居眠り少年は空の隙間に極彩色の夢を見る      えりくら



 君の顔が視界の隅々に映っている。君は部屋の明かりもつけずに、二段ベッドの下段の端にひじをついて僕の顔を心配そうにのぞきこんでいる。いつもいつも太陽の下で遊んでいるとはとても信じられないくらいに白く美しい肌が、夕と夜の境目にある淡い光に照らされてぼんやりと輝いている。なぜ男子寮に君がいるのだろうと、僕はそれを不思議に思うが口に出したりはしない。大丈夫か、気分はどうだ、と君は言う。悪くない、大丈夫だよ、と僕は言う。背中が汗でぐっしょりと湿っているのを感じる。気持ち悪いのを我慢してにっこり微笑むと、ようやく君の顔も綻び、横髪に結わえ付けられた慎ましやかな装飾が涼しげな音を奏でる。君が何を考えているかは手に取るようにわかるが、本当に大事なことは本人ですらわからない奥底に隠されているので意味はない。ただ、しっかりと握られた左手が、君の脈拍を、君がここに生きていることを絶え間なく僕に教え続ける。それ以上に大事なことなどないのだと、思考を放棄するように僕は思う。なぜかここでは君の匂いがしないのだけれど、それを気にする僕はいない。










「鈴、そのボールどうしたの」
「落ちてた」
「ふぅん」
 鈴は床に座り込み、薄汚れた子供用のゴムボールを膝の間で転がして遊びながら気のないそぶりだ。長く伸びた前髪が窓から射す夕日で影になっていて、ベッドの上にいる僕からは鈴の表情が見えない。思えば、今日の昼頃にこの病室を訪ねてきた時から手にしていたゴムボールだ。落ちていたにしても、なぜ拾ってきたのだろう。そんな汚いボールを拾って来なくても、他にも何かあっただろうに。それでも鈴はまるで、それ以上の物は無いとでも言いたげに、僕と話している最中も手の中でにぎにぎしたり、放り投げてお手玉したり、壁にぶつけて一人キャッチボールをしたりしていた。
「学校の方はどう? 不自由してない?」
「別に、普通だ。何にも問題ないぞ」
「そう、良かった。まぁ……それはそれで少し寂しいんだけど」
「というのはまるきり嘘だ。全然どうにもならない。早く理樹が帰って来てくれないとあたしがこまる」
 随分と判断に困る嘘だった。多分、ある程度本当で、嘘なのだろう。そうであってほしいと思う。
 鈴は時折ちらちらと、空になったベッドに視線を向けている。僕の隣のベッドで寝ていたおじいさんがいなくなったのはつい昨日のことだ。僕や鈴のような親無しにも優しい、気のいいおじいさんだった。次の手術に備えるために一人部屋に移ることになったのだと、馴染みの看護師さんが眉を少し困らせながら教えてくれた。彼のような老齢の患者が、こんな時期に一人部屋に移されるということ
の意味を知らないほど、僕も、そして鈴も幼くはなかった。来週の土曜、ちょうど今くらいの時間に三回目の手術を受けるのだと言う。二回目の時ですら成功の確率は五十パーセントを切っていた。なら次は。
 生命のカウントダウン。他人事などでは、決してない。
「じゃ、理樹。あたしは帰るぞ」
 ぴょこん、と立ち上がって鈴は言う。髪に結わえられた鈴が、ちりんと清涼感を運んでくる。
「ああ、うん……そうだね、もう結構遅いし。面会時間も終わっちゃうし」
「明日も来るから」
「いや、無理しなくてもいいよ」
「無理なことなんかないっ!」
 ボールを投げつけられる。それは、ぽこんと可愛い音を立てて僕の頭に命中し、まるで操られでもしているかのように鈴の手元にするすると吸い寄せられていった。
「そんな寂しいこと言う理樹は、めっ、だ!」
「めっ、なんだ……」
「というわけで、あたしは明日も来る」
「鈴」
「なんだ?」
「何か僕に話があったんじゃないの?」
 口ごもる鈴。そういう態度をとる鈴を見るのは久しぶりだった。都合の悪いこと、後ろめたいことを話そうとする時、小さい頃の鈴はいつもそうだった。
 聞いてほしいことがあるんだ、とぽつりと鈴が口にしてからもう随分な時間が経っていた。ボールの手遊びをしている最中も、鈴なりに話す機会を伺っていたのかもしれない。
「……やっぱり、明日話す」
 わかった、という間も与えずに「じゃあな馬鹿兄貴」と、鈴はそそくさと病室を出て行った。
 ふぅ。
 小さく一つため息をつく。おじいさんがいなくなり、鈴が帰ってしまったこの病室は酷く静かだ。静けさが痛い。街の喧騒は遥か彼方にある。
 親も親類も、まともな身寄り一人いない僕を見舞ってくれるのは、双子の妹である鈴だけだ。僕の世界は狭い。登場人物は、僕、鈴、同室の患者、看護師のお姉さんに、お医者さん。以上、五名。おじいさんがいなくなってしまったから、四名か。図らずも一人部屋になってしまった僕だ。カウントダウン。かっち、こっち。耳の中で響き始めた機械仕掛けの時計の音。
 窓から降る橙の光がうっとうしくて、乱雑にカーテンを引く。さして広くもない病室はたちまち暗がりに落ちていく。










