枯れ木に花を咲かせましょう       みかん星人



 それが私の目に留まったのは、ただの偶然だった。
 空のパレットにぶちまけられた紅に藍が混ざっていく頃、遠目には二本の木に見えたそれの一方は、よく見てみれば見知った人間だった。
「葉留佳君」
 普段の喧しさはどこへやら、こちらに背を向けてぽつんと佇む彼女に声をかけるが、聞こえていないのかぼんやりと木を見上げている。
 歩み寄り、背後に立っても尚反応が無い。私を無視するとはいい度胸だ。その頭をこつんと小突く。
「こら」
「……ほぇ? 姉御?」
 間の抜けた声を上げ、こちらを振り返る。
「こんな所で何をやっているのだキミは」
「ん、この木……」
 それだけ言ってまたそちらに視線を戻す。私も葉留佳君の隣に並び、それを見やる。
 校内の敷地を区切るフェンス、ぼろぼろになった緑色の塗装が剥げて錆の浮いたそれの向こう側はすぐそこまで藪が迫っている。
 そしてその手前、ひっそりと佇む一本の枯れ木。根元が雑草で覆われその上数十センチばかりがまともな木の幹の色をし、あとはくすんだ灰色となった、二メートルばかりのやせ細った枯れ木。
「この木がどうした?」
「この木がここにあるってこと、枯れかけてるってこと、どれだけの人が知ってると思う?」
「恐らく、ほとんど誰も知らないだろう」
「だよね……」
 校庭の片隅にただ在るだけの、朽ちかけた木。そんなものに誰も気を止めはしない。
「豊かな葉を茂らせる木なら、その木陰で休むことが出来る。美しい花を咲かせば、それを愛でることが出来る。食べられる実がなるなら、味わうことが出来る。だが、いずれも出来ず、ただ朽ちていくだけの存在など、誰の目にも留まりはしないさ」
「じゃあさ、もしこの木が葉を生やせば、花を咲かせば、実をならせば。誰かは気にするようになるのかな」
「かもな」
「そっか……」
 そう呟いたきり口を噤む葉留佳君。
 ひゅう、と風が吹いた。ぶるりと身を震わせる。いつしか空は暗い藍色に塗りつぶされ、校庭を横切る風は随分と冷えてきていた。
「ほら、そろそろ帰るぞ。最近また風紀委員に目をつけられているのだろう?」
「……うん」
 促す私にこくりと小さく頷いて、その場を後にする。
 先にたって歩く私の後ろで、遅れがちな足音に混じって、よし、と小さな声がした。





 翌日。
「キミはどこの危険人物だ」
「へ? 何がっスかー?」
 校庭の片隅には赤い夕焼けを背景に佇む、抜き身の鋸とナイフを両手に持った少女というある意味恐ろしい光景が広がっていた。しかも本人は自覚してないらしくヘラヘラと笑っているもんだから余計に不気味だ。
「で、キミは何がしたいんだ。誰かを殺しに行くのか? 筋肉馬鹿あたりなら手伝ってやらんこともないが」
「やだなあ、そんなことしませんって。私がするのは接木ですヨ、つ・ぎ・き!」
「接木?」
「園芸部の子に教えてもらったんだ。枯れてる部分を切り落として接木すればなんとかなるかもってさ。そんで道具も借りてきたんですヨ」
 言いながらナイフを地面に置き、鋸を手に木の根元へ歩み寄る――途中でこちらに振り向く。
「姉御ー、良かったら手伝ってくれませんかー?」
「いやだめんどくさい」
 ばっさりと切り捨てる。
 やはは、そう言うと思ったーと笑いながら木に向き直る葉留佳君。だったら最初から言うな。

