勇者と旅人       海老



 帰ってきて疲れた体を布団に投げ込むと、あの日「蛍を見に行く」と言った声が蘇った。今日の鈴と同じように唐突に、それでいてより強引な計画だった。
 懐中電灯を一つだけ持って、先頭をずいずい歩いていく。二番手にいた僕は背中を決して見失わないように、ただそれだけで必死だった。
「何だか、ゲームの冒険者みたいだな」
 ちょっと肉弾戦好きなやつが多すぎる気もするが、と額に汗を粒にして浮かばせながら笑って言う。
「それなら、勇者は恭介だね」
 戦士に格闘家、仮に僕は魔法使いとするとして、このパーティならば勇者は決定事項だった。少なくとも、僕の中で他の考えなんて何も思い浮かばなかった。
「違うな」と言う声が、だから、記憶に色濃く焼き付いている。
「もし俺が勇者なら、もうとっくに死んでしまっているだろうさ」
「……でも、誰かが勇者じゃないと」
「ああ、わかってる。だから、今から俺が勇者だ。その代わり、理樹、お前は勇者にはならないでいいんだ」
 どんなつもりでそんな言葉を言ったのか、今の僕から想像することは酷く難しい。ただ、僕は勇者ではなかった。それだけは、確かなことだ。
 眠りに落ちるその時まで、夜の木々の中にぼんやりと浮かんだあの影を、何度も何度も思い出していた。