 付き合おうか。唐突な君の言葉に僕は少なからず驚く。見ると、君の頬はたった今湯にでも浸かってきたかのように紅く紅く染め上げられている。それに見惚れる間もなく君は僕の手を取り、駆け出す。やたらめったら叫びだしたいような気持ちに、僕も、そして君も戸惑いを隠せない。熱に当てられた頭の中に僅かに残された冷たい部分が、君の兄への報告の言葉を考え始める。そのシチュエイションを想像するや、世界がぐるぐると音を立てて回転するように思えるのは、きっと僕の頭が上気しているせいなのだろうと、茹った頭でさらに考える。僕の息が情けなく乱れ始めても、投球で鍛えた君の心肺能力は一向に限界を迎える様子はない。一つに結んだ髪の隙間から僅かにのぞく首筋に一つ、小さな小さな黒子を見つける。一時の狂騒が過ぎた後の君にそれを教えてやったら、果たして君は怒るだろうか、それとも、喜ぶだろうか。










 次の日、読みかけの本を読みながら鈴が来るのを待っていると、正午を告げるチャイムと共に高町さんが昼食のトレイを持って病室に入ってきた。
「やー、昼ごはんの時間だよー! 少年は今日も元気に生きてるかい?」
「元気かどうかはわかりませんけど、なんとか今日も生きてます」
「それは重畳。テンションの低さも相変わらずでお姉さんはそこはかとなく嬉しくなくもないよ」
 どっちだよ。
 突っ込んでも突っ込みきれない人と対する時、これは僕のスルー技能が試されているんだと思えば大抵のことは流してしまえるのだと最近になって気付いた。もちろん高町さんは突っ込んでも突っ込みきれない人などではなく、テンションは高めだが面倒見が良く優しい普通の看護師さんだ。ただし年齢の話をすると、眉間の皺が寄ったまま半日くらいは戻らなくなる。
「今日鈴ちゃんは何時くらいに来るの?」
「さぁ、いつもは昼過ぎくらいですけどね……休みの日はいつも昼前くらいまで寝てるんで、昼過ぎないと活動できないんです、あいつ」
「ふーん、よく知ってらっしゃる……さすがお兄ちゃん」
 むふふ、と気味の悪い笑みを浮かべながら僕の前にドンとトレイを置く高町さん。
「喜べ少年! 今日の昼飯はひさしぶりに豚肉のしょうが焼きだっ!」
「おー」
「喉に詰まらせるほどにがっつくといいさ!」
「いや、普通に詰まらせませんけど」
 というか、詰まるほど食べられない。最近、僕の食欲はかなり落ちてきていた。まともに一食食べられていたのは、一体どのくらい前の話になるだろうか。高町さんは、僕が食べられなくても何も言わない。まだ空になっていない食器を片付けてもらう時の、あの情けなさときたら。
「よいしょっと」
 僕がいただきます、と手を合わせている間に、高町さんはもう一つのトレイを僕のトレイの横に置いて、パイプ椅子を引き寄せた。床がぎぎぎと鳴る。
「一人で食べるのって寂しいでしょ? だからー、おねーさんが一緒に食べてあげようと思ってさ」
「別に構いませんけど……怒られません?」
「へーきへーきっ」
 そんなことを言いながら「いただきまーす」と、高町さんはさっさと食べ始めてしまった。つられるように僕も箸を動かし始める。
「ふふっ、ウチの病院食は相変わらずおーいしっ! このご飯が三食に昼寝がついて、私のような美人の看護に可愛い妹は毎日のように見舞いに来てくれる、と……りっきー、君は今とてつもなく贅沢な暮らしを満喫していることをちゃんと自覚してる?」
「はは、まぁ」
「これで給料が出れば完璧なんだけどね……まぁ、そんなことになってたら明日には私が骨折でもして入院してしまうところだよ」
「いや、普通に仕事しましょうよ仕事」
 入院してるだけで給料が出る病院なんてない。あったとしても、それはどこかの入院保険だろう。