「ふんふんふーん♪」
 ぎこぎこぎこ。ぎこぎこぎこぎこぎっこぎこ。
 葉留佳君が妙なリズムで鼻歌を歌いながら鋸を引き、枯れた部分を切除している。
「ところで葉留佳君」
「なんスかー?」
「その位置だと枝が落ちてあぶな」
 すこんっ。
「あいたぁーっ!?」
「ほれ言わんこっちゃない」
 もって早く言ってー、と頭を押さえながら睨んでくる顔が間抜けで、ふははと指差して笑ってやった。それがお気に召さなかったのか葉留佳君は頬をぷくりと膨らませ、ぷいと木に向き直り作業を再開する。まるっきり拗ねた子供だ。
「ところで葉留佳君」
「今度はなんスかー?」
 不機嫌そうな声。
「接木をすると言っていたが、何の枝を接木するのだ?」
「よくぞ聞いてくれましたっ!」
 一気にテンションを回復しヒャッホゥと叫ぶ。お手軽な奴。
「今回接木する枝はズバリ! みかんの枝ですヨっ!」
「参考までに聞いておくが、何故みかんを選んだ?」
「どうせなら実がなる木の枝がいいかなーって思って。それにはるちんみかんとか好きだしっ!」
 どうでもいい理由だった。
 私が呆れている間に葉留佳君は枯れた枝の切除を終え、ポケットから取り出したそれをほどく。新聞紙に包まれた十数本ばかりの小枝。
「で、そのみかんの枝はどこから調達してきたのだ?」
「近くの農家のおじさんに譲ってもらったよー」
「人のいいことだ」
 やははーそっスねーなどと笑いながらも作業を続ける。変わった形の(接木用のものらしい)ナイフで木の切断面にさらに切れ目をいれ、そこに小枝を差し込む。その上から白いテープをくるくると巻き、固定する。
 ややあって、すべての枝にその作業を終える。葉留佳君は清々しげに顔を上げて。
「よっしこれで完璧万事解決っ!」
「なんでやねん」
 思わず関西弁で突っ込んだ。しかしボケた側は意味が分からないというようにクエスチョンマークを浮かべ首を傾げる。本当に分かってないのか。
「いいか、そもそも枯れかけているということは木自体が弱っているということだ。接木だけしてもどうにもならん」
「そんじゃどうすればいいの?」
「それはその根元付近の雑草を抜くなり土に肥料を混ぜるなり水を撒くなり」
 言いながら葉留佳君の足元を指差す。いつもの白黒ボーダーニーソックスの白い部分には黒ずんだ緑色の斑点がいくつもできていた。
「うーん、そうだったんだー… めんどそーう」
 不満そうな顔を浮かべる。園芸部の子とやらは教えてくれなかったのだろうか。単に葉留佳君が話を聞いてなかっただけという気がしないでもない。
「まあ、今日のところはここまでにすればいいだろう。続きはまた今度にすればいい」
 そろそろ日も暮れかけている。これから草を抜くにしても、校舎や寮の明かりも届かないここでは暗くて効率が悪いだけだろう。
「んー、じゃあそうしよっかな。これも返さないといけないし」
 言って鋸とナイフを拾い立ち上がる。あたりが薄暗くなり始めた今、不気味さは随分と増していた。
「あっ、そうだ姉御、明日はてつ」
「私は手伝わんからな」
「……ちぇー」





 木の根元にしゃがみ込んで、んしょんしょと草抜きに励む葉留佳君。私は数メートルばかり離れた場所に設置したテーブル(中庭から運んできた)につき、優雅に紅茶を楽しむ。きっと夏に働くアリを眺めるキリギリスはこんな気持ちだったのだろう。もっとも私がこのアリに泣きつくことなど生涯あり得ないが。
 穏やかなひと時。芳しい紅茶の香り。しゃがみこんだ葉留佳君の短いスカートの裾から時折覗く魅惑の三角形。どうやら今日はライトグリーンの水玉らしい。私はその光景を心に深く刻み込んだ。
「精が出ることだな」
「何でだろ、姉御が精が出るって言うとすごくえっちく聞こえる」
「失敬な」
 私も少しばかり考えたのは秘密だ。
「まあそれはさておき、はるちんこれでも結構マメなんですヨ」
「そうかね」
 私はずず、と紅茶を一口すすった。

 五分後。
「飽きたっ! めどーい」
「おい」
 唐突に顔を上げ、抜いていた雑草をぽーいと投げ出す。マメなんじゃなかったのか。
「だってこんなに草ぼーぼーなんだもん! ぼーぼー! ぼーぼー燃やしちゃうぞコンチクショー!」
「間違いなく面倒ごとになるからやめろ」
「ちぇー」
 まあそれでもぶつぶつ文句を言いながらも作業を再開するあたり実際マメだとは思う。が、そんなことを口にすれば調子に乗るのが目に見えているので言わない。私は退屈しのぎに持参した文庫を開いた。

