――お兄ちゃん、って呼んでもいいですか?――
 威力は抜群だった。今は付き合っている。


『まあ、夜空はさておき』       ぶりかま


 やっぱちょっと無謀だったかな……。白い息が夜闇に紛れていくのを眺めながら、声には出さず心中で呟く。八割がた寝袋にくるまった状態でも、手足の末端から冷えてきて、先ほどからしきりに手を擦り合わせていた。彼女は大丈夫だろうか、と隣に寄り添う寝袋を見やると、目の前が湯気で一瞬白く濁る。
「はい、恭介さん。こーしーをどうぞ」
「サンキュ、気が利くな」
 受け取ると、立ちのぼる湯気の量とは裏腹にマグはひんやりしている。手を温める助けにはならないが、その分中は冷めないのだろう。
「ふーふーしてくださいね?」
「わかってるさ。熱ちち……ふーっ、ふーっ」
 言われたそばから火傷しそうになり、慌てて息を吹きかけた。改めて口に含むと、コーヒーとしての自覚をどこかに置き忘れたような味が熱とともに広がっていく。
「甘……」
「ふふっ、ミルクもお砂糖もたーっぷり入れてみました。……ん〜、おいし♪」
 幸せそうにほころぶ横顔を見て、それ以上は何も言わずに熱々の珈琲牛乳を飲む。好みの味では全くない。だが、たっぷりの牛乳と砂糖が内側からじわりじわりと温めてくれるのは悪くない。愛想笑いではない笑みを浮かべて「うまい」と頷けるくらいには。
 珈琲を手に、街の灯りで薄明るい空をじっと見上げる。一際明るい星だけが瞬く夜空に息が昇っていく。もうかなり首が痛い。
「お、八つめ」
 視界の端に引っかかるものがあり、急いで目を向けると消えかけの尾だけは捉まえることが出来た。
「ようやくコツが掴めてきたぜ」
「うぅ、私まだふたつ〜」
 手に持ったカイロを揉みながら小毬がこぼす。流星群という言葉の感じから、雨のようにとまでは言わないものの、もっとまとまって流れると思っていたのに。こんなに見つけにくいとは思っていなかった。予想外だったのはもう一つ、この寒さだ。さっき温まった身体がもう震え始めている。アパートから歩いてこられる、ちょっと小高いだけの丘だと思って舐めていた。昼間は上着もいらないくらいだったのに、こんなでも山の端くれってことを思い知らされた。熱い珈琲はまだたっぷりと残っているが、そう頻繁に頼るわけにもいかない。トイレに行きたくなってしまうからだ。
「オムツでもあればよかったか……」
「お、おむつ!? あ、え、え〜〜〜っ?」
 小毬の顔が冷えとは違う種類の赤さに染まったことで、思ったことが外に漏れていたことに気がついた。
「きょきょきょきょきょ恭介さんのお願いでもそそそそそそれはちょっと」
「待て。早まるな。違うんだ、そういう意味じゃない」
 慌てて訂正するがどうやら耳に入っていない。まずは注意を向けようと肩に手を触れた瞬間「ひあぁ〜ぅぁ〜〜〜?」と腰が砕けるような悲鳴をあげて後ずさった。いや、後ずさろうとした。
「ほわぁっ!?」
 がっ、どべっ、ずさっ! 寝袋にくるまって身動きが不自由な状態だ、身体を半分よじったところで体勢を崩し、顔面から地面に滑り込んだ。下がまだ柔らかい草なのが不幸中の幸いだった。
「うぅ、いたひ……」
「大丈夫か?」
 鼻を押さえたまま起き上がれない小毬を抱き起こす。良く見れば枯れ草が髪に盛大に絡み付いていた。咄嗟のことでここまで被害を拡大できるのは彼女の才能だと思っている。さすがに細かい欠片までは見えないが、目立つものは払ってやる。そして忘れないうちに訂正しておく。
「いいか、俺がオムツと口走ったのは、寝袋にくるまったままだとトイレに行きづらいからだ。決して赤ちゃんプレイがしたいとかさせたいという気持ちからじゃない。俺はいたってノーマルだ」
「……。う、うわぁ、恥ずかしぃぃ……」
 恥ずかしさから小毬が顔を隠して縮こまっていく。別に彼女の羞恥を煽って悦ぶような趣味はないのだが、勘違いを放っておくと後々思いもよらないダメージを受けるのだ。小毬と付き合うときも、自分に幼女趣味がないことを納得させるのに一週間かかった。
 そういえば付き合い始めてからは呼んでくれなくなったな。
『お、おにいちゃん。今まで世話になった……ありがとう』
 鈴がいかにも見よう見まねといった風の挨拶をしたのが嫁ぐ日の前夜。もちろん号泣した。その晩は思い出の詰まったアルバムと共に一人飲み明かし、翌日から一週間は抜け殻になっていた。結婚式? ああ、そんなのもあったらしい。知るか。そんなときだった。
『私、大好きだったお兄ちゃんがいたんです。ずっと前にいなくなっちゃいましたけど……。恭介さん、全然似てないけど、何となくお兄ちゃんに似てるんです。だから――』
 それから、お兄ちゃん、お兄ちゃんと本当の妹のように慕ってくれるようになった。そんな小毬にほだされ、付き合い始めてからもう三年。そういえば一度もお兄ちゃんと呼ばれていない。
「なあ小毬。お兄ちゃんて呼んでくれないか?」
「ふぇ、どうして?」
 話題の転換についていけなかったのか、きょとんとした顔で聞き返す。身体ごと向き直って、真面目な顔で続けた。
「どうしてもだ」
 じっと目を見つめながら、思いを込めて言ったんだから誠意は伝わっただろう。小毬は唇に指を当てて「ん〜」と唸ってから顔を上げた。
「だめです♪」
「なんでだっ!」
 ビックリだ。一点の曇りもない笑顔で言い切られた。
「だって、恭介さんは恭介さんだし……。今あなたは、私のコイビト。のっとぶらざー」
 おわかり? と首を傾げるしぐさが可愛らしくも小憎らしい。ああ、何てこった。恋人同士でいる限り、もう二度と兄と呼んではくれないのか……。
「しょうがない人ですね〜。恭介さんにはもう可愛い妹さんがいるのに」
 拗ねて俯いた頭を撫でる様は妹というよりも姉のようで、けれど少し癒された気分になるのが情けない。
「あんなの妹じゃ……生意気だわ、がさつだわ、乱暴だわ、馬鹿呼ばわりするわで」
「ふふっ、素直じゃないですね〜。ほんとは……あ、みっつめ。見つけました♪」
 急いで見上げてもそこにはもう何もない。視線を戻すと小毬と目が合った。薄闇の中で、濡れたような瞳を細めて微笑を浮かべた。
「鈴ちゃんのために願い星、探しましょう? もっといっぱい、いーっぱい」
 頷いて、手のひらをそっと小毬の手に重ねる。小毬が指を絡めてくる。そして互いにしっかりと握り合わせた手のひらから温もりを分け合った。そう、別に不満とかそういうことではないのだ。ただ無くしたものを惜しんだだけで。
「待てよ? 恋人同士じゃなくなればまたお兄ちゃんと呼――」
「きょう、すけ、さぁん?」
 みしり、と指が悲鳴をあげた。

