キャッチボール日和     大谷 晶広


 月明かりすらない冬の夜だった。引き絞られた電灯が僅かに勾配となった夜道を点々と照らしていて、その明かりの下にさしかかると、隣を歩く鈴の横顔が暗がりからゆっくりと浮かび上がり、束の間白い光の中を泳ぐように横切ってまた濃い闇へとゆらりと沈んでいく、その繰り返しがまるで夢か幻覚めいて理樹には見えた。乗用車が低いエンジン音を響かせて二人のすぐ横を通り抜けて行った。鈴が排気ガスの臭いに顔をしかめるのがわかった。
「煙たい。臭い。気持ち悪い」
「まあ仕方ないよね。道狭いし」
「外なんか出歩くからこうなるんだ。家で将棋差してればこんなことにはならん。インドア万歳だ」
「見たい映画があるからDVD借りに行こうって言ったのは鈴だと思うけど」
「それはあれだな」鈴は一人でうんうんと頷いた。「理樹の勘違いだな。そろそろぼけてきたんじゃないか?」
「えー」
 何も悪いことをしてないのに酷い言われようだった。
 唐突にマフマルバフの『パンと植木鉢』が見たくなったから借りに行くぞ、などと夕食も済んだ夜十時に言い出したのは無論のこと鈴のほうで、近くのレンタルビデオ店に歩いて行って散々探し回った挙句目的のDVDが見付からず、同じ監督の別の映画を借りて帰路に着いた今はもう十一時半だった。車とすれ違うたびに轢かれるんじゃないかと心配になる、両脇を石塀で固められた狭苦しい道を辿ってようやくアパートに帰り着いた。長い長い夜の中をひたすら歩いてきた気分で、ちょっと近くの駅前まで行ってきただけとはとても思えない疲労感があった。しかもコートを脱いで崩れ落ちるように座った理樹に鈴は言ったものだ。
「疲れてるところ悪いんだが」
「うん」
「なんか映画見る気がなくなった」
「ええー」
「元から見たいのじゃないしな、これ」と言って、鈴はDVDの入った青いケースをテーブルの上に放り出した。かと思ったら、「というわけで――」と部屋の隅から大きな将棋盤を両手で抱えて持ってきて、理樹の目の前にどんと置いた。「もう一回勝負だ!」
「明日一限から講義あるって覚えてる?」
「忘れた。今回こそは平手で勝つ」
「仕方ないなあ、もう」と理樹は笑った。


