明日のことを考えるだけで窒息しそうなくらいに苦しかったことがある。どこかに行きたくて、でも行けなくて、何かが欲しくても与えられず、帰るべき場所はなくなってしまってもう二度と戻れない。

 鈴の背中の向こうに暮れゆく夕陽を見ていた。空は見渡す限り深い橙に染まり、まるで空が燃えているように見えた。小高い丘の向こうにある小さな煙突からは、ちょうどいい具合に灰色の煙が一筋立ち昇っていた。だけど、あれだってきっと知らない誰かを空に還した残り滓のようなものなんだろうなと考えると、どうしたって暗い気持ちになった。少し前にあの煙になって空に還っていた二人のことを思った。自分達を育ててくれた人。今は空にいる。恨み言の一つも言ってやりたいと、そんなことを思っていた。
 もう帰ろうぜ、と鈴の背中に話しかけようとしてやめて、それを何度も何度も繰り返していた。もとより、帰ろう、なんてのは帰る家のある奴が言う言葉で、ついこの間それをなくしてしまった自分達が使えるような言葉ではなかった。自分たちのこれまでも、これからも、何もかもがよく分からなかった。深い霧の中にいるようだった。そこにいるだけで不安が膨らんで、膨らんでもっと恐ろしい別の何かに変わってしまいそうで怖かった。
「鈴」
 返事はない。だけど何かを伝えなくてはならない。言葉に出来ない自分がもどかしい。
 帰ろうとは言えない。俺達にはもう帰る場所がない。なければ、どうする。
 だから、俺は彼女にこう言った。
「友達、たくさん作ろうな」
 永遠のように長い数秒が過ぎて、ん、とわずかに頷いた気配がした。
 それだけでもう十分だった。
 だから、俺は――







世界で一番君を愛してる







 突っ伏していた机から顔を上げると目の前に鈴がいた。柄にもなく、あ、え、え、なんてきょどってしまう。少し前まで見ていた情景と現状の落差が大きすぎて時間と時間の感覚がつかめない。今っていつだっけ。てか今日って何日だ。俺、何してた。これから何しなきゃいけないんだ。むぅ、わけわからん。
 俺の痴態を余す所なく眺めていたらしき鈴が大きな大きなため息をついた。
「なんでこんな奴があたしの兄貴なんだ……」
「開口一番ご挨拶だなおい」
「黒歴史ってこういうことを言うのか……ああ、どうやったらお前と兄と妹の関係にあったという過去を消せるんだ? スイス銀行にいくらか振り込めばゴルゴがうまいことやってくれるのか?」
「妹! お前、兄を暗殺する気か! ていうか兄妹関係過去形なのかよ!」
「Yes,I do」
「無駄にいい発音本当にありがとうございました」
「馬鹿なことやってないでとっとと出てけ馬鹿兄貴」
「んあ? なんでだよ」
「お前、ここがどこだか分かってないのか?」
 鈴に言われて、慌てて周りを見回す。
 大きな鏡がある。鏡台には高級そうな化粧品がずらり。一目で俺の月収を楽に越えていると分かる高級な調度の数々。うむ、これは間違いなく――
「すまん、どこかわかんね」
「新婦の控え室だぼけぇっ!」
 必殺! 花嫁キック!
 棗恭介はひらりとかわした!
「えーほんとだーぜんぜんきづかなかたよー」
「うざい……殴りたい……これから式じゃなかったら絶対ボコってるのに……」
 目がマジです鈴さん。
「そもそも、なんできょーすけはこんなとこで寝てるんだ」
「いやな、お前のことが心配で心配でな、心配のあまり会場前日入りを敢行したんだスネーク」
「もういい。お前に常識とか期待したあたしが馬鹿だったんだ……」
「まぁそう気を落とすなって」
「お前が落としてるんだ!」
 ふぅふぅと荒い息をなんとか静めようと頑張っている鈴を、会場スタッフがやや苦笑い気味に見守っている。む、ちょっとこれは体裁が悪いか。
「理樹はもう控え室か」
「あー、でももうすぐこっち来ると思うぞ」
「そっか。ま、あっちもちょっと見てみたいし、行ってみるわ」
 待ちきれない奴らがもうそろそろしびれ切らしてる頃だろうしな、と言うと、鈴は笑った。
 ドアを開ける。向こうの方には大広間がある。もう準備を全て終えて、今日の式を待ちかねているような冷えた空気。
「馬鹿兄貴」
「ん、なんだ」
「今日な、叔父さん達と一緒に来たから多分その辺にいると思うぞ。きょーすけは久しぶりなんだろ。まったく、お前はちっとも帰って来ないもんだから、叔父さんたち寂しがってたぞ」
 叔父さん。夢の中の鈴の姿がオーバーラップする。帰る場所なんかない。そんなことを口にしたのは一体誰だったか。
 そうか、わかった、とだけ返事をした。うん、と鈴のような声が鳴る。
「あ――」
「ん、どした」
「……いや、なんでもない」
「そか」
 じゃあ――また、会場で。
 ドアを閉める。
 俺はきっとちゃんと笑えていたのだと思う。俺は上手くやってこれた。言い聞かせるように歩き出すと、今日のために新調したスーツの裾が少しよれていることに気付いた。懐かしい夢の残り香のように、俺には思えた。