 空が紫色に染まっている。流れ星は、合わせて六十を数えた辺りで二人ともウトウトし始めて、後は抱き合うようにして寒さをしのいでいた。小毬はまだ寝息を立てている。寝かせておいてやりたいが、風を引かせたくもない。声を掛けようとしたところで、突然軽快な音楽が鳴り響いた。
「ほわぁっ!? な、なになににゃに〜?」
「悪い、俺のだ」
 鞄に突っ込んでおいた携帯電話が、特攻野郎Aチームのテーマを震えながらがなり立てていた。発信者は直枝理樹。
「俺だ。大丈夫だ、起きてた」
 電波の向こうの理樹の声は弾んでいて、少し震えていた。心配そうに覗き込む小毬に、たった今聞いたことを伝えてやる。
「3556グラム。元気な男の子だ」
 うわぁ、と顔をほころばせ、そのままいきなりぼろぼろと泣き出した小毬に携帯を押し付けて、寝袋から抜け出した。背骨がぼきぼきと窮屈を強いられたことへ不満をこぼす。小毬はしきりによかったね、と繰り返しながら時折鼻をかんでいた。
 街の端が光に沈む。もう星は見えない。ゆっくりと朝が始まっていく。
 電話を終えた小毬が隣に並んで悪戯っぽく囁いた。
――おめでとう、お・じ・さん♪――
 一気に老け込んだ気分だ。

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