雨ときおりハルシネイション      広瀬 凌



   ■

「クド、ごめん。ちょっとどいてくれるかな」
「あ、はい、わかりましたー」
 流し台の下で文庫本を読んでいたクドにそう話しかけてどいてもらう。僕の手にはビニル袋。今日の食事当番は僕だ。鈴が帰ってくる前に少しでも進めておきたい。僕に気を使っているのか、すぐに休めと鈴は言う。けど、鈴だって最近は忙しそうだ。二人で住むときに決めたルールだし、出来るだけ守りたい。僕らは二人で生きていくと決めたのだ。
「ええっと……みりんはどこだったかな」
「流しのしたですよ。ちょうど能美さんがいたところです」
「ありがとう」
「他にも料理酒やお酢もあるので、お間違えのないように」
 西園さんの指摘どおり、みりんはその他大勢の瓶に、こっそり隠れる様に身を潜めていた。僕は瓶を取り出してから、ふと、室内をみやる。部屋は1DK。奥に見える六畳の洋間はカーテンで仕切ってある。僕と鈴が寝泊りするのはそこだ。手前のダイニングには小さなソファが二つ、小さな机とテレビが一つずつ。二人で住むには手狭だけれど、これ以上の広さは、僕と鈴の収入で借りるのは無理があった。
 クドはいる場所を追われたため、どこへ行こうかきょろきょろと辺りを見回している。ソファに陣取っていた来ヶ谷さんがおいで、と膝を叩いている。クドは朗らかに笑い、ソファの横へ腰を下ろした。来ヶ谷さんが不満そうに息を漏らす。隣のソファでは葉留佳さんが真剣な顔をしてテレビへ目を向けていた。どうやらシューティングゲームに興じているらしい。あまり巧くない。西園さんは僕へのアドバイスで満足したのか、隅へ移動し、文庫本を広げていた。謙虚な彼女はスペースをとらない。謙虚でない真人は部屋の真ん中では腕立て伏せをしている。背中には、瞑想状態の謙吾があぐらをかいていた。机には、小毬さんが顔を伏せて眠っている。そこには午後の緩やかな光が差し込んでいた。髪の色が鮮やかに透ける。光を追って窓を見やると、窓辺に恭介が腰掛けていた。恭介は読んでいた漫画本から目を上げる。
「どうした、作らないのか」
「いや、作るよ」
 そうして僕はビニル袋に入っていた材料を取り出す。
「お、今日はカレーかっ」
 腕立て伏せの勢いは止まらず、真人の声が聴こえる。謙吾が顔をしかめた。
「どうして見もせずに判るんだお前は」
「理樹とは何年も一緒だったんだ。何を買ってきたなんて、こすれる音で判るぜっ。それに理樹はカレーにみりんをいれるんだっ」
「把握しすぎて気味が悪いな……」
 謙吾の溜息。部屋の中に小さな笑いが生まれる。それに気を取られたのか、テレビ画面上では飛行機が盛大に爆散していた。悲鳴にも似た声。びくりと小毬さんの肩が震えて、ゲームの中身を取替えに来た葉留佳さんに鋭く頭突きをした。うずくまる小毬さん。転げまわる葉留佳さん。げらげらと来ヶ谷さんが笑っていて、少し酷いと思ったけど、気づいたら皆笑っていた。
