「ねぇ、朋也。あれ。見える?」

 思い切り目を細めてみるが、思ったより上手く見えない。
 俺は目は悪い方じゃないと思うんだが。

「悪い。見えない」

 俺がそっけない調子でそう答えたのが気に障ったのか、元々吊り目がちな彼女の目が更に釣りあがったよ うな気がした。

「ちょっと〜、あれよ、あれ! もうっ! ちゃんと見なさい!」

 俺の顔が強引に彼女が指すあの方向に向けられる。
 首がかなり痛い。
 代わりにと言ってはなんだが、彼女の身体が俺の背中に遠慮なく押し付けられ、ちょっと、いや、かなりいい 感じだ。

「ほらぁ、どう? 見えた?」
「あ、ああ……うーんと……お! わかったわかった! あれだろ?」

 ようやく俺の目にも彼女が見ている形が見えるようになってきた。
 その想像上の線をなぞるように指でその形を辿って見せると、彼女の雰囲気がみるみる柔らかくなる。

 一人ではなく二人で、目には見えないものを共有する。
 それは目には見えない何かを二人で作り上げたかのような不思議な満足感があった。

 肌寒い冬の夜の風が以前よりは少し伸びた彼女の髪を揺らし俺の頬をくすぐった。
 少しちくちくしてむずがゆい。
 でも何故か温かいような気恥ずかしいような感じがして、これが恋なのだろうかと唐突に思った。

 ある冬の夜、二人いつまでも身体を重ねたまま、あの星を見上げていた。





オリオン





「岡崎、今日はもう上がりか?」

 会社の中でも比較的親しい同僚の声が、背後から追いかけてきた。
 時刻はちょうど午後6時。急いで帰るにしても少し物足りない時間だ。

「ああ、今日は特に差し迫った仕事も無いしな」
「ほぅほぅ、奇遇だな! 実は俺も今日は特に仕事無いんだよ。こんな日、めったにあるわけじゃねぇし、 一杯付き合わないか?」

 ウィンクしながらグラスを傾ける仕草をする。
 別に今日は帰ってからも特に用事があるわけでもないし、財布の中が寂しいというわけでもない。
 でも――

「悪いな。今日は早く家に帰って久しぶりにのんびりしたい気分なんだ」
「え〜、ノリ悪っ! ……なんてな。まぁ久しぶりに早くおねんねするのもいいだろ。じゃ、またの機会と いうことで」
「おう、じゃあな」

 同僚に軽く手を振って、少し早足で会社の正面玄関を出る。
 外に出た瞬間、肌を刺すような風に少し身を震わせる。空はどんよりと暗い雲に覆われて、今にも雪が 降ってきそうな様子だ。
 雪が降ってくると色々と厄介だな。
 俺は背広の上に羽織ったコートのポケットに両手を突っ込んで、まだまだ人通りの多い道を駅に向かっ て歩き出した。


 会社から電車で20分、徒歩10分の所にある少し古びたアパートの2階が俺の家だ。

 カンカンカンカン

 老朽化して少し錆び付いている金属製の階段を上る。
 実家を出てから約4年。辛い思いも沢山したし、その分充実した4年間だった。
 でも、何かが足りない。
 心に穴が空いたように、剥き出しの心に冬の風が突き刺さる。
 心が乾いていく。

「ただいま」

 いつものように誰もいない部屋に迎えられる。
 俺の胸の中の何かが、古くなって立て付けが悪くなったドアと一緒に、きしんだ。


 高校を卒業してから、俺はすぐにコンピュータの専門学校に入学した。それと同時に俺は実家を出てこ のアパートで一人暮らしを始めた。
 バイト先と専門学校とアパートの3点を往復する生活を2年間続け、今の会社に就職したのが約2年前。 仕事はきついが同僚達との関係は良好だし、何より誰に寄りかかることなく自分だけの力で生活しているという 実感があった。
 何の目的もなく彷徨うように過ごした高校時代の俺からすれば今の俺の姿は許容できるものではないかもしれ ない。
 でも決して後悔してはいない。