「なんだかな」
 このままだとたぶん負けるなあと理樹が思っているところへ、追い討ちをかけるように銀将で王手をかけた鈴が言った。理樹が淹れてきたココアを飲んでいるせいで、盤を挟んで対峙する鈴の息はびっくりするほど甘かった。
「最近、運動不足な気がするんだ」
「まあ最近は、座って将棋やってるか、学校の人たちと飲みに出かけるかだよね」
「そう」
「でも仕方ないんじゃない? 大学に体育の授業があるわけでもないし」
「野球やってたときはいい感じに運動できてたんだがなー」
 そう言って鈴は首をひねった。理樹はその言葉にどきりとした。鈴が野球のことを躊躇なく口にしたからだ。普段は二人とも、禁忌というわけではないにせよ、事故以前のことを話題にするのはできうる限り避けていた。しかし鈴はそれから何度か、野球、野球、とココアを飲みながら小さく呟いた。今日の鈴はちょっと変だと理樹が思っていると、突然また変なことを言った。
「確か押入れにグローブとボール入ってるな。出すか?」
「出してどうするの?」
「どうもできない」
「僕もそう思う」
「ところで理樹」と鈴は盤上を指差して言った。「勝ち目なさそうだし、これはそろそろ投了したほうがいいんじゃないか?」
「うーん」
「というかむしろしろ。そうすれば平手初の勝ちであたしは嬉しい」
「でもここに角を置くと結構いいんだよね」
 そう言って理樹は持ち駒から1二角を打った。ぱち、という木と木のぶつかるいい音が響いた。唐突に攻めに転じられて鈴はしばらく固まっていたが、やがて少し迷いの残る表情で2三の竜王を2二へ移動させた。次の手で理樹の銀将が歩兵を取って鈴の玉将に肉薄した。つい先程まで鈴の圧倒的優位で進んでいた勝負が、僅か二手で完全に覆った瞬間だった。鈴は「うがー」と意味不明の唸り声を上げ、齧り付かんばかりの勢いで将棋盤とにらめっこを開始した。
「1一竜で香車取って王手――それともここはむしろ角――いやいやいや落ち着けその前に銀をなんとかしないと――」
 物凄い速さで独り言を言っている。そんな鈴の姿を見ていると、鈴がここまで真面目に将棋をやっているのが改めて不思議なことのように理樹には思われてくる。そのきっかけは今から半年ほど前、と言うと大学生活の幕開けと共に同居を始めて二ヶ月が経った頃になるが、二人で一晩中家の中で寝転がっていても暇すぎるという話になったことだ。そのとき鈴はおもむろに古めかしいボードゲームを取り出して言った。
「ここに人生ゲームがあるんだが」
「二人で人生ゲームやるの?」
「あれ?」鈴は目を丸くした。「ひょっとしてあんまり面白くないか?」
「とっても面白くないと思うよ」
「だがしかしここに野球盤があるんだが」
「とっても面白くないと思うよ」
「もちろん南海はあたしんだ」
「誰も訊いてないから」
 その後も続々と押入れから出てくるボードゲームたちに、なんでこんなわけのわからないものがいっぱいあるんだ、という質問が口から出かかったが、直前で思いとどまった。高校の頃幼馴染みに、さして面白くもないボードゲームに夜を徹して付き合わされたことがあったのを不意に思い出したからだ。つまり鈴が持ち出してくるそれらのゲームは、亡き兄の持ち物だった。
「ん? これはなんだ?」と言って鈴は、四角い模様の刻まれた安っぽい板を裏返した。受け取ってみると将棋盤だったのでそう説明した。
「ああ、丸い白黒を並べるやつか」
「たぶん囲碁と勘違いしてる」
「うーん、まあいい。やってみよう」
 そのときは駒の動かし方を覚える前に絶対飽きるだろうと思っていたけれど、駒の動きと禁じ手を苦もなく記憶すると、鈴は意外にも楽しそうに駒をぱちぱちと前へ進め出したものだ。それを見て理樹が思わず瞬殺してしまったところ、「練習じゃぼけー!」ということになり、理樹の六枚落ちというとんでもない手合割からの特訓が始まったのだった。今では理樹の二枚落ちで互角に近い勝負が繰り広げられるまでになっている。