 でもすぐにやむ。チャイムが鳴った。
「おーい、理樹、帰ったぞー」
 鉄と鉄ががなり合う音が僕しかいない室内に響く。
「ん、なんだ、鍵かかってるのか」
「ああ、ごめん、今開けるよ」
 僕は言葉とは真逆に動く。全速でゲーム機とテレビのスイッチを切る。葉留佳さんが頭を抱えながらこっちを恨めしそうにみていた。心の中で謝る。小毬さんはダメージが深いのか、ぴくりとも動かない。それとも鈴が帰ってきたからだろうか。僕は出来るだけ続きを考えないようにする。クドと西園さんから文庫本を回収して、部屋の本棚へ戻した。二人にも心の中で謝る。もうへたに声も出せない。
「理樹」
 呼び止められる。急いでるのに、と振り返る。恭介は少しだけ目を細めた後。
「ほら、忘れてるぞ」
 そういって、僕へ漫画本を手渡す。急いで本棚に戻した。危なかった。これで何とか大丈夫なはずだ。
 足音は出来るだけ立てずに、玄関へと向かう。一度深呼吸して、気持ちを落ち着ける。扉を開けると、狭い廊下。傘の水を切る鈴がいる。
「天気予報もたまにはあたるな。傘持ってったのに、びちょぬれだ」
 僕は恭介がいた窓辺からあふれる暖かな光を思い出す。でも鈴の背後には、壊れた蛇口のように雨が降り注いでいた。
「理樹、どうした?」
「……なんでもない」
「そっか? まぁいいや。とにかくお腹ぺこぺこだ」
 鈴が部屋の中へ入る。なんだ、まだ進んでないのか。うん、さっき帰ってきたばかりで。じゃ、あたしが腕を振るうか。いいよ、鈴はさっきまで仕事だったんだし。それを言ったら理樹もだぞ。だから当番制なんでしょ。
 いつものやり取りをしながら、室内を見渡す。窓から差し込む光なんてない。切り取られた四角に見えるのは、ただ地面を叩く鈍色の雨だ。
「あー、疲れたっ。先に着替えてくる」
 部屋の真ん中を横切る。真人は腕立て伏せをやめていた。謙吾と並んであぐらをかいている。二人を蹴り飛ばすような鈴の進路。彼女に彼らはみえていない。真人と謙吾は身を捻るようにして、彼女を避ける。それに意味はない。避けなくとも彼女は彼らを通り抜けるだろう。なぜなら彼らはこの場所にはいない。
 あの日よりも大人びた鈴を、あの日から変わらぬ姿の皆がみつめている。
 鈴は誰も居ない洋間へ行き、着替え、皆が集まる部屋へ戻ってくる。
 葉留佳さんが座っていたソファへ、鈴が飛び込むように座る。葉留佳さんが手を広げて、とられちった、とジェスチャーする。鈴がリモコンでテレビを点ける。くだらない番組。小毬さんは動かない。西園さんは外を見ている。雨だ。来ヶ谷さんの膝の上にクドがいた。恭介はどこだろう。やはり窓辺に腰掛けている。
「どうした、作らないのか」
「理樹、作らないのか?」
 二人の声が重なる。二人の声が聴こえる。けれど僕は鈴にだけ、言葉を返す。
「いや、僕が作るよ」

