その傷を、今日は黒で隠し、明日は白で誤魔化す      ウルー



「ぬああっ!」
 何が降水確率10%だ、バーローめ。たったの10%でこの大降りはどう考えたって理不尽だ。10%で降るとしたら小雨に決まっている。というか降るな。
 両手にぶら下げている買い物袋の中身は、きっと悲惨なことになっているだろう。卵なんてせっかく安売りだったのに、全滅してるだろうな……怒られるだろうか。それもこれも全部、当てにならない天気予報が悪い。しね、ばーか。
 今晩の食卓に並ぶはずだったカニ玉を犠牲にして全力疾走で戻ってきたアパート。外から見ると、一室だけ洗濯物を外に干しっぱなしにして……いない。
「ん?」
 おかしいな。確かに溜まってた洗濯物、全部外に出してから出かけたはずなんだが。ささみが講義抜け出して先に帰って来たのだろうか。というか、それだったらあたしの涙ぐましい努力はどうなる。カニ玉……。
 雨がウザったいのでとりあえず部屋に戻ることにする。



 ノブに手をかけると、鍵は開いていた。そういやこれ、実は泥棒とかだったりするんじゃないか、もしかしたら。うーみゅ、あたしら無防備に下着とかも外に干してるからなー。なんか知らんが、ささみはそういう主義らしい。正直なところ、あいつは馬鹿だと思う。もしくはアホだ。
 まあいい。普通にただいまーとか言ってやったらビビるんじゃないか、泥棒も。
「ただいまー」
「おかえり」
 別のアホが返事をくれた。奥のほうで、白い背中をこっちに見せながら何かやっている。ぐしょぐしょになったスニーカーを脱ぎながら、訊いてみる。
「なにやってるんだ、おまえ」
「何って、急に雨がザーってきたから。留守だったみたいだし、洗濯物取り込んであげてたんじゃない。ま、お隣のよしみってやつね」
 よく見ると、室内用の物干しに洗濯物をかけているらしかった。扇風機が働いているのを見るのがずいぶんと久しぶりであるように感じる。
「ご苦労だった」
「そりゃどーも。ってあなた、びしょ濡れじゃないの」
「傘も差さずに濡れないで帰ってこれたらアレだ、忍者かなんかだろ、そいつ」
「そりゃまあ、そうね。とりあえずシャワーでも浴びてきたら?」
「そーする」
 両手の荷物を預けて、ちっこいバスルームに向かう。今はもう慣れたが、本当にちっこくて狭い。高校の時の寮の部屋にあったやつのがよっぽど広いあたり、やっぱりあの頃のあたしは相当恵まれていたんじゃないだろうか。かなたの顔を見たせいか、そんなことを思った。



 適当に温いシャワーを浴びて出てくると、かなたは図々しくもまだ居座っていた。というか箪笥を漁っている。
「なにやってるんだ、変態」
「あなたの着替えを探してあげてたのよ。ねえ、下着が全然見つからないんだけど」
「そこに干してあるので全部だ、ド変態」
 扇風機の風に揺れている布きれの群れを指差してやる。群れというか山だな。でもぶら下がってるし、山というのは正しくない気がする。
「どんだけ溜め込んでたのよ……」
「あたしも今改めて驚いた」
 溜息が聞こえる。なんかよくわからんが、妙にくすぐったい感じだ。
「しょうがないわね……これでも着ときなさい。そのままだと風邪ひくわよ」
 投げ渡されたワイシャツを受け取ってから、素っ裸のままであることを思い出した。別に女同士だし見られて困ることはないが、風邪なんかひいて色々お預けをくらうのはつまらないので素直に着てやることにする。
 真っ白いそれを広げると、あきらかにサイズが大きかった。ついでになんかこれ、えー、アレだアレ、そう、薄荷だ。薄荷の匂い。いやミントか? まあなんというかそんな感じの匂いがした。
「細かいことは気にしないほうがいいわよ」
「そうする」
 今日のあたしはいやに素直だと我ながら思う。