 風に肌寒さを感じ、読んでいた官能小説に栞をはさみ、ぱたんと閉じた。美魚君のお勧めだけあってなかなかハードかつ素晴らしい内容で、随分と読み入ってしまったようだ。太陽は西に傾き山にかかりつつある。
 葉留佳君の方を見やる。フェンスを境に木の周辺の雑草はほとんど抜かれていたが、木の根が張っている範囲を考えると、フェンスの向こうの草も抜く必要がある。葉留佳君にそのことを伝えると嫌そうに顔をしかめた。だがなんだかんだでやる気らしい。とりあえず今日はフェンスよりこちら側、向こう側はまた今度だそうだ。
「私は手伝わんからな」
「分かってますよぅ」





 葉留佳君はフェンスの向こうで今日も草抜きに勤しんでいる。ここからではしゃがみ込む葉留佳君のスカートの中は生い茂る雑草に遮られて見えないが、葉留佳君がフェンスを乗り越える際にばっちり見ておいた。今日はピンクのしましまだった。私はその光景を心に深く刻み込んだ。
 脳裏にその光景を再生しつつ紅茶を味わうそのひと時は、葉留佳君の叫びで遮られた。
「うひゃーなんだこの黒いのー! てかキモ! ほんとキモっ!」
 見れば何やら地面に向かってぎゃーぎゃー騒いでいる。とは言え彼女が騒がしいのはいつものことなので放置して官能小説に目を落とす。姉御、姉御ーと呼びかけられるが無視しているとそのうちガシャガシャとフェンスを揺らす音。ちらりと見てみればフェンスを乗り越えてこちらに来ようとしている葉留佳君とピンクのしましま。葉留佳君はそんなに私にぱんつを見せたいのだろうか、淫乱娘め。
「姉御っ、これ見てこれっ!」
 そう言って差し出されたのはぱんつではなかった。つまらん……って言うかキモい。差し出されたそれは、金属のスコップの上でぐにょぐにょと身を捩る黒い芋虫。
「根切り虫というやつだな。本来これほど大きい木の根にはつかないはずだが、木がこれだけ弱っていればお構いなしと言うところか」
「姉御姉御っ、解説してくれるのは嬉しいんですがなんで私は胸倉を掴みあげられているのでしょう?」
「キモいものを見せるからだ」
 どうせならぱんつでも見せろ、とばかりに私の右手に力が篭もる。ぐえ、と蛙がつぶれた様な声をあげて葉留佳君がもがく拍子にシャツのボタンがぷちんと外れ、その胸元が覗いた。
「……ふむ」
 ぱっと葉留佳君の胸倉から手を離す。ぱんつとお揃いなのか、これまたピンクのしましまのぶらじゃーに免じてのことだ。うむ、なんと寛大な私。
 地面に座り込みけほけほと咳き込む葉留佳君を放置してフェンスの元へ。フェンス越しに向こうを見れば、目に入るは掘り返された地面、そこから覗く木の根、そしてそれにたかり蠢く無数の黒くてうにょうにょしたもの。キモい。
「姉御ー、これ、どうすればいいの?」
 後ろから葉留佳君が情けない声を投げかけてくる。
「それは駆除するしかないだろう。放っておけば確実にこの木は枯れるな」
「えー、あんなにいっぱい? 殺虫剤とか使おうかな」
「やめておいた方がいいだろうな」
「なんで?」
「殺虫剤の類は木にとっても多少は有害だ。枯れかけるほどに弱った木に使えばそれが原因で枯れかねん」
「じゃあ、一匹一匹掘り返せと?」
「うむ、そうなる」
 うえー、とうんざりしたような表情をする葉留佳君。
「……なら、止めたらどうだ?」
「え?」
「別にこの木が枯れようが、誰も文句は言わない。逆にこの木が息を吹き返しても、誰もキミに感謝しない。誰もこの木のことなど見ていないのだからな。だったら放っておいてもいいだろう」
「んー……それはそうだけど……」
 どこか遠い目で考え込んだのも一瞬のこと、すぐいつもの能天気な笑顔に戻り、口を開く。
「でもほら私、マメな整備委員だし! それにこのゴッドハンドはるちんにかかれば木の一本ぐらいラクショーで生き返らせて見せますヨ!」
 ぴょんと立ち上がり、大きいスコップ借りてくるーと言い残してあっという間に校舎の方へと駆けていった。
 ……まあ、私の口出しすることでもないしな。
 官能小説の続きでも読むかとテーブルに向かったところで、地面に放置されたスコップと、その横でのたくる生き物が目に入った。
「……ふん」
 鼻を鳴らし、スコップの先で掬い上げたうぞうぞと蠢くそれをぽいと藪の中へと投げ捨てた。