 ○



 虫よけスプレーくらいしてくるべきだった――と、そんなことばかりをぽつぽつと考えながら歩いていた。足下を導いてくれるのは、頼りにできそうもない小さな懐中電灯の明かりだけ。うっかりすると木の根に躓きかねないから気を抜くこともできないし、かといって慎重になりすぎると、今度は鈴のペースに遅れて文句をいわれてしまう。厄介なことこの上ない。
 夜の森というべきか山というべきかわからないが、ともかく木々の間を抜けて歩き続ける。夜ともなればもう少し静寂な空気に満たされていると思っていたけれど、よくわからない鳥の羽ばたく音や鳴き声、枝葉の擦れる音など、とてもではないが静かであるとはいえそうもない。昼間と違い視界の閉ざされた夜である分、かすかな音の破片が耳にこびりつく。
「なあ、理樹」
「何?」
「暑くてしょうがないから何とかしてくれ」
「……水でもぶっかければいいの?」
 暗闇の中、飛んできた鈴の左手を受け止める。つっこみに拳はよして欲しいと何度も言っているけれど、やはり改善される気配はない。足が飛んでこないだけましといえばましなのかもしれない。
 少し歩くペースを落としたかったので、手綱を取るのと同じ要領でそのまま鈴の手を繋いでしまおうとしたら「暑いって言ってるだろ、ぼけー」と握った手を振り払われた。ため息を一つだけついて、気にせずに歩き続けることにする。
「まあ、そのぶっかけるのに使えるような水もないんだけどね」
 来る途中にコンビニで買ったペットボトルのお茶は、七割を鈴が、残りの三割を僕が摂取して、すでに飲み干してしまっていた。
「やっぱり、理樹は役に立たないな」
「やっぱりってなにさ、やっぱりって」
「理樹なら行き道覚えてると思ったのに、全然覚えてなかったじゃないか」
「いや、そんなこといわれても」
 僕だって、子供の頃の記憶は曖昧だ。だいたい、言い出しっぺである鈴が勝手に僕に期待をしておきながら、そのあてが外れたからといって文句を言うのは筋違いにも程がある。
 そもそも「蛍を見に行く」と鈴が言い出したのだって今日の朝だ。行くこと自体には、僕だって文句はない。でも僕の方は幸い何も用事は入っていなかったけれど、鈴の方は何かの講義が入っていたはずだ。
「んなもんしるかー」
「レポートとかどうするのさ。僕だって手が空いてるわけじゃないんだから、たぶん手伝えないよ?」
「……んなことしるかー」
 これはきっと、レポートではなくて「僕の事情など知ったことかー」という意味なんだろうなと思いながら、なんだかんだで手伝っているだろう未来の自分の姿を想像してまたため息を一つ。
「鈴、ところで道はちゃんと合ってるの」
「たぶん、期待しない方が幸せになれるな」
 そんなことを自信満々な口調で言われても困るだけだ。ため息をつきたくなるのを我慢して、暗く閉ざされた周囲に視線を回してみる。
 果たして今歩いている場所は昔一度通った道なのか、違うのか。自分の記憶に尋ねてみてもまるで覚えていない。
 子供の頃、五人で、確かに僕はここに来たことがある。ここの何処であるとか、細かいことは欠片も記憶していないが、確かに来たことはある。それは覚えている。
 この森の入り口までの道筋には見覚えはあったけれど、中に入ればそんなものなんて微塵もない。鈴に言われて思い出した記憶だって、かろうじて見える背中を頼りに歩き続けていたということだけだ。あの時の僕にとってはあの背中が道だったのだし、今はその背中はないのだ。道筋なんてわかるはずがないし、覚えているはずもない。
 とどのつまり、僕らは正しい道と信じながら迷っていくしかない。ちらりと見上げても空なんて殆ど見えず、木の枝が知らぬ間にうごめいて、夜空にあるはずの月や星の微かな光さえ、僕らから奪っているように感じられた。
 視線を戻すと、何かフィルターのようなものが幾重にも重なったかのような、ぼんやりとした影が見えた。一瞬、目を疑った。とっさに「鈴?」と呼んだのも、上手く言葉にならなかった。
 ゆらゆらと、まるで旅人を導くように先を進んでゆく影。
 その一瞬、かつて、追いかけ続けていた背中がそこにあった気がした。――けれど、そんなはずはなかった。すぐにはっきりと鈴の背中が見えた。
 何度か目を擦っても、やはり見えるのは鈴の背中だ。
「今なんか呼んだか?」
「いや、なんでもないよ。ただ、もう後は鈴の勘に任せる」
「なんだ理樹。死にたいのか?」
「いや、死にたくはないけどさ」
 いったいどれだけ自信がないんだ。
「でも、たぶん、鈴なら大丈夫だよ」
「そんな期待してもしらないぞ」
 きっと、大丈夫。そう言いながら、僕はもう一度鈴の左手に手を伸ばした。一瞬不満そうな顔も見えたけれど、今度は振り払われることはなかった。
 ほんの少し力を入れてみると、汗でじんわりとした鈴の手はどうしてか心地がいい。鈴の言うように、確かに熱気は増したけれど。





