「あにきとはぐれた」

 迷い込んだ薄暗い路地で一人途方に暮れていると、シャツの裾をくいくいと引っ張る小さな手があった。なんと反応したものか、と考えあぐねている間に、「あにきとはぐれた」と、彼女はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「迷子か?」

 散々迷った挙句、口にした言葉に彼女はこくりと首を縦に振った。頭の横できゅっと結んだ短めの髪が揺れている。

「奇遇だな」
「きぐう?」
「偶然だなってこと」
「……ぅん?」

 きょとんとした顔で小首を傾げる。

「俺も迷子なんだ」
「おじさんも?」
「ああ、おじさんも」
「おじさんも、まいごなのか?」

 そう言って彼女はどこか嬉しそうな顔をした。仲間を見つけた。そんな感じだ。目の端に溜まっていた涙を服の裾でごしごしとこするのを、俺はなんとなく眺めてしまう。
 小さな身体、小さな頭。セミロングの髪を強引に横で結んでいる。飾り気のないゴムの髪留め、折れてしまいそうなくらい細い首筋。男の子のように見えるが、女の子だろう。なんとなく、そう感じる。目をごしごしとこすりながら、油断なくこちらを伺っている猫のような瞳。意志が強そうで、それでいてどこか頼りなげで、守ってやりたいと、庇護欲をかきたてられる瞳だ。

「一緒に行くか?」

 手を差し伸べると、彼女は伏し目がちにその手を眺め、掴もうとして小さな右手を伸ばし、すぐ我に返ったように引っ込めた。ついていきたい気持ちと、ついていってはいけないという気持ちが、彼女の中でうろうろと堂々巡りをしているようだ。視線はあっちへふらふら、こっちへふらふら。最初に声をかけたのは自分だということを、彼女はすっかり忘れているのではないだろうか。

「……ん」

 蚊が鳴くようなか細い声とともに、小さな頭がこくりと沈む。
 人見知りで、意地っ張り。
 臆病なのに、どこか人恋しい。
 子供とは、皆こうなのだろうか。

「おにいちゃん、お前のことを見つけてくれるといいな」
「……あにきはばかだから、きっとあたしのことなんかわすれてる」

 きゅっと、不意に握られた右手。意外なほどその力は強く、少し長めの彼女の爪が俺の手の平に食い込んだ。そんなことない、と言う代わりに、俺は強くその手を握り返した。










ライアー









「おじさんはだれとはぐれたんだ?」

 彼女にとって俺はすっかり“おじさん”になってしまった。少しむっとしたが、彼女くらいの年の子から見たら、大人の男は誰だっておじさんだろう。

「誰とでもない。一人で歩いてたんだ」
「おじさんもともだちいないのか?」
「さぁ、どうだろうな。お前はどうなんだ? ともだち、いるのか?」

 握られた右手が少し緩んだ。

「うん、いっぱい、いる。いっぱい、いっぱい」
「そうか。そりゃ、いいな」
「うん」

 歩き出してから結構経つのに、一向に知ってる道に巡り合わない。何らかの国道っぽいところに出ればある程度わかるのだろうが、行けども行けども夕暮れの住宅街だ。彼女にこまめに「家はこの辺りじゃないのか?」と聞いてはいるが、答えはいつも「知らない」の一言でおしまい。
 舗装された狭い道路に二人の影が長く伸びている。夜が、近づいてくる。

「家、この辺りでもないのか?」
「たぶん」
「ひょっとしてお前、自分の家がどこにあるか、わからないのか」

 彼女は申し訳なさそうに俯いた後、「……ん」と、小さく頷いた。

「じゃあ、どうやってここまで来たんだ?」
「あにきに、つれてきてもらった」
「もしかして、いつもそうなのか?」
「……ん」

 また、小さく頷いた。

「いいおにいちゃんじゃないか」
「ちがう。あいつはただばかなだけだ」
「遊びに行く時いつも君をつれてってくれるんだろう? そんなお兄ちゃん、中々いないぞ」
「…………」

 そんなことないとでも言いたげに、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

「きっとお兄ちゃん、お前のこと必死で探してるぞ」
「…………」
「おーい、どこだー、俺の可愛い可愛い妹はどこだー、ってな」
「…………」
「きっと見つけてくれるから、もう少しの辛抱だな」
「…………ん」

 やれやれ。素直にならせるのも一苦労だ。きっとこの子のお兄ちゃんも苦労してるんだろうなと、俺は不意に笑い出したいような、泣き出したいような気持ちになった。










 歩き回るのにも疲れたので、偶然見つけた公園に入り休憩することにした。彼女は公園の中に入った途端、新しい電池を入れられたばかりの玩具のように駆け出してブランコを一つ陣取った。苦笑しながら彼女の方に向かって歩いていくと、立ちこぎ用のブランコにデンと座って「おしてくれ」なんて言いやがった。

「自分でこげよ」
「やだ。つかれる」
「お前、子供だろうが……ってまさかお前、ブランコまでお兄ちゃんに押してもらってるんじゃないだろうな」
「うん」

 彼女はしれっと頷いた。

「で、俺にも押して欲しいと」
「うん」
「お前、大物だわ……」

 苦笑すると、彼女は何が楽しいのか、突然花が咲いたように笑った。

「何がおかしいんだ?」
「あにきも、よくあたしのこと、そうゆう」
「大物だって?」
「うん」
「そうか」
「おしてくれ」
「まだ言うか」
「おじさんがおしてくれるまでずうっとゆう」
「……わかったよ」

