二人きりの僕らに雨の音は聞こえない。     海老



 鈴が随分と久しぶりに猫を拾ってきた。数日降り続いている雨の音が、こつこつとやたらに窓を叩いて煩い日だった。
 アパートで二人暮らしを始めてからは、これが最初の拾い猫だった。今まで見た中でもかなり小柄な猫で、名前はまぁくん。鈴が付けたにしてはおとなしい名前なのは、みゃうともにゃーとも鳴かず、まぁとしか言わないからというところに理由があるらしい。「へぇ」と、とりあえず反応しておいて覗き込んでみた体よりも更に小さなまぁくんの瞳は、澄んだ青色をしていた。そういえばこのアパート、ペットって大丈夫だったろうか。
「本当に、『まぁ』としか言わないんだぞ」
 なあ、と鈴が話を振ってもまぁくんの方は返事をよこさなかった。若干ムキになったように鈴は名前を連呼するが、やはり反応はない。猫よりもよっぽど鈴の方がまぁまぁ鳴いている。
 話によると、街路樹の近くで力なく雨に打たれていたのを連れてきたらしく、まぁくんはもちろん、傘を投げ捨ててまぁくんを抱いて走り帰ってきた鈴も、この上ないほどの濡れ鼠だった。冬だったならば間違いなく、風邪を引いていただろう。
「あれだな。水もしたたるいい女っていうやつだろ?」と、僕の持ってきたタオルで頭とマー君を拭きながら、鈴は言った。「いい女には雨が勝手に寄ってくるから困る」
「はいはい」適当に相づちを打つ。
「どうでもいいけど、鈴、タオルで拭くだけじゃなくて早いとこシャワー浴びた方がいいと思うよ」
「何だ。理樹は、食事とお風呂とわたしだったらお風呂のタイプなのか」
 咳き込むように吹き出した。変なところに空気が入って息苦しい。
「鈴、ごめん。それ誰に吹き込まれたの?」
「同じゼミの奴らが何か言ってた。っていうか、最後の『わたし』って意味わからんな」
「意味もよくわからないのに使わないように。あ、たぶん、お風呂沸いてるから」
 Tシャツが雨で張り付いていて、ボディラインくっきり、水色の下着うっすらで目のやり場に困る、とは言わないことにしておく。
 一通り拭き終わったのか、鈴は埋めていたタオルからまぁくんの顔だけだし、「お前も来るか?」とお風呂の方を指さしながら訊いた。まぁくんはにゃあともまぁーとも言わず、タオルから飛び跳ねるように抜け出し、部屋の隅へと脱兎の如き逃走。
「なんだお前、お風呂嫌いなのか。……そうか、シャワー怖いのか」
「え、鈴、会話成立してるの?」
「仕方ないな。あたしがお風呂あがったら、ドライヤーとグルーミング地獄だからな。覚悟しとくんだぞ」
 思いっきり問いかけは無視される。見ていた限りまぁくんの表情や行動は、鈴との会話中は微動だにしておらず、コミュニケーションを図れるようなものは何もなかった気がした。僕にはそもそも猫の表情やら何やらはわかりっこないが、猫の道を歩いて長い鈴なら出来てしまうのかもしれないと、自分勝手に納得する。しっかりと質問したのに説明はないのだから、仕方がない。
「あ、それと」
 がらり、と戸の開く音がして、鈴が顔と薄い肌色の肩だけを覗かせた。服を脱いだらしく、それ以上は顔を出せないらしい。
「理樹、まぁくんにホットミルクつくっておいてやってくれ」
 言い残されたのはそれだけで、がらがらっと勢いよく戸が閉まる。数秒遅れて思わずため息。
「……だってさ?」
 相変わらず部屋の隅に逃げたままのまぁくんに近づき、少し話しかけてみる。
「そういえば、本当に『まぁー』なんて鳴くの?」
 手を伸ばして撫でようとしてみる。まぁくんはやはりみゃあともまぁーとも鳴かずに、ただ――僕の右手に噛みついた。がぶりんちょ、とか気持ちのいい音が聞こえそうな勢いだった。左右にぶらぶらすると噛みついたままの姿勢でまぁくんぶらぶら。甘噛みではない激痛を感じるのを忘れるくらい、漫画のような光景だった。ぶらぶら。ぶらん、ぶらぶら。
 動きは面白いのだけれど、痛みがシャレになってない。
 結局、引きはがすことも振り払うことも何も出来ないままでいると、ぶら下がっているのが疲れたのか、それとも僕の手はおいしくなかったのか、まぁくんの方から勝手に噛むのをやめて離れていった。
 卓袱台の上にちょこんと座ったまぁくんと正対する。
「ホットミルク、好き?」
 まぁー。