 リトルバスターズ。そう名付けられた一つの集団について考えるにはその起源がどこにあったのかを考えなければならない。
 それは、誰かが拾い上げたボールと共に生まれた言葉か。悲しみの淵に沈もうとしている少年に差し伸べられた正義の味方の救いの手か。剣に迷う少年に示した道か。悪童との闘いの果てに得られた笑顔か。

 言葉にするなら、空だ。
 空。
 あの日あいつと眺めた、何もない空。



 俺と鈴は小さい頃に両親を事故で亡くした。確か俺が小学校に上がってすぐだったから、鈴はまだ保育園でお遊戯の練習でもしていた頃だと思う。小さかった俺達にはよくわからなかったが、両親は非常に優秀な人たちだったらしい。いつも忙しく世界を飛び回っていて、俺達のことはベビーシッターに任せて海外出張、なんてざらだった。普通の家庭に比べれば放っておかれた子供だったが、別に寂しくはなかった。俺には鈴という手のかかる妹がいたし、鈴はその頃から俺によく懐いていた。二人でいれば何も怖いことはなかった。父や母がいつもいないのは寂しいことだったけど、家に帰ってくれば二人はとても優しかった。
 ある日、俺が保育園まで迎えに行った帰りだ。家に戻ると見知らぬ大人がいた。大人は酷く取り乱した顔で、俺達に何事かをわめいた。何を言われているのかわからなかった俺は、きょとんとして鈴の顔を見た。鈴もき俺と同じようにきょとんとしていた。わけもわからないまま俺達は車に乗せられ、大きく白い建物の中にある狭い部屋で、白い布を顔に被せられた父と母に対面した。やけに暗い部屋の中でろうそくの炎がゆらゆらと輝いていた。別にどこも震えてもいないのに自分の身体がガタガタと揺れているように感じた。鼻につく焦げたような匂いがしていた。

 おとうさんたち、しんじゃったんだ。
 ふぅん。
 で、おとうさんたちはいつかえってくるんだ?

 俺と鈴は、母方の叔父の家に引き取られることになった。本当は別々の家に引き取られることになるはずだったのだが、引き取り手となった叔父の強い希望によりそれは避けられたのだと、後になってから聞かされた。
 鈴は人付き合いの苦手な子供だった。両親が死んでから、その傾向はより顕著なものになった。転校した先の小学校ではいつも虐められていた。無視され、上履きを隠され、机には落書きをされた。守ってやろうにも、学年の違う俺には限界があった。何より、俺はまだまだ弱く、そして子供だった。鈴は次第に心を閉ざし、やがて猫にしか笑わない子供になった。
 俺は鈴さえいればいいと思っていた。鈴だって、俺だけがいればいいと思っているに違いないとさえ思っていた。
 間違っていた。
 俺一人の力では鈴を守ってやるどころか、笑わせてやることすら出来やしない。

