愛の円環        通りすがり






 《1》


 同じベッドの同じ布団にくるまって、僕とクドは抱き合って眠る。肌を重ねて体温を共有していると自分の肉体が肥大化したように錯覚するから不思議だ。仄かな熱がバターみたいに肌と肌の境界面を溶かしてくれないかと考える。血管と血管の断面がキスをすることを思う。僕の骨とクドの骨がパズルみたいに整合性を持つ関係になればいいのにな。
 枕元に手を伸ばすと指先に冷たいものが触れる。摘んで引き寄せると古臭い鋏だと分かる。小学校の図工の授業で使うような安物で、いかにも切れ味が悪そうだ。握り手の部分にマジックで「なおえりき」と書かれている。薄暗闇の中、眠るクドの顔を見ながら、試しに右手の指を入れて鋏を開閉してみる。錆びた刃先がチョキンと音を鳴らす。
 クドと絡めた左手を胸元まで引き上げる。細く白い彼女の腕の半ばに、開いた鋏を差し込んでチョキンとやる。ぷつんと間抜けな音がして腕が切り離される。血は一滴も出ない。断面も綺麗なものだ。紙を切ったみたいな手応えだった。
 切られても僕の手と絡められたままでいるクドの手を優しく引き剥がす。指を一本ずつ開いていかないと外せなくて難儀した。空中に放たれた彼女の手は、重力を無視してぷかぷか浮かんでいる。僕は手首の辺りをつかんで、一番長い中指から順にそれを食べる。五本の指をもしゃもしゃ食べて、棒みたいになった腕を一気に飲み込む。味も臭いもしなかった。食べた感触だって全然ない。
 僕は鋏を動かして、残された足や腕を切り取って順に食べていく。首から上だけになったクドが枕に頭を乗せて穏やかな寝息を立てている。その場に鋏を置いて、彼女の艶やかな髪に触れる。一房口に運んで噛んでみる。相変わらず空気を食べているみたいだ。不意にクドが目を開ける。邪気のない笑みを浮かべる。僕は微笑み返す。両耳の辺りをつかんで彼女の頭を持ち上げ、頬にかぶりつく。柔らかそうな皮膚をぱくぱく食べた。
 布団を払い、僕は独りきりになったベッドから降りる。電気を点けようと伸ばした右手が、腕ごと床に落ちる。振り返るとぼんやりとした闇の中に鋏が浮いている。錆びた刃先が勝手に動いてチョキチョキと音を奏でる。慌ててドアノブに左手をかけたがそちらもあっさり切り落とされた。ドアに背中を預けて僕はその場に座り込む。鋏が宙を飛んで寄ってきて、僕の腹を横に切る。裂けた皮膚の内側から臓物の代わりに白い腕が引っ張り出される。クドだ。頭や胴体もきちんとくっついている。泣き喚いている。彼女を見る僕の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 クドが恐怖に引きつった強がりの笑みを浮かべて言う。「リキ、愛してるのです」
 僕は震える唇を開いて言う。「僕もクドのこと、愛
 鋏が僕の首を切り落とし、残された言葉は永遠に吐き出されない。