   □

「ねーねー真人くん。そろそろ海みえる?」
 三連続で大貧民になった葉留佳さんは現実から逃避して、風という名の現実へ立ち向かう真人へ声をかける。真人は位置的に小毬さんの真上にいる。普通、車に乗っている時は真上なんて表現は出てこないけど本当に真上だから仕方ない。
「まだ見えねぇなぁ」
「大分近づいてきてるとは思うがな」
 そういえば謙吾も真上にいた。捕まらないか心配だ。
「なぁ、思うんだが。そこ寒くないか?」
 来ヶ谷さんが反対側から声をかける。恭介は容赦ないので、割と速度は出ている。これだけ風に全力で当たれば当然、
「いや、全然寒くないな」
「あたりまえだ、寒いわけがない」
 そうか、やっぱり張り合うのか。
「じゃあ、二人とも戻ってこないのかぁ。広々使えるねぇ」
 小毬さんはじゃじゃ〜ん、と効果音と共にお菓子の袋たちを取り出す。クドと葉留佳さんがそれに拍手。真上から「退路も断たれたな」「ここからが本当の地獄だ」と声が聴こえたけれど、小毬さんは完全無視でお菓子を広げていく。時々思うんだけど、割と小毬さんは酷い。

 車は何事もなく進む。
 全ての問題は排除されたかのように。
 この旅にはもう、旅以外のなにもないように。

 僕は車が停車したのをいい事に、後ろの方へもう一度視線をくばる。トランプは飽きたのか、皆それぞれの行動に移っていた。クドと西園さんは二人並んで本を読んでいる。時々、二人で互いの本の文章を指し示し、何かを話している。葉留佳さんはオーディオプレイヤで音楽を聴いていた。来ヶ谷さんが彼女の耳からカナル型のイヤフォンを奪う。よほど恥ずかしいのを聴いていたのか、葉留佳さんが珍しく真っ赤になって取り返そうと奮闘する。それをみながら小毬さんが微笑む。ついでにお菓子も食べている。いや、どっちがついでなんだろう。どっちでもいいか。真人と謙吾が歌をうたいはじめた。へたくそだな、と恭介が笑う。車の速度が少し落ちる。僕の手に、来ヶ谷さんが投げたオーディオプレイヤが収まった。
「葉留佳の最高傑作だ、私たちのテーマ曲にしよう」
「理樹、そこに接続ケーブルがある。繋げれば爆音で流しながら走行できるぞ」
「お、そっちを歌おうぜ!」
「お前ら鬼っすか!」
 前触れなく、海が見えた。歓声が上がる。車が跳ねた。皆が海を見た。一瞬で話題を海にさらわれた葉留佳さんだけ少し膨れたけれど、恭介が接続ケーブルを手に取った瞬間、危機が去ってないことを知る。
 僕はそれをみながら、ゆっくりとシートに背を預けた。
「理樹、寝るのか?」
 鈴の声が聴こえた。いたんだ、なんて薄情な台詞が頭に思いつく。
「いや、もっと起きていたい」
「じゃあ、おきてろ。皆まだまだ遊び足りないぞ」
「僕も遊び足りない。でも……」
 恐ろしいほど眠かった。これまで、こんなに眠かったことなんてない。
「……そっか。うん、やっぱり、仕方がないな」
 鈴の手が僕の目の前を覆う。重い瞼がくっついた。もうずっと開かないのでは、と僕は思う。
「理樹、がんばれ。あたしがいるから。理樹が強くなったように、あたしも強くなったから。この物語は終わりでも、まだ続きはあるから。どこかのわたしたちはきっと幸せだから。だから理樹とわたしも、頑張ろう。それに負けないくらいに」
 楽しげに響くみんなの声が遠くなる。何もかもなくなっていく。
 音楽は鳴っただろうか。僕はそれを聴いただろうか。
 僕はそれを把握できずに、夢から覚める。
 病院の硬いベッド。体は泥のように沈み込んでいるのに、骨が鉄になったみたいに動かない。影が僕を覗き込む。鈴だ。
「理樹、夢を見てたのか?」
 僕は頷く。
「だと思った。楽しそうに笑ってた」
 僕は夢の中の景色を思い出す。体が夢から覚めて、少しずつ離れていくのが判る。僕は二度とあんな夢を見ることは出来ないだろう。だから、せめて忘れないように、夢の中でみた景色を鈴に語る。何事もなく、全てが解決した世界。僕らは完全無欠のハッピーエンドで車に乗り込み、新たな世界を予感させる旅へ出ていた。その圧倒的な幸せと輝き。もうこの世界にはいない皆の笑顔。ひとしきり語った後、鈴は僕の手を握った。
「理樹は、やっぱりみんなといたいのか」
 夢に落ちる前、僕は確かに鈴と共にそう願った。けど、時間を巻き戻すことなんて出来ない。バスは燃えた。忍び込んだ恭介も燃えた。事故にあった彼女たちはそもそも燃える前に死んでいたかもしれない。もう彼らは、彼女たちは、この世にはいない。どれだけ願っても、祈っても、それは変わらない。全てを覆す奇跡なんて起きるわけがない。

