透明な涙      大谷 晶広



 ただ道路だけが地平の果てまでまっすぐに伸びる、一面の荒地に立ち尽くして風を感じた。砂混じりのざらついた風だ。道端に一輪、青い花が咲いていた。東の地平線が次第に明るみ、野面が彼方から濃淡をなして照り輝き、やがて金色の陽光が青く澄み透る大気に水の流れるように射し始める、その最中から岩とパイプラインと鉄塔の影が黒々と、長い列をなして立ち上がった。もう何年も前、車が故障して立往生した時にお父さんと一緒に見た、冬のファルアニアの朝焼けになる。
「ファルアニア?」
「クウェートよ」
 長い入院生活の中で、ある時思いもかけずたくさんできた友人たちに、海の向こうの思い出話をする。毎回のように何事か感心される。そのうちの一人は理樹くんという名前で、あたしの子供の頃の友達であるあのりきくんなのかはよく思い出せないけれど、彼や彼の仲間たちと一緒に過ごす日々はなかなかに騒がしくて楽しい。大きな病院の片隅でゆっくりと流れていく、とても穏やかな時間だ。


 スクレボを一巻から読み返しているところに制服姿の鈴さんがやってきて言った。
「またそれ読んでるのか? 飽きないのか? 内容忘れるのか? 馬鹿なのか?」
「うんがーっ!」
 顔を合わせるなり酷い言われようだったけれど、鈴さんは悪びれることもなくベッドの脇に座ると、床に積み上げられた漫画を見て「これ、馬鹿兄貴が好きだな」などと言った。今日ここに来てくれたのは、未だに立ち上がれないらしいお兄さんのところに来たついでなんだろうと思った。きつそうな見た目と口調に反して、お兄さんへのお見舞いを欠かさない優しい子なのだ。
「馬鹿。あ、違う、あや」
「どんな間違え方よ!」
 本当は優しい子なんだって思わないとやってられないのだ。
「そんなことはどうでもいいとして、これなんだ?」と首を傾げる鈴さんが手にしているのは、漫画の脇に放り出された何冊かの冊子だ。「高校の入学案内よ」とあたしは答えた。お父さんに取り寄せてもらったものである。鈴さんの頭上に浮かぶ疑問符の数が増えた。
「あやは高校生じゃないのか?」
「ほら、話したじゃない。あたし日本にいなかったから」
「ん? 向こうでは学校は?」
「戦車が大砲撃ったり飛行機が爆弾落としまくったりしてるから、学校どころじゃないわ」
「それは物凄い世界だな」
「でも意外と慣れるわよ。後は、各地を点々としていたから、学校はあっても行けなかったな」
「じゃあ勉強はどうしてたんだ」
「うーん、周りのひとに教えてもらったりはしたけど……」
 そこまで言った時、「あやちんみおちん、こんにちはー」と三枝さんが部屋に入ってきた。いつもどおり、松葉杖を突いているとは思えない速さで歩いている。
「あれ? 鈴ちゃんがいる。理樹君一緒じゃないの?」
「こまりちゃんたちの病院に行ってる」
「そっかー残念だなー」
「ちなみに西園さんはいないわよ」
「ん? そうなのか?」と言って鈴さんが隣との境にかけられたカーテンを引くと、本に埋もれた西園さんのベッドはもぬけの殻だ。「なんだってー!?」と三枝さんが松葉杖を放り出して逆側からカーテンを全開にした。足大丈夫か。
「あれだな」鈴さんが納得した表情で言った。「はるかが来そうな時間だから逃げたんだな」
「そのとおり」
「ちくしょー! 病院中這いずり回ってでも探してやるー!」
 三枝さんは松葉杖を拾って出て行った。何しに来たんだろうか。うるさいひとが去って病室がしんと静まる。鈴さんは入学案内に黙って目を落としていたけれど、少しするとこちらを見て訊いた。
「学校行くってことは、これからは日本で暮らすのか?」
「たぶんね。電車混んでるのと冬寒いのは嫌だけど」
「電車はあたしも嫌だ」と言って顔をしかめてから、鈴さんはいいことを思いついたという顔で冊子を閉じた。「うちの学校に入ればいいんじゃないか?」
 何を言い出すんだこのひと、と思ったものだ。


 中庭を行き交う制服姿の生徒たちが表紙だった。鈴さんや理樹くんが学校帰りに来る時、いつも着ている制服だ。頁を捲っていくと校舎や寮、授業風景、中庭、グラウンド――眩しい陽射しの中で撮られた、色鮮やかな写真が現れる。