 ◇◆◇


 がしゃん。
 鈴がドアを開け放つ音では、間違いなくなかった。一瞬シンクの中を見て、そこに音の原因がないことを確認する。硝子や、鏡の割れる、高く澄んだ音色。
 ホットミルクの火を止め、後ろを振り返り見る。卓袱台の上にポカリスウェットを入れたまま乗せておいたはずのコップが床に落ち、中身を全てぶちまけていた。点々と落ちるポカリスウェットが、運悪く真下にあった、鈴のお気に入りである猫まだらクッションに染みこんでゆく。
 ――まぁくんの仕業だろう。
 そこまでの予想は正しかった。猫の理解不足から起きた偶然の事故で僕には何の非もないのに、ポカリを出しっぱなしにしていたのは理樹の責任だ、と鈴は文句を付けてくるだろうという予測も、きっと、正しかった。
 けれど。
 ぐったりとテーブルの上にうつぶせになるまぁくんの姿までは、予想の範囲に収まるはずもなかった。
「鈴っ!!」
 ちょうど出てきたところだったのだろう。つやつやと湿り気を帯びた髪を乾かしながら、鈴の目がすっと丸くなり、時が止まる。


 ◆◇◆


 雨の中傘も差さず、まぁくんを抱いた鈴を自転車の後ろに、全速力で近くの動物病院へと向かった。あまり運動していなかったせいか、足の筋肉がすぐに弱音をこぼしてくる。
 それでも、そんな弱音をいちいち聞き入れていられる状況じゃなかった。そもそも、筋肉じゃなく僕自身だって、息切れやら雨のせいでやたらに悪い視界に今すぐにでも音をあげたくなる。以前なら自分が漕がずとも、チェーンを壊す勢いで自転車を漕いでくれる人がいて、二人乗りをしてペダルを踏んだことなんてほとんど無かったのだから。
 目的地までの道のりがうろ覚えの僕に向けて、背中から鈴の指令が飛んでくる。右、左、しばらくまっすぐ行って、左、そこ右に曲がって、後はまっすぐ――
 たどり着いたと同時に、鈴が自転車を文字通りに飛び降り、中へと駆け込んでゆく。僕もすぐ後に続く。
 幸いなのか、病院の中には診察待ちをしているらしき人とペットの姿は全くなかった。きょろりと視線を回し、すでに説明を終えたらしい鈴が、更に奥の診療室へと入っていくの見つける。鈴の隣に追いつき、一緒に奥へと進む。
 医師からの質問、それに対する受け答え、まぁくんについての諸々のことは、全て鈴が説明していた。鈴はやはり猫についてはいろいろと知識があるらしく、診察が終わった後にも僕にはわからない単語を並べながら医師と会話をしていた。
 そんな言葉の応酬の中から僕にわかったことは一つだけで、少なくとも、二、三日の入院は必要だが、まぁくんは命に障る状況には置かれていないということだった。詳しく検査するとひょっとすると違うのかもしれないが、状況を訊く限り、極度の衰弱か何かが原因だろう、と曖昧に医師は答えていた。


