色彩        橘



 下校時間も過ぎて日も落ちようとしている頃、私が準備室から出てくると一人の女生徒が居残っていた。
「下校時間はとっくに過ぎてるんだがな」
「あっ、センセー」
「早く片付けてくれないと、私も困るんだが」
「ゴメンゴメン。わかってますって」
 そう言うと彼女は絵筆を置いて片付けを始める。彼女が洗浄用の油で絵筆を洗っている様子をぼんやりと眺めながら、職員室には部活を終えた同僚が集まっているんだろうなと考えた。うじゃうじゃと同僚が蠢いている様を想像して職員室に戻る気力が失せた。しかし、一旦戻ってあちらで仕事してる振りをしないといけない。全く面倒なことだ。
「夜道は危ないから先生が送ってあげよう、と言いたいのは山々なのだが、そんなことをしたら私がPTAに訴えられてクビになってしまう。というわけで、いつまでも先生のために残っていても駄目だぞ」
「? どうして?」
 女生徒が首を傾げる。
「ああ、淫行罪とかいうものがあってだな……」
「あははっ。いつもそんなこと言ってるけど、先生そんなことしないでしょ」
 彼女が横目で私を見て、微笑んだ。私が持っていないような純真な笑顔。見ているこちらの胸がちくりと痛む。
「まあな」
「それより、私が遅くまで居た方がいいんじゃないかなぁと思ってさ。先生、職員室キライでしょ?」
 私は何も言わず、口角を持ち上げた。彼女は本気で自分が居た方がいいと思っているのだろう。それでも、彼女が遅くまで居ると立場上まずいのだがな。しかし、そんな彼女の短慮さが微笑ましく思えてしまう。
「職員室に居るときの先生は、いつもだるそうにして仕事出来なさそうな雰囲気出してるけどさ、こっちに居るときは仕事速いんだもん」
 それはそうだ。下手にあちらでてきぱき仕事していたら、同僚から要らない仕事を押し付けられるのが関の山。だったら美術以外は何も出来ない教師と思われていたほうが都合がいい。
「良く見てるじゃないか。ひょっとして、私のことが好きなのか?」
「……冗談」
 片付けも粗方終えてしまった彼女が、白衣を脱ぎながら意地悪げな表情を浮かべる。ブレザー姿の彼女を眺める。小柄で一見大人しそうな彼女。見た目の雰囲気としては美魚君が一番近いだろうか。とはいっても、比較的近いというだけで美魚君とは異なるタイプの女の子。
「てゆうかさ、何で先生は教師やってんの? そんなタイプには全然見えないんだけど。まあ、教えるのは確かに凄く上手なんだけどさ。数学教師より数学教えるの上手な美術教師って何なの」
「まあ、生徒一人に付きっきりで教えるくらいなら私にだって出来るさ。ただ、クラスの生徒全員に教えたりとかそういったことならやはり本職の数学教師の方が上手だよ」
「じゃあ、これは?」
 彼女は鞄から何やら紙切れを取り出すと、私に渡した。
 それは数年前の新聞年鑑のコピー。とある国際ビエンナーレの受賞者が記載されていた。そこには「来ヶ谷唯湖」の文字。
「良く、見つけたな。あれはいい小遣い稼ぎになったぞ」
 彼女はキャンバスが掛かったままのイーゼルを部屋の隅に置きながら話を続けた。
「他にも調べてみたんだけどさ。先生、他のコンペでも受賞したりして結構有名みたいじゃない。何で――」
「何で画家としてやっていかないのか、か。ファインアートで食っていけるのなんてほんの一握りしかいないし、収入も安定しないからな。まあ、デザイン系なら収入も安定するのかも知れないが、生憎そっちの素養はまったく無い上に興味も無い」
 私はそう言いながら眉根を寄せる。有名になったところで何の意味も無い。
「だから、美術教師なんてやってるんだね」
「楽そうだったからな。まあ、実際はそんなに楽じゃなかったがね。……さて、片付けももう終わっただろう。私の話なんてどうでもいいから、早く帰るといい」
 彼女が道具箱をロッカーに仕舞ったことを確認して、私は話を終わらせようとする。
「嫌」
 しかし彼女が意地悪そうな笑みを浮かべてそれを拒絶した。折角可愛らしい顔をしてるのに。先生ちょっとイラッとしてきたよ。
「先生の絵、見せてよ。あるんでしょ、ここに」
「君はなかなかに聡明だな。だが断る。面倒だ」
 彼女の口角はますます上がって口が裂けんばかりになる。しかし、それでもなお、彼女の持つ、地味ながらも可憐な魅力は衰えることはなかった。