 例の突拍子もない提案の翌日に鈴さんが早速持ってきてくれた、入学案内の冊子になる。受け取ってからというもの、とりとめもなく開いては、制服を着た自分の姿を思い描いたり、今病院で繰り広げているのと同じ賑やかな日々をこの学校で送っているのを想像したりして、鼓動の少し早くなるのを感じている。それはたとえるならば、新しい物語の始まる予感と期待のようなものだ。
 まあ入学するには頑張って勉強しなきゃいけないんだけど。勉強は苦手、と言うか今までまともにしたことがほとんどない。
 気分が塞いできたので入学案内を放り出した。代わりにスクレボを開いたのはいいけれど、確かに鈴さんの言うとおり、何度も読み返しすぎて新鮮味には欠けた。昨日西園さんが一方的に貸してくれた小説を試しに読んでみようと思い立って、戸棚から引っ張り出した。一頁目から読めない字が出てきて泣きそうだ。いっそ奇声でも上げてやろうかしら。
「あのー、西園さーん」と奇声は上げずに呼びかけながらそっとカーテンを開くと、本を読んでいた西園さんがこちらを向いた。
「なんでしょう」
「この本、もう少し優しいのにしてもらえないかと……」
「そんなに難しいですか?」
 意外な顔をされてしまう。難しくはないのだろうけど、あたしは漢字がとっても苦手なのだ。
 滑稽でしょ? 一応日本語が母語なのにずーっと外国にいたせいで全然漢字読めないし、書くのはもっと無理で頑張って書こうとすると新たな文字の誕生の瞬間に立ち会うことになるなんて馬鹿丸出しよね、笑えばいいじゃない、ほら笑いなさいよ。あーっはっはっは!
 と自虐をかましても西園さんはきっと華麗に流してしまうので、大人しく漢字が得意でないことを告げると、なるほど、そうでしたか、と頷いて別の本を探そうとしてくれた。その手が途中でとまったのは三枝さんが現れたからだ。部屋の入り口で松葉杖を両手に、「へいへいみおちーん!」とギターをかき鳴らすようにした。足は大丈夫じゃないに違いない。
「昨日も一昨日もその前の日もその更に前の日も逃げやがってー。今日こそ捕まえましたヨ」
「ちっ」
「むきー! なんだその、こいつわざわざ時間をずらして来やがったよ早めに逃げときゃよかった、みたいな顔はー!」
「わかっているなら出て行ってください」
 すると三枝さんは西園さんの隣の椅子に腰かけて松葉杖を壁に立てかけ、「ふふふふふ、居座ってやるのですヨ」と不適に笑う。それから背後にいるあたしを振り返り、「みおっちはやたら難しい本を押し付けてくるので適当にいなすといいですヨ」と言った。
「いえ、三枝さんにだけ嫌がらせで難しい本を貸しています」
「え? マジ?」
「マジです」
 それではどうぞ、と本を手渡す。受け取り、表紙を捲った一瞬後には「そもそも日本語じゃねー!」と放り出した三枝さんに、「日本語訳を面白く読んだので原著も買ってみたのですが、全然読めませんでした」と西園さんが説明した。
「ってあんたも読めないのかーっ!」
「読めたら驚きです」
「自分で言うなー!」
 言い合う二人を尻目に三枝さんの投げ出した本を拾い上げて開いてみると、久しく見ていなかったアルファベットの列が目に飛び込んできたものだ。I was never so frightned as I am now. They have left me sitting in the dark, with only the light from the window to write by. 懐かしい。日本語しか周囲に存在しないのは酷く不自然なことだと改めて思った。
 三枝さんがこちらをじっと見ていた。
「あやちん、それ読めるの?」
「読めるでしょう。海外での生活が長かったのですから」
「うんまあ、英語は問題ないわ」
 すると三枝さんは膝の上に身を乗り出してきて「ねえ、喋って喋ってー」と言った。
「いきなり言われても困るわよ」
 本当に困るのだった。むう、と三枝さんは考え込んだ。「じゃあ先にお姉ちゃんに電話してくるので、戻ってきたらお願いしますネ」と言って松葉杖に手を伸ばした、その手首を咄嗟の思いつきで掴み、低い声であたしは言った。
