最近、鈴が新しい口癖に嵌っている。
 いや、別に口癖それ自体を否定するわけじゃないんだけど……物によっては可愛らしいと思うんだけど……なんというかその――

「あ〜なるほどな! そうかそうか、あ〜なるほどな!」

――ア○ルって連呼するのは正直やめて欲しい。



 あ〜! なるほど!       ねるお



 発端はとあるテレビ番組だった。
 それは何の変哲もない、よくあるバラエテイー番組で、お茶の間にも比較的ウケのよろしい類のものだ。どう考えても害悪になんてなりそうもない、むしろ時には教育上非常に有用なものでさえある――知識番組"あ〜! なるほど!"
 今更人には聞けないような日常の疑問を見事に暴き出し、"あ〜! なるほど! そういうことだったのか!"と解答を与えてくれる企画物で、まあ毒にも薬にもならないような物、といえばそうなんだけれど……その……ネーミングセンスが非常にまずかった。っていうか、"あ〜!"って要らないだろっ! 嫌がらせかっ!
 ネーミングセンスがまずいだけならばまだお茶の間が気まずくなる程度で済むかもしれない。けれどもし、もしテレビの影響を受けてしまう人が出てきたとしたら……?
 初めてその番組を目撃したときに、僕の中である種の危惧が生まれた。僕はその番組を食堂のテレビで目撃した翌日、真っ先に教室に向かい、授業の予習をしていたクドの元へ駆け寄ると、

「クド! 昨日どうしてもわからないから教えて欲しいって言ってた事、答えがわかったよ!」
「本当ですかーっ!? ってリキ、どうしてそんなに汗をかいて……」
「いいから、よく聞くんだクド! 確か君はこう言っていたね。『どうして"インテリ"は英語では"いんてりじぇんと"ではなく"いんてれくちゅある"と言うのでしょうか……』と」
「は、はいー。えと、辞書を引くと、知識階級やインテリは"an intellectual"になってて……それだとインテリではなくインテレになるのではないかと思ったのですが」
「それはね……インテリの語源が英語ではなくロシア語だからなんだ……интеллигенция(インテリゲンツィア)が原語だったんだよ……!」
「あ〜!」

 クドの口が大きく開いて固まる。
 僕の胸が、爆発しそうなほどに激しく鼓動する。
 まさか……まさか……っ!

「そういうことだったんですかー! 確かにロシア語にинтеллигенцияって言葉がありました……わふ、大盲点だったのですー……これぞ"灯台下暗し"というやつですねっ」

 よかった……っ! 本当によかった……っ!
 そうだよね、いくら69だからといってさすがにそこまでお子様じゃないよね、クドは! 疑ってごめんよクド! お詫びに撫で撫でしてあげよう!

「わ、わふっ! り、リキ、そんな人前で……恥ずかしいですー……」

 ははは、こやつめ!
 僕は三日ぶりのお通じが来たかのようなさっぱりとした顔で席へと戻り――

「こまりちゃん、この問題はどうやって解くんだ?」
「うん、それはね、りんちゃん、ココ、この公式を応用すれば……はい、このとおり、解けましたよ〜」
「あ〜!」

 微笑ましい日常会話をBGMに安心して鞄を開け、準備を済ませようと教科書を取り出し――

「なるほどな! あ〜なるほど! そういうことだったのか! あ〜なるほどな! ありがとうこまりちゃん!」

――机の上からヘッドスライディングをかましてしまった。

「おい直枝、危ねえって」
「ご、ごめんごめん。ちょっとショッキングなことが」

 前の席に座っていたクラスメイトに詫びると、声が聞こえてきた方角へと目を向け、犯人を見定める。

 鈴。
 僕は悲しいよ。
 今僕はとても悲しい。

「あのさ、鈴……」
「理樹か、聞いてくれ。こまりちゃんが天才なんだ」

――言えない……っ! 僕には言えない……っ! この純真無垢な瞳を前にして"ケツの穴"なんて下品な言葉を差し込むことなんて……僕にはできない……っ!

