭兵さえ敵わない領域に到達しているだろう。きっとあたしが気付かない内にも色々されているに違いない。別にあたしが隙だらけというわけではない。
 別種の怖れを抱きながら距離をとるように一歩下がると、すぐさま抱きしめられた。
「沙耶、君は最高の幼女だよ」
 その言い方はともかくとして。
 愛する男に優しく抱かれて喜ばない女は居ない。釈然としない諸々の問題点は空の彼方に消え、身体から力が抜けていく。脳みそが真っ白になってピンク色の湯気が出ているようだった。う〜ん、これが惚れた弱みというものなのだろうか。
「あたしと、一緒に居てくれる?」
 自分でも驚くほど甘い声が出た。
「もちろんだとも!」
「本当?」
「沙耶に嘘は吐かないよ」
「嬉しい。良いわよ」
「待って、沙耶。そこは是非、『お兄ちゃんになら、良いよ』って言って」
「……お、お兄ちゃんになら、良いよ」
 あたし達は翌朝まで変形合体を繰り返した。

 キャンディーの効果は直ぐには切れなかった。
 翌日も、そのまた翌日になってもあたしは幼女の姿で居た。
 考えてみれば、どうすれば元に戻るのか聞いていない。少しだけ気になっていたが、西園さんの姿を見つける事は出来ず、自然と探す事もなくなっていた。
 このままで良いかな、と思い始めていた。
 迷宮探索の日々は変わらない。視点の高さが変わった所為か、短い手足に慣れない所為か苦労はあったが理樹くんと手を繋いで探検するのは楽しかった。
 溢れ返っていた敵の姿は何処にもなくて、命を奪おうとするトラップもない。
「ぎゃあああああっ、ヌルヌルする! すっごいヌルヌルするうっ!」
「幼女の触手プレイ、ハァハァ」
「助けろおおおおおおおおおっ!」
「待って、あと五分!」
「何が? ねぇ、何が五分なの!? って、嫌だ、そこはらめぇ!」
 ……なんか、セクハラじみたトラップばかりなんだけど、これって誰の趣味?
 理樹くんがやけに楽しそうなのが嬉しいけど悲しい。
 なんでこんなの好きになっちゃったんだろう。
 永遠の謎だ。
 色々疲れ果てて外へ出る頃にはすっかり空も白ばんでいて、興奮のなか溶けるように眠り一日が終る。

 だけど、起きてみれば何処にも高揚感がなかった。
 まして今日はいよいよ最下層なのだと思うと、堪らなく胸が痛くなる。
 頬に伝うものを感じて指で掃うと、それは金色に輝く涙だった。
 呆然と、しばし固まっていたように思う。その間、自分が何を考えていたかは分からない。
「どうしちゃったんだろう?」
 ようやく目的の場所に辿り着くというのに。
 うん? ようやく?
 何かが決定的に間違っている気がして、怖れるように銃の手入れを始めた。
 慣れ親しんだ感触が心を落ち着けてくれる事を信じて。
 けれど頭の中に浮かぶのは理樹くんの姿だけだった。別に銃から彼のビッグマグナムを連想したわけじゃない。この指の一本にまで、その感触や温もり、優しさがこびり付いて離れないからだった。
 それを求め暴れ出す感情を抑えながら、理樹くんが来てくれるまで待ち続けた。
 無限にさえ思えるほど長い時間、待っていた。
 心の隙間を埋めるものは彼しかいないから。