 それでも、僕は。
 あの夢が、永遠に続けばいいのに。
 そう、確かに思った。

 僕は夕焼けに染まる病室に、彼女たちの姿を見る。鈴と僕を除く、面々。彼女たちは制服を着て、確かにそこにいた。僕と視線が合うと、小毬さんは指を立てて、唇にあてる。そうか、病室は静かにしなければいけない。いや、果たしてそういうことだろうか?
「理樹、どうした?」
 鈴の視線は僕の視線を沿う。小毬さんが首を振った。なら意味は変わってくる。鈴に小毬さんはみえていない。僕だけが弱いままだ。だから僕だけが幻をみる。

   ■

 翌日、僕の携帯には仕事が休みになったと連絡が入った。珍しくもない。僕の働き口に安定という二文字は存在しなかった。
 鈴は朝早くから仕事へ出かけた。最近、鈴は特に忙しく働いている。昨日はたまたまはやく帰ってきたけれど、いつもはもっと遅い。それに比べて僕はなんなんだ。自分自身に毒づく。
 鈴を見送ってから、僕は気力を振り絞り、くたびれたスーツへ着替えた。働き口が安定しないのなら、安定した場所を探すしかない。伸びた無精ひげを剃る。髪の毛も小奇麗に整える。そうする事で少しでも自分という何かが誤魔化されればいいと思う。
 体裁がいくらかましになったところで、部屋の電気を消す。代わりにテレビとゲーム機の電源をいれる。彼女たちが昨日読んでいた本を、昨日と同じ場所へ置く。誰も居ない部屋。ふとその行動は異常じゃないのかと思い、僕は一人立ち尽くす。
 何をしているのだろう。こんな所を鈴に見られたら、頭がおかしいと思われる。いや、おかしいのか。もしこれが鈴にばれたら、僕は一人になるだろうか。気味が悪いと蔑まれるだろうか。それは嫌だ。僕は鈴と居たい。そうしなければ、本当におかしくなってしまう。
 まだ今は誰も居ない。だから片付けても昨日のような顔をされることはない。
「理樹くん、どうしたんだい?」
「いや、何でもないです」
「そうか。あんまり悩まない方がいいぞ」
 迷っていれば誰かが出てくる。そうすれば僕は選ぶことなんで出来ない。
 帰ってきた後に片付けよう。そうすれば何もおかしいことなんてない。僕はいつものように結論を先送りにして、外への扉に手をかける。
「理樹くん、いってらっしゃい」
 振り返ると、小毬さんが手を振っていた。眩しい笑顔。そうか、今日は晴れか。小毬さんが現れたのを切欠に、わらわらと入り口に皆が集まる。ただでさえ狭い場所が、もっと狭くなる。それは幸せな事だったはずだ。今は一体なんなんだ? 僕は沢山の声を受けて、一人で外へ出る。
「いってきます」
 一人で呟いた声は誰にも届かない。
 扉の外は、文句のつけようがない雨だった。

   ■

 雨の中、雑踏をすり抜ける。沢山の人がいる。これだけの人がいて、皆、それぞれに生きている。正気の沙汰ではない。奇跡があるとしたら、まさにそれだ。何故みんな、生きていられる?
 平日だろうと人の絶えない就職支援センタに足を踏み入れる。希望条件なんてない。ただ安定して毎日働ける場所があればいい。僕はすがるような気持ちでタッチパネルを操作して、飛び込みの面接にこぎつける。がらがらの電車で移動して、外見ばかり立派なビルで面接を受ける。履歴書を一瞥しただけで、面接官の顔が歪んだ。いくら話をしても手応えなんてない。まだ空気の方が感覚がある。
 最後に何かありますか。僕は半ばやけっぱちで、自分が卒業した高校の名前を挙げる。
「以前にテレビで報道されたことがあるのですが、ご存知でしょうか」
「いえ、全く」
 誰の記憶にも残っていない。僕たちは生きていたのだろうか。僕はここに生きているのだろうか。何も判らない。