 今思えば、これが最初の過ちだったと思う。このとき僕がきちんと理由を説明し、止めることができていれば……だけどそれも、今となっては後の祭りだ。



 それからというもの、鈴はことあるごとに"それ"を頻繁に使うようになった。初めのうちこそは周囲の認識も"ああ、あのテレビ番組か"程度のものだったけれど、そこは年頃の青少年の性か、やがて一人、二人、と真実に目覚め始める。
 鈴が"あ〜!なるほど!"と頷くたびに、そこかしこから押し殺した笑い声が上がるようになった。冬が終わり、春の訪れと共に僕らが進級して最上級生になるころには、クラスで気づいていない者は一人もおらず、それどころか学年の垣根を越えてわざわざ見物にやってくる人まで出てくる始末だった。
 僕は何とかしてこの流れを食い止めようと奔走し、根回しをしていった。リトルバスターズの皆にも協力を仰ぎ、そこそこ仲の良い別クラスの友人を駆け巡って回ってもらった。けれど人の口に戸は立てられないし、現状鈴の口癖は治らないままだったので、僕らの行動は無意味とは言えないまでも、一部の心無い生徒たちの噂の根絶にまでは力及ばなかった。

「理樹。これは誰もがいつか越えていく坂道なんだ……妹を頼んだぜ」

 僕が最も頼りにしていた恭介も、その一言だけを残し、あっさりと卒業していってしまった。その去り際のあっけなさに、カッとなった僕は思わず肩を掴んで引きとめ、自分の妹が好奇の目に晒されて悔しくないのか、と当り散らした。

「本音を言えば"ア○ル姫"とか呼んでる奴ら片っ端から殴りつけてやりたいけどよ、やっぱもう俺の出る幕じゃねえよ。いつまでも幼いままじゃいられねーってことだ。それに俺、あんま心配はしてねーんだ……理樹、あいつの傍にはお前がいてくれるからな」

 そういって親指を立ててニカっと笑う仕草は、昔から、少しも変わってはいなかった。



 救いがあるとすれば、表立って騒がれることがなかったことと、信頼できる仲間たちに恵まれたことだった。おかげで僕らは、表面上は何事もなく学園生活を満喫することができた。学園の姉妹校が新設され、交換留学生として鈴が選ばれそうになったときには"肛姦留学生"などと揶揄されそうになったりもしたけど(ちなみにこの話は鈴が丁重にお断りしている)、楽しい毎日だったって、胸を張って言える。
 その間鈴は少しも変わることなく、相変わらず"あ〜!なるほどな!"とことあるごとに叫んでいた。はた迷惑なことに、今回の彼女のマイブームはどうやら長生きらしい。でもそれも鈴らしいな、と微笑ましくもあった。
 
 一度だけ、鈴をア○ル姫から解放するべく、それとなく誘導しようとしたことがある。

「ねえ、鈴。その口癖なんだけどさ」
「口癖ってなんのことだ」
「いやほら、よく"あ〜!なるほどな!"って言うじゃない」
「あ〜!なるほどな! あれか! あ〜!なるほどな!」
「そうそう、それそれ。それなんだけど……語頭を"お〜"にしたほうが、なんかかっこよくないかな」
「お〜……なるほど……お〜!なるほどな! そうかそうか! お〜!なるほどな!」

 よし、うまく誘導できた、と思ったのも束の間、次の瞬間、僕はとんでもない事実に気づかされる。

――あれ、ちょっと待って……お〜、なるほど……オナる……ほど……?

 しまった……っ! 悪化してる……っ!

「ま、待った待った! やっぱ"あ〜"のほうがいいかも!」
「なんなんだお前はさっきから。まあいい、用が済んだならもう行くぞ」

 知らなかった。
 僕は知らなかったんだ。
 日本語がこれほどまでに残酷なものだということを、僕は知らなかったんだ……。



 何はともあれ、表面上害がないならば気にしていても仕方がない。そう割り切って、日々を過ごしてきた。その間に様々な出来事があって、楽しいこと、悲しいこと、いくつもの貴重な体験をした。
 そして僕の隣には、いつだって一番近くに鈴がいた。
 いつしか僕の中で、鈴がとても大きな存在になっていたらしい。彼女の姿が見えないと、僕はなんだか落ち着かない気持ちになって、きょろきょろと周囲を探してしまうほどだった。その間もあの気まぐれな猫さんは、僕のそんな気持ちに気づいているのかいないのか、マイペースに僕の周囲をうろうろしたり、しなかったりと変わらずにいてくれた。