 でも、ようやく現れた理樹くんは真っ先にごめん、と謝った。
「鈴の猫が一匹居ないらしいんだ」
「は? そうなの?」
「沙耶は見てない?」
「猫はしょっちゅう見かけるけど、どれかは分からないわね」
 なんでこんなどうでも良い事を話しているんだろう。
 まったくこっちを向かない理樹くんに苛立ちながら、そんな事を考えていた。
「り……お兄ちゃん」
 それがあたし達の合言葉になっていた。
「今日はどんな事、教えてくれるの?」
 迷宮探索は、今日はもう良いや。そんな気分じゃない。
 別に今日でなければならない理由なんてないんだし、明日やれば良いだけの事。
「ごめん、猫を探さないと」
「へ? ちょ、ちょっと、どういう意味?」
「鈴に頼まれてるから。ごめんね」
「そんなの、別に理樹くんじゃなくても良いじゃない。猫なんて放っておいても勝手に帰ってくるでしょ」
「かもしれないけど、やっぱり気になるよ」
「じゃあ、あたしとの約束はどうなるの」
「明日はきっと手伝うから」
「明日じゃ駄目」
「なんで?」
「なんでって、あーうん、そう。なんでも!」
「沙耶、意味が分からないよ。約束を破っちゃうのは、本当にごめん。でも放っておけないんだ」
「そんな……どうして棗さんの事ばかり考えてるのよ! 理樹くんの彼女はあたしでしょ!」
 思わず、叫んでいた。
 あたしと話しながら、視線だけは常に周囲を探っていた彼の仕草が許せなかったから。
 叫んでしまってから、気付く。
 自分の感情の馬鹿馬鹿しさに。
「そう、嫉妬よ。待ってる間にちょっと泣いちゃったりする乙女チックな馬鹿なのよ。一緒に居るためにこんな姿になったのに、猫一匹のために他の子に盗られるなんてさぞや滑稽でしょうね。笑えば良いわ、笑えばいいでしょ! あーっはっはっはっは!」
 悲しげに表情を歪ませている理樹くんが見えた。
 たぶんこの男は少しだって分かっていなかったのだろう。困っている棗鈴を助けるのは彼にとって余りにも自然な反応過ぎて、もしかしたら、なんて全く考えられなかったに違いない。
 いや、これは彼を責めるべきものではないんだ。
 きっと、そういう風に出来ているのだから。
「沙耶……」
 一歩踏み出され、一歩後ろに下がる。
 腕が届く距離に近づかれてしまえば、きっと抱きしめられる。
 抱きしめられたなら、それで全てが解決してしまうだろう。
 それが許せなくて、あたしは機先を制した。
「……もう、良い」
 そんな小さな拒絶にも心が痛い。
 その場から逃げ出し、迷宮に飛び込んだ。