 一人がつらいから二つの手をつないだ。
 でも二人だけでは、手をつなぐことしか出来ない。
 ならば。

 俺は仲間を作ることにした。ただの仲間じゃない。普通の友達なんか必要なかった。そいつらがいれば俺と鈴がずっと笑顔でいられて、いつまでも楽しく遊んでいられるような、そんな仲間。面白いのは絶対条件で、腕っぷしが強ければ申し分ない。そして、出来るなら俺達と同じ外れ者がいい。
 俺は意識的にそれまで以上に周囲と上手くやっていくようにした。中心となる俺自身が強くなければ仲間達を従えることなんか出来やしない。校内で一定の評価を得ることによって、妹である鈴への風当たりを弱める狙いもあった。元々素養があったのか、有象無象の中心となるのに時間と努力は必要なかった。俺は望みもしない奴らとの交流を積み重ね、仲間となりうる人間をただ淡々と峻別していった。
 最初に眼鏡に適ったのは、近所で評判の悪童だった井ノ原真人という少年だった。腕っぷしは文句なし。誰とも群れず、媚びず、それでいてどこか愛嬌のある目をしていた。俺は十分に策を練り、屈服させた。仲間となった彼は、俺の思った通りに強く優しい人間だった。次は、剣道で鳴らした宮沢謙吾。彼も、やはり愛すべき性質を持った少年だった。
 俺と鈴はようやく仲間を得た。真人や謙吾と過ごす毎日は、俺達がかつて経験したこともないようほど楽しく、愉快だった。彼らとの交流を経て、鈴は少しずつ笑顔を取り戻していった。俺や真人が馬鹿をやって、謙吾が呆れて、しらんぷりをしていた鈴がかすかに笑う。そんな様子を見るのが一番の幸せだった。いつしか俺は、こんな毎日がずっと続いてくれればいいと思うようになっていた。 
 直枝理樹という少年に出会ったのは、その頃のことだ。