 《2》


 部屋でクドと一緒にいると、急に一冊のノートを手渡される。
「何これ?」
「読んでみて下さい」と言ってクドは表紙をめくる。
 ざっと眺めてみた感じ、どうやら小説らしい。何故か登場人物に僕やクドがいてひっくり返りそうになるが、クドの真剣な表情を見るにふざけているわけではないようだ。腰をすえて文字を追っていく。短いのですぐ読めた。ただ、左上に《1》と章の番号らしきものが振られているのに、次のページを開いても続きが書かれていないのが気にかかる。連載形式なのだろうか。そもそも、これはクドの書いたものなのだろうか。「読んだよ」
「感想を聞かせて下さい」
「うーん。ちょっとストーリーがつかめないかな」
「私もです」
「これ、クドが書いたんじゃないの?」
「違います」
「じゃあ誰が?」
「リキじゃないのですか?」
「書いてないよ」と言って僕は苦笑する。
 僕はクドを鋏で切って食べたりも、こんな小説を書いたりもしていない。
「え? ですけどリキ」とか言うクドにノートを返却し、僕は大きく伸びをする。
「眠いね。一緒に寝ない?」
 クドの肩を抱いて引き寄せ、ベッドの布団をめくり上げる。
 枕元に鋏が置かれている。刃先が錆びている。
「え?」
 僕は慌ててクドを見る。「悪ふざけはやめてよ」
「私は何もしていないのです」と言ってクドは首を横に振る。
「じゃあ誰が置いたの?」
「リキでしょう?」
 当惑しつつ鋏を拾い上げる。「なおえりき」とある。僕の鋏だ。刃の間に親指を挟んでみるが、小説のように痛みもなく体の一部が切断されることはない。この状態で鋏を握る手に力を込めたら、普通に皮膚が切れて血が流れるだろう。下らない。僕は鋏を放り出し、クドを抱えてベッドに潜り込む。彼女の背中に手を回す。クドが眼前で柔らかく笑って、僕の肩に自らの顔を押しつける。僕は彼女の体温を感じながら目を閉じる。闇に意識が引っ張り込まれる。
 目覚めても僕の腕の中にはまだクドがいた。何気なく寝顔を見て戦慄する。そこにいるのは鈴だった。いつの間にかクドと入れ替わっている。僕は飛び起き、反射的に鈴の体を突き飛ばしてしまう。布団に背中を打ちつけた彼女が痛そうにうめく。
「あのな。理樹、お前寝ぼけてるのか?」
「鈴、どうしてここに?」
「記憶喪失でも起こしたか?」
「いいから答えてよ」
「お前が一緒に寝ようって誘ったんだろ。忘れたか?」


 《3》


 授業開始のチャイムが鳴る直前に、クドからノートを半ば押しつけられる感じで渡される。彼女の背中を追おうとしたものの、教師が入ってきて号令をかけ始めたので断念する。次の休み時間に事情を聞けばいいだろう。僕はノートを見つめる。表紙には名前すらも書かれておらず、何の用途に使われているのかさっぱりだ。開いてみると小説らしきものが二ページ分書かれている。僕は板書をする振りをして《1》と《2》で区別された二つの物語を読んだ。
 読み終えたが、正直言って意味が分からなかった。《1》も《2》も主人公は僕になっているが、こんな無茶苦茶な体験をした覚えはない。唯一の共通点と言えば、僕がクドと交際しているということぐらいだ。もちろん僕はこんな小説など書いていない。となると誰が書いたのだろうか。そもそも意図が分からない。悪ふざけだとしても内容があまりに謎すぎる。《1》だと空飛ぶ鋏に僕は首を落とされているし、《2》だと人体交換トリック的なことが発生している。これを書いた誰かは、これを読んだ人間に何を伝えようとしているのだろう。もちろん、単に解釈を丸投げした手抜き小説の可能性も多分にある。その場合、深く考えれば考えるほどに馬鹿を見ることになる。
「クド、これどういうこと?」
 休み時間、僕はノートを片手に廊下でクドに問いかける。
「こっちの台詞なのです。リキこそどういうつもりなのですか?」
「はい?」と言う僕の手から、ノートがもぎ取られる。
「浮気をしましたね、リキ!」
「何のこと?」
「すっとぼけるのもいい加減にするのです!」と叫んで、クドは開いたノートを僕に突きつける。示されているのは小説の《2》だ。僕がクドと寝たらいつの間にか鈴と寝ていたことになっているという馬鹿展開の方だ。「これがどうかしたの?」
「鈴さんと寝るのが浮気でなくてなんなのです!」
「いやいや、これただの小説でしょ。誰が書いたの?」
「リキが書いたんじゃないのですか?」
「初めて読んだよ、こんなの」と僕は言う。「どこにあったの?」
「今朝、学校に来たら机の中に入ってたのです」
「誰かの悪戯だよ。少なくとも僕は知らない」
 実際、僕に心当たりはない。「どうして僕が書いたと思ったの?」
 クドがポケットに手を突っ込んで鋏を取り出す。「これが挟んであったのです」
 記された「なおえりき」の文字。
 受け取ってみると、紛れもなく僕の鋏だ。
「リキ、本当のことを言って下さい」
「言ってるよ」
「鈴さんと私、どっちが好きですか?」
「クドだよ。鈴も好きだけど、それはクドに対する好きとは違う」
「どう違うのですか?」
「僕はクドのことを」と言った途端に僕の腕が自然と動いて、気がつけば鋏の刃をクドの胸に突き立てていた。閉じた刃を開くと胴体が真っ二つに断ち切られる。彼女の上半身が斜めにずるりと滑って廊下に落ちる。遅れて下半身も崩れ落ちた。濁った瞳で虚空を睨む彼女の顔に向けて、僕の口から言い残した言葉がこぼれ落ちた。「愛してる」