 ◇◆◇


 往路では気がつかなかったけれど、道はずっと意識しなければ気づかないくらいの軽い傾斜になっていたらしい。ますます多くの弱音を吐く足に鞭を入れて、何とかアパートの前までたどり着く。玄関のドアを開け放った時には、ほんの数時間前に鈴が帰ってきた時と同じように、二人とも濡れ濡れにぬれきった濡れ鼠だった。
「鈴。またになるけど、先、お風呂に入っちゃいなよ」
 火にかけられていた時のままに置かれていたホットミルクは冷め切ってはおらず、言うなれば猫舌にはちょうどいいような温度になっていた。卓袱台の前に座り込んで動く気配のない鈴にタオルを被せ、ホットミルクを二人分テーブルに運ぶ。
「そういえば」
 ホットミルクを見てふと思い出したことを、そのまま口にする。
「まぁくんにさ、ホットミルクを作る前に思いっきり噛みつかれたよ。何か、身動きとれないくらいの噛みっぷりでさ。ほら、まだ跡も残ってる」
 きれいに弧を描いた口の跡が、右手の表裏どちらにも残っていた。はい、と鈴にホットミルクを手渡すと、鈴は右手でそれを受け取り、ん、と左手が僕の目の前に差し出される。
 そこにはあったのは、僕の右手に残されたものと全く同じ噛み跡だった。
「あいつな、たぶん、すっごい人のこと怖いんだ。だから、理樹、ありがとう」
「え?」
 脈絡がなさ過ぎて、何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。詳しく聞き返してみると、噛みつかれてもまぁくんを振り払わなかったことについての感謝らしい。驚きすぎて反応できなかっただけのことなのだけれど、それでも、きっと安心したから、と鈴は呟いた。
「実はな、まぁくんを街路樹の近くで拾ったっていうのな、嘘なんだ」
「そう、だったんだ」
 少し押し黙り、「ああ、そうなんだ」と小さく頷いて、鈴はまた言葉を紡いだ。
「家の近くに、あんま人気のない空き地あるだろ?」
「近道の途中にあるやつ?」
 この家に帰ってくるときの道のりで、徒歩の時に近道として使ってる道に、そんな空き地があることを思い出した。「たぶん、そこだな」と鈴が言葉を続ける。
「それで今日そこを通った時に、『まぁー』っていう変な声を聞いたんだ。雨の音でよくわかりにくかったけど、人気がなかったから、何とか聞こえた」
 一度だけ聞くことの出来た、あの不思議な鳴き声を思い出す。鈴はホットミルクを口に運び、一つ間をとった。
「……理樹。火って、怖いと思うか?」
「それは、まあ、うん」
「ならな、やっぱり、まぁくんも怖かったと思うんだ。くちゃくちゃに。それに……あんなことした人間のことなんて、なおさら、こわい」
 噛まれたって、仕方ない。左の手のひらを見つめながら、ぽつりと零す。
「鈴、どういうこと?」
 鈴もあまり思い出したくないのか、説明は簡潔で、あまり詳しくはされなかった。まず、まぁくんは段ボールなどに捨てられていたわけではなく、長く大きな筒のような物を立てて置いた中に捨てられていたということ。まぁくんが小さいせいもあるが、その中からはどんなにあがいても出られそうになかったらしい。
 更に、鈴がこれ以上ないほど眉を顰め、「最悪だ」と言い放ったのは、そのまぁくんの下に敷かれていた物と、転がっていた物のことだった。
 敷かれていた物は、ティッシュや落ち葉、新聞紙など、とにかく燃えやすい物。そしてその脇に落ちていたのは、周りをほんの少し焦がした形跡のあるライターだった。
「ここんとこ、雨降ってただろ? あれがきっと、タイミングよく降ったんだ」
 もし雨が降っていなかったらなんて、とてもじゃないけれど想像することは出来なかった。意識したせいか、降り続けている雨の音を一層強く感じる。
「……理樹、ちょっと変なこと言っていいか」
「だめだ、とは言わないよ」
 訊いておきながら鈴は迷っているのか、しばらく無言を貫いた。こつこつこつこつとしつこいくらいに音が響き渡り、窓が雨に叩かれていた。
「雨でな」と慎重に、鈴は言った。「まぁくんは助かっただろ?」
「そう、なんだろうね」
「もし、な」
「もし?」
「もし、あの時雨が降ってたら……みんな、まぁくんみたいに助かってたと思うか?」
 鈴の視線は言ったきり下を向いてしまい、返事を切り出すタイミングが見つからなかった。第一、返す答え自体、僕には見つかりそうもない。
 ――突然降り始める強い雨が、バスから立ち上る火の手を片っ端から消していく様を想像したのは、ほんの、一瞬。思い描いたのは強い雨なのに、一切の雨音は聞こえなかった。というか雨音ってそもそもなんなのだろう。雨そのものの音なのか、それとも雨が地面に当たる音なのか。僕は、雨を知ってるんだろうか。
 何にしても、そんなことはどうでもいいのかもしれない。少なくとも、僕の想像の中でも、記憶の中でも、そんな雨音が聞こえることは決して、ないのだから。
 数分固まったままでいた鈴が、ホットミルクに手を伸ばして「冷たい」と言ったのに続いて、僕もすっかり失念していたホットミルクに口をつける。鈴の言う通りもう冷たくなってしまっていて、「冷たい」と、僕も同じ言葉を繰り返す。
 すまん。忘れてくれ。
 また下を向いたまま消え入りそうな声で鈴は呟き、僕が相変わらず雨の音が止まない部屋の片隅で後ろから鈴を抱きしめると、染みこんだ雨のにおいがいっぱいに広がっていった。

第5回『音』に戻る
会期別へ戻る
概要へ戻る

inserted by FC2 system