生まれてきてからこれまで、楽しいことなんて何一つなかった。クラスには気の許せる友人などいない。範囲を学校中に広げたとしても同じことだ。授業をひたすら消化して、休み時間は一人で本を読む。学食の片隅で食事を摂り、息を殺して寮に戻る。相部屋はいない。去年の夏に退学届も出さずに脱走してそれきりだ。それ以来僕は一人で寮の部屋を使っている。この学校で唯一いいことがあるとしたら、それだけだ。
 まるで監獄にいるような毎日だった。顔を伏し、息を潜めて、高校生活という名の懲役が終わるのを、僕はただひたすらに待ち続けていた。

 修学旅行の朝、屠殺場へ向かう豚のように指定のバスの前に並べられていた僕は、一人の男子生徒が先生の目を盗んでバスに乗り込んだのを見た。その日の朝に僕が興味を惹かれた唯一の映像がそれだ。乗り込んだのは、確か、棗先輩とか言ったか。クラスにいる井ノ原や宮沢、それに直枝なんかとよくつるんでいる。ああ、そういえば、女子にいる棗さんの兄貴だったか。有名人らしいが、興味はない。基本的に騒がしい奴らは嫌いだ。いなくなればいい。
 バスに乗り込んでから、喧騒はより一層激しくなった。どうやら他のクラスの生徒が数人紛れ込んでいたらしい。どうでもいい。どこに潜り込んだのかは知らないが、棗先輩はまだ見つかっていない。
 バス内定番の鬱陶しいレクリエーションも終わり、弛緩した空気がバス内に流れていた。僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。不安定な山道を、僕らを乗せたバスがおっかなびっくり抜けていく。運転手が未熟なのか、急ブレーキや急ハンドルがやけに目立っていた。
 周りの連中は誰かと話したり、スナック菓子を頬張ったり、手荷物から漫画雑誌を取り出して読んだり、これみよがしにiPodを取り出して聞いたりと、誰もが思い思いの時間を過ごしているようだった。これから始まる数日間の旅行に思いを馳せ、束の間の非日常を楽しんでいた。冷めているのは、僕だけのようだった。
 風に揺られた木々の間から、わずかに青空がのぞいた。薄暗い林道の陰気さを、かすかに差し込んだ光が一掃した。
 僕はこれから先、どこかに行けることはあるのだろうか、と思った。
 未来はいつも模糊として掴み所がなく、その不確定さはいつでも僕を憂鬱にさせた。こんな状態もいつかは変わるんじゃないか――そう思う裏側で、自分はきっと死ぬまで一人なのだろうという予感がいつだって渦を巻いていた。その渦は時に宿主の制御の手を離れ、宿主自身を飲み込んでしまうほどに肥大化した。陰惨な未来図ばかりが頭の中を埋め尽くした。朝目を覚まして、一日の労役に身を窶し、夜部屋に戻って明日の労役に備える。そんな緩慢な毎日が、現実的な厚みをもって僕を責め苛んだ。
 
 一際大きなブレーキ音と、前方にかかった重力が思考をどこかに吹き飛ばした。

 激しい衝撃が襲った。何が起こったのか、理解する暇すら与られえはしなかった。引き裂くような轟音と、叫び声。天が天でなくなり、地が地ではなくなった。昔、よく行った遊園地にあった、自由落下の遊具の浮遊感によく似ていた。
 転がり落ちる刹那、世界が乳白色に眩しく輝いた。何か得体の知れない世界から這い出した光は、じわり、じわりとその距離を詰めてきた。溢れ出した光すらスローモーションに見えた。
 ああ――僕は、ここで死ぬんだな。
 そう理解した瞬間、閃光が視界を支配した。