「恭介君」
 中庭に置かれていたベンチに腰掛けて物思いに耽っていた俺にかけられた声。夢見心地だった意識が呼び戻される。
「ご無沙汰だね。元気だったかい」
「はい。まぁ……それなりに」
 振り向いて初めて声の主が叔父であることに気付いた。
 叔父の声には特徴がない。就職して完全に家を出てしまってからはほとんど聞く機会もなかったから、その声は本当に他人の声のように響いた。
「いい日だね」
 呟いて、叔父は空を見上げた。太陽は既に高く、手の届かない所にある。
「さっき直枝君に会ってきたよ。彼は本当にいい青年になったね。恭介君は小さい頃から仲が良かったんだろう?」
「そうですね」
「あんなに小さかったのにね。本当に立派になった」
 昔を懐かしむように目を細めた。
「理樹は落ち着いてましたか」
「ああ、大したものだ……ああ、それに恭介君の友人達にも会ったよ。まだ会ってないのなら直枝君の控え室の方に行ってみるといい。積もる話もあるだろう」
「ええ、まぁ」
 あいつらはもう来てるのか。駆け出したい衝動にかられる。
「友達はいいね。うん、友達はいい」
 まるで自分に言い聞かせるように叔父は言った。
「友達は宝だ。どれだけ時間が経っても本当の友達はいなくならない。たとえどんなに遠くにいたとしても必ず側にいてくれる」
「そういうものですかね」
「そうだ。恭介君が築いてきたのは、そういう関係なんだろう?」
 ふと、叔父と目が合った。何気なく眺めた彼の顔に、随分と皺が増えていることに気付いた。
「俺にはまだ……よく分かりません」
「そのうちに分かるさ。もっとも、そんな友達は人生に何人と出来るものじゃない。偶然だったり、意図したものだったり、何か人智を越えたものに操られてるのかもしれないな。恭介君と鈴君は幸せだ。本当の友達があんなにもたくさんいてくれるのだから」
 本当の友達。
 本当って一体何だろう。考えたこともなかった。
 本当に大切な物が何かわからなくて、不安で眠れぬ夜があった。リトルバスターズの面々と別れ、一人で都会に行き、働き始め、社会の厳しさを知り、俺の中の何かは作りかえられたのかもしれない。あの頃の俺は本当に大切なものをもっとたくさん胸の奥にしまいこんでいたような気がする。年を経る度、俺の中にあった大切な何かは時間というナイフでごりごりとこそぎ取られていくように感じていた。どれだけ削られても消えないものがあったとして、それが叔父の言う本当ということなのだろうか。もしもそんなものがあるとしたら、それは。
 ちりん、と耳の奥で鈴の音がした。
 まだ幼かったあの頃、誰一人友達がいない妹に俺は、寂しくないようにと小さな鈴を買ってやったことがある。手の中でちりんちりんと鳴らして、俺の方を向いては顔をくしゃくしゃに綻ばせていた。そんなことばかりを覚えている。
「叔父さん」
「なんだい」
「鈴のこと……よろしくお願いします」
 俺は叔父に深々と頭を下げた。
「それは――、今日のことかい?」
 静かな声で叔父は言った。
 はっとして、頭を上げる。
 固辞したはずの約束を思い浮かべざるをえなかった。
「恭介君は今までに数え切れないくらいたくさんのことを鈴君や直枝君や他の友達にしてきただろう。君にしか出来ないことというのは、そういうことだ。私に頭を下げることなんかじゃない」
 太陽の光に目が眩んだ。思わず手を額にかざす。
「それぞれにとって、それぞれにしか出来ないことなんてそんなにたくさんは無いものだ。たとえそれがどんなことであろうとも、ね……さぁ、早く直枝君のところに行ってあげなさい。もうすぐ式が始まってしまうよ」
 はい、と口にしてくるりと叔父に背を向ける。振り返りたくなる気持ちを押さえ込んだまま。歩き始めてからもずっと、君にしか出来ないこと、という叔父の言葉が頭の中で渦を巻いていた。
 俺にしか出来ないこと。
 俺にしか出来なかったこと。







 終わらないものが欲しかった。変わらないものばかりを求めていた。なくなってしまうものは嫌いだった。俺達を置いてどこかに行ってしまわないでほしかった。ずっとずっと俺達のそばにいてほしかった。いつまでも沈まない太陽があればいいと思っていた。
 だから俺は、直枝理樹という少年の手を引いたのかもしれない。
 悲しいことがこの世にあることを知っている少年。
 俺と同じものを抱えた、孤独な少年。
 