   ■

 帰りに、鈴の姿を見かけた。人ばかり沢山集まり、群がる、野暮ったいレストラン。彼女はそこでウェイトレスとして働いている。朝から晩まで、休みもほとんどない。
 ガラス越しに、忙しそうに店内を駆け回る彼女の姿がみえた。注文をとり、キッチンへ戻り、また違う料理を運ぶ。彼女は一日でどれくらいの距離を移動するのだろう。それは果たして人が一日に移動していい距離なのか。心臓がゆるやかに潰れる錯覚を得る。僕はその場所を離れることが出来なかった。離れないことで何が出来るわけでもないのに。
 やがて、彼女がある客へ必死に頭を下げはじめた。男は大きな口をあけて泡を飛ばしている。鈴が運んだ料理に文句をつけているのだろうか。鈴が何をした? 調理をしたのは彼女じゃない。奥から制服を着た男が現れる。店長だろうか。彼もまた頭を下げる。それはいい。あろうことか、彼は鈴の頭をその手で押さえつけ下げさせた。もちろん彼女はそれまで何度も頭を下げている。どこまで下げればいいんだ。地面にこすり付ければいいのか。
 僕はいつの間にか店の前にいた。扉に手をかける。何をしに行く? 男を殴るのか。店長を殴るのか。鈴を連れて帰るのか。
「やめておけ」
 僕を止める手があった。恭介だった。
「ほら、濡れてるぞ。一張羅が台無しじゃないか」
 恭介は全く濡れていない。僕だけがずぶぬれだった。傘がどこへ行ったのか判らない。
「鈴は大丈夫だ。帰ってきたらちゃんと頭を撫でてやれ。よくやった、ってな」
 僕は恭介に従った。項垂れたまま扉を離れる。僕を怪訝そうにみやり、店内へ入るカップルとすれ違った。僕は一人だった。外には皆が居た。相変わらず雨はやまない。小毬さんが僕へ傘を差し出した。擦り切れそうなビニルの傘。
「理樹くん、ふぁいと」
 僕はそれを受け取る。帰るまでの経路は覚えていない。僕は着替えもせずに、敷きっぱなしの布団へ倒れこんだ。僕は少しずつ何かに押しつぶされている。ただ生きているだけなのに。生きていたいだけなのに。
 そして僕はあの幸せだった日々を思い返す。夢にはみれないけれど、だから思い出す。
 音楽は鳴っただろうか。僕はそれを聴いただろうか。