「見せないともっと面倒なことになるよ。早く職員室戻らないとまずいんじゃない? あと、本当にPTAに訴えられることになるかもしれないよ?」
 本当に聡明だな。全部計算尽くというわけか。全く嫌な子供だ。
 でも私も当時、教師からはこんな風に見られていたのだろう。いや、もっと酷いか。普通に授業サボったりしていたからな。
 仕方ない。安売りはしたくないのだが、美大を目指す可愛い後輩のためと思って我慢するか。
「付いて来るといい」
 私は準備室の扉を開けると彼女を促した。
 部屋には作業用の長机とデスク、そしてソファがひとつ。デスクには職員室から持ち出した作業をやるためのノートPCが置いてある。他は石膏像や卒業生が残していった作品で埋め尽くされた棚で占領されていた。
 私はソファの奥に画面を背にしてにして立てかけておいた巨大なキャンバスを手に取る。大きさは大体畳み一枚分、M120号と呼ばれるサイズだ。
 足の爪先を使って器用にキャンバスを反転させる。油絵独特の匂いが鼻腔をくすぐった。
「うわぁ……」
 彼女が感嘆の声を上げた。
 キャンバスに描かれていたのは、不気味なくらいに青くて高くて深い空。画面の下半分を覆いつくす業火。そして業火に照らされて、逆光になった少年の姿。
「凄ぉい。これ何のコンペに出したやつ?」
「これは何処にも出さないよ。そもそも失敗作だ」
「そうかな? 私には十分成功してるように見えるんだけど。まあ、先生的には駄目なだけか」
 他の人たちと同じような事を口走る彼女。お世辞でなく、本当に褒めていることは分かる。だけど止めて欲しい。これは褒められるための絵ではないし、褒められるような絵でもない。
「ねえ、先生。この中央の男の子? って誰がモチーフなの?」
「純粋な創作だよ」
 私は吐き捨てる。
「へぇ、その割にはすっごい量書いてるよね? コレ、もしかして先生の理想の男性像? あはは。先生って実はショタコン?」
 気が付くと、彼女は作業机に置いてあったクロッキー帳をぺらぺらとめくっていた。この小娘。美魚君に似てるとと思ったが、前言撤回。全然似てない。むしろこのウザさは葉留佳君だ。
「昔、私が高校生だったとき同じクラスだった子だよ」
 私は隠すのも面倒になり、正直に言った。
「へえ。もしかして昔付き合ってた彼氏?」
 彼女は笑いながら茶化してくる。
「そんなんじゃないさ。ただ、仲が良かっただけさ」
「そんだけで、こんなに一杯描くわけないじゃない。もしかして最後まで告白できなかった初恋の相手とか? うわぁ、すっごい意外。先生って純情乙女ちっくなんだね」
 以前の私なら、これだけで顔を赤くしてしまったのだろうが、今そんな反応したら気持ち悪いだけだ。それよりもこの娘、言うに事欠いて「純情乙女ちっく」って何だ。ボキャブラリーとセンスが昭和入ってるぞ。
「先生、顔赤いよ?」
 とっさに自分の顔に手を当てる。
「というのは嘘」
 やってくれる、この小娘。二十代半ばの女子(女子で悪いか!)にカマをかけるとは。葉留佳君よりも上手だな。
「先生って意外と可愛いよね。皆知らないだろうケドさ」
「もういいから帰れ……」
 私は額に手をやって、残った方の手で彼女を追い払った。昔からこういうタイプの人間には弱いのだ。
「さっきの答え、聞いてないよ」
 見ると彼女は私の顔を真顔で、真っ直ぐに見据えていた。透き通るような瞳に強い意志を秘めて。油断すると吸い込まれそうになってしまう。
 真っ直ぐに見つめあう。彼女のその瞳に飲み込まれないように、私も目に力を入れる。
 どれくらい睨めっこが続いたのだろうか。私は正攻法でいくことに飽きてきた。もう、時間もないし、さっさとお開きにしてしまおう。
 私は彼女から視線を逸らすと、窓際に歩み寄り、遮光性のカーテンを閉める。その隙間から暗くなった外と街灯の光を眺める。そして、ぽつりぽつりと誰にともなく呟いた。
「最後まで告白できなかった、は正解だな。……告白できないまま居なくなってしまった。もう、何処にも、居ないんだ」
 彼女が息を飲むのが聞こえた。
 私は振り返って彼女に向き直る。彼女は明らかに狼狽していた。唇が細かく震えている。まさかこんな展開になるとは思って居なかったのだろう。
「ごめん……」
「気にするな。さて、そろそろ出よう。玄関までなら送るよ」
「……ゴメン」