「They're tapping on the wire.」
「へ?」
「We face a rapidly changing situation. Now it is you who could be their target.」
 びっくりした顔で三枝さんが固まり、病室は静まり返った。静寂を破ったのは西園さんの笑い声だ。
「『学園革命スクレボ』にそんな場面がありましたね」
 ばれたか。


「前に鈴さんが来た時」と言った。西園さんが頁に落としていた視線を上げた。あたしは続けた。「あたしたちの学校に来ればいいじゃないか、って言われたの」
「はい」
「最初は何言ってるんだって思ったけど。でも、持ってきてもらった入学案内読んだり、こんなふうに毎日騒いでいられるって想像したりすると、それもなんだか悪くないなって」
「やめた方がいいです。うるさすぎてうんざりしますから」
「ははは、想像できるわ」
「三枝さんみたいなのが他にもたくさんいます」
「凄いわね、それ」
「でもたぶん、楽しいです」
 西園さんは視線を病室の入り口にやった。ついさっき電話をかけに行った三枝さんの背を、遅れて見送るようだった。一見仲の悪そうな言葉しか言い交わさない二人は、とても仲がいいんだろうと思った。向こうを向いたまま「この夏はきっと、本当に楽しいですよ」と繰り返した。穏やかな口調だ。
「それ、差し上げます」
 振り返ると西園さんはあたしの手元の洋書を指差して言った。
「え? いいの?」
「読めるひとの手元にあった方が本も嬉しいでしょう」
 そう言い残してカーテンを閉めた。お礼を言う暇もない素早さだ。置いていかれたようでちょっと寂しい。
 しばらくはその洋書を読んでいたけれど、ベッドの上でじっとしているのもなんだか退屈になってきて、ふらりと病室を出た。一階の売店にでも行こうと思って角を曲がったところで、聞き覚えのある声を耳にした。見ると公衆電話の前に、受話器を片手に話し込む三枝さんの姿がある。頻繁に電話をしないとすぐに三枝さんのことを心配し始める、心配性のお姉さんらしい。一度だけ、三枝さんにそっくりなその姿を遠くから見たことがある。三枝さんがふとこちらを向いた。視線が合った。笑いながら手を振ってきたので振り返した。そのまままた電話に没頭し出した。あたしも一人で歩き出した。
 夕陽が綺麗だった。
 本館につながる渡り廊下の真ん中だ。暮れ始めた空から西日が射し込んでいた。窓に近付いて硝子に触れた。冷たい。その場に立ち尽くした。
 硝子越しに夕焼け空を眺めていると、砂嵐に霞みながら砂漠の地平に落ちる、真っ赤な夕陽を思い出したものだ。あれは眼に痛いほどの鮮やかさだった。日本とは比較にならない過酷な環境も、同時に思い返された。水一杯を手に入れるために水源まで一日かけて歩き通さねばならぬ村々。地雷に足を奪われた人びと。死んだゲリラから弾薬を集める最中に撃ち殺された女の子。戦闘と熱病と飢餓とで家族をすべて失った男のひと。あたしは彼らを知っている。彼らのことを、あたしはいつも傍で見ていたからだ。
 修学旅行、と呟いた。学校のみんなと一緒に行く旅行だそうだ。その途中で大きな事故に遭い、病院に担ぎ込まれたのだと西園さんは話していた。もしもあたしが、今のあたしよりもずっと小さな子たちが親兄弟を亡くし、カラシニコフを手に戦場に狩り出され、薬物を打たれて眠りもせずに行軍し、やがて機関銃の掃射でゴミのように殺される、そんな国でじゃなくこの日本で普通に育ち、普通に学校に通っていたとしたら、修学旅行に行けたのだろうか。彼女たちのような楽しい生活を送ることができたのだろうか。
 そしてそれは、今からでも遅くはないんだろうか。


「あや」
 名前を、呼ばれた。声で鈴さんだとわかった。振り返ると理樹くんもいて、本館の側から二人並んで、渡り廊下に射す光の中へ歩いてくる。
 理樹くん。幼い日に、この日本で出会っていたかもしれないひと。あたしの、ひょっとしたら初恋の相手かもしれないひと。
「お揃いでどうしたのよ。この前来たばかりじゃなかった?」
「いや、恭介がね」と理樹くんは苦笑していた。鈴さんが嫌そうに言った。「あたしだけで見舞いに行ったら、理樹がいないと嫌だ、俺の理樹を出せ、とか言い出した。まあ馬鹿だから仕方ないな」