「夢だねー、夢。それは私の人生における『夢のような暮らしランキング』の上位を常にキープしている生活の一つだよー」
「夢――ですか」
 脳の端に引っ掛かった言葉を何の気無しに口にすると、自分で意図した以上にその言葉は冷えていた。僕の口調の変化に高町さんは目敏く反応する。
「あれ? どうかした?」
「いえ別に何でもないですけど、その……ちょっと」
「どうしたのよ、奥歯に何か挟まったような言い方して。ほら、おねーさんに教えてごらんなさい」
 ほら、ほら、と僕の目の前に箸をちらつかせる。さすがにかなわないな、と僕は思う。
「夢……って、言ったじゃないですか」
「うん、確かに言ったわね」
「夢って、一体何なんだと思います?」
 言葉にしてみると酷く抽象的で、掴み所のない質問だった。
「夢……夢、ねぇ……ま、一概には言えないけどね。夢ってさ、言葉にすれば一言だけど、その意味って、本当に人それぞれだから……」
 そう言って、頭を抱えて何やら考え込むそぶりを見せる高町さん。
「例えばね、私達ってよく『将来の目標』とかのことを指して『夢』って言っちゃったりするじゃない。でも、『夢』と『目標』っていう二つの言葉の間にある差って、結構大きなもののような気がしない? 少なくとも私にとって、その二つの言葉は決定的に違う言葉なのよね。でも、また他の誰かにとっては『夢』と『目標』は全く同じものなのかもしれない。結局それって、人それぞれってことよね。だから、夢って何だっていう問いには必ず『誰にとって』っていう言葉が必要。りっきーがそれを知りたいのなら、結局の所りっきー自身が『夢』って一体何なのかを考えてみなくちゃいけないってことなの」
 はいお茶、と脇に置かれた急須を手にとる高町さん。慌てて空の湯飲みを差し出す。
「……で、りっきーにとって『夢』って、一体どんなものなの?」
 こぽこぽと、湯飲みから湯気が零れた。
 さっきまで自分の頭で考えていたことでも、急に聞かれるとその記憶はひどく曖昧に感じてしまう。自然と答えは歪んでいく。ごくり。飲み込もうとした生唾が飲み込めない。喉にたまった何かは、このままでは流れ出してはいかないだろうと感じた。水分が必要だった。お茶に手を伸ばし、飲み干す。
 瞬間、遠い情景が脳裏に浮かんだ。ここではない場所、遠い未来、あるいは過去。遥か彼方で僕と鈴が笑っている。幾人もの大切な人達に囲まれて、僕と鈴は兄妹ではなくて、まるで輪のように重なって、いつまでも、いつまでも――
「……叶わないもの、だと思ってます」
「叶わないもの?」
「だって――夢だから。それは、ただの夢です」
 理由になっていないな、と自分でも思った。僕の中にもっと沢山の言葉があれば、上手く説明できたのかもしれないのに。歯痒い。「……ごめんなさい」と頭を垂れる。
「うん――、うん、そうだね」
 ――、と高町さんは言った。俯いていた僕は高町さんの言葉を聞き取ることが出来なかった。
「りっきーが持ってる『夢』のイメージってさ、本当に『夜に見る夢』そのものなんだと思うよ。見ている間は楽しかったり、悲しかったり、辛かったり、誇らしかったり……でも、覚めてしまえば、それはただの夢。どれだけ欲しくても届かないし、触れない……んだよね」
 悲しいね、と高町さんはお茶をすすりながら付け加えた。
「でもさ」
「はい」
「叶わないものって、決め付けてしまうのは少しもったいないような気もするな。夢ってさ、多分希望だから。りっきーが思ってるように大抵は届かないものなんだとしてもさ、もしかしたら届くかもしれないと思えるからなんとかやっていけるわけじゃない? 最初から届かないものでしかなかったら、夢なんて悲しいだけのものだよ。夢を現実に変えていけるって信じられるからこそ頑張れるんだと、私は思うな。りっきーだって、きっとそうだよ」










