ひゅん――

 それは空気を切り裂く一本の矢。闇を貫く光線は数秒とおかずに小気味いい音を立てて、的の中心に突き刺さる。見事に的を射抜いて見せた彼女に喜びの表情はない。まるで中ることを最初から知っていたかのような。透徹した眼差しは的を透かして、その先にある未来すら射抜いている。そう言われたら信じてしまいそうなほど、彼女の周囲は静寂に満ちていた。
 ふぅ。
 微かに聞こえた呼吸音。それは始まりの合図だ。彼女の射は何物にもまして美しく、乱れることのないリズムだった。どこか胸の奥の脈動を思わせた。
 目を閉じる。

 ふぅ。

 きゅ

 き、きり
 ぎり
 ぎり、ぎりぎりぎり――

 ひゅん

 たぁん

「――宮沢さん」

 彼女の声に、目を開ける。
 月明かりの中に彼女は立っている。眩しさに目が慣れるまでの間、彼女は光の中にいるように見えた。
「ちゃんと見ていてください」
 なにもかもお見通しか。それも仕方がないことだ。もとより自分が彼女の目を偽れるはずがないのだ。
「古式」
「何ですか?」
「――いや、なんでもない。続けてくれ」
 ただ、美しいとだけ思った。美しいのは彼女の射であり、長くのばした黒髪であり、彼女の全てだ。彼女は一瞬表情を緩めると、また小さく息をつく。射は当たり前のように始まり、そして終わる。全てはその繰り返しだ。
 彼女は弓をこちらに振り返る。彼女の右目は不似合いなほど大きな眼帯がある。下弦の月が二人を見下ろしている。









下弦の月









 謙吾が古式みゆきと出会ったのはある春のことだった。
 小学生の中でだけとはいえ、向かう所敵なし、無双の剣士であるという自負は、少なからず謙吾の自意識をより強固なものにしていた。剣そのものよりも、わかりやすく、目に見える強さを求めていた。それをあからさまにひけらかすことこそなかったが、心の奥底にあったのは、自分が他の誰かと比べてどれだけ強いか、それだけだった。
 未熟だった。歪んでもいた。その歪みは慢心の温床になり、慢心は歪んだ自己肯定を育てる。
 ある日、『弓術を使う女』が同じ学校にいると人から聞いた。それを耳にした謙吾が最初に思ったのは、『どちらがより強いのか』ということだった。弓と剣が相対してどちらが強いかもくそもないが、当時はそんなことを本気で考えてしまっていたのだから性質が悪い。「キュードー女と宮沢君なら、断然宮沢君の方が強いに決まってるよ」などと無責任に吹聴する同級生もいた。磨き上げた互いの技を同じ土俵の上で競い合うことはないだろうが、それでも隠し切れない「格」というものがある。何か機会があれば、いかな弓使いと言えど、格の違いというものを見せつけてやる。そんなことを思っていた。
 他流試合の折、大規模な道場に足を運ぶ機会があった。稽古の合間、父親たちの会話の中、ふとこんなことを耳にする。宮沢氏のご子息も類稀な才を持っているが、古式の娘の弓もこれまた非凡なものがある、才能と言うのは同じ年代に固まる物だ――と。学校での噂を思い出す。弓術の女。謙吾は好奇心に誘われるままに、弓道場へ向かった。
 そこで彼が目にしたのは、一つの射。
 大勢が一斉に射掛ける中にあって、小柄な少女の姿は光を放たんばかりだった。
 八節というものが弓道にはあるのだということは謙吾も耳にしたことがあった。射る際の手順のようなものだと思っていた。年若いその少女が体現して見せたのは、正にその美しさだ。一つ一つの動作に意味があり、意志があった。終わり、始まり、そしてまた終わる。少女の射は正確無比だったが、それ以上に少女自身が放つ神々しさに圧倒された。
 的に当たること。それは結果だ。だが少女の射はそんな結果を超えて完成されている。
 試合の勝ち負けにこだわる自分。目に見えるわかりやすい強さを求める自分。それは的の中心に矢を突き立てる、ただそのことだけに腐心しているようなあさましさを思わせた。