水面の向こう側








 ふと気付くと、どこかの水辺に立っていた。
 ――どこだ、ここは。
 呟いたはずの言葉は言葉にならず、代わりに足元の水を揺らして波紋となった。
 ぶるりと身体が震えた。
 ――僕は、死んだのか。
 胸に手を置く。そこにあるはずの鼓動がない。熱もない。何も感じない。光を映さなくなった目は、代わりに闇を確かに捉えていた。
 自分でも不思議なほど気持ちは落ち着いていた。死が、こんなにも優しいものだとは知らなかった。先程まで自分が存在していた生の世界のことが、遥か遠い星のことのように感じられた。未練も浮かんでくることはなかった。こうして死の際に思い返しても、何の感慨すら浮かばないような、曖昧で薄弱な人生だった。そういうことなのだろう。このまま、未だ消えず残された意識を、ゆっくりと虚無に溶かしていけばいい。このまま、このまま――
 その時、不意に足元の水が揺らいだ。足元の水。そう認識した瞬間、にわかに天地の感覚が戻って来た。揺り戻されるように光を知覚し、かすかな痛みを取り戻した。そして僕はまた、時間を巻き戻したように、また水辺に立ち尽くした。
 安寧を奪われた敵意を込めて、水面をにらみつける。すると、そこには今まで見えていなかったものが見えた。
 ――これは、なんだ?
 始めは見間違いかと思った。反射的に目を凝らすと“それ”はゆっくりと動き出した。
 右へ、左へ。
 全部で九つの光の粒が水面を這うようにあちこちへと行き交っている。くっついて、離れて、またくっついて。まるで互いのぬくもりを確かめ合うように。
 いつの間にか僕は水のかかるかかからないかくらいの際で、膝を抱えていた。



 水辺に座り込んで行き交う光の粒を眺め始めてから、一体どのくらいの時間が流れたのか、僕にそれを知る術はない。何せここには太陽もなければ、月もなく、腹だって減りやしないのだ。
 水辺が映し出すのは、光のダンスだけではなかった。それはあまりに漠然としすぎていて、眺め始めた頃はそれが何なのか、僕にはわからなかったのだ。
 水の濁りのようなそれは、徐々に確かな輪郭を結び始めた。僕の目がより見えるようになっていったせいなのか、それとも水に浮かぶ映像がその鮮度を増していったせいなのかはわからない。どちらでもよかった。このまま行けば遠からず見えるようになることは分かりきっていたし、時間だけは腐るほどあった。
 映像が鮮明さを完全に手に入れた後、徐々に音声が聞こえてくるようになった。記録映像が元々の形を取り戻していくようにも見えた。
 ここにきて僕はようやくその映像について、いくつかの思索をめぐらせ始めた。
 まずこの映像は、僕が生活している学園の様子を映したものであること。
 そして、視点は僕のクラスメートである直枝のものであること。
 なぜ直枝なのか。この映像が死の間際に見るという走馬灯のようなものだとしたら、視点は僕のものであるはずなのに。誰とも話したことなどない僕は、当然のように直枝とも話したことなどない。彼に対する思い入れなど皆無だ。彼について知っていることと言えば、学園の有名人達と親交があるらしいということ。持病か何かのせいで、授業中に眠っていても先生に見逃してもらっていること。そのくらいだ。
 その映像が何なのかがわかってしまった途端に、好奇心にも似た映像への興味は薄れてしまった。もう見るのをやめてしまって、大人しく寝転がって終わりを待っていようかとも思った。だが、ここはあまりにも何も無さすぎた。不思議な光の粒が舞い踊る水面以外は全く、全く何も無いのだ。見るか死ぬかではなく、見るしかなかった。それしかないものから目を逸らすことなど、僕には出来なかった。
 直枝が送る学校生活は、一言で言えば騒々しかった。直枝自体はそこまで騒ぐ方ではないくせに、彼は常に喧噪の渦中にいた。喧騒に巻き込まれることも、それによって迷惑を被る事さえよしとする直枝の姿勢に首肯し難いものを感じた。
 自分ならば、距離を取る。距離を取って、冷静さを武器に半径何メートルかを俯瞰する。そして、自分にとって最もいいと思える空間を選択する。そこに他人は必要ない。自分さえいればいい。自分以外のものがいれば、それはいつか必ず傷を作る原因になるからだ。寂しさなど、耐えればよかった。だけど、傷を作ることだけはどうしても認めることは出来なかった。
 直枝は僕と似ている、と思った。しかし、彼の取る行動と僕が思う最善はいつも正反対だった。