 僕らの繋いだ手の中で汗が滅茶苦茶に混ざり合い、繋いでいるという感覚すら忘れそうになった頃、ようやく目的地に到着した。
 空を切れ間なく覆っていた木々の枝がなくなり、唐突に夜空が開けた。霧のような薄い光に包まれていた。光の源を視線で追いかけると、数える気すら起きないほどの星がやはりそこにはあった。
 やっと現れた見覚えのある景色からは、水の気配が薫っていた。薄闇を見渡しても草しか見えないのは、背の高い水草に覆われているせいだろう。ぼんやりと立っている内、いつの間にか靴が水で濡れている。
 僕らは近くにあった大きな石の上に腰を下ろした。二人で乗るには流石に窮屈だったけれど、文句はなかった。
「確か、昔はもっと楽々座れてたよね」
「理樹が太ったせいだな」
「僕だけじゃなくて、僕と鈴が普通に成長しただけだと思うよ」
 鈴の返答はなかった。覗ってみると、じっと前を見据え、何かを探しているようだった。僕はそんな鈴の真剣な横顔を見てようやく、ここに来た目的を思い出した。
 鈴をまねるように、僕も辺りを見回してその姿を探す。視界の端から端まで、神経を集中して視線を送る。けれど、しばらくそうしても、全く現れる様子はなかった。
 以前来た時はもう少し早い時期だったろうか――そんな考えが頭を過ぎた時、鈴の大きなため息が辺りに響いた。
「理樹」
「何? そんな大きいため息すると逃げるかもよ」
「もう、蛍も、いないんだな」
 三角座りをした鈴は、頭を抱えた膝の中に押し込んですっかり小さくなった。「こんちくしょー」というくぐもった声が聞こえた。目を離せばすぐにでも消えてしまいそうで、ただ僕自身が安心したい為に、僕は鈴の上にそっと手を乗せた。
 絶望だとか、そういうのとは違う。そんなものはずっと前に置いてきた。いや、置いてきたわけでもない。でも今更引っ張り出すほど、僕らは弱く生きてきたわけじゃない。
 ただ、ほんの少し、諦めがつかなかった。
 ゴトリと鈍い音がして、手元にあった懐中電灯の明かりが消えた。鈴の手元から滑り落ちたらしかった。
 電灯とか家の明かりとか、いつも明かりのあるところで生活しているせいだろう。本当に何の明かりもない暗闇には、思わず目を瞑りたくなるほどの圧倒的な圧力があった。かろうじて星の明かりが届いていなければ、僕は恐らく目を瞑ってしまっていただろう。
 そして、緑色の光に気がつくことも、もしかしたらなかったのかもしれない。
 ふわりと、それは僕の目の前を通り過ぎた。
 一瞬驚いたけれど、気がつくと辺りはその光で埋め尽くされていて、今度は今度で驚きの声を上げる暇すらなかった。
「蛍」
 何とか、僕はその光の名前を言うことができた。
「鈴。ほら、蛍」
 僕は笑って言った。跳ねるように鈴も埋めていた顔を持ち上げ、辺りの姿に目を丸くした。
「懐中電灯付けてたのが悪かったのかもね」
「お前、もうちょっと、ロマンチックなことでもいえないのか」
「ごめん。まさか鈴からそんなこと言われるとは思わなかった」
 こんにゃろー、というふやけたかけ声と共に飛んできた左手を、僕はまた受け止めた。同じように、そのまま握りしめる。
「ほんとはな」と鈴は掠れた声で言った。
「もう、蛍なんていないと思ってた」
「うん。実は僕もそう思ってた」
 ――ただ、ほんの少し、諦めがつかなかった。だからこうしているのだ。
「なあ、理樹」
 鈴は言いながら僕の方を見た。まるで間を合わせたかのように、緑の光が一つ、ふよふよと鈴の肩に羽をおろした。鈴はそれをそっと、合わせた手の中に覆った。
「何か知らんが泣きたくてしょうがないのに、よくわからんけど泣けない時は、どうすればいいんだ」
「ごめん、鈴」
 何故だか、さっきから謝ってばかりだ。そんなことを思いながら僕は言った。鈴の言ってることは滅茶苦茶だったけれど、僕も似たようなものなのだ。
「僕も、同じ事を鈴に聞きたかった」
「なんだ。やっぱり理樹は役に立たないな」
「面目ないよ」
「……うん。でも、まあ、いいだろ」
「いいの?」
「しるか。理樹の馬鹿」
「いや、もう、鈴の言ってること意味わかんないから」
「理樹の顔の方がよっぽど意味わからん」
「今は、それもお互い様だよ」
 二人揃って泣きそうな顔のまま、でも結局は泣きはしないで、僕らは意味のないことを言い合った。幾つもの光に包まれながら、酷く懐かしい心地を感じていた。
 蛍がいた。だからどうしたというわけでもない。いないものはいないし、蛍はまだいてくれた。ただ、それだけのことを、記憶の片隅に埋め込むための小さな確認だった。
 暗闇の中に浮かんだ鈴の手から零れるかすかな光が、鈴の手を離れる時まで、僕らはそこに座っていた。

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