 着地すると同時にそのまま我武者羅に銃を撃つ。
 空気を読んだように溢れ出した影達の動きは緩慢で、良い的だった。
 どれくらい撃ち続けたのかは分からない。無限に出てくる的を走りながら、叫びながら撃つ。
 腕が上がらないほど疲れ果てて乱れた呼吸を落ち着ける頃には、最下層に辿り着いていた。
 そこに、野生の喪黒福造が立っていた。
 黒いスーツ姿は薄暗い通路に溶け込んでいて、仮面を被っているわけでもないのに白い顔は仮面じみて見える。
「……笑いに来たの。それともあたしを殺しに?」
「どちらでもありません」
「そっ、残念。別にやり直したって良かったのに」
 ゲームオーバーになって最初からになったって構わない。
 むしろそちらの方が良かったのに、彼女は別の事を口にした。
「どんな別れ方なら貴女は満足したのでしょう? どんな形での別れなら満足しますか?」
「うるさい」
 銃口を向けて引き金を引く。弾丸は出なかった。
 残弾数を忘れていたのか、そもそも最初から存在しなかったのか。
 諦めて、あたしは笑った。
「分かってる。それがどれだけ理不尽だったとしても、あたしはそれを受け入れなきゃ駄目だったのよね」
 別れという名の終わりは唐突に、そして理不尽に訪れるものだと知っている。
 知ってしまっている。
 あたしは亡霊になってはいけない。
「馬鹿みたい。ちゃんと我慢できるはずだったのに」
「精神は肉体に強い影響を受けます。貴女は貴女の本来の姿をしていたからこそ、貴女自身で居られた。幼さが悪だとは言いませんが、願ってはならない事、求めてはならない事が存在するのだと知り、その上で耐えなければならなかったのです」
「こんな姿にしたのは貴女でしょ!」
「喪黒福造は心の隙間を埋める、けれどそこには必ず落とし穴があるものですよ」
 うんざりするほどの正論だ。
 確かにキャンディーを飲んだのはあたし自身の心を埋めるためで、そして向き合う羽目になったのはあたし自身の本心。むしろ本物よりよっぽど良心的な落とし穴、言うなればただの墓穴だ。ますます笑えてくる。
「理樹くんと一緒に猫探しすれば良かった」
「そうですね。それに耐え続けられるなら、幸福はもう少しだけ続いたかもしれません」
「ハッ、最悪だわ」
 素直にそう思った。
 それはたぶん、お利口さんな彼女達には言えない事。
「仕方がありません。求める事も拒む事も自由ですが、その先には何もありませんよ」
 姿に似合わない真っ直ぐな言葉だった。
 けれどその意味では、あたしの方がより不自然といえるのかもしれない。
 こんなにも真っ直ぐな感情を抱けるなんて思わなかった。
 彼女の言うとおり、引き際を弁えないあたしなんて、ここに居て良いはずがなかったのに。
「誰も同じです。本当の自分では居られない。それぞれが最後の砦として役割を懸命に演じる事でしか、未来は得られない」
「あたしと貴女達とじゃ立場が違うわ」
「もちろんです。ですが、誰も貴女に同情できる立場にいない。その意味では同じです。ずっと一緒に居たい。その本心に、嘘を吐かなければならないんです。むしろ、少しだけではありますが、今の貴女を羨ましいとさえ感じられます」
 少しの間、言葉を躊躇ってからあたしは問いかけた。
「それは、あんたも同じ?」
 振り返るまでもなく、そこに仮面の男が立っている事を知っていた。
 きっと最初から監視していたのだろう。そして何が起こるかも知っていた。
 全部、彼が用意したものだったから。
「散々殺されながら、なかなか諦めようとしないあたしを見て、搦め手できたってわけね。最低だわ」
「謝らないぞ」
「力ずくで土下座させて頭を踏み付けてやりたいわよ」
「踏まれる方が好きなくせに」
「それは理樹くん相手だけよ!」
 意を決して振り返ると、案の定、仮面が浮かんでいる。
 不気味で不愉快なそれが、今だけは妙に似合って見えた。
 その下にある本当の表情よりは、ずっと悪役らしい。
「辛くない?」
 自然と、そんな事を考えていた。
 あたしは亡霊になってはいけない。けど、それは彼らも同じ。
 誰も望んではいけない。望みを抱いても、それを露にしてはいけない。
「なに、覚悟してるさ」
「嘘よ。貴方絶対、最後に泣くわよ」
「……かもしれないな」
 そう答えながらも仮面は揺れない。
 それを強さと呼べるのだろうか。
 あたしには分からなかったがけれど、彼らの覚悟を無視する事は出来ない。
 良いわよ。出てってやるわよ。まだ満足してないけど、仕方が無いし。きっとこれ以上はわがままになる。そしてわがままなあたしは、きっと沢山のものを傷つけてしまう。その中には理樹くんの未来があって、それはあたしが一番大切にしたかったものだから。
 大切にしたいと思えたものだから。
 だから、あたしは嘘を吐く。
 ずっと一緒に居たいよ。
 もっとたくさん触れ合って、長く抱き合って、温もりに包まれて居たい。
 そんな本心に、嘘を吐く。
 ただ一つの、嘘を。
 そして終わりを迎える。
 ううん、終わりへと帰るんだ。
「次が、きっと最後になるんでしょうね」
「かもしれんな」
「精々楽しませてもらうわよ」 
 せめて最後に、ありがとうと言えるように。

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