 それからいくつかの季節が過ぎ、謙吾には無二の友が出来た。あからさまな強さを求めることがなくなった代わりに、強さとは何かを考える時間が増えた。言われるままに剣を握り、それを自分自身の意思だと言い張る欺瞞を塗りつぶしてきたのは、幼い頃に持ち続けていた歪んだ強さへの渇望だ。じゃあ、本当の強さとは一体何だ? 友と遊ぶ傍ら、剣の鍛錬は続けていた。いつか見たあの少女のような美しさに憧れていた。剣を振るう理由は変わり始めていた。
 きっかけとなった少女とはその後も会うことはなかった。あの時の少女が古式みゆきという名前で、自分と同じ学校で学ぶ同級生だということはわかっていた。会って話をする機会もないままに別々の中学に進学した。時折目にする弓道の雑誌で彼女の名前を見つけるたび、頑張っているんだなと人知れず励まされている気持ちになった。
 次に彼女と出会ったのは高校。皆で決めて進学した全寮制の学校に彼女はいた。クラス分けの張り出しの中に彼女の名前を見つけた瞬間、柄にもなく謙吾の胸は高鳴った。関係があるわけではない。ただ単に通っていた小学校が同じだったというだけのことだ。話したことはおろか、視線が合ったことすらない。昔に一回だけ足を踏み入れた道場で、ただ一度だけ見た彼女の射に心を奪われた。ただそれだけのことだ。ただ、それだけの。
 当たり前のように入部した剣道部、その主な活動場所である武道場のすぐ隣が射場だ。いつでも彼女の射を見られる環境に身を置いたことになる。そのことに目敏く気付き謙吾を茶化したのは、恭介ただ一人だった。
「話し掛ければいいじゃないか。ロマンティック大統領の称号を欲しいままにする謙吾なら簡単なことだろう」
 一歩踏み出せと、にやにやしながら唆す恭介に「だから、彼女はそんなんじゃないんだ」と、何回説明しただろう。謙吾にとって古式みゆきとは美しさの象徴であり、同時に目指すべき理想でもある。憧れと思慕は似ているようで、まるで違うものだ。
 ある日、謙吾が居残りで一人鍛練を続けていた時のことだ。竹刀が風を切る音、踏み込みで板が鳴る音に一つ、誰かの足音が紛れているのを感じた。教師の見回り、もしくは迷い込んだ学生か。そのくらいのことで集中を解くのも癪だと、極力意に介さず鍛練を続けた。
 やがてその闖入者が背後に座り込むのを気配で察する。素振りなど見ても面白くはなかろう。それでも見るなら好きにするがいいさ。
 一時間ほど一心不乱に振り続け、ようやく竹刀を置いた。背後の誰かも動いた様子はなかった。酔狂な見学者の顔でも拝もうかと考えたその時、
「――終わりですか」
 かけられた声に震えた。
 彼女だ。震える内心を必死に押さえ込み「ああ」とだけ答えた。
「真摯に、振られるんですね」
 心底感嘆したような声色に二の句を継げなくなる。黙り込むのを勘違いしたのか、「あ、すみません。私、古式といいます。古式みゆき。弓道部の一年です」と、慌てて自己紹介をした。
「知ってる。宮沢謙吾。剣道部一年」
 必要以上にぶっきらぼうな言い方になってしまう。胸の鼓動は明らかに宿主の異常を訴える。「知ってます」と、少し和らいだ彼女の声。まともに古式を見ることが出来ない。視線はあらぬ方向をさまよい、手は落ち着きなく空を切った。
「あんたは何をしてたんだ」
 いくらなんでもこれは酷かった。口調は不機嫌、視線は合わない。普通の人間なら話にならないと会話を打ち切られていてもおかしくはない。けど、古式にそれを意に介す様子は全く見られない。
「宮沢さんの剣を見てました」
「あんなものただの素振りだろう。面白がって見るものじゃない」
「宮沢さん以外なら、それは単なる素振りでしょう」
 どくんと心臓が一声鳴いた。
「誰のだって、俺のだって同じだ」
「違いますよ」
「違わん」
 子供のようなやりとり。不意に彼女がくすりと笑う。
「嘘ばっかり」
「嘘……?」
「嘘じゃないですか。だってあなたの素振りは相手を斬るためのものじゃない」
 顔が火を吹くかと思った。誰かに心の内をを覗かれたと感じた時、人は一目散に逃げ出したくなるのだということを知った。謙吾の内心を知ってか知らずか、罪のない顔で古式は続ける。
「うまくは言えませんけど、あなたの剣は相手を斬るためにこうしなければならない、打ち倒すためにはこうしなければならない、という制約が無いように見えました。無心というか……なんというか、とても、自由に見えたんです」
「そんなの単に勝とうと思ってないただの腑抜け、ということではないのか」
 勝とうと思っていない腑抜け。
 自分で口にした言葉にずきんと胸が痛んだ。それはまさに自分のことではないのか。勝つことよりも大事なことがある、だなんて怠け者の言い訳じゃないのか。幼い頃、目の前にいる彼女の射を見てから、何度も何度も繰り返した自問自答だ。そんな謙吾の内心を知らない古式は少し笑って「全然違いますよ」と呟いた。
「勝負をしないことと、勝ち負けに拘らないことは全然違います」
「それは――」
 それは、理解できる。が、しかし。
 あの日、彼女の射を見てからずっと考えてきた。本当に強いとはどういうことか。勝ち負けは所詮勝ち負けであって、それ以上でもそれ以下でもない。そう考えるのは簡単だ。 
 例えばこういう考え方がある。勝ち負けそのものよりも勝負が決する過程を重要視するという考え方。その過程で、自分が納得出来れば、満足できる勝負が出来ればそれでいい。それは勝ち負けという結果よりも尊い何かなのだ、と。
 しかしそれは、命をかけた勝負の緊張や執念、そこから生まれる何かから逃げ出したのと一体何が違う?
「――羨ましくなってしまいました。すごく」
 自問自答の海に溺れた謙吾の耳に、ささやくような声は届かなかった。