 控え室のドアを開くと、理樹は昔と何も変わらない笑顔で俺を迎えてくれた。部屋の中にいるのは理樹一人だった。他の連中はもう会場に行ってしまったらしい。
「遅くなって悪かったな」
「いいよ。そういうのも恭介らしいし」
 理樹はもう着替え終わっていた。白のタキシード。窓から入ってくる光を反射して、心なしか輝いているように見える。
「まだ時間は大丈夫か?」
「うん。もうちょっとなら大丈夫。第一、気を遣わなきゃいけないお客さんなんていないからさ、少しくらいなら遅れても大丈夫だと思う」
 理樹はよいしょ、と近くにあったパイプ椅子を引き寄せて座った。俺もそれに倣う。
 俺はふと窓の外を眺めた。太陽の祝福を受けた新緑の季節だ。
「久しぶりだね」
 短い沈黙の後に理樹の口から出てきたのはこんな言葉だった。
「そうか?」
「そうだよ。僕らが卒業するまでは恭介もちょくちょく顔見せてくれたけどさ、卒業してからは……ね。やっぱりみんなバラバラになっちゃったし」
「そうだな。お前ら二人は揃って地方の大学に行っちまうし」
「うん。みんな揃っては行けなかったけど、それはそれで楽しかったよ。本当はもっと頻繁にみんなと遊べたらよかったんだけどね」
「中々そういうわけにもいかないだろ。お前らもそうだと思うけど、みんなにだってそれぞれの生活があるんだ」
 高校の頃、それぞれの生活はぴったりと重なっていた。だけど重なったものはいつまでもそのままではいられない。徐々に離れていかざるを得ない。それぞれが動いているのだから、当たり前のことだ。
「いつまでも懐かしんでばかりはいられないさ。変わっていかないものなんてないんだ。離れていくものもあるし、より近づいていくものもある。お前らのようにな。変わっていくことだって、良し悪しだ。そういうことだろ」
「でも僕は何もかもがずっと変わらなければいいと思ってたんだ」
 どくんと胸の奥から響いてくる。
「僕らの修学旅行の時にバス事故があったでしょ? 恭介は覚えてる?」
 忘れるはずがない。俺だってそのバスに乗っていたのだから。
 あの時のことは今でもよくわからない。誰も助かるはずのない事故だった。誰の命も失われなかったのは、目の前にいる理樹と鈴のおかげだ。誰も彼もがその一件のことを奇跡だと口にした。
「あの時、僕らは終わらない夢を見てたんだ」
「ああ、言ってたな」
 修学旅行後、それぞれの怪我も癒えた頃にみんなが口々に言っていたことがある。何か不思議な夢を見ていたようだ、と。はっきりと覚えている者は誰もいなかった。だけど、そのイメージは誰もが共有することが出来た。言葉にしなかっただけで、誰もが。
 でも、終わらない夢なんて、ない。
「僕、ずっと思ってたことがあるんだ」
「ああ」
「僕はね、あの夢をずっと終わらせたくなかったんだ。はっきりと思ってたわけじゃない。でも、心のどこかでそう感じてた。僕が一番この夢を終わらせたくないと思ってるんだって。でもね、違ってた」
 理樹はまっすぐに俺の目を見つめてきた。
 消え入りそうな微笑みを浮かべていた理樹はもうどこにもいない。時間は人を変える。変えていく。
「僕らの中で本当にあの夢を終わらせたくないと思っていたのは、僕じゃなくて、恭介なんだ。結局、恭介は僕らに何も教えてくれなかったけど、あの夢を作っていたのだって本当は恭介なんだ。恭介はみんなの中で一番、あのメンバーで過ごすあの時間を本当に本当に大切に思っていたんだ」
 肯定することも、否定することも出来なかった。
 俺は何も言わない。言えない。
「恭介に一つ、お願いがあるんだ」
「なんだよ」
「鈴を僕のところまで連れてきてほしい」
「それは俺の役目じゃない。叔父が鈴をお前の所まで連れて行ってくれることになってたはずだ。俺には……出来ない」
 式の前に受けた打診を、俺は固辞した。俺には自信がなかった。こいつらから長い間離れてしまった俺がそんな役目をこなせるのか。
 理樹は首を横に振る。
 違う、違うよ、恭介。
 そんなことを言う。
「恭介以外には出来ない。恭介にしか出来ないんだ」
 理樹は立ち上がり、閉ざされた窓を開いた。
 風は吹き込み、緑の匂いを運んでくる。
 土の匂い。
 水の匂い。
 あの日あいつと見た空の匂い。
 変わらないものなんてない。
 なくなってしまわないものなんてどこにもない。

 だけど。
 俺にだけ出来ること。
 俺にしか出来ないこと。
 そんな台詞が頭をよぎる。

「……条件が一つある」
「何?」
「全部済んだら、一発殴らせろ」
「いいよ。恭介がいいなら、何度でも」
「思いっきりだぞ。手加減なしだ」
「うん。痛そうだね。手加減なんかしたら、許さないけどね」
 俺と理樹は声を上げて笑った。
 俺はこいつを殴れるだろうか。
 兄弟のように育ったこいつを。
 鏡に映した、自分の半身のようなこいつを。
「お前に一つだけ言っておきたいことがある」
「うん」
「俺は今まで鈴のためだけに生きてきた。あいつが笑顔で暮らしていけるためならなんでもやるし、なんでもやった。あいつは俺の全てだったんだ。あいつの幸せ以外は全部どうでもよかった。俺はあいつのことを――」
 ついに言葉に出来ず、俺は部屋を飛び出した。最後、理樹は笑っていたような気がする。
 うん、知ってたよ、と。