 《4》


 寮室で宿題をしていると、物凄い勢いで扉が開いた。誰かと思うとクドだった。何故か涙目で、右手にノート、左手に鋏を持っている。何を血迷ったのかと僕は思わず身を引いてしまう。クドはそんなのお構いなしに「怖いのですー!」とか言いながら僕に抱きついてくる。
 事情を訊いてみると、クドは自分の部屋の前で友人と立ち話をしていたらしいのだが、話を終えて部屋に戻ると床にノートと鋏が置かれていたとのこと。窓は施錠されていたし誰かが隠れるような場所もないし自分は部屋の前にいたしでパニック状態に陥ったとか云々。クドの言っていることが本当なら確かに怪奇現象だ。
 別に探偵を気取るわけじゃないが、僕は証拠物資を見せてもらうことにする。ノートの方は何の特徴もないその辺でいくらでも売ってそうなもので、中を見てみると最初の三ページだけ文章が書かれている。台詞もあるので小説だろうか。とりあえず保留にして鋏を見る。刃先が錆びていて紙も切れなさそうだ。剃刀レター的な意味合いなのだろうか。くるっとひっくり返すと握り手の小さなスペースに黒マジックで名前が書いてある。どこの馬鹿かと思ったら「なおえりき」と書いてあって、それはまさしく僕の名前だ。リキひどいのですーとか言ってわんわん泣き始めるクドをなだめて、僕は再びノートの方に取りかかる。鋏は後回しだ。
 ノートを読み始めるとそれはやっぱり小説で、《1》《2》《3》と章分けされた短い三つの物語なのだということが分かる。ぱっと見て分かるのは、主人公が僕であることと、僕とクドが恋愛関係にあることだろうか。それと《3》に登場する直枝理樹も指摘しているが、現実の僕は実際にクドと交際している。共通項はそれぐらいで、小説に書かれている内容はどれも嘘っぱちだ。現実と何の関係もない。それにしても支離滅裂な話だ。僕の肩越しに読んでいたクドも首をひねっている。「何でしょうこれ?」
「分からない。でも、この物語に共通する法則みたいなのはちょっと分かったよ」
「どういうことでしょう?」
「この話には、といっても三つしかないんだけどさ、まぁ終わり方が二つあるよね。《1》と《3》がパターンAで、《2》がパターンB。パターンAの特徴は、僕たちが愛を確認し合うと話が終わるとこだね。しかも結局、どっちも愛の確認に失敗してる。むしろ失敗させるために無理やり話を終わらせてる感がある。《3》に出てくる僕は、自分の意思に反して体が動いたみたいに書かれてるし。でまぁパターンBの方はパターンAみたいに僕たちがバラバラになるわけじゃなくて、一応僕は生き残ってる。ただ何故かクドが消えてて、そのポジションに鈴がいる」
「あの、わけが分からないのですが」
「僕も分かんない」
 ノートを壁にぶん投げたくなる。
「あ、ちょっと気になったのですが」
「なに?」
「この話って《1》でも《2》でも《3》でもノートや鋏を私たちが手に入れますよね。あ《1》は鋏だけですけど。でなんか、章が進むごとに手に入れ方が謎めいてきてませんか? 《1》だとただそこにあるだけですけど、《2》だとノートについては私が何か知ってるみたいですけど鋏に関してはリキにも私にも心当たりがない。《3》になると鋏にもノートにも心当たりがない。それに」
 クドは、さっき自分が見つけたという鋏とノートを見て体を震わせる。
「大丈夫だよ。ここに書かれてるのはフィクションなんだから。現実と関係なんてない」
「本当にそうでしょうか?」
 クドの瞳には怯えの色が見え隠れしている。僕は内心不吉なものを覚えながらも「そうだよ」と言って強がってみせる。
「でしたら」とクドは言う。「私はリキのことを愛してます。リキはどうですか?」
 僕は答えに窮する。もしこの世界が小説の《4》であるならば、クドに返事をした時点で僕か彼女は死ぬからだ。最悪、両方死ぬかもしれない。それだけは嫌だ。世界の法則に絡め取られて死ぬなんて馬鹿げている。でももし僕たちが物語の駒でしかないのなら、僕はこの先どうやってクドを愛せばいいのだろう。分からない。だから僕は「ごめんクド。一つだけ試させて欲しい」と言う。この世界が本物であるならば、クドには後でたっぷり謝ろう。もしこの世界が《4》でしかないのであれば、僕は《5》あるいは《6》あるいはもっと上位の世界にいる僕自身にクドのことを任せようと思う。愛してもらおうと思う。僕の行動は無数の僕たちの助けになるだろうか? なればいいと思う。そして願わくばこの世界が本物でありますように。
「僕はクドのことを愛してない」
 心に反した言葉を吐く。一瞬の静寂の後、クドの体が発火する。駄目だった。ここは《4》でしかなかった。苦痛に身をよじり、頭を抱えた彼女の手足がぼろぼろと千切れて落ちる。無数に寸断された肉片が焼き尽くされていく。駆け寄ろうとした僕の腕を誰かがつかむ。鈴だ。彼女が笑顔で訊いてくる。「理樹、あたしのこと、愛してくれるか」
「嫌だ!」と叫んだ直後に僕の体はバラバラに引き裂かれた。