 君より小さい子供達の輪の中で、君は何もかもを忘れてしまったかのように無邪気に笑っている。ほんの少しあけられた扉の隙間から、僕はそれを覗き見る。どこか遠い所で失くしてしまったものがそこにあって、なくて、僕はまた唇を噛み締める。君は僕に全く気付かない。あるいは、気付かないふりをしている。君は、君を苦しめる全ての物を決して認めようとしない。人が生きるのに苦しみなど必要ないと、今でも君は頑なに信じ続けている。幼い頃からずっと君を守り続けてきた強く優しい兄の姿はここにはない。いや、もうどこにもありはしないのかもと、君の兄の変わり果てた姿を僕は思う。彼という存在そのものが遍く幻想の一つだとしたら、君は一体何を信じればいいのだろうかと、僕は扉の縁をそっと指の腹で撫でる。ささくれは棘、僕の指をいとも容易く突き破る。










「夢を見たんだ」
 連れてこられた中庭のベンチに二人並んで座り、僕は何も言わず、じっと鈴の言葉に耳を傾ける。
 すぐそこにある自販機で買った缶コーヒーのプルタブに力を込めながら鈴は言う。かしゅっと軽い音がする。
 どんな夢、と僕は問わざるを得ない。

 まず、あたしと理樹は兄妹じゃないんだ。あたしには別の兄貴がいて、まぁ理樹をさらに馬鹿にしたような兄貴なんだが……とにかく、あたしと理樹は兄妹じゃなくて、幼なじみなんだ。あたしとその兄貴と理樹の他にもう二人馬鹿な幼なじみがいるんだが、まぁそれはいいや……んー、それでだ。あたし達は一緒の高校に進学するんだ。今あたしが通ってる、あの面白くない高校だ。でも、夢の中では、ちょっとは面白かったかも。多分理樹がビョーキなんかせずに、普通に一緒に学校通えてるせいだ。そこでな、あたし達は野球を始めるんだ。え、何? 意味がわからないって? うん、あたしにもよくわからん。でも、そこでは、あたしがピッチャーで理樹がキャッチャーなんだ。理樹と練習するのは、しんどいけど、ちょっぴりは楽しかったな。そんな風に野球やってるうちに他の友達も出来た。その中にこまりちゃんていう子がいるんだけど、こまりちゃんはあたしのことを大好きだって言ってくれるんだ。もちろん、あたしもこまりちゃんのことは大好き、なんだ。ふふ、なんか、おかしいな。本当は友達なんて一人もいないのに、夢の中では友達がいっぱいいるなんて。理樹さえいてくれれば、友達なんて要らないって、
思ってたのにな。
 でも、最近その夢、段々楽しくなくなってきたんだ。きっかけはよく分からないし、覚えてないんだけど、確かに何かが変わったんだ。夢の中の兄貴は優しくなくなった。他の幼馴染も、友達も、こまりちゃんでさえも、あたしと一言も話さなくなったんだ。あたしは怖くなった。このままずっとこれが続いて、みんなと仲良く出来ることなんてもう二度とないんじやないかって、思ったんだ。そう思ったらもうあたしからみんなに話し掛けることなんて出来なかった。結局、あたしに優しくしてくれて、あたしを見てくれるのは夢の中でも理樹だけになったんだ。現実と一緒だ。そんなの、夢見てたって現実と変わらないじゃないか。
 なぁ、理樹。あたし最近さ、寝てても起きてても、夢の中で楽しかった時のことばかり思い出してるんだ。みんなで馬鹿なことばかりして遊んで、遊んで、遊んでいる内に一日が終わって、寮に戻って眠ってしまえば明日はまた楽しい一日が待ってる。そういう毎日のことばかりを思い出すんだ。きょーすけや、まさと、けんご、こまりちゃん、はるか、くるがやにクド、みお、それに、あたしと理樹。みんなのことばかりだ。あたしの頭の中はみんなのことで一杯なんだ。でも、夢が覚めればみんなはいない。理樹は病院。あたしはまた一人で学校に行く。一人で授業を受けて、一人で昼ごはんを食べて、一人で掃除当番をして、一人で寮に帰っていくんだ。お日様が暮れて夜が来て、また明日は一人だ。そんなのはもう、やだ。やだ。やだ、やだ、やだやだやだやだ――