「理樹くん、妹だけじゃなくてお兄さんともそういう関係なわけ?」
「いやいやいや!」
 理樹くんは物凄い勢いで首を横に振る。冗談なのになんでそんな必死に否定するんだろう、と思ったけれど、頻繁にそういう本を読んでいる隣人の存在を思い出す。いつもそんな冗談を言われ続けてトラウマだったりするのか、理樹くん。鈴さんは相変わらず嫌そうな表情をしていたけれど、眩しげに眼を細めて窓の外に視線を向けると、「綺麗だな」と言って手すりに体重を預けた。
「前に、外国の夕陽が綺麗だったって話、してたよな?」
「したかしら?」
「あれ? 夕方じゃなくて朝だったかもしれん」
「ああ、たぶんクウェートに入った時の話ね」
「そう、それだ」
「ファルアニア、だっけ。車が故障しちゃったんだよね」
「ええ。ジャハラから移動してる最中に車壊れて、夜を明かす羽目になって、あの辺治安悪いからまずかったんだけど、それで、地平線までなーんにもない荒地に朝陽が昇るのを見たの」
 説明しているうちに懐かしさがこみ上げてきて、「綺麗だった」と一言呟いて、黙り込んだ。一年ほど離れているだけなのに、ずいぶん長いこと戻っていないように思われたものだ。退院したら一度中東に帰ろうか、と考え始めたところで、自分が妙な考え方をしているのに気が付いた。帰る。どこに帰ると言うのか。長い長い旅を終えて、最近ようやく日本に帰ってきたんじゃないのか。
「そういえばあやさん」
 名前を呼ばれて、はっとした。暮色に染まった理樹くんの顔を、その黒い瞳を正面から見た。
「鈴から聞いたんだけど」
「え? うん」
「高校の話。うちに来るかもしれないんだって?」
「話進みすぎ。ちょっと考えてるってだけよ」
「そーなのか?」
「だって、試験とか住む場所とか色々あるじゃない」
「全寮制だから住む場所は大丈夫だと思うけど、試験はどうだろうなあ」
「馬鹿でも合格したし大丈夫だろ。よし――」
 鈴さんが、まっすぐにあたしを見た。
「あや、うちの学校に来い」
 あまりにも直截なその言葉に、一瞬反応できなかった。ほうけたように立ち尽くすあたしから、鈴さんは視線を外さずにいる。理樹くんによく似た瞳だ。「鈴さんたちの学校」とようやくあたしが呟くと、ああ、と深く頷いた。
 それはきっと、差し伸べられた手だった。学校の話を持ちかけ、入学案内を持ってきてくれた時からずっと、鈴さんはあたしに手を差し伸べてくれていたんだと気付いた。ならば、と思う。ならば躊躇わずに握り締めて、放さなければいい。そうだ。そうすれば、学校とも友達とも無縁だった生活とお別れできるだろう。戦地を回ることも砲声に怯えて避難することもなく、長年夢見ていた新しい青春の物語の入り口に立てるだろう。
「But my story has already started.」
 けれどあたしは思わずそう呟いていた。なくしてはならないものをなくしてしまう、そんな気がしたのだ。英語が口から出たのは咄嗟のことだった。鈴さんは眼を丸くして腕を組み、少し考えてから言った。「すまんが何を言ってるのかまったくわからん」
「あー、いいのいいの。独り言よ」
「ん? だったらいいんだが」
「それよりそろそろ面会時間終わるわよ。いいの?」
「そうだった。あ、よければあやさんも一緒に行く?」
「鈴さんのお兄さんのところに?」
「うん」
「駄目だ、あやに馬鹿がうつる。いくら馬鹿でも入試受かるからって、それはまずい」
「いやいやいや」
「悪いけど、遠慮しておくわ」と言った。「今から下の売店に行かなきゃいけないし」
「そっか」
「ええ」
 その場で二人と別れて、エレベーターで一階に下りた。早くに閉まってしまうので、お菓子とか飲み物とか、色々買い込んでおこう。夜明けを見ようと思いついたのだ。あたしの記憶に強く焼きついたあの朝焼けを見ることは、ここでもできるんだろうか。


 非常階段で屋上まで上がる。星はほとんど見えないけど、月が青く輝いて綺麗な夜空だった。