「私たちが話すようになったきっかけ、覚えてますか」
 当然覚えているに決まっている。忘れるはずがない。謙吾が小さく頷くと、古式は小さく微笑んだ。月明かりの下、額に輝く汗の跡を見つける。
「私、ずっと宮沢さんの後ろで見てましたね」
「ああ。あの時は一体何者かと思った。実際、俺の素振りを一時間も眺めて喜んでる奴なんて古式くらいだと思うぞ」
「そんなことないと思いますよ」
「そんなことあるだろ」
「そんなことないですって。宮沢さんはもてますから」
 そんなことない、と続けようとしてやめる。どうも彼女と話していると、こんな水掛け論の連続になってしまう。最初に会った時のように照れているわけでも、意地を張っているわけでもないというのに。
「宮沢さん、冷えませんか」
「いや、大丈夫だ」
「風、冷たいですよね」
「平気だ。こんな寒さくらいで参るようなやわな鍛え方はしていない」
「なら、いいですけど」
「俺より古式だろう。古式は寒くないのか?」
「私なら平気です。昔から弓を持つと、弓を引くこと以外の全部が頭から吹っ飛んじゃうんですよ」
 そう言った古式の額にはもう汗の跡は見当たらなかった。
「しかし……大丈夫なのか」
「何が、ですか?」
「それは、まぁ……色々だ」
 いくつかの意味を込めて言った言葉だった。そのどれもを軽く言葉に出来れば良かったのかもしれないと思った。少し古式は考えた後「ああ」と手の平を拳でぽん、と打った。
「大丈夫です。この時間に見回りの先生や警備の人は来ません。体力が続くならあと二時間くらい引き続けても大丈夫なくらいです。それに、もし万が一誰か来ても私が勝手に引いてただけで宮沢さんは関係ありませんって言うから大丈夫です。宮沢さんが怒られることはありません」
「いや、そういうことを言ってるわけじゃなくてな」
「私の目のことですか?」
 真っ直ぐに見つめられる。その眼光に何も言えなくなる。
 そもそも、なぜ古式はこんな夜中に一人きりで、二度と引けなくなったはずの弓を引いているのか。
『良かったら、夜の八時に射場まで来てください』
 靴箱の中に入っていたメモ。流麗な字体は、それだけで古式を思わせた。そして、メモに誘われるままにのこのこと一人で来てみれば、これだ。
「目なんて見えなくたって、弓は引けます」
 強い口調で言い放つ。その台詞が口だけではないことは、薄い闇の向こうで串刺しになっている的が証明している。五体満足の人間が引いたとしても、容易くは到達出来ない地点に古式はいる。しかも、彼女は片目の視力を失っているのだ。
「それなら、もう俺に言えることは、ない」
 諦めたように、笑う。
 古式の射は回数を重ねるごとにその精度を落としていた。生命の脈動を思わせるようだった優美な八節にも、徐々に綻びが生じていく。それは、背中の翼に生えている羽を一枚一枚もぎ取っていくかのようだ。そう遠くない未来、天使は翼を失い地に堕ちる。それは古式がどうあがこうとも、既に確定された未来だ。
 謙吾は小さく息を吐いた。口に出せない言葉をそっとそのまま逃がしていくように。
「前に勝ち負けの話をしたこと、覚えてますか?」
「ああ、覚えている」
 忘れるはずはない。それは自分の内側に突き刺さり、今も抜けない見えない棘だ。答えは今も分からないまま。
「諦めてしまえば、弓は引けるんです」
「諦める?」
「勝負の際、限界まで魂を注ぎ込んで、命を削って放つ射――それを諦めて、ただあるがままに、弓を引くためだけに弓を引く。そういうものでいいのなら、私はまたいつか弓を引けるようになるんです」
 古式は俯いてじっと床の隙間を見つめていた。
「この前、お医者さんに言われました。今を我慢すれば、いずれ視力は戻るって」
「なんだって?」
 謙吾は耳を疑った。
 古式の目はもう元に戻らないものだと思っていた。それが戻るかもしれない?
 喜びの光が謙吾の瞳から漏れた。
 数秒後、謙吾はそれが間違いであることを知る。
「そう……今を我慢すれば、前の“何分の一”かの視力は戻るかもしれないって」
 床についた手の甲にぽたりと雫が落ちた。
 古式は泣いている。
 そして、謙吾は彼女がなぜ泣いているのか痛いほどに理解した。古式はもう二度と、古式が望む弓を引くことは出来ない。薄っすらと見える世界では様々な人が弓を引くだろう。古式はそれを霞んでしまった目で見るのだろう。手を伸ばせば届くところにある、もう二度と立ち入ることの出来ない世界を。
「それなら、いっそ見えなくなってしまえばよかった」
「古式」
「光なんて永久に失ってしまえばよかった!」
「古式っ!」
 肩を掴んで揺さぶっても、左目の焦点はけして謙吾に合わない。涙は滂沱として、流れていく。
 知らず、謙吾は叫んでいた。
「古式! 俺は君を見たことがあるんだ! ずっと昔に!」