 ――戻りたい。
 終わりに、鈴は俯いたまま、そう呟いた。
 戻りたいって、一体どこに、なのだろう。鈴が戻りたいというそれは、夢だ。どれだけ楽しくても、どれだけ辛くても、それは夢でしかない。夢は覚める。現実には勝てはしない。夢に対する現実の優位は揺るがない。
 ――それでも、僕は考えてしまう。
 夢に痛みがあれば、喜びがあれば、悲しみがあれば、まぶしさがあれば、暗がりがあれば、優しさがあれば、厳しさがあれば、忍耐があれば、達成があれば、人生があれば――それはもう既に現実なのではないか? 一体この世の誰が鈴の夢を否定できるだろうか。僕らの現実は狭い。夢が覚めれば、鈴は僕の妹で。僕は鈴の兄だ。そして、そう遠くない将来、僕は鈴を残していくことになるだろう。鈴は一人だ。この酷い世界で、僕の愛しい妹は一人きりになるのだ。誰が鈴に寄り添ってやれるだろう。誰が鈴の手を引いてやれるだろうか。夢にすら裏切られてしまったなら、鈴は一体どこに行けばいいというのか。
 薄汚れたボールが鈴のポケットから転がり落ちる。今日も持ってきたのか。僕はそれを拾う。埃まみれのゴムボール。鈴は、何を思ってそれを必死に握り締めてきたのだろう。
 下手投げで、鈴の頭めがけて、そっと投げた。
 当たる。それは、間抜けな音を立ててどこかへ転がっていく。
「……痛いぞ」
 痛くなんてないくせに。
 僕は転がっていったボールを拾いあげる。
 そして、また投げる。
 今度はしっかりキャッチされる。
「ねぇ、鈴」
「なんだ?」
 言いながら、こっちに投げ返してくる。夢の中の鈴の投げる球のように鋭い球ではなく、あくまで優しく、ふんわりと。胸元で掴んで、また投げる。
「もしも、さ。その、鈴の見ていた夢と、今僕たちがいる現実、どちらか一方の世界を選べるとしたら、鈴はどっちを選ぶ?」
 途切れた会話。僕と鈴の穏やかなキャッチボールは続いていた。ゴムボールは僕と鈴の間を、ふらふら、ふらふらと、行ったり来たりした。数メートルも離れていない、薄暗がりのキャッチボール。もし、お互いに投げるボールの緩さがそのまま相手に対する優しさだとしたら、僕と鈴は今幸せなのかもしれない。そう思った。
「……わからない」
 長い長い沈黙の後、搾り出すように鈴は言った。
 分かっている。鈴のことは、他の誰よりも僕が一番よく知っている。
 鈴は嘘を吐いた。
 夢に取り残される僕を思って、精一杯のつよがりを。
 それを証拠に、見ろ。
 泣いてるじゃないか。
 ぼろぼろ、ぼろぼろ、ぼろぼろと。
「ごめんね」
「どうして理樹が謝るんだ」
 ごめんね、こんなに弱い兄貴で、ごめんね。
 君と一緒に毎日を過ごせなくて、ごめん。
 幸せな毎日を君にあげられなくて、ごめん。
 でも――
「鈴」
「うん」
「今度はちゃんとしたボールとグローブで、ちゃんとキャッチボール、出来るといいね」
「……うん」
 ふんわりと微笑みながら、鈴はまた投げる。
「でも、あたしはこれでいいぞ。ちゃんとしたボールやグローブなんかなくたって平気だ。このボールだってあたしたち、ちゃんとキャッチボール出来てるじゃないか。あたしはそれで、十分だ」
「それで、いいの?」
「ああ」
 少しずつ距離を広げていく。下手投げから、上手投げへ。ゴムボールは軽い。力のない僕でも遠くへ飛ばせる。簡単に受け止めることが出来る。でも、やっぱり僕は下手くそだから、時々投げそこなうし、捕りそこなう。失敗するその度に鈴は走って取りに行く。僕も負けじと走る。二人で同時に走ることもある。身体があるのを忘れてしまいそうなくらい、軽い。二人の間に転がったボールに二人で飛びつく。手が触れ合う。ふと見つめ合い、僕は君と笑う。











 最後の夢は、最後の選択。世界の選択を前に、僕はこの世界の君ではない君を思う。君はいつも一人で、僕はそれを影から見守る事しか出来ない。君に良き友人を、優しく強い兄を、幸せを与えてやりたいと思う。眠りを放棄すれば、世界は反転し、夢は現実へ、現実は夢へと還るだろう。僕と君は現実を放棄し、夢を手に入れる。
 だけど、僕は首を横には振らない。
 全てを手に入れられることを知りながら、僕は全てを放棄する。目の前の救える命を見捨て、僕は一人きりの君を抱き締める。間違いだとしても、それでいいと僕は思う。やがて光は全てを掻き消して、僕と君を現実へと還すだろう。奇蹟が描き出した二つの夢は、ここに一つの終わりと始まりを見出す。だから僕は、

『これで、いいよな?』

 これに首肯をもって、たった一つの答えとする。

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