 給水塔によじ登って座った。電線を巡らし、大小の道路に覆われ、明かりを落として眠りにつく薄暗い街並みが、眼下に遥かに見渡せた。夜明けまではまだ時間がある。のんびりと待つつもりで缶珈琲を口にした。お菓子の袋も開けた。準備は万端だ。東がどっちかわからないのは誤算だったけど、お菓子をつまみながら一時間ほども待つと、右手の空が次第に明るみ始めた。そちらを向いて座りなおして、息を、飲んだ。
 屋根と屋根の間から、光が溢れ出していた。暗い空が白に近い青に、下からゆっくりと染まっていた。思わず飲みさしの缶を置いて立ち上がった。服が風にはためくのを感じた。眩暈のしそうな高さだ。地平線は家並みに覆い隠されて見えなかった。朝陽の昇るにつれて空は希薄になりまさり、優しい光が幾筋も伸び上がって、夜の暗さを淡い色で払っていく。やがて屋根を越えてまっすぐに射し込んだ陽が、家という家、道という道、木立という木立に照り返り、映え渡り、街を眩しさでいっぱいにした。
 違う場所にいる、と思った。
 他に何と言ってみようもなかった。そう言うしかなかった。砂嵐も枯れ木も罅割れた大地もない。爆撃の痕跡も、地雷原を示す標識も、油田を連絡するパイプラインもない。あたしにとってここは、違う場所だった。ファルアニアで見たのと同じくらい綺麗な、けれどまったく別の朝陽の昇る場所だった。そんな当たり前の事実が、嘘のように胸にすとん下りてきて、涙が出そうになって、でも泣きたくなくて、だから、思いっきり息を吸い込んだ。
「滑稽よね! 滑稽でしょーっ!」
 ひと影のない街に向かって、明るむ空に向かって、全力で叫んだ。
「だったら笑えばいいじゃない! 笑いなさいよ! 笑えこの野郎! あーっはっはっは! あーっはっはっは! あーっはっはっはっは! あーっはっはっはっはっはっはっはっはげごぼぉうおえっ」
 笑いすぎて咳き込む。咳き込みながら心の中で、帰ろう、と呟いた。いつになるかはわからないけれど、海の向こうに必ず帰ろう。あたしの住んでいた世界に。そして一面の荒野を照らす冬の朝焼けを見よう。
 だって、そうでもしなきゃ滑稽でしょ? あんなつらくて寂しい場所にはもういなくていい、これからはこの日本で楽しく暖かな日常を送ればいいんだ、そんな言葉で、あたしの通り過ぎてきた場所、見てきた風景、耳にしてきた音楽や言葉、出会ってきた無数のひとたちを――その中で確かに過ごしてきた十何年かの日々を切り捨てることなんか、したくないに決まってる。たとえどんなに過酷でも、それはあたしのたった一つの、かけがえのない記憶だから。別の土地に移り住んで、名前だけが同じの別人になって、そんな過去なんて少しも存在しなかったような顔をして生きていく、それはきっとこの上なく幸せなことだけど、でもやっぱりそんなのには耐えられないって、今、はっきりとわかったから。
 だから願わくはあたしの今までの人生に、肯定を。
 学校に行けず、友達もできず、お父さんに連れられて戦地を渡り歩き、望みなんて一切かなえられなくて、口にすることすら忌避して、銃弾と爆撃と砲撃に曝されてただ命だけを脅かされ続けた、そんなあたしのものでさえないのかもしれない、けれどあたしが現にずっと生き続けてきたこの人生に、否定ではなく、肯定を。
 風が冷たくなってきた。最後にもう一発叫んでおこうかと考え始めた時、「誰がそこにいるの!」と背後で声がした。やばい、見つかった。叫びすぎたか。振り返ると屋上の入り口に顔見知りの看護師さんがいる。よし、今こそリハビリの成果を披露する時だ。缶とお菓子の袋を拾って給水塔の裏から下に降り、もう一つの出口へと全力で走った。自分で言うのもなんだけど、半年前まで支えなしに歩けなかったとは思えない逃げ足だ。
 鈴さんに謝ろうと、階段を二段飛ばしで駆け下りながら考えた。病室に到着すると、西園さんのベッドの前を通り過ぎて、何事もなかったかのように自分のベッドに潜り込む。日の出前に起きたせいで眠い。これから色々と大変だろうけど、ひとまずは何も考えずに、起床時間まで眠ろうと思って眼を閉じた。


 眼を開くと、視界に飛び込んでくるのは巨大な地平線に懸かる輝く朝焼けだ。
 砂漠のような荒地の真ん中だった。青く冷たい空気を縫って射す光は眩しくて直視できない。いい天気だ。