 また彼女はにかっと笑った。
 俺は横から彼女の背中に手を添えて、ゆっくりと押してやる。本当なら真後ろから押してやるのがいいんだろうが、それをやるには彼女の背はあまりにも小さく、そして俺の身体はあまりにも大きかった。力は入れにくいが、彼女の身体は軽く、片腕の力だけでも十分勢いをつけてやることが出来た。
 十分に勢いが付いてきて、ようやく俺は彼女の背中から手を離す。思ったよりも重労働で、腕の筋肉がぎしぎしと悲鳴を上げている。その甲斐あって、揺れるブランコの上、彼女はとても楽しそうに笑っている。

「わあ! わあ!」

 やがて彼女は、全身のバネを使ってブランコを漕ぎ出した。自分で漕ぐのは面倒くさい、疲れる。そう言っていた彼女はもうどこにもいない。ここに至って、もう彼女は俺の手助けを必要としてはいなかった。自らの力で、ぐんぐん空へと近づいていく。

 ぶん、ぶん、ぶん、ぶん!

「えいっ!」

 掛け声とともに彼女の身体は空を舞った。
 雲を掴んでしまうんじゃないかというくらい、高く、高く。
 数秒の滑空の後、すとんと、不気味なくらい小さな音を立てて着地した。
 ばっと、こちらを振り返り、会心の笑みとともに、Vサインをした。

 かちりと、パズルの最後のピースがはまったような音が、俺の中で確かに、した。










 その後、彼女は何度も何度も空を飛び、その度に俺は何度も何度も彼女の背中を押した。彼女が飛べなくなるよりも先に、俺の腕の方が参ってしまい、彼女のダイブは打ち止めとなった。いつの間にか日はとっぷりと暮れ、オレンジ色の空を暗い青が侵食し始めていた。

「よるに、なった」

 感慨深そうに、彼女は言った。俺は「そうだな」とだけ口にした。

「おひさまがしずんで、よるがきて、またあさがきて」

 彼女はまるで歌うように言葉を口ずさんだ。

「あしたはまたはれ、か?」
「さあな」
「はれじゃないのか?」
「俺は天気予報士じゃないからな」
「わかんないのか?」
「そうだな」

 足でブランコを軽く揺すってやると、ぎしぎしと錆びた金属がきしむ音がした。

「あしたって、ほんとうにあるのか?」

 先ほどまでの天気の話題のような口ぶりに、俺は何も言えなくなる。
 二人して黙り込む。
 先ほどまでそこにあったオレンジ色が段々と薄くなって、今にも消えてしまいそうだ。

「なぁ」
「なんだ?」
「お前のおにいちゃん、結局探しに来なかったな」

 残酷なことを言ってしまった、と思った。
 お前のお兄ちゃんは、来なかった。
 どんなに否定しようと、それは現実だったから、俺はそれを口にするしかなかった。

 茶番だと、あいつは笑うだろうか。

「いや、来てくれた」
「は?」

 思わず聞き返す。
 彼女は軽くブランコを揺すりながら、とても幸せな事実を口にするように、こう言った。

「馬鹿兄貴はあたしを見つけてくれた」
「いや、来てない」
「馬鹿兄貴はあたしの背中を押してくれた」
「押してないって」
「馬鹿兄貴はあたしを飛ばせてくれた」

 俺はもう何も言えなくなった。
 全ては茶番だった。
 世界は崩れてしまった。
 彼女を傷つける全ての物に蓋をして、優しい嘘で塗り固めた嘘の世界の嘘は、とっくの昔に見破られてしまっていた。
 崩れゆく嘘の世界と世界の狭間で、俺は俺に一つの嘘をついた。
 すぐに見破られてしまう、自分すら騙せない、子供のような嘘。
 それでも俺は彼女といたかった。
 子供のような彼女を見守ってやりたかった。
 もう兄貴としてはいられない俺でもいい、それでもいいから、と。

「んっ!」

 彼女は自力でブランコを揺すり、勢いをつけ、ブランコの周りに張られた小さな柵をひょいと飛び越えていった。
 着地し、しゃがんだままの彼女の小さな背中。
 手を伸ばしても、もう届かない。

「帰るのか?」
「うん」
「そうか」
「うん」
「一つだけ、聞かせてくれないか」
「なんだ?」
「お前の馬鹿な兄貴の名前、なんていうんだ?」

 彼女は立ち上がり、こちらを振り返る。幼い姿の彼女はもうそこにはなく、美しく成長した彼女の姿があった。子供のようだった彼女はもういない。
 彼女の長い髪が風に揺れ、彼女の表情を一瞬覆い隠した。
 はっきりとした口調で、彼女は言った。

「なつめ、きょーすけ」

 それだけ告げると、彼女はくるりと俺に背を向けて、どこか遠くへ走っていった。

 俺は一歩も動けないまま、ぎしぎし、ぎしぎしと、ブランコの鎖がきしむ音だけを聞いていた。
 目を閉じると、暗闇は瞬く間に世界を覆いつくした。
 最後の最後に見た幸せな夢を焼き付けて、光はどこかへ走り去ってしまった。

 ただ一つ、彼女の背中を押し続けた右腕の痛みだけが、嘘で紡いだ世界と自分とを繋いでいた。












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