 俺は鈴のために、何をしてこれただろう。
 俺は鈴のために、何が出来ただろう。
 俺は鈴のために、何をしてやれるだろう。



 今まで生きてきた中で一番速く走った。廊下を抜け、中庭をショートカットし、植え込みを飛び越え、人の群れをかきわけ、息を切らし、髪を振り乱して、走った。迷うはずなんてなかった。

「遅いぞ。きょーすけ」
「ああ――悪い」

 振り向いた鈴は純白のドレスに身を包み、美しく整えられた瞳の線が涙で少し滲んでいて、真っ白な手袋をした両の手は白いブーケをしっかり握り締めている。見ると、その手は小さく震えている。緊張しているのだろうか。怖い物など何もないというのに。これからお前の未来は今まで経験したこともないほどの幸せに溢れているというのに。守ってやりたいと思った。大切にしてやりたいと思った。だけど、もう違う。
 鈴の側には叔父がいる。叔父はいつもと同じ無表情だったが、目尻の皺に一粒光る雫があった。俺の姿を見て何かを察したのか、その目はみるみる細く細められていった。
「恭介君、大丈夫かい」
「はい。俺がこいつを理樹のところまで連れて行きます」
「うん、うん、うん」
 叔父は頷くばかりだった。
 それだけで俺には全てがわかった。

 扉が開いた。
 俺と鈴は割れんばかりの拍手の渦へと身を投じた。ライトが眩しすぎて周りが見えない。先の見えない道を、足下の感覚とつないだ手のぬくもりを頼りに歩いていった。急ぐこともなく、遅れることもなく、俺達はただ淡々と歩いた。ライトに目が慣れると、懐かしい奴らの顔が見えた。皆思い思いの格好をして、俺達に向かって歓声を上げていた。
 こんなに長いのか、と思った。いつまで歩いてもゴールに待つ理樹の姿は一向に近づいて来なかった。急ごうとする足を鈴の手が止める。鈴を見る。恥ずかしそうに、少し笑っている。その手は、昔俺が引いた手だ。保育園に迎えに行った時、公園で遊んだ時、虐められている鈴を助けに行った時、真人や謙吾と馬鹿をやってはしゃぎまわっていた時。ただ俺に引っ張られるだけだったその手は今、急ぎ足になろうとしている俺を諫めている。俺は鈴の隣で、鈴と歩調を合わせて、ただ歩くだけでよかった。
 いつの間にか純白の道は終わっていた。
 言われた通りに俺は、鈴の背中をぽん、と押した。鈴は静かに俺から離れてゆっくりと理樹の元へと歩いていった。俺は呆けたようにその様子を眺めていた。終わったらすぐに席に座るように指示を受けていたにも関わらず、俺の身体はぴくりとも動こうとしなかった。
 俺の様子がおかしいのを察して鈴と理樹が側に歩み寄ってくる。その様子が、スローモーションのように俺の目には映る。
「きょーすけ?」
 俯いた俺の顔をのぞきこんで鈴が言う。
 俺の言葉はそこで生まれた。

「――――」

 呟いた言葉を残して、俺はゆっくりと自分の席に向かって歩き、腰を下ろした。妙な雰囲気になった会場の意識を司会が軽やかに元に戻し、式は始められた。俺は身動き一つ取れず、死んだように座っていた。隣に座っていた叔父から差し出されたハンカチを見て、初めて俺は自分が泣いていることに気付いた。涙は後から後から溢れて、溢れていつまでも止まることはなかった。












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