 デジカメを掲げて東の空に向けた。知り合いの教授に頼まれて、英仏と合同の地質調査に随伴する現地通訳などという厄介な仕事を引き受けたのは、三ヶ国語のできるひとが他にいなかったからでもあるけれど、それ以上に、仕事の合間にこうして日の出の写真を撮ろうと思ったからだった。でもやってみると難しい。ていうか何これ、フラッシュ焚いたら真っ黒になるんだけど。しばらく頑張るとなんとか見れる写真が撮れた。これでよしとしよう。
「何をしてるんですか」
 びっくりした。風の音に紛れて届いた。鈴さん理樹くん夫婦と国際電話で話して以来、実に半年ぶりに聞く日本語だ。調査団に日本人の研究者が一人参加しているのは当然知っていたけれど、他のひとの手前、英語で通していたのだ。振り向くとお父さんほどの歳の、品のよさそうな男のひとが立っていた。日の出の写真を撮ってるんです、と息を白く立ち昇らせながら告げた。「日本にいる友達とお父さんにメールで送ろうと思って」
「お父さん? ご家族は日本に?」
「ええ。お父さんだけですけど」
 男のひとはちょっと戸惑っているふうだ。無理もない。日本から遥々クウェートまでやって来て、アラビア語の通訳として現れたのがなぜか日本人なのだ。「一人娘を小さい頃から中東だのアフリカだの東欧だの連れ回して、日本での普通の生活をできなくさせたろくでもないお父さんです」とふざけて説明するとおじさんは苦笑した。うん、いいひとそうだ。
「日本は今どんな感じですか」カメラを仕舞って訊いてみた。「全然行ってないんでわからないんです」
「どうって言われても困るなあ」
「たとえば、スクレボの連載が再開しそうかとか」
 勿論冗談で言ったのだけれど、「ああ、十二月に十週限定で連載再開するそうだよ」と意外すぎる返事が返ってきて、なんであんたそんなこと知ってるんだ。研究者ってオタクが多いのか。と言うか連載再開マジなのか。
「え? 本当に?」
「本当に」
 その言葉をゆっくりと反芻する。そして、「おっしゃああああああああああ砂岩の調査とかもうどうでもいいわ! 鈴さん鈴さん、来月からジャンプ毎週送れ! 送らないとぶっ殺す! え? 何? ここ国際電話つながんない? ていうか現につながってない? ふふふ……そうね、よく聞いてみたらなんにも聞こえてないわ。この役立たずめ死に曝せええええええええっ」
 携帯電話をぶん投げた。吹きつのる突風に巻き上げられた砂礫が、その行方を完全に覆い隠した。
「来年になったら日本に帰ればいいんじゃないかい」と言われたのは、半壊した携帯電話を砂の中から探し当てて、手伝って頂いてありがとうございます、と頭を下げた後だった。「つまり、スクレボを読みに日本に行く?」と問い返すとおじさんは頷いた。なんだそれ。一応生まれ故郷である国を数年ぶりに訪れる理由としてはかなり馬鹿馬鹿しい。けれどそれもあたしらしいのかもしれないと思った。お父さんや鈴さんたちにも久々に会えるし、何週間か向こうに滞在してもいい気がしてくる。
「うん、考えておきます。仕事に差し障りがなければ」
 それから朝食を食べにテントに戻ると言うおじさんに、久々に日本語話しました、と告げた。嬉しそうに笑っていた。


 おじさんの後姿を見送るとまた一人になった。日本、と呟いた。
 もしあの時あの高校に入学して日本で暮していたら、と今でも稀に考える。夢見ていた日常があそこには確かにあった――日本を離れたのが正しい選択だったのかはだから、実のところよくわからないのだ。でも鈴さんや理樹くんが毎日を過ごしているのとは別の場所と別のやり方で、別のひとたちに接しながら、今のあたしは確かに生きている。通訳、西側国境付近での僻地教育、スクレボのアラビア語翻訳、やるべきことは山積みだ。
 空高くで風が鳴っていた。時計を見ると朝食の時間の終わりが近い。まずい。早く戻らないと食べ損ねる。食事担当のおばさんは時間に厳しいひとなのだ。けれどあたしは動かなかった。
 もう少しだけ、岩と鉄塔と廃墟とを明々と照らすこの冬の荒地の朝焼けを、一人で静かに見ていようと思った。

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