ワルプルギスの夜       橘



「お姉ちゃん、早くこっち!」
 葉留佳さんの手が、佳奈多さんの手を力強く握りしめる。
 僕は会場を見渡す。辺りは真人たちがその強靭な肉体を余すことなく発揮した結果、テーブルや椅子は全て薙ぎ倒され、割れた食器が散乱し、既に廃墟といえるレベルにまで破壊され尽くしていた。その場にいた三枝の人たちが恐慌状態で我先に逃げ出そうとする、僕たちを押さえようと向かってくる。
 そんな中で、部屋の端にいた一人の少女が目に止まった。彼女は平然とした様子で僕の方に笑顔を向けると、右手をひらひらと振っていた――


 皆が寝静まって、虫の鳴き声も聞こえない。そんな夜更けに、僕は中庭で人を待っていた。
 しばらくすると、暗闇から音も無く人影が歩み寄ってきた。制服に身を包んだ女の子。ただし、その上から真っ白なパーカーを羽織り、フードですっぽり頭を覆っていたため、女の子の口元しか見えなかった。抜けるように白い肌に薄い唇。その唇の赤さが印象的だった。
「直枝理樹さん、ですね。申し訳ありません、こんな夜更けにお呼び立てして」
「いいよ。丁度寝付けなかったし」
「きちんと対面でお話しするのは、今日が初めてでしたね」
「ああ、そういえば、そうだね。電話では何度か話したことはあったけどね」
 女の子の唇が薄く笑う。
「それで、明日の準備に問題はありませんか?」
「うん。みんな喜んで参加してくれてるし、事前にやるべきことは終えているはずだよ」
「そうですか。こちらも貴方がたの当面のお金を、佳奈多さんのご両親にお渡ししております。その他私たちの準備も万端です」
「佳奈多さんはどうしてるの?」
「早めに床に就かれましたよ。直前までは私が、その後は私の家族が傍に付いております。二木家としては逃亡防止用の見張りという感覚なのでしょうが、彼らの発想が逆に生きましたね。彼女の体に指一本触れさせていないことを保障いたします」
 互いの近況を説明し終えると、二人のあいだに沈黙が訪れた。静かな月夜。時間が止まったような感覚に襲われる。
 その長い沈黙を破ったのは、フードをかぶった彼女だった。
「お互い、長い夜でしたね」
 僕は彼女の言葉を噛み締めるように頭の中で繰り返した。
「そうだね。でも、その長さは人によって違うよ。僕たちにとってはせいぜい数ヶ月のことでしかない。でも佳奈多さんや葉留佳さんにとっては、これまで一度も朝を迎えたことが無いんだよ。生まれてから今までの間、ずっと夜のままだったんだ」
「……そうですね。失言でした」
 彼女は静かに頭を垂れる。僕はここでずっと気になっていたことを訊いてみた。
「それにしても、どうして君たちは、僕たちのやろうとしていることをここまで手助けしてくれるんだい?」
 僕のその言葉に驚いたのか、彼女はしばらく口をあけたまま呆然としていた。その後、キリキリと彼女の口角が吊り上る。三日月のようになった赤い唇は、僕の心にどこか不吉なものを感じさせた。しばらく含み笑いをすると、彼女が口を開く。
「直枝さん。それは誤解です」
「どういうこと?」
「本当は逆です。こちらとしては、貴方がたは私たちの手助けをするという役割なんですよ」
「君たちの?」
「ええ、私たちが二木家や三枝本家から当主の座を奪い取る筋書きの、です」