 映像は続いていた。
 ある一定の場面まで進むと時間が巻き戻されるのか、何度も同じような場面を見る羽目になっていた。繰り返されるリピートの度に、どこかに変化が起こっていた。
 直枝は何回かに一回、傍にいる誰かと親密になった。同じクラスにいる神北さんや、西園さん、来ヶ谷さん。よく教室に遊びに来る三枝さん。誰かと仲良くなるたびに水面を走る光の粒が消えていった。もしかしたらカウントダウンなのかもしれなかった。
 直枝は一度だけ、棗さんを連れて学校の外へ出た。直枝と棗さんだけではどうすることも出来ないのはわかりきっていた。ままごとのような逃避行。辿り着いた一軒の薄汚れた家で二人の逃避行は終わりを告げた。幼さを露呈しただけの旅だった。
 それから、映像はどこかおかしくなった。あれほど仲の良かった彼らの間にはぎすぎすとした空気が流れていた。この世界がCDだとしたら、直枝と棗さんの逃避行はその表面に傷をつけた針だった。
 ほら、傷ついた。
 どこかから鉄のような匂いが運ばれてきた。風は肌には感じられない。淀みきった空気の隙間に滲んだように紛れ込んだそれは、どこか懐かしい匂いだった。ざり、ざり、と這いずるような音もしている。僕は慌てて振り返るが、そこには何もなかった。
 直枝は、崩れていく仲間達との関係を繋ぎとめようと、必死で奔走していた。狂ってしまった井ノ原を倒し、宮沢と闘い、闇の中で一人膝を抱えていた棗先輩を立ち直らせた。
 光の粒は一つ、また一つと消えていった。映像はどんどん薄れて、夕焼けのイメージを残して消えてしまった。代わりに、血の匂いが、焼け付くような熱が、何かが弾けるような音が、押し迫ってきていた。

 虚無の世界は侵食され、やがて鮮やかな色が戻って来た。

 耳元でパチパチと誰かの持って来た荷物が焼け落ちる音がしていた。顔を上げようとして首に激痛が走った。身体中が痛かった。身体を構成する一つ一つのパーツの中に、無事な部分は何一つなかった。瞳だけ動かして見ると、右腕と右の足首ががありえない方向に捻じ曲がっていた。辺りにはバスの残骸らしき鉄の破片が散乱していた。林の隙間から見える空は煙にまかれてどす黒い灰色に染まっていた。 声を出そうとしたら、喉が焼け付いた。周りでは、僕と同じようにバスに乗っていたクラスメイトのうめき声が聞こえてくる。
 僕には、何も出来ない。何も。
 誰か、助けて、と。
 声にならない声で叫んだ。
 何も望みません。何も要りません。ただ生きていたいんです。一人きりでもいいんです。地獄のような世界で構わないんです。死にたくない、死にたくないんです。誰か、助けて。誰か、ねぇ誰か、ねぇ、ねぇ、ねぇ――

「鈴っ! こっち!」

 誰かの声がした。人の声、傷ついていない、誰かの声。耳慣れた、彼の声。
 誰かが駆け寄ってくる。もう意識が保てない。ゆっくりと深い海に沈んでいく。棗さんの声、直枝の声。君達もあの夢を見たの? 答えはない。
 ブラックアウト。






 僕は教室の窓際の席に座り、窓から吹く風を感じている。真っ白いカーテンは風に舞い上がり、ぱたぱたと大きな音を立ててはためいている。校庭の向こうへと、駆けて行く彼らの姿がある。僕はただそれを眺めている。
 僕も含め、事故に遭ったバスに乗っていた人間は全て直枝と棗さんによって助けられた。あれほどの事故に遭いながらほぼ無傷だった彼ら二人は、事故の残骸から使えるものを有効に使い、極めて迅速に、そして的確に救助活動を行った。負傷者は多数いたものの、命に関わる怪我をした者はなかった。消防署の人が来て、全校生徒の集会で二人に表彰状を渡していた。壇上でコメントを求められて、真っ赤になって照れる二人がいた。
 あの二人がいなければ、僕はもうこの世にはいなかったのだ。
 今でも、あの何もない世界で眺め続けた映像を思い出すことがある。僕たちを救った英雄の日常と成長を映した記録映画のような、あの映像。今でも鮮明に思い出せる。
 直枝とその周りの連中は、今もあの映像と同じように、楽しく毎日を過ごしているようだ。井ノ原と宮沢は相変わらず喧嘩するほど仲が良いようだし、三枝さんは事あるごとにこの教室に来る。能美さんは相変わらず皆のマスコット的存在だし、神北さんはいつもにこにこと笑っている。来ヶ谷さんは数学の時間になるといつもサボるし、西園さんは日傘を置き、たまに体育に出るようになった。棗さんは相変わらず猫と仲が良く、直枝はいつも彼女の世話に追われている。
 あの水面でずっと、彼らのことを見てきた。
 でも、僕は彼らの日常の外側にいて、ただそれを羨ましそうに眺めるだけだ。

 生きていけるだけで、もう何も要らない。あの日、直枝に助けられる直前に思ったことは、今もずっと忘れない。何も要らない。望まない。その気持ちは今でも変わらない。

 だけど、僕は、僕だけが、どうして一人なんだろう。

 校庭の向こうから、キィンと乾いた金属音がする。
 僕は窓際の席で今日も一人、かさかさと渇いていく。












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