 準備室と美術室の鍵を閉めて、電気の付いた廊下を二人で歩く。彼女は先刻から俯いて黙ったまま、私から付かず離れずの距離を保って歩いていた。
 下駄箱まで着くと、彼女はいそいそと上履きと靴を履き替えた。
「それじゃ、先生。さようなら」
 彼女はぼそっと私に挨拶すると、私に背を向ける。
 離れて行く彼女に、私は大きな声を掛けた。
「ああ、そうそう。さっきの話だがな」
 彼女が振り返る。怯えたような瞳をして。
「すまん。ありゃ嘘だ」
 見る見るうちに彼女の耳から顔から真っ赤に染まる。般若も驚き、凄まじい形相だ。
 次の瞬間、彼女の鞄が目の前に現れた。
 私はそれをぎりぎりのタイミングで受け止めることに成功した。
「これは無いだろ」
「それはこっちの台詞だ! この馬鹿教師!」
「はっはっはっ」
 鞄を投げ返す。
 肩を怒らせて校舎から出て行く彼女の背中が、小さくなって見えなくなる。私はその様子を、じっと眺め続けていた。


「あ、お疲れ様です」
 私は帰り支度をする学年主任に挨拶をする。
「ああ、お先に。ところで来ヶ谷先生。あなたいつも一番最後、それもかなり遅くの時間に帰られてますよね。そんな時間までやる仕事が、あなたにあるんですか?」
 言い方は優しげだが、相変わらず嫌味な奴。私は用意しておいた笑顔を貼り付けて、差しさわりの無い答えをする。
「ええ、今年も美大を受けたいという子がいるものですから。そのために色々とカリキュラムを考えたりしてるんですよ」
「教育熱心なのもいいんですが、ここは進学校ですよ。あまり出しゃばられても困る」
「まあ、本当に美大に行くかはその子達が決めることです。私が勧めたり、強制したりはしてませんよ。それに、美大に行きたいというのであれば、藝大や有名私立に行けるレベルに育てますよ。そういう意味でも、ここが進学校と言えるのではないのでしょうか?」
「……まあ、勝手にしてください。くれぐれも遅くならないように」
 捨て台詞を吐くと、学年主任は職員室を出る。
 さて、やっと誰も居なくなったか。
 私は職員室の戸締りをすると電気を消し、美術室へと向かった。


 ひっそりとした校舎。この部屋以外は非常灯の明かりしか灯っていない。
 私はソファに座って、並べられた三枚の連作を眺めた。
 一枚目は風景画。その景色は雪景ではないにもかかわらず、白で覆われていていた。青かったはずの空も、生い茂る緑も、地面の土色も、すべてが白で隠されて、白の絵の具層からうっすらと元の色を確認することしか出来ない。建物のマチエールは一見頑丈な感覚を与えるが、同時に触るとボロボロに崩れていく印象を見た者に与える。それは儚くて美しくて、残酷な。
 二枚目は転じて抽象画。一面様々な黒で埋め尽くされていて、中央には仄明るいオレンジとも赤とも付かない穴が開いている。一面の黒をよく見ると、それは全て花。菊やカーネーション、竜胆など色とりどりの花々が真っ黒く染められて、はなむけの為に敷き詰められていた。そして中央の穴。見つめれば見つめるほど、その奥が蠢いて見える。見る者をその色彩で惹きつけ、やって来た者を飲み込み、噛み砕く。そんな不気味で不思議な穴。
 そして、三枚目。これはまだ未完成のものだ。ペインティングナイフで大雑把に塗り分けられただけの下絵。構図は先程あの子に見せた絵と同じもの。それは燃え盛る炎を背にした理樹君の姿だ。
 ――あの日の光景は今でも目に焼きついて離れない。理樹君に背負われて、バスから離れた場所に寝かされたとき、私は少しの間意識を取り戻していた。あの時見た理樹君の姿に、私の心は、完全に支配された。
 確かに、私は理樹君のことが好きだった。しかし、あの時感じた感情はそんなものではなかった。今思い出すだけでも、その想いに胸の中が満たされ、背筋が凍り、涙が溢れる。
「もう何処にも居ない、か」
 それは半分本当で、半分嘘。
 理樹君と最後に会ったのはいつだったか。確か大学時代に皆で集まったときだろうか。鈴君と同棲してるとか、そんな話を聞いた気がする。
「あたしと理樹は付き合うことにした」
 高校時代の鈴君の言葉。仲良く手を繋いでいる二人の姿。
 それらは皆の心を大なり小なり動かした。私も彼女達と同様に心を乱されたのだが、きっとそれは彼女達とは異なるものなのだろう。
 それは波が引くように、全部流されて、かさかさに乾いてしまった。
 その日から私は、ごく自然に、理樹君を見ることを止めてしまった。