 そうだ。
 俺は古式の射を見て知った。
 勝ち負けを超えて、結果を超えて、そんなものよりもっと尊いものがあるってことを、俺は古式の射を見て知ったんだ!

 どれだけ叫んでもそれは音でしかなかった。どれだけ空気を震わせようとそれは言葉でしかなかった。古式の心まで届くことはなかった。
 なんという皮肉だろう。
 古式は遥か彼方にいるのだと思っていた。地べたを這うように、結果と、結果それ自体の虚しさの間で彷徨っているのは自分だけなのだと思っていた。古式はそんなものを超越した何かを掴んでいる、だから彼女はあんなにも美しいのだと。
 違っていた。
 古式は謙吾のすぐ傍にいた。古式も謙吾も、同じように出口のない迷路の中を彷徨っていた。答えのない両天秤。古式はその正体を確かめる前に、その片方を永久に失ってしまったのだ。
「私は、宮沢さんが羨ましいです」
「あぁ」
「あなたの剣は自由だったから。勝ち負けなんて大したことじゃない、それよりも大事なものがあるんだって、教えてくれてるみたいだった」
「あぁ」
「右目をやってしまってから、ずっとあなたのことばかり考えてました。あなたみたいになれたら、私はこれからも生きていけるって。諦めるんじゃなく、それよりもっと素晴らしいものを見つけられるかもしれないって。でも無理だった。私には見つけられなかった。捨てるしかない。諦めるしかないの」
 古式はすくっと立ち上がった。涙を拭く。
「――見ててください」
 弓を構える。手には一本の矢。
 これが古式にとって生涯最後の八節になる。理屈ではなく、感覚でそう悟った。これから、どれだけ長い時間を過ごそうと、古式は二度と弓を手に取ることはないだろう。古式は弓を捨て、普通の、どこにでもいる女の子になる。たまの休みに友達とアイスクリームを食べ、きれいな服を着て街へ繰り出す。カラオケをしたり、本を読んだり、時には誰かと恋をしたり。
 古式は輝けるだろうか。
 これから生きていく長い人生のどこかで、弓を引くこと以上に輝けることを、彼女は見つけることが出来るだろうか。勝ち負けの際、たった一本の矢に魂を注いで放つ射――それ以上に生命が輝ける瞬間を。
 見つけることは出来るだろう。だけど、だからこそ、こんなに悲しいことはないと思った。
 この茫漠とした未来を、彼女は弓を忘れて生きていくのだ。

 呼吸が変わる。これより古式は人ではなくなる。ただ一つ、弓を引く、そのことだけに特化した一つの生命体になる。呼吸は歌うように、そしてリズムが生まれる。
 それは、今まで見た中で最も美しい八節だった。

 ひゅん――

 離れから、残心へ。
 幼い頃の彼女と、今の彼女の姿が重なっていく。
 気付けば、立ち上がっていた。
 勝敗に、結果に拘泥することのあさましさを恥じた。勝敗を越えたところにある何かを探して闇雲に剣を振り続けた。そして、それも結局勝敗から逃げ出しただけじゃないのかと思い悩んだ。そのどれもが自分で、古式だった。互いが互いを美しいと思い、何も掴めない自分を悔やんでいた。果てしない堂々巡り。出口のない迷路。きっと、これからも考え続ける。

 ざしゅ――

 古式の放った矢は的を大きく外れ、離れた地面に突き刺さった。その音は波紋のように広がって二人を包み、やがてどこかへ消えていった。
 音が消えたその時、からん、と弓が落ちる。古式は膝をつき、やがて静かに嗚咽を漏らした。謙吾は何も出来ずに、ただ彫像のように立ちつくしている。
 どこにも行けない二人を、下弦の月が見下ろしている。












戻る

inserted by FC2 system