「ふかーっ!」
 深夜二時、自身の敗北――それも頓死で幕の下りた盤上を猫化して睨みつける鈴は、普段なら蹴りの一発でも食らわせながらする仕草を将棋盤の前で律儀に正座しながらしているせいで、見ていてなんだかとても面白い。将棋盤は三回忌に帰省したとき鈴の実家から貰ってきた柾目盤で、鈴のお父さんの話によれば値段は六桁で、理樹は殆ど反射的にそれは何処の国の通貨に換算しての価格ですかと訊ねてしまったものだが、普通に日本円だった。そのため普段は後先考えない鈴も、不用意に蹴り飛ばしたり張り倒したりすることができない。
 数分後ようやく立ち上がった鈴は、うーん、と背伸びをした。
「あー疲れた」
 それから角が云々とか銀がどうこうとか呟きつつ台所に行き、しばらくしてからカップを二つ持って出てきた。ココアを淹れ直してきたらしかった。もしかしてこれは持久戦の構えで、今からもう一局やるつもりなのだろうか。しかし鈴は理樹のカップを渡すと立ったままカーテンを開け、窓も開け、冬の冷たい空気が吹き込んでくるのもかまわず外を見た。理樹も歩み寄って一緒に窓を覗いた。アパートの隣の公園や、その向こうの家並み、遠くに建つ明かりを灯した高層ビルなどが、夜の闇の中に消え残るようにして浮かび上がっていた。ココアは温かかくて、飲むと甘さが舌に沁みるような心地だった。
「さっきも言ったけど」と鈴は言った。「運動不足だと思った。最近は本当に外に出てない。こんな近くに公園があるのにな」
「うん」
「野球やるかー」
 やっぱり変だ、と思いながら理樹は「無理でしょ」と返した。すると特に反論もせず「うん。無理だ」と鈴は言った。それからココアをゆっくりと一口飲み、少しの沈黙を挟んだ後、独り言のようにぽつりと呟いた。
「野球、やりたいなあ……」
 酷く幼い口調だ――かなわぬ願い事を言うのには、まるで似合わない。言い終えるや鈴は、まだココアの残っているカップをテーブルに置くと、押入れから段ボール箱を引っ張り出してきて、「理樹も手伝え」と言って箱の中身をひっくり返し始めた。人生ゲームや野球盤など、あの頃の記憶の染み付いたさまざまな品が床に乱雑に広がった。何を探しているのかは訊くまでもなかった。ボールとグローブだ。けれど、出してどうするの、とつい先程訊いたとき、どうもできない、と他ならぬ鈴自身が答えたはずだった。それは本当にもうどうにもならないことだ――野球でなくてもまったくかまわないし、ましてや運動不足だなんてそんなことはどうでもよくて、ただあの日々みたいにみんなで何かに一生懸命打ち込むことなんてもう金輪際できない、その事実にちょっと心が折れそうになっただけだからだ。そしてそのことに特別な理由もなかった――まるで袋小路にでも立たされたように、理由は二人の生の中に消しがたく遍在しているからだ。
 箱の底にボールとグローブを発見すると、迷わず手に取って鈴は立ち上がった。
「それ、どうするの?」手伝わずに、夜に向かって開かれた窓辺に立ったままでいた理樹は、静かに訊いた。「投げるの?」
「そうするか」
 鈴は投球の構えをしかけた。でも本当に投げるわけには勿論いかなくて、右手のボールをじっと見つめた後、箱に戻した。そして毎日練習していた頃からは二年以上のブランクがあるはずだけど、それを思わせない滑らかな動作で再びすっと構えた。その立ち居と視線は、まるであの試合の日にグラウンドの真ん中に立ったときのそれと同じようで、理樹が思わず息を飲んだ次の瞬間、鈴は手の内にある見えないボールを、窓の外に広がる黒い濃密な闇夜へ向かって、一気に投げた。