「そういやおまえ、なんでここにいるんだ」
 ブカブカのワイシャツ一枚で買ってきた物を片付けていると、ふとそのことを思い出したので、訊いてみた。卵はやっぱり全滅していた。カニ玉ぁ……。
「なんでって……さっきも言ったでしょ」
 どうでもよさそうに答えるかなたは、寝転がってテレビを見てるらしかった。いいともーとか振り付きでアホみたいなこと言ってる暇があるなら手伝え。うぐぁ、ヨーグルトの蓋が破けてるじゃないか。なんか白いのが飛び散ってるぞ……。
「そっちじゃない。鍵とか、あとおまえささみと同じ講義取ってなかったか」
「ああ、そっちね」
 様子を窺ってみると、テレビから目を離す気配はまるでなさそうだった。そんなにいいとも好きかおまえ。うーみゅ、このヨーグルトまみれの野菜はどうしようか。いや待て。微妙にエロくないか、コレ。きゅうりとかニンジンとかヤバいだろ……。
「かなたー、寂しい独り者のおまえのために今晩のオカズを用意したんだが、要るかー?」
「ちゃんと洗えば普通に食べられるでしょ。人に押し付けないの」
 知ってやがったなあいつめ。むしろ知ってて手伝わないのか。さいあくだな。さいあくだ。
「で、話戻すけど。さーちゃんに合鍵貰ってたから」
「なん……だと……?」
 手が止まった。あたしの頭はヨーグルトにやられてしまったのだろうか。なんかよくわからんが、かなりアレなのが聞こえてきた気がするんだが。これはもう発酵してしまったに違いない。腐っている。
「あ、もしかして知らなかった? 一応、お互い何かあった時用に交換してあるんだけど」
「そんなことはどうでもいい」
 いや、どうでもよくはないな。後でささみにきっちり問い詰めてやるつもりだが、今はいないし後回しだ。
「おまえ、アレだ。さーちゃんってなんだ、さーちゃんって」
「ああ、そっちね」
 なんかさっきも聞いたぞ、それ。
「なんというか……響きがいいのよね。ま、それだけなんだけど。なぁに? 思いのほか仲が良さそうで、嫉妬でもした?」
「おまえもう帰れ」
 かなたは笑っているらしかった。漫画だとくすくす、とか書かれてるっぽい音が聞こえる。あれってなんなんだろうな。実際に「くすくす」って口に出していってるやつがいたらめちゃくちゃ、いやもうくちゃくちゃきしょいだろ。
「講義の方はね」
「人の話聞け、ぼけー」
 どっかの誰かみたいだぞ、と言ってやろうと思ったが。やめておいた。あたし自身のために。
 いつの間にかテレビの画面は真っ黒になっている。こっちを見るかなたの目は、いつか、どこかで見たものに似ているように思えた。
「寝坊しちゃってね。遅れて行くのもなんだか馬鹿らしくなっちゃって、サボることにしたのよ」
「不真面目だな」
「単位取れればそれでいいのよ。それにほら、ノートなら後でさーちゃんに見せてもらうし」
「帰れ」
 また笑われた。
「そもそも寝坊の原因、お隣さんが夜遅くまでうるさくて寝られなかったからなんだけど」
「知るか、ぼけー」
「どの口が人の話聞け、なんて言うのかしら」
 あたしの口だ、と言ってやったらかなたはどうするだろうか。笑うだろうか。呆れたように溜息をつくだろうか。まったく別の何かをするだろうか。
「鈴は……午前は講義取ってないんだっけ?」
 話題が脈絡なく変わった。いや、ついさっきまでその話をしてたんだから、脈絡がないわけではないのか。よくわからん。まあ、かなたも退屈なんだろうし、その暇つぶしに付き合ってやるのはちょっと癪だがやぶさかではない。
「そーだ。ま、この雨じゃ午後も行く気にならないけどな」
「確かにそうねぇ」
 洗濯物が邪魔で窓の外は見えないが、音はしっかりと聞こえる。まだ強いまま。辺り一帯、真っ黒い雲に覆われているんだろう、きっと。
「……それはそれとして、気になってることがあるのよね」
「ん?」
「アレよ、アレ」
 かなたが指差しているのは、宙にぶら下がっている洗濯物の山だった。正直、どれを指しているのかわからない。まったく、どんだけ溜め込んでるんだ。
 気付いたら袋の中が空になっていた。喋りながらやってたせいか、どこに何を入れたか覚えていない。まあ、どうせ後でささみがなんとかするだろ。指についたヨーグルトを舐め取る。なんか微妙な味がした。
「どれだって?」
 やることもなくなったので、付き合ってやることにした。どうせくだらないことなんだろうが、くだらない方が暇潰しにはちょうどいい気がする。
「そこの黒いやつ」
「あー」
 それで何のことを言っているのかわかった。歩いていって、洗濯バサミから外す。手に取ると、まあ当然だが濡れていた。どっちかというと湿っていた。
「あー、それそれ。鈴の?」
「んなわけあるか。ささみのだ」
 かなたは、視線こそこっちを向いているが寝転がったままだ。それどころか、なんかごろごろと転がりまくってるぞ、こいつ。まったく、行儀の悪いやつめ。あたしみたく、借りてきた猫のようにおとなしくしていたらどうなんだ。
 そんなわけで飛びかかった。
「にゃあっ!」
「ふひゃっ」
 ちょうど仰向けになったところで見事捕獲に成功した。腰あたりにのしかかって、手はお約束でおっぱいの上だ。なんかまた大きくなってないか、こいつ。別に悔しいわけじゃないがムカついたので揉んでやらない。
「ん……相変わらず軽いわね。羨ましいな」
「なんだ嫌味か? 嫌味なんだな? どーせおっぱい足りない分軽いわぼけー!」
「どう取ってもらっても結構だけど。私、このまま美味しくいただかれちゃうのかしら?」
「うっさい変態め。ほれ、これが欲しかったんだろ」
 手に握り締めたままだった黒い布きれを広げて、皺になってしまっているそれをかなたの顔に張り付けてやった。アレだ、実に変態淑女な感じだ。
「……洗剤のにおいしかしないんだけど」
 微妙にくぐもっている声はどこかがっかりしているかのように聞こえる。
「洗濯してから誰も穿いてないんだから当然だろ」
「えー」
 アホだな。
「じゃ、鈴が今から穿くっていうのはどうかしら」
 アホだ。
 まったく、こいつは何もわかってないな。ほんとにダメだ。
「あのな。こういうのは、人のを見て楽しむものだろ。むしろおまえが穿け」
「別にそれは構わないけど、その前に私を楽しませくれない?」
「なんでじゃ、ぼけー」
「洗濯物、せっかく取り込んであげたのに……」
「…………」
 嘘泣きなんて、できるようになったんだな。
「……しょうがないな」