 そして楽しい学園生活の終焉を告げる最後の春がやってきた。このころになると最上級生も自由登校となり、進路の決まった生徒たちは、もっぱら友達との思い出作りに励むようになった。僕らもその例に漏れることなく、毎日が遊び倒しの日々だった。
 一度、社会人となった恭介が遊びに来たことがあった。愛車を乗り回してやってきたその姿は、たった一年でこれほど見違えるものなのかと思えてしまうほど大人びたもので、僕らは嬉しいような寂しいような、複雑な心境で恭介を迎えた。
 けれどそんな遠慮しがちな僕らを見て、気にした風もなく恭介は親指を立ててニカっと笑って告げる。

「おいおいお前ら、なんて顔してんだよ。親友が会いに来たんだぜ。もっと嬉しそうな顔しろよな!」

 その一言がきっかけとなって、僕らの間に微かに漂っていたわだかまりが解けていく。まるで恭介がいたころの学園時代に戻ったかのように、活気が生まれた。卒業旅行をしよう、という提案は全会一致で可決し、何日もかけて計画も練った。
 そんな僕らの少し早めの卒業旅行もあっという間に終わり、ついに学園とお別れする日がやってきた。
 卒業式。
 このまま何事もなく終わると思っていた。
 相変わらず鈴はことあるごとに"あ〜!なるほどな!"を口癖としていたけれど、もう周囲も既に飽きていたのか、以前ほどには騒がれなくなっていたし、皆もそう信じていたと思う。

 ――だからこそあまりにも唐突な破局の訪れに、誰も順応することができなかった。

 卒業証書授与式も無事終わり、在校生が作るアーチを潜り抜け、それぞれの教室で行われる最後のホームルームに備え、生徒たちが戻っていく。
 その最中、突然鈴が行方不明になった。
 最後に目撃した生徒――小毬さんだ――の話によると、鈴と小毬さんは二人で一緒に教室へと戻ったらしい。

――最後だし、花瓶のお花にお水をあげようとしてたんだ
――でももう先生たちが既に片付けちゃってたの。だから二人でお話でもしてようかって、りんちゃんの席まで行って……
――そこでりんちゃんは机の中の手紙に気がついたみたい。訝しげに読んでたと思ったら、突然顔色を変えて教室を飛び出して行っちゃったの
――私はてっきりラブレターかな〜と思って笑顔で見送っちゃったんだけど……違ったのかなぁ……

 僕はなんとなくその手紙に書いてあった内容が推測できてしまった。今まで目立った行動はしなかったというだけで、結局のところ最後の最後まで心無い人たちは心無い行動をやめなかったということだろう。
 そして最後だから、思い切った行動をとっても、後腐れはない。
 "立つ鳥跡を濁さず"なんて所詮はただの幻想だったんだ。
 僕は担任の呼び止める声を振り切って廊下へ飛び出すと、当てもなく駆け出した。

 校舎の隅々まで探し終えるころには、陽も傾き、人の姿もまばらになっていた。一般教室はいうまでもなく、美術室や音楽室、視聴覚室など特別教室にも向かい、そこに人がいれば鈴の行方を尋ねた。部室、中庭、裏庭、校庭――女子にも声をかけ、女子寮の中も探してもらったけど、結局そのどこにも鈴の姿は見当たらなかった。

 一つだけ探していない場所があるとすれば――今、僕はそこへと向かっている。

 誰もいなくなった校舎の、誰も訪れることのない階段を一段ずつゆっくりと足を運ぶ。
 不要になった机や椅子などの備品が積もりに積もった階段の踊り場。そこを潜り抜け、用意していたドライバーを取り出すと、窓枠のネジをゆっくりと回していく。
 カタン、と何かが外れる音がした。
 隙間に身体を滑らせ、外へと抜け出す。

 この学園で、最も空に近い場所。本来は立ち入り禁止のこの場所に、今僕は立っていた。
 吹きすさぶ風が頬に心地よく、身体に熱が篭っていたことを実感する。

「やっぱりここにいたね、鈴」

 そして赤光が目を焼く景色の果て、フェンスに凭れ、目を閉じ静かに佇む鈴の姿を捉えた。

「近寄るな」

 踏み出した一歩と共に突きつけられた拒絶の言葉が、物悲しい響きを帯びて空へと舞い上がっていく。
 拒絶されたことよりも、拒絶せざるを得なかった鈴の心境に、そして追い込んでしまった自分の、支えきれなかった自分の不甲斐なさに、僕は一筋の涙を零した。