 結局この日、葉留佳君はどうやらフェンスの向こう側の根切り虫は粗方駆除したらしい。だがその頃には日はほとんど沈んでおり、フェンスのこちら側にもいるであろう虫の駆除は後日ということになった。
「ちなみに私は手伝わんからな」
「分かってますって、姉御のお手は煩わせませんヨ」





 今日も葉留佳君は黒くてグロい物体Xと格闘している。地面を掘り返してその中を覗き込んでいるものだからいつも以上に絶景が私の目に届いた。今日は薄いブルーの無地のようだ。私はその光景を心に深く刻み込んだ。
「あーもー、なんか腹立ってきたぞこんにゃろー、潰してやろうかこんちくしょー」
 地道な作業に飽きてきたらしい葉留佳君が物体Xをスコップの先でつんつんしている。
「潰してもいいが私の前ではするなよ」
「なんで?」
「そいつを潰すと中から緑色とか紫色をしたどろどろがでろでろと」
「……出るの?」
「うむ、出る」
 怪しげな粘液まみれになる少女というフレーズには心惹かれるものがあるのも確かだが、さすがにこの状況はいただけない。こちらにも被害が及ぶ恐れがある。
 葉留佳君はうぇー、と顔をしかめながら腕で額に浮いた汗を拭う。
「にしてもこの木、枯れかけてる割には根っこはしっかり張ってるんですねー。おかげで掘るのが大変大変。あ、大変大変って何回も言ってるとそのうち変態って聞こえない?」
「誰が変態だ」
「誰も姉御が変態だなんて言ってませんよぅ」
「そうか、ならいい」
 葉留佳君の言葉通りこの木、地面より上の部分は枯れかけた貧相な様だというのに、意外と太い根は広く深くまで張られている。ええいこの隠れ巨根めなどと言ってみるも当然の如く返事は無い。
「……やっぱり姉御ってへんた」
「ええいうるさい黙れさもなくばおっぱい揉むぞこのファッキンガール」
 わひゃあと私から距離を取る葉留佳君。そんな怯えた瞳をしないで欲しい、ぞくぞくする。相変わらず被虐心の強い娘だ。
「ほれ、さっさと作業に戻れ。今ならおっぱい五揉みで許してやるから」
「って揉まれるのは決定事項っ!?」
「もちろん私は手伝わんがな」
「しかも無視っ!?」
「まったく文句の多い奴だ仕方ない、お尻五揉みで勘弁してやろう」
「嬉しくなーい!」
 ちなみにこの後、嫌がる葉留佳君の柔らかくも張りのあるお尻をたっぷり十二揉み堪能した。私はその感触を心に深く刻み込んだ。





 ――臭い。
 あたりは異臭に包まれていた。原因は葉留佳君がどこからか調達してきた肥料(別名:牛糞)だ。あまりの臭さに鼻がひん曲がりそうになる。さすがは牛のうんこ。
「みーかんーのはーながー、さーいてーいるー♪」
 本日のうんこガール三枝葉留佳は強烈なうんこ臭の中心だというのに楽しそうに歌なんぞ歌っていやがる。私でさえスカト〇は受け付けないというのに、こやつなかなかやりおる。
「キミは何歳なんだ葉留佳君」
「分かる姉御も相当なもんだと思うんですけどー」
「いや、選曲のセンスだけではなくてだな」
 タオルを顔に巻きつけて匂いを防いでいる、まるっきり田舎のおばちゃんスタイルの葉留佳君。たとえ中身はただのアホ娘だろうと外見はそこそこ整っているから目の保養になっているというのに、そんな格好ではちっとも萌えやしない。
 そんな私の心中も知らずに葉留佳君は土を掘り返し、牛のうんこと混ぜ、埋め戻していく。そのたびにかぐわしきかほりが立ち上り、とても紅茶の香りを楽しめるような状況ではない。ここが校庭の片隅で良かった、もし校舎の近くだったらまた面倒なことになっていただろう。
 風上に避難し、たっぷり五十メートルは距離を取っている私でさえも顔をしかめそうになるというのに、その臭気の爆心地で元凶のアホ娘はみかんみかんみかーん、などとまた別の歌を楽しそうに歌っている。
「楽しそうだな、葉留佳君」
「そう見えますー?」
「ああ。とうとう嗅覚だけでなく脳までやられたか?」
「んなわけないじゃん! 歌でも歌わなきゃやってられないってーの! 臭い臭いクサイくさいくーさーいーーっ!」
 どうやら地雷だったようだ。私の判断力も臭さにやられて低下していたらしい。葉留佳君は歌で気を紛らわしていたらしく、堰を切ったように臭い臭いと喚きだす。ウザい。
「ああもうさっさと作業を終わらせろ、でないとまたお尻揉むぞ」
「ひえぇっ!」
 あっさり喚くのをやめて作業に戻る。まあ今の全身にうんこ臭を纏う葉留佳君のお尻を揉むなどこちらから願い下げだったのだが、当の葉留佳君は気付いていないので問題ない。所詮は葉留佳君、ちょろいもんだ。