 彼女は語り続けた。
「直枝さんもご存知でしょうが、当時莫大な権力を持っていた三枝一族は、戦後急速に衰えていきました。その中で、彼らはどのように一族を復興すべきかを考えた。そうしてできあがったのが、あの山の上の祠です。ですが、三枝一族は一枚岩ではなかった。家柄や血といった前時代的な発想と、自らを縛る貴族意識を捨て、積極的に事業を展開してきた勢力があった。それが現在の私たちです」
 彼女は後ろを向くと、腕を後ろに組んで歩き出す。
「私たちは高度経済成長を背景に、着実に事業を成功させていきました。しかし、私たちがいくらお金を集めても、所詮は傍流の家系。三枝本家や二木家といった連中からは卑しい家系と罵られ、末席に据えられ、あまつさえ私たちから資金を吸い上げるような真似までされてきました。そんな中で、三枝本家や二木家の専横な振る舞いに苦しめられてきた家同士が互いに協力し、彼らから当主の座を奪おうと機会を窺っていたのです。そういう意味では、私たちにとっての夜は佳奈多さんたちよりも長い、ということになりますね」
「そう、か。失言だったのは僕の方だったわけだね。ごめん」
 僕の言葉に戸惑ったのか、彼女は振り向くと慌てて言葉を返す。
「ああ、すみません。そういうつもりでは無かったんです。佳奈多さんたちの境遇については分かっているつもりですし、それについて、これまで私たちは看過せざるを得ませんでしたから。一番の被害者が誰かはわかっているつもりです」
 しばらくの間、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「――話が横道にそれました。貴方がたの計画が、私たちの筋書きとどう関係があるのか、ということですよね」
 私の知っている範囲で、という前置きをした後、彼女は再び話し始める。
「没落してしまった三枝本家に代わって、二木家が一族を取りまとめるようになったのには理由があります。それは、二木家が三枝本家直系であり、かつ資金力が最もあったからです。その源泉が彼らの経営している、とある中堅企業。彼らは正当な役員報酬だけではなく、会社の利益の大半を私的に流用することによってその資金力を得ていたのです」
 その証拠、ご覧になりますか? と彼女は言うが、僕は丁重に断った。見てはいけない、本能的にそう感じた。
「私たちはこれをネタに株主代表訴訟を起こし、二木家の排除、及び個人資産の差し押さえを行います。ただ、この訴訟を有利に進めるためには、彼らの意識を別の場所に集中させるための囮が必要だった。そこで現れるのが貴方がたというわけです」
「僕たちが親戚一同の前で佳奈多さんを奪い取ったら、彼らの体面は丸潰れ。だから、僕らを追いかけざるを得ないというわけだね」
「その通りです。とはいえ、それだけでは貴方がたのリスクが大きすぎる。ですので、間髪入れずに、佳奈多さんの両親が親権の復帰を求める訴訟を起こします。これで、彼らは無闇に貴方がたを追いかけることも出来なくなる」
 僕は目眩を覚え、そばにあった電燈の柱にもたれかかった。彼女の口から出る言葉全てが、僕の生きている世界とは全く異なるものであり、そして何よりも彼女たちの棲む、生き馬の目を抜く世界が堪らなく恐ろしく感じられた。
 僕たちはどんな恐ろしいことに関わっていくのだろう。そんな不安感で潰れそうになる。しかし、もう彼女たちと関わる以外に道は無い。僕は深呼吸をして自身を落ち着かせようとした。
 ふとその時、僕は一つの疑問にぶつかった。
「あのさ、それって僕たちが何もしなくても君たちの筋書きには何も影響しないんじゃないかな?」
 僕の疑問を耳にすると、彼女は口元を綻ばせた。
「ご明察です。この話はあくまで、あればより良い程度の扱い。無くても私たちに問題はありませんでした。……ただしその場合、佳奈多さんを救い出すことはできません。というより、本来救い出すつもりがありませんでした」
 と、彼女は一度区切って僕の方に向き直る。僕の反応を待っているのだろう。僕が無言で頷くと彼女は先を続けた。
「私たちにとって、佳奈多さんや葉留佳さんがどうなろうと知ったことではありませんから。そもそも彼女たちは三枝本家の人間であり、私たちにとっては敵対すべき立場の人間です。それに佳奈多さんには一度、仕掛けるチャンスを潰されていますしね」
 彼女から意外な言葉が出てきた。佳奈多さんがそんな大人たちのいざこざに直接関係するとは、ましてや三枝家や二木家の得になることを彼女がするなんて到底思えない。
「どういうことなの?」
「一度、佳奈多さんが親戚たちを説き伏せていたことがあったんです。今の三枝のやり方を変えていこうとかなんとか言ってね。私たちはもちろんそんな呼びかけを無視しましたが、一部の連中がそれに応じてしまいまして。その結果、佳奈多さん自身の状況を一層悪くされただけではなく、私たちの動きが察知されないよう計画を一度頓挫する羽目になりました。本当に、余計なことをしてくれました。ですから、私たちの中では今でも佳奈多さんは疫病神扱いです」
 彼女は人を莫迦にしたように鼻で笑う。
「――ということです。貴方がたは佳奈多さんを救いたい。そして私たちは勝率を上げたい。双方の利害関係が一致しただけの話です。ご納得いただけましたか?」
 僕は彼女の発言に恐怖感を抱きつつも、ずっと違和感を感じていた。それはきっと、これなのだろう。
「うん。君たちが佳奈多さんをどう思っているのかは分かったよ。でも『君』はどう思っているんだい?」
 彼女はいやらしい笑い顔を止め真顔に戻ると、低い低い、ぞっとするような声でこう訊き返した。
「何が言いたいんです?」
「葉留佳さんから聞いたよ。僕たちの計画を聞いてから、君は親戚たちを説得して回ってたらしいじゃないか。土下座までして。どうしてそこまで僕たちに、いや、佳奈多さんに肩入れするんだい?」
 彼女が押し黙る。