「あたしはもう穢れてるんだ。お前の傍にいる資格はない」
「ごめん」
「どうしてあやまる」

 鈴がくしゃくしゃに丸めた紙を僕へと放り投げる。軽く目を通すと、やはり予想したとおりの揶揄する言葉が無遠慮に書き連ねられていた。

「あたしはな、この一年間、いや……もっとだな。一年半もの間、公衆の面前で"ケツの穴"って叫び続けた女だぞ。そしてそれは誰のせいでもない、あたし自身が、あたし自身の意思で、叫び続けていたんだ。"ケツの穴"ってな……」
「でも、知らなかったんだよね? だったら……」
「かんけーあるかっ!」

 悲痛な叫びは、上空を吹きすさぶ突風よりもなお強く、僕を打ちのめす。

「知らなかったなんて、関係ないだろっ! あたしはア○ル姫なんだ! あたしはもう穢れているんだ! わかったらさっさときえろっ!」
「大丈夫、鈴、大丈夫だから」
「何が大丈夫だ! 無責任なこというなっ! どこが大丈夫なんだ! いってみろ! これから先ずっと皆の記憶にア○ル姫って残るあたしの、どこが大丈夫なんだ!」

 その言葉を聞いて、一つ頷いてみせる。小型の拡声器を取り出し、息を大きく吸い込んで、叫ぶ。

「あ〜! なるほどね! あ〜そっかそっか! あ〜なるほどね! そういうことだったのか! あ〜なる! あ〜なる! あ〜なるほどねー!」

 僕の叫びは学園内を超え、外へと飛び出していったことだろう。敷地の外にいた買い物帰りの主婦らしき人が、ぎょっとこちらを振り返ったのが見えた。
 唖然とする鈴を尻目に、拡声器を外して彼女の元へと歩み寄る。

「鈴がア○ル姫なら、僕はシリアナード王子になる。だから、大丈夫だよ」
「あほかーっ!」

 瞬間、ものすごい衝撃と共に僕の身体が宙に浮いた。
 放たれた鈴のつま先が僕の顎を的確に捉えたのだ。
 浮遊感は一瞬、すぐさま地面へと落下し、背中が強く叩きつけられた。肺から空気が漏れるように、こふっとうめき声が上がる。

――相変わらず、鋭い蹴り上げだね……でもあいにくと、ここで気絶するわけにはいかないんだ

 脳が揺さぶられ、意識が朦朧となるところをぐっとこらえ、僕は立ち上がった。
 怒っているような、泣いているような、どちらともつかない顔で僕を見据えた鈴が、怒鳴り足りないとばかりに僕に掴みかかる。

「このばかっ! ばかっばかっばかっばかっばかっ! お前まで穢れてどうすんだっ! あたしは、あたしはお前にだけは綺麗なままでいて欲しかったんだぞ!」
「ねえ、鈴。これは例えばの話なんだけど」

 僕は泣き喚く彼女を遮り、続けた。

「10kgの荷物をそれぞれが背負うのと、20kgの荷物を二人で支えあうのって、どっちのほうが楽だと思う?」
「それは……えと……二人……か?」
「一人の痛みを分かち合うことはできないよ。僕と鈴は別の生き物だからね。でも、それでも、二人の痛みを合わせて支えあうことは出来ると思う」

 呆然と僕を見つめる鈴、それをしっかりと見つめ返す。
 大丈夫、この世に恐れるものなんてない。
 言い聞かせるように一つ頷くと、静かに息を吸い込み、声高らかに言い放つ。

「結婚しよう」

 1秒――
 2秒――
 3秒――
 
 変化のなかった彼女の表情がみるみるうちにくしゃくしゃとなって、眦からは涙が溢れ出す。
 ゆっくりと傍に寄り、しゃくりをあげる鈴の頭を宥める様に一つ撫でると、頤に手をあて上を向かせ、そっと口付けを交わす。
 初めてのキスは、涙味の雫となって黄昏に染まる夕空へと溶けてゆき、後はただ、春風の訪れと共に舞い上がった桜の花びらが、僕らを祝福するように、ゆっくりと宙へ舞い上がっていくだけだった。

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