 帰ってくる途中で買っておいたコンビニの弁当を食べる。
 少し粗末な食事だが、今日のところは何もしないというのが今日のテーマである。最近は色々と忙しかっ たし、たまにはこんな夕食もいいだろう。
 一人で食べる食事というのは味気ないとよく言うが、俺に限って言えばそんな感覚にすら慣れてしまって いる。
 人恋しくないわけではないが、目を瞑ってしまえばさして気にもならなくなる。
 簡単に言えばそういうことなのだろうと思う。

 コンビニ弁当を食べながら家用にしているノートパソコンを立ち上げた。
 とりあえず日課にしているメールチェックぐらいはしておこうと思ったのだ。想像したくはないが、もしかし たら仕事上で急な連絡が入っているかもしれない。
 新着メールは……5件か。
 いつもの宣伝メールに、仕事先からのメールに、登録しているメールマガジン……
 上から順に斜めに読んでいく。

 そして。
 ふと、見慣れないアドレスに目が留まった。
 何かと思って件名を読むと、高校単位の同窓会の連絡だった。
 とりあえず日時と場所、会費に目を通す。
 ――仕事とバッティングしなければ顔くらい出せるかもしれない。
 そんなことを考えながらメールの終わりまで目を通した時。

 差出人の名前を目にした刹那、高校時代にタイムトリップしたような錯覚に陥った。

 『同窓会幹事 藤林杏』

    ☆   ☆   ☆

 その日は運良く急な仕事も入らなかった。
 久しぶりに仕事以外での外出のため、服を選ぶのにかなり手間取ってしまった。高校時代顔を合わせたこと のある連中ばかりだから別に気にすることもないのかもしれないが、4年も会っていない連中など最早他人と 変わらない。
 とりあえず無難そうな服を着て家を出た。

 場所は……確かここより少し街中に入ったところにある居酒屋だ。安い割にコース料理が充実していて、学生 なんかに人気の店だ。
 考えてみれば高校の同級生の大半はまだ大学生のはずだ。割と偏差値レベルの高い高校だったから、俺のよう にドロップアウトしてしまわない限り、大抵は四年制の大学に進学するのが普通だった。
 そういえばあいつも高三の頃は、勉強勉強って忙しそうにしてたっけ。

「俺たち……結構長く続いたんだよな……」

 口をついて出た自分の言葉に思わず噴き出しそうになる。
 長く続いたことが一体何になるというんだ。
 どれだけ長く付き合いが続いたとしても、終わってしまえばそれは「終わってしまった」というだけの こと。
 それ以上でも、それ以下でもない。

 高三の春から冬の終わりくらいまで、俺と今回の同窓会の幹事を務めている藤林杏は付き合っていた。
 付き合っていた期間は大体1年くらいだったが、他のどんなカップルと比べても決して引けを取らないカップ ルぶりだったと、自分自身でも思う。
 俺は杏のことが好きだったし、杏だって俺のことが好きだったはずだ。
 バスケという希望をのっけから奪われて灰色だった俺の高校生活の中、杏と過ごした日々はまるで雨の後に架 かる虹のように輝いている。
 そして、それは高校を卒業して4年も経った今でもそれは変わらない。
 今回の同窓会の話だって、杏が幹事をやっていなかったら俺はきっと参加してはいなかっただろう。

 もう誤魔化すのは止めようと思った。
 俺は、杏に会いたかった。
 ――例え、もう二度とあの日々に戻れないとしても。


「あっ! 岡崎君、ひっさしぶりーっ! 元気してたっ!?」

 会場である居酒屋にやっと着いたと思ったら、いきなりハイテンションな声に迎えられた。

「おう、久しぶり。……え〜っと……」

 やべ。
 名前が思い出せない。
 確か1年の時同じクラスにいたと思ったんだけど。
 少し考え込んでいると、目の前の彼女は俺を思いっきり人差し指で指差しながら叫んだ。