 ――全ては葉留佳さんから始まった。僕達だけで佳奈多さんを二木家から取り返そう、はじめはそう思っていた。けれど、計画を考えていくうちに限界に行き詰ってしまったのだ。お金や大人たちの人間関係。それについては、恭介や来ヶ谷さんでさえどうしようもなかった。どこかで大人の協力が必要。そう行き当たったところで葉留佳さんが彼女を紹介してくれたのだった。
 なぜ彼女を?彼女は二人の監視役、完全に二木家側の人間だ。それを葉留佳さんに尋ねたとき、彼女はケロリとした表情で答えてくれた。
「あの子は本当は、二木家側の人間じゃないと思うよ。だって、あの子はずっと佳奈多の味方だったもん。佳奈多のことばかり心配してた。さすがに一年間も同じ部屋で住んでたら、それくらいわかるよ。……まあ、私の味方では無いんだケドね」
 そう言った後に葉留佳さんが見せた、寂しそうな表情が印象的だった――


 彼女から話し始めるまで、僕は何も言うつもりは無い。こうしていると、深夜の静けさが僕の体の奥にまで染み入って、聴覚が失われたようにさえ感じる。
 長い長い時間を置いて、いやもう時間の感覚も麻痺していたところだったので、本当はそんなに経っていないのかもしれない。彼女は観念したように話し始めた。
「貴方が何を期待しているのか知りませんが――」
 そう言うと彼女は、自分の顔を覆い隠していたフードを両手で掴んだ。
「私も大嫌いですよ。佳奈多さんのこと」
 フードを外すと、彼女の素顔が露わになる。


 佳奈多さんや葉留佳さんと同じ色の髪を、肩の高さで左右二つに纏めていた。目鼻立ちは整っているものの、佳奈多さんたちのような華やかさは無い。野暮ったい眼鏡をかけている彼女から酷く地味な印象を受ける。この少女が先程までの話をしているのが信じられないくらいだ。
 だが、眼鏡の奥の瞳に猛禽類独特の爛々とした輝きと、爬虫類のような無感情さを感じた。佳奈多さんの場合、その言動からキツイ印象を受けたのだが、目の前の彼女の場合は、キツイというのとは違う何か不気味な印象を抱かせる。
「何というか、あの人要領悪くって全部自分で抱え込んでいるじゃないですか。ああいうの、見ていて不快でしたね。それに甘ちゃんだし」
 彼女は吐き捨てるように言い放つ。
「甘ちゃん? 佳奈多さんが?」
「ええ。気付きませんでした? 佳奈多さんがずっと自分を助けてくれる人を求めてたのを」
 確かに言われてみれば、そんな節があるのかもしれない。だからこそ僕は、いや僕たちは彼女を助けたいと思ったのかもしれない。
「普通は誰も助けてくれなどしませんよ。良かったですね、貴方みたいな奇特な方がいて」
「それは君もじゃないかな?」
 彼女は鼻で笑うと、馬鹿にしたような目で僕を見た。
「まぁ、佳奈多さんのような甘ちゃんには、貴方のような方がお似合いですよ。せいぜいあの方を甘いままでいられるよう、守ってあげてくださいな」
 彼女は後ろを向くと、そのまま歩きだしその場を後にしようとした。
 しかし、数歩歩いたところで彼女は立ち止る。そして、首だけを僕の方へ向けると流し目で僕を見据えた。
「ひとつ、言い忘れていました。老婆心ながら貴方に忠告です。誰かを守ろう助けようとするのなら、それなりの力が必要です。けれど、強くなっていく中で、貴方は大切なものを失ってしまうかもしれない。……そのことを忘れないようにしてください。それでは」
 もう直接会うことはないでしょう、と言い残すと彼女はもう僕の方へ振り返ることなく夜の闇に消えるように立ち去って行った。僕は彼女を呼び止めようとしたが声が出なかった。あの時、彼女の眼が悲しそうな光を帯びていたように思えた。
 僕は空を見上げる。雲もなく月も見えない夜。虫の声だけがうるさく聞こえる。夜明けにはまだ時間がある。
「明日、か」
 僕は空にそう呟いた。

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