「ぬああ、なんか湿っててきもちわるい……」
「もう、イケナイ子ね」
「うっさいボケ」
 なんであたしはこんなことやってるんだろう。
「ほら、ブラも付けましょ」
「うう……」
 まあワイシャツ一枚と下着一枚じゃたいした違いも……ない、のだろうか。よくわからん。なんかいろいろ麻痺してるような気がする。
「へぇ……これは、なかなか……」
「な、なんだ。なかなかってなんだ」
「ほら、鏡、鏡。こっち来なさい」
 部屋の隅っこに置いてある姿見のところまで引っ張っていかれる。
「……お、おお。これは……」
 なんというか、アレだ。
「……エロいな。なかなかエロいんじゃないか、これは」
 ささみが着てる時も、うん、まぁまぁエロいが。正直言って、比較にならんな。なんだこのエロさ。くちゃくちゃエロいぞ。犯罪級だ。やばい。なんかムラムラしてきた。エロい。
「解説しましょう。黒下着っていうとアダルティなイメージがあるけど、レース付きのこれもそれに違わないわ。問題は身につける人ね。この場合、いろいろちっこくて未成熟な鈴の身体とアダルティな黒下着のミスマッチが逆に――」
「うっさい」
 せっかく浸っていたのになんか台無しにされた気分だ。萎えた。まったく、こいつは本当にダメだ。
「ほら、今度はおまえの番だ」
 萎えたら忘れていた気持ち悪さが戻ってきた。さっさと脱いでかなたに投げつける。うん、なんかすっきりした。
「ねぇ、ふと思ったんだけど」
 手に持ったぱんつとぶらじゃーをしげしげと眺めながら、かなたが言う。
「私とさーちゃん、結構体格差あるから……無理なんじゃない? 特にあそこが」
「うっさいわボケー! なら手ブラでやれ、手ブラで!」
「あなたも人のこと言えないんじゃない?」
 言いながらも、かなたは脱ぎは始めた。下から脱いでいくあたり、よくわかっている。
 上着のボタンを外していく途中で、ふいに手が止まった。
「……全部脱がないとダメ?」
「ん、ああ……好きにすればいいんじゃないか」
「ありがと。ちょっとあっち向いてて」
「ん」
 少し無神経だったかもしれない。
「いいわよ」
 振り向く。
 やっぱりサイズが小さいのか、伸び気味で食い込み気味のぱんつ。伸びてる分薄くなってるっぽい。いろいろとヤバい気がする。見えそうだ。そして、前で開かれたシャツから見え隠れする大きな胸。手で覆ってもはみ出してるのがなんというか、こう、エロい。なんだこれ。さっきの自信を失くすエロさだ。ふざけんな。
「……ど、どう?」
 なんでそこでいきなり顔赤くするんだ。今さら乙女ちっくに恥じらったところであたしがどうにかなるとでも思っているのか。
「どうにかなってしまいそうなエロさだ」
「そ、そう……」
 なんか嬉しそうな顔をされて、むず痒い気分になる。あれだ、孫の手が欲しい。
「……エロいって、どんな風に?」
「んー……そーだな」
 もう一回、かなたの姿を上から下まで舐めるように観察する。エロいのは確かだが、どういう風にエロいかと言われるとよくわからない。
「……あー、アレだ。そのシャツ。それがいいんじゃないか?」
 全開の白い長袖シャツ。よくわからんなりに考えて、このエロさの一端がそこにあるんじゃないかと思えた。思い返してみると、ささみの時も似たようなことがあった気がする。
「よくわかんないけど……こういうのって、全部脱いでた方がいいんじゃないの?」
「いや。あたしの経験からすると、それは時と場合によるな。うまく言えないが……脱ぎかけ、というシチュエーションにはそそられるものがあると、あたしは思う」
「へぇ……」
「つまり、なんだ。かならずしもそうじゃない時もある、ということだな」
「……そっか。うん、なるほど」
 何に納得がいったのかは分からない。分かるのは、かなたが何かの痛み、みたいなものを感じているらしいことだけだった。やっぱり、あたしは無神経すぎるのかもしれない。



 その後、結局二人して午後の講義をサボり、ささみの下着でいろいろと遊んだ。帰ってきたささみに二人して怒られた。雨がいつ止んだのかは、知らない。

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