「あっ! あーっ! 岡崎君もしかしてわたしの名前忘れてるっ!? 忘れてるっ!? ひっどーーいっ!  わたしとのことは、遊びだったんだぁーーっ!!」
「なっ……人聞きの悪いことを天下の往来で叫ぶなっ!」
「ぐすんぐすん……じゃあわたしの名前覚えてるの?」
「ぐっ……っておいっ! ちょっと待てっ! 今思い出すからっ! ……え〜〜っと……」

 また考え込む俺を見て、心底呆れたように溜息をついた彼女は、

「もぅ……じゃあこれでどう?」

 そう言ってセミロングの髪を後頭部で両手で一つに結んだ。
 ……ん?
 あのポニーテールは……
 昔、高一の時の教室で、杏と仲が良かった……

「……もしかして、日高?」
「ピンポンピンポン大正解〜! もう、今日という今日は岡崎君がどれだけ薄情な人間か身に染みてわか ったよぅ……」

 そう言って日高はガクッと肩を落として「やれやれ」のポーズを取った。

「薄情者の岡崎君はもういいからサクッとくじを引いちゃいなさい」
「は? くじって?」
「ああ、折角の同窓会だからね。仲の良い人だけで固まっちゃうのは勿体ないから最初の席だけはくじで決める ことにしたのだ」

 日高はそう言ってティッシュの箱を差し出す。

「やけに貧乏くさいんだな」
「うっさい! 早く引け!」

 ガオゥと吼える日高に急かされて、ガサゴソとティッシュ箱の中を漁る。

「……引いたぞ」
「はい。じゃあそのくじに書いてある番号の席についてね。後は乾杯の時間までごゆっくりどうぞ」

 ヒラヒラと手を振る日高。

「杏は……中で準備してるよ」

 不意に背後から日高の声がした。
 一瞬戸惑うが――

「そっか。サンキュ」

 次の順番の人にくじを引かせながら、日高は軽く頷いて、

「岡崎君。杏と……話してあげてね」

 ああ、と頷くと俺は会場の中に入っていった。

 くじで割り当てられた番号の席を探す。26番。多いのか少ないのか、判断に困る数字だ。
 もう既に会場内は満員に近い状態で、どこもかしこも昔どこかで見たことのある顔で一杯だった。

 これまでのこと、これからのこと、あの頃のこと。
 昔なじみとの会話は尽きることがない。
 これまでの人生の中で自分が一番弱くて、多感で、何かに押し潰されそうになりながらも必死で堪えてい たあの頃。
 そんな時間を共有した仲間との会話は何より甘美で、何より残酷だ。

 そんな特別な空間の中、一つだけポツンと空いた席につけられた26番の名札。
 その隣には。
 その隣に座っていた人間の顔を見た瞬間、日高の奴にしてやられたことに気づいた。

 藤林杏が、明朗快活な彼女に似合わず強張った表情で座っていた。


「それではーっ! かんぱーーいっ!!」

 一斉に隣り合った者同士、近所同士でグラスを合わせ出す。
 そんな中俺と杏だけは誰とグラスを合わせることなく、同窓会の喧騒の中ただぼうっと立っていた。
 やがて乾杯合戦も終わり、誰からとなく席に着き宴は始まった。

 いつまでも黙っているわけにはいかない。
 日高にもさっき嵌められて、さらに応援までしてもらったはずだ。
 さあ――

「「あのさっ」」

 二人の声が綺麗に重なる。
 そんな事実にさえ赤面し、俯く俺たち。
 そういえば、あの時も――

「――あの時も、そうだったよね」

 不意に杏が呟く。

 そう。
 二人が恋人同士になってから初めてのデートの日。
 とっくの昔に友達同士で、どんな馬鹿なことを喋ったって一緒に笑えてたはずの俺たちなのに、その日だけは 何故か緊張して上手く話せなくなってしまった。
 一緒にいるのが杏であって杏でないような気がした。
 全くの別人同士が顔を合わせたみたいに、二人とも何も喋らずにただ街を歩いた。
 日が暮れて、結局最初に待ち合わせをした公園に戻ってきた時初めて口を開いたのだ。