「接木をして、周囲の雑草と根に付いた虫を除去して、土に肥料も入れて。これだけすれば十分だろう」
「ねえねえ姉御ー」
「あとはたまに様子を見て雑草が生えていれば抜く、それぐらいで良かろう。運がよければ接木が定着するだろうさ」
「姉御っ、姉御ー!」
「なんだうるさいぞ葉留佳君」
「なんでそんな離れて歩いてるんですかー?」
 作業を終えて寮へと戻る葉留佳君と私。その間の距離は普段の五倍(当社比)。理由はもちろん。
「貴様が臭いからだ」
「めっちゃ直接的に言われたっ!?」
 うわーんと芝居がかった調子で嘆く葉留佳君を余所にルームメイトも大変だな、などと思ったところで今の葉留佳君のルームメイトがクドリャフカ君であることを思い出した。
「とりあえず戻ったらすぐに風呂に入ること、その匂いをあまり撒き散らすな」
「そりゃまあ私だって早くお風呂入りたいですよー」
 葉留佳君ならまだいいがあのロリ犬少女をうんこ臭まみれにするのはしのびない。ところでクドリャフカ君をロリーヌと呼ぶのはどうだろう、とふと思った。本人外国っぽいのに憧れているらしいし、その本質を極めて的確に表しているいい名だと思う。
「あ、こら。そっちを通るんじゃない。そっちは風上だろうが。風下通れ風下」
「うわーん、私だってなりたくて臭くなってるんじゃないのにー!」
 そうしていたにも関わらず、その強烈な臭さが私の服に深く刻み込まれていたことに気付いたのは寮の自室に戻ってからだった。私は葉留佳君に復讐のおっぱい百八揉みを課することを心に深く刻み込んだ。





 台風の進路は逸れてはいたが、それは十分な風と雨をもたらした。風はびゅうびゅうと音を立て、雨は景気よく窓ガラスを叩いている。
 ブブブ、とマナーモードに設定した携帯が震え、着信を知らせる。読んでいた園芸の本から顔を上げ、携帯を見る。発信者の名前は――。
『ロリーヌ』
 そうだった、ロリーヌと呼んでいいかとクドリャフカ君に聞いたら泣きそうな顔をされたのでやむなく携帯に登録した名前をこう変更するに留まったのだった。
 通話ボタンを押し、電話に出る。
「私だ。どうしたロ……いやクドリャフカ君」
「……来ヶ谷さん、今失礼なことを言おうとしませんでしたか?」
「そんなことはまったくない。で、用件は何だね」
 何とかなだめつつロリーヌから聞き出したところによると、もうすぐ門限だというのに葉留佳君がいないらしい。今日は実家に帰るとも聞いておらず、携帯にも繋がらないので親しい人間を当たっているところらしい。葉留佳君の居所に心当たりはないかとの問いに、私はNOと答えた。
「……やれやれ」
 ため息をつきつつ携帯をしまう。本当は心当たりが無いではない。だが。
 窓の外を見る。外はごうごうと風がうなり、大粒の雨が降り続いている。
「こんな天気の中、外に出るのは余程のアホか自殺志願者だけだ」
 言いながら、私は傘を手に取った。

「この馬鹿者がっ」
 本物のアホがいた。校庭の片隅、風で折れそうにしなる貧相な木の前で何やら不可解な行動を取る見慣れた人間の姿。
「おいっ」
 すぐそばまで歩き寄り、風に負けないように声を張り上げる。掴んだ腕はびしょ濡れで、ぞくりとするほど冷え切っていた。
「あれ、姉御? 何やってんの?」
「それはこっちの台詞だ! こんな天気の中何をやっている!」
 きょとんとした間抜け面で紡がれる言葉に、思わず語気が荒くなる。だというのに目の前の馬鹿者は悪びれもしない。
「いやー接木した枝が飛んじゃわないように、こうやって覆いを被せてたんですヨ」
 見れば、接木した枝のほとんどには白いビニール袋がかけられ、その上からビニール紐できつく縛られていた。
「――貸せっ」
 冷え切った手からビニール袋と紐を奪い取る。こんなもの、さっさと終わらせて――。
「ダメっ!」
 強い声と共に袋と紐が奪い返される。
「姉御は“手は出さない”、そうでしょ?」
 葉留佳君が、まっすぐにこちらを見上げてくる。その手は冷え切っていて握る力も弱々しいくせに、その瞳だけはやけに力が漲っていた。
 その瞳を前に、私は。
「……さっさと終わらせろ」
「りょーかいですヨっ!」
 ……屈するしか、なかった。