   ■

「なんだ、理樹。ねてたのか」
 目を開ける。そこには鈴がいた。
「今日は遅れるから先に食べていいってメールしたのに……って、なんだ、理樹、スーツなんかで寝て。新しいファッションかっ」
「いや、違うよ……着替える、ごめん」
「別に謝らなくてもいいが……クリーニングに出した方がよさそうだな」
 立ち上がり、僕は着替える。仕切られた向こう側で鈴も着替える。
「理樹」
「どうしたの」
「ちょっと話していいか」
「いいよ」
「今日、いやなことがあった」
 僕はそれをみていた。何も出来なかった。恭介が止めたから? 僕の意思じゃない? やはり僕は何かをするべきだったんじゃないのか? 答えは見つからず、僕はただ項垂れて鈴に続きを促す。
「……なにがあったの?」
「いや、中身はどーでもいいんだ。でもあたしは頑張った。ただそれだけ」
 鈴はつらくなればなるほど、愚痴を言わなくなった。いや、元から彼女はそうだったのかもしれない。彼女の強さは、そういった類のものだ。僕は一体、何が強くなったんだ。
 僕はカーテン越しに彼女に近づく。それに気づいたのか、彼女も近づいてきた。
「頑張ったね」
「ああ、がんばった」
 頭を撫でようとすると、カーテンが邪魔をした。それでも構わず続けると、布が鈴の顔にへばりつく。何をするんだっ、と文句を言われて、撫でたいから撫でたんだよ、と説明する。恭介に言われたから? それとも自分の意思で?
「ああもういいっ。あと苦しいっ」
 鈴が僕の掌から脱出する。隣の部屋の蛍光灯を背にして、鈴が振り向く。
「……ありがとな、理樹。でもな、いいこともあったんだ」
「何があったの?」
「先にご飯をたべよう。あたしが作る。今日は肉じゃがだ」
 鈴がキッチンへ向かう。僕はのろのろとその後をついていく。机には、僕が朝置いていった漫画と小説が積まれていた。テレビとゲーム機の電源も消えている。窓辺には恭介がいる。テレビの横に葉留佳さんと来ヶ谷さんがいる。隣に西園さんが座っている。クドは目を瞑っていた。真人と謙吾がソファに座っている。小毬さんはどこだろう。鈴のすぐそばにいた。それがどういうことなのか僕は理解が出来ない。
 僕は帰ってきてからすぐに眠ってしまった。当たり前だけど、本は放置されているはずだし、テレビはつけっぱなしのはずだ。そうか、鈴が消したのか。
 鈴は手早く材料を切り分けている。単調な包丁のリズム。小毬さんはじっとそれをみつめている。
「……鈴ちゃんは、気づいてるよ」
 それがどういう事なのか判らない。小毬さんは僕に話しかけている。
「理樹くんにわたしたちが見えてることも、とっくに気づいてる」「理樹、皿出しといてくれ」「でも何も言わない。理樹くんを信じているんだね」
 小毬さんはそれだけを言って、身を引いた。鈴がおたまを取るために体を動かしたから、それを避ける形だ。あとは何も言わない。僕をなじるでもなく。僕がおかしいと責めるでもなく。どちらを選べと迫るでもなく。
「理樹、みりんどこだっけ?」
「流しのしただよ」
 西園さんの方を見ると、正解です、とうなずいていた。覚えていれば僕は応えられる。でも、忘れていたら彼女たちを頼ることが出来る。それ自体がもう既におかしい。そんなことは判ってる。なければ自分で探すしかない。あるいは鈴と一緒に探すしかないのに。
「理樹のみりんの使い方は神がかってるからな」
 でも、彼女たちは確かにここに、僕の視界にいるのだ。