 カキン!と気持ちのいい音がして、理樹の打ったボールは、雲一つない青空へ吸い込まれるように大きく飛んでいった。
「飛ばしすぎじゃぼけーっ!」
「ごめんごめん」
「あーもう、何処に飛んでった?」
「向こう」
 理樹がバットで指した方向へ鈴は走っていった。ソフトボール部が練習しているほうまで飛んでいったので大変そうだった。長い髪の毛を内側に巻き込んだ白いマフラーの、肩口から背中へと垂れた先端が、脚を動かすたびに上下に揺れていた。昨日運動不足だとか言っていたのが嘘のような元気さだ――球速も、練習開始早々に三桁に達した。すぐに息を切らし始めた理樹とは雲泥の差で、何処にそんな体力があるのだろうと改めて不思議に感じられた。鈴はボールを拾って戻ってくると、「暑い」と言ってマフラーを足元に置き、コートの前を開けた。ああ帰ったら洗濯しなきゃ、と理樹は砂で汚れたマフラーを見て思った。冬の空気は身を切るような冷たさなのに、陽射しが強いためか、体を動かしていると夏みたいに暑かった。
「まったく、理樹が下手すぎて守備練習にならん」
「そもそも守備練習を兼ねようという発想が間違ってると思うよ」
「でも理樹がノックしてあたしが取るだけじゃ面白くないぞ」
「じゃあもう全力で投げて全力で打てばいいんじゃないかな」
「よし、それでこそ理樹だ!」
 顔付きが変わったかと思うと、かつて珍妙な名前の付いていた魔球が次々とバッターボックスに投げ込まれ、三十分後には理樹はおろか鈴もへとへとになっていた。グラウンド脇の木陰にふらふらと座り込んだ理樹の目に、黄色く繁った葉の向こうに広がる鮮やかな青空が映った。
「本気で投げすぎ」
「ちょっと反省してる」
 鈴も理樹の隣に腰を下ろして後ろに寝転がった。しかし一分もしないうちに「キャッチボールにしよう。二人でやるにはそっちのがいい」と言って勢いよく起き上がり、校庭の隅に建つ野球部の部室に向かった。何をする気なのかと心配していると、程なくして、追いすがる部員を振り切り、グローブを奪取して部屋から出てきた。できればもう少し穏当に借りてきてほしかった。理樹にグローブを投げ渡すと、ボールを拾い上げて「行くぞー!」と投球の構えを見せた。
「もう少し休もうよ」
「却下」
 やれやれと思いながら立ち上がり、かつてのノーコンぶりが嘘のように正確に投げ込まれたボールを、強い手応えと共にキャッチして投げ返した。すぐさま飛んでくる低めの球を再び捕る。鈴は「いい感じだー」と手を振りながら言った。元気がいいことこの上ない。
 風が強く吹き寄せて、理樹の投げたボールが大きく逸れた。校舎裏の並木道で落ちかかったイチョウの葉がざわざわと鳴った。鳥の鳴き声や部活の熱心なかけ声まで聞こえてきて、冬だというのにとてもにぎやかだった。風の中を駆け出した鈴は強く地面を蹴ると、光に満ちた空へ高く跳び上がり、弾けるような音と共に捕球した。コートの裾を透明な陽射しの中にふわりと浮かせて着地し、理樹のほうを振り返った。何処からか風に流された雲がやってきて、グラウンドに大きな影を落としたかと思うと瞬く間に去っていった。髪を焦がすように再び照り始めた陽光はきらきらと輝いて見えた。その光を負いながら鈴はアンダースローでボールを投げた。理樹がキャッチした後、左手で理樹を指さして誇らしげに言った。
「どうだ、今のはなかなかのファインプレーだっただろう」
「それは認めざるをえない」
 鈴のそんな楽しげな姿を見て、別にキャッチボールをするだけなら近くの川原でもかまわなかったけれど、一年前に卒業したこの高校まで、急すぎる提案に戸惑う鈴を促してわざわざやって来てよかったと思った。新幹線で半日かかるし大学をサボることにもなるけれど、それでいて試合もまともな練習も全然できないけれど、でもこうして思い出の場所でキャッチボールをするという、小さくささやかなことくらいならできる。それも、望めばいつでもだ。だから、と理樹は鈴に向かってボールを投げながら言った。
「だから――」
「ん?」
「そんなに寂しそうにしないでよ、鈴」
 ぱん、と球を捕る音がグラウンドに響いた。頬を紅潮させた鈴は、投げるのをちょっと躊躇ってから、「うん」と珍しく素直に頷いて、再び投球の動作に入った。光を眩しく反射させて、真っ白いボールがまた二人の間を行き来し始めた。風が冷たかった――まるで夏みたいな空の下で、まるで夏みたいに元気にキャッチボールをしていて、けれど今は、間違いなく冬だった。


 それからしばらくキャッチボールを続け、帰りの新幹線の時間が迫る頃になって、鈴は「理樹ー! バットを取れー!」と大声で言った。
「あたしを打ち取れたら、帰りの新幹線での勝負は平手にしてやる。だがあたしが勝ったら理樹は飛車落ちだー!」
「たぶんどっちでも勝てるから問題ないよー」
「うっさい! 今度こそぶっ倒してやるー!」
 理樹はバットを構える。鈴が振りかぶり、投げる。かなりの速球だ。思い切り振り抜く。
 カキン!と気持ちのいい音がして、ボールは遥か彼方へと飛んでいった。これで帰りの将棋の勝ちは貰ったようなものだ。太陽が低くなり始めていた。驚くほど濃く深い青になった空が、遥けさを増しながら高々と広がっていた。その遠い青の中を突き進んでいく白球を、二人で長々と見晴るかした。ずっと向こうの地面に音を立てて落ち、転がっていって、やがて草叢に消えた。勝負に負けた鈴の表情は悔しそうだ。


 たとえ何処にも行けない袋小路のような場所に立っていても、その足元を光で照らす程度のことはきっとできるはずだと理樹は思い、そして、信じる。

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