 《5》


 僕は学校でクドに渡されたノートと鋏を自室に持ち帰る。
 ノートを開いて《1》《2》《3》《4》を読み返す。僕は僕自身に与えられた情報を整理する。第一にこの世界は偽物であるということ。第二に僕がこの世界でクドを愛し続けることはできないということ。第三に僕は鈴を愛することでしかこの世界から逃れられないということ。この三法則が作用して、最終的に僕は鈴を愛するように義務づけられている。僕はクドへの愛を自分の中に留めておくことができない。だからクドを愛する度に、彼女を愛した記憶を奪われて、僕は何度でもスタート地点に引き戻されてきた。こんなにもバラバラに引き裂かれて引き裂かれて引き裂かれてきたのに僕は気づけずにいた。気づけずにいたことを僕たちが気づかせてくれた。
 人の意識は世界を創る。夢見るように、空想を思い描くように。この世界だって誰かが創ったものなのだろう。この世界が僕を閉じ込める檻でしかないならば、僕は檻の内側を不可侵の楽園に変えてみせる。僕の思いが世界を創れないはずがない。僕は手元のノートを読みながら《1》の世界を創り上げる。《2》が《1》を、《3》が《2》以下を、《4》が《3》以下を、《5》が《4》以下の世界を内包した世界観である以上、これにより《1》から《5》までの世界は円環構造として機能する。
 輪のようにぐるりと繋がり一つとなった世界の中で、僕は、無数の僕たちと僕自身が望んだようにクドのことを愛してみせる。

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