「ここは傘二本用意してくるところじゃないんスかー?」
「まさか本当に居るとは思わなかったんだ」
 いつしか風は止み、雨も幾分小降りになっていた。
「まーいいですけど。ここまで濡れてたら今更傘さしても仕方ないし、濡れて帰ろーっと」
「風邪をひかんようにな」
「無敵のはるちんは風邪なんかひかないのだーっ!」
「なるほど、馬鹿だから風邪はひかんと」
「ちーがーうっ」
 傘をさす私の隣、傘をささずにそれどころか雨を浴びるかのように両手を広げ、踊るようにくるくると回りながら寮への帰途を歩む。
「水も滴るいい女ー、なんちて」
 全身ずぶ濡れだというのに一切曇らぬ笑顔で笑いながら、透明な水の雫とともにくるくると舞う彼女の姿は――悔しいが、確かに普段より“いい女”に見えた。
「楽しそうだな」
「んー、さっきまではそんなに楽しくもなかったんですけどねー」
「何かいいことでもあったか?」
「そりゃあもー、すんごくいいこと、ありましたヨっ!」
 そう言って彼女はまた笑う。
 寮までの短い帰り道、ずっと彼女はそうやって雫と戯れていた。その光景は私の心に深く刻み込まれた。





「姉御あねごあーねーごーっ! 見て見てー!」
 私が校庭の片隅に足を運ぶと、いつも以上にハイテンションな葉留佳君の声が私を迎えた。
「芽が! 芽が出たんですヨっ!」
 えらく興奮した様子でぴょんぴょん飛び跳ね、やかましく喚きながら指差すその先、接木したいくつかの枝のうち三つからは本当に小さな若緑の芽が、それでも確かに芽吹いていた。
「良かったではないか」
 私がそう言うと、葉留佳君はやははと笑い、頭を掻きながら照れくさそうに言う。
「姉御のおかげですヨ」
「私は何も手伝っていない」
 ただ見ていただけだ。なのに葉留佳君はううん、と首を横に振る。
「枯れ木でも姉御は見てくれた。手は出さなくても、ちゃんと見ていて、それからいろんなことを教えてくれた。だから、ありがとうですヨ」
 私とて、結構……いやかなりぞんざいに葉留佳君を扱っているという自覚はある。だと言うのにこんないい笑顔で礼を言われて――何というか、居心地が悪い。思わず目を逸らした。
「およ? 姉御もしかして照れてる?」
「照れてないっ」
 何故だか妙に悔しい。話題を逸らす。
「しかしキミも酔狂だな葉留佳君」
「ほえ? なんでッスか?」
「今接木に成功したとして、まともに食べられるような果実がなるのは早くて二、三年後だ。その頃には私たちは卒業している」
「まーそりゃ私みかん好きだし、できれば食べたいけど」
 葉留佳君はそこまで言って、にいっと笑って見せる。
「来年でも花ぐらいは咲くっしょ。それで我慢しますヨ」
 その言葉に、何か妙に納得してしまう。ずっと抱いていた疑問が氷解したような、そんな感覚。
「……つまり、枯れ木をこそ愛でて花を咲かせたがる、そういう酔狂な人間も中にはいる。そういうことだな」
「ほえ? どゆこと?」
 間抜け面を浮かべて聞いてくるのをなんでもないと軽くあしらう。
「葉留佳君、キミは」
「ん? 何なにー?」
「……いや」
 はて、私は今何を言おうとしていたのだろうか。しばし考えてみるが答えは出ない。隣に並ぶ葉留佳君を見やる。
 みかん色の夕日を浴びながら、頭に花が咲いた娘がこちらを見上げ、泥に汚れた顔をへにゃりと緩ませて、花が咲くような笑みを浮かべる。
「あー……まあ」

 ――とりあえず。

「触るな汚い」
「姉御ひどぉーっ!?」

 罵倒してみた。

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