   ■

 食事を終えた後、鈴が立ち上がる。出かける準備をしよう、と僕を促した。
「いいことって?」
「すぐわかる」
 僕は鈴に連れられて外へ出る。雨は降り続いている。コンクリートだって削れそうなくらい、滴は重そうだ。
 二人で歩くには狭い廊下。今にも腐って壊れそうなのに、音ばかり大きな階段。僕らはそれらを通り抜けて、雨に降りる。傘を差さなければいけない。僕がそう思ったときだった。
 車がぎりぎり二台停まれる道路。白いバン。それは僕が夢で見た、皆と乗っていた車と同じだった。
「レンタカーだっ。超高かった」
 鈴は高校時代から使い続けているぼろぼろの財布から、一枚のカードを取り出した。車の免許。お金をこつこつ貯めて取ったこと。教習場のおっさんが鬱陶しかったこと。縦列駐車で二回落ちたこと。テストが超むずかしかったこと。最近忙しかったのはそれが理由だということ。
 夢の中では恭介が免許を取っていたっけ。そんなことを思い出す。
 僕は鈴に背中を押されて、助手席に押し込まれる。この車は何人乗りだろう。運転席と助手席に一人ずつ。後ろは三列シートだ。それぞれ三人座れば、合計11人。真人が二人分とるから、ぎりぎりか。僕は後ろを見る。誰も後部座席の扉なんて開けてないのに、いつの間にか人がぎゅうぎゅうづめだった。
「……何でこんなに広いのにしたの?」
「理樹が大変そうだったからだ。あたしだって、それくらい判る」
 鈴はキィを差込む。エンジンが脈打つ。ワイパーが水を切り、震えるように車内が揺れる。鈴は思ったよりも手際のいいハンドリングをみせて、車を操る。
 どういう風にみえるんだ? みんな、普通に遊んでる。いつもみえるのか? ずっとじゃないけど、疲れてるとみる気がする。今はどうなんだ? 後部座席に座ってる。そっか、いちおう、意味があったんだな。
 車が向かっている先は、すぐに判った。たいした距離もない。僕らが出発したのは、あの場所じゃない。僕と鈴は日々を生きるために違う街へ動いた。いや、そういった距離の違いじゃない。僕らが共に生きた時間が、その距離を稼いだ。本当に少しだけれど、確かに僕たちはここにいる。
「近づくとわかるもんだな。ちょっとびっくりした」
 潮の匂い。時刻は違うけれど、それは確かに僕が夢の中で感じたそれだった。僕はあの日のように後ろを見ることが出来ない。
「夢の中では、海についたのか?」
 僕は首を振る。
「そっか。はるかの恥ずかしい歌は、理樹の話で覚えてたんだが」
 葉留佳さんが顔をしかめる様子が頭に浮かぶ。来ヶ谷さんが笑ってる。クドがそんなことないですよとフォローする。真人と謙吾が僕の知らない歌をうたおうとして、葉留佳さんに殴られる。恭介がどこからか接続ケーブルを出す。さりげに西園さんがあくどい笑い方をして葉留佳さんのポケットからオーディオプレイヤを取り出し、投げた。キャッチしたのは小毬さんで、華麗な手捌きで恭介からケーブルも受け取る。
 僕はきつく目を閉じる。どれ位経っただろう。車が停まった。車内にはいつの間にか潮の匂いが満ちている。音が聞こえた。打ち寄せては引く波の音。
「さぁ、着いたぞ。びっくりするくらい近かったな」
 鈴が外へ出る音がした。続いて、僕の扉が開く。僕の頭へ、ぽんと乗る掌。ぐりぐりと撫でられる。僕は目を開けた。鈴がにっと笑って、海の方をみる。腰を落として、僕への視界を開ける。星と月が僅かばかりの光源で、海と僕らを照らしている。
 僕と鈴は手を繋ぐ。夜の海。僕が夢の中で向かっていたのは、それではなかったけれど。
「なあ、みんなは海で遊んでるか?」
「夜だよ?」
「あいつらだから、たぶん、関係ない」
 真人が砂に取られて凄まじい勢いで転んでいた。すぐ後ろにクドが走っていて、方向転換出来ずに真人を踏んで更に転ぶ。謙吾が器用に真人の頭だけを踏む。来ヶ谷さんが爆笑していた。西園さんが日傘を差している。先ほどの復讐なのか、葉留佳さんがそれを奪い取って奇妙なダンスを踊りはじめた。
 僕は視線を上げる。恭介と小毬さんがそこにいた。二人が僕へ手を差し伸べている。
「理樹はどうしたいんだ?」
 それは鈴の声だろうか。恭介の声だろうか。いや、関係ない。その質問にだけ答えよう。僕は恭介と鈴に、言葉を返す。
「鈴と一緒にいたい」
 恭介と小毬さんは顔を見合わせる。やれやれ、と二人似たようなポーズを取って、海へと駆け出した。鈴は僕を見つめて「あたしも理樹と一緒にいたいぞ」と笑った。


 僕の幻は簡単には消えないだろう。そもそも消えて欲しいと願っているのかも判らない。だって僕は確かに皆と一緒に生きていた。それだけが世界の全てだったことがある。それを簡単に否定なんて出来ない。
 ただそれでも。鈴と共に生きたいというこの思いは確かだ。それだけは絶対に真実だ。
「しずかだな、理樹」
 本当に静かだ。雨はいつの間にかやんでいた。
 車に繋がれたオーディオプレイヤが、いつまでも音楽を鳴らしている。

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