 私は煙草を咥え、マッチで火をつける。紫煙が準備室に立ち上る。
 あの時の理樹君は、あの瞬間だからこそ存在できたのだ。それは花火のように一瞬輝いては消えていく、そんな儚い美しさ。
 私は花火の美しさを油絵の具の中に閉じ込めようとしている。何て愚かなことなのだろう。それは一瞬で消えるから、儚いからこそ美しい。そんなことは分かっているはずなのに。
 それでも、私はあの一瞬を切り取りたかった。そうすることができれば、きっと私はそれを掴むことが出来る。その確信が私にはあったのだ。
「さてと」
 私は煙草を灰皿に押し付けると、ソファから起き上がる。
 書きかけの絵をイーゼルに掛ける。作業机に乱雑に並べられた、色とりどりの絵の具を眺める。
 絵の具をチューブからパレットに出し、ペインティングナイフで混ぜ合わせる。色相、彩度、明度、それに透明度。そういった要素が交じり合い、新たな色が生まれる。それに溶き油を加えて柔らかさを調節し、下地の上に重ねていく。
 それは石を積み上げて、ひとつの城を建てる行為に似ていた。下の石が土台となって上の石を支え、ひとつの構造物が生まれていく。
 しかし私には、それが賽の河原積みにしか見えなかった。
 石の積み方は既に体が覚えていた。この肌の色の下地はこの色。この炎の色の出し方はコレとコレとコレ。幾多の失敗作での経験と膨大な量の色見本から、実際に塗らずともそれがどんな絵になっていくのかが見えてくるようになった。
 だからこそ分かってしまう。その石の塔が崩れる瞬間が。初めは無限の可能性を秘めた真っ白いキャンバスが、色を重ねるたびにその可能性を失っていき、やがては何処にも行き場の無い袋小路に追い詰められていく姿が。
 私はそこから慌てて実際に色を重ねていく。少しでも袋小路から逃れるように、あのとき見た美しいものに近づけるように、足掻きながら。
 だけど結局そこに戻ってしまう。キャンバスの布目が失われ、マチエールが邪魔をして、これ以上色を重ねられなくなってしまう。
 いつしか私は、絵の具を出すのが怖くなってしまった。
 気が付くと、四本目の煙草を咥えていた。慌てて煙草を箱に戻す。
 何度、この絵を諦められたら楽になれると思ったことだろう。この絵を描かなければ、私は平凡な美術教師として一生を安穏に過ごすことができるのだろう。そんな日々を夢見たこともあった。
 でも、私の中の何かが、私にそれを許さない。この苦しみから逃れることを許さない。
 私はいくつかの色を選び、乱暴にペーパーパレットに絵の具を出すと、ペインティングナイフで混ぜ始める。
 そう、私に退路は最早無い。前に進むしかないのだ。たとえそれがどんな獣道であろうと。道すら無かろうと。
 だが、私が手を伸ばそうとすればするだけ、それは遠く遠く離れていく。永遠に続く鬼ごっこ。果たして私は、そこに到達することは出来ないのだろうか?
 そして、もしもこの絵が完成したとして、私がそこに辿り着いたとして、そこには何が在るのだろうか? 私は、ずっと盲目的にそれを追いかけすぎていた。いや、目を逸らし続けていたのかもしれない。
 辿り着けないこと。辿り着いた先のこと。私は、それら全てが怖かった。
 そのとき、デスクに置いてある携帯電話のディスプレイが光る。続いて振動音。
「はい。……何だ、葉留佳君か」
 あのときと変わらない旧友の声。その声は、私に差し出された救いの糸にさえ思えてしまう。
「ん、そうか。久しぶりだな、皆でなんて」
 皆の姿が目に浮かぶ。それはあのときの何も知らなかった無垢な頃の光景。目頭が熱くなるのを堪える。
「何日だ? 予定を確認する」
 私はわざとらしくクロッキー帳をめくる。
「すまない。その日は先約が入っていた」
 葉留佳君の残念そうな声が聞こえる。その意気消沈とした様子に、先程のあの子の姿が重なる。じくじくと、胸が痛みを訴える。
「うん。ちょっと外せない用事なんだ。皆にはすまないと伝えておいてくれ。また、メールするよ。じゃあ、おやすみ」
 葉留佳君が通話を切った。終話音が無機質に鳴り響く。
 私は、その冷たい音を聞きながら、真っ暗な夜空を窓から眺めた。
 月は無い。在るのはただ、星々のまたたく幽かな光。
 それに手を伸ばす。届かない。

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