『『あのさっ』』

 あの時も、今と同じように二人の声が重なったということに赤面し、顔を見合わせて俯いた。
 あの時と同じ。
 ただ、あの時と違うのは――

「――乾杯」

 赤くなった顔もそのままにグラスを掲げる杏。

「――乾杯」

 俺もそれに倣う。

 ――ただ、あの時と違うのは。
 あれからもう長い年月が流れてしまったということだけなのだ。
 ただ、それだけのこと。
 でも俺にとってはその事実が何よりも重かった。

 周囲は相変わらずの喧騒だ。まるであの頃、高校時代、授業が始まる前の教室での喧騒のように。
 俺たちは「時間」という埋められない壁を埋めようとしているのだろうか。
 馬鹿になって騒ぐことで。
 あるいは。
 何も喋らずに、ただ見詰め合うことで。

「そ、そういえばさっ! 陽平のバカはどうしたのかな?」

 沈黙に耐え切れなくなったのか杏が上ずった声で言った。

「あ、ああ。あいつは今日は来ないみたいだぜ。連絡はしたんだけど、仕事が忙しいってさ」
「ふーん、そうなんだ。あははっ、アイツが『仕事が忙しい』なんて言うようになるとは、世も末ねー」

 また、沈黙が流れる。

「お前は、最近どうなんだよ? 大学、まだ行ってるんだろ?」

 今度は俺が沈黙に耐え切れなくなる番だった。

「もう今年で卒業だけどね。とりあえず春からは近くの保育園で働くことになってるの」
「そっか、お前将来は保母さんになりたいって言ってたもんな。夢――叶えたんだ。良かったな」

 自分でも驚くくらい素直にその言葉が出た。

 ――昔、同じ口から杏への別れの言葉が紡ぎだされたとは思えないくらいに。

「あ、ありが――」
「ちょっとーー! そこそこーっ! 何いい雰囲気作り出してんのよぅ」

 色んなものが一気に吹っ飛んだ。

「お前、日高かっ!?」
「そうれすよん♪ ひだかちゃんどぇーーっす!!」

 日高はまだ開始から30分も経ってないのに、すっかり出来上がっていた。
 つーか、どんなペースで飲んだらそうなるんだ。
 日高は俺と杏の間にドスンと座ると右手を俺の肩に、左手を杏の肩に回してぐっと引き寄せた。

「もうー! どーーーしてこんなお似合いの二人が別れちゃったのよぅー!!」

 俺も杏も何も言えなかった。
 隣ではすっかり泣き上戸入った日高がおいおい泣いている。
 そういえば日高は、女子の中では杏と一番仲が良かった友達だったように思う。互いにさっぱりした性格同士 でなにかと馬があったんだろう。
 俺のとの事とか、日高に相談したこともあったんじゃないだろうか。
 日高は泣いてたかと思ったら、いつの間にかパタンと後ろに倒れて寝息を立て始めた。

 俺も杏も何も言わない。
 ただ顔を見合わせて少し笑った。
 言葉はいらなかった。
 ただ、杏はあの頃のことを思い出していたんじゃないだろうか。
 だって、俺だってそうなんだから。


 俺は杏と付き合う前は、杏の妹の椋と付き合っていた。始まりは椋の告白から。そして姉はそんな妹を 後押しする良き姉だった。俺と椋が付き合ってハッピーエンド。姉の杏が二人を祝福し、二人は未来へ歩いて いく。
 そしてそれでいい筈だった。
 どちらが本当の気持ちかなんて分からなかった。
 本当に分からなかったんだ。
 ただ俺の中の何かが姉の杏を選ばせた。
 それだけで3人が保ってきた微妙なバランスは完全に崩壊した。
 表面上は良かったのかもしれない。
 だが、俺が杏を選んで、その代償として椋を捨てたのは紛れもない事実なんだ。
 もしも俺が揺れなければ、そのまま椋の手を握り続けていられたなら、こんなことにはならなかったはず なんだ。

 ――本当に逃げたかったのは、俺なんだ。

 結局俺はどちらも選べなかったのだと思う。
 互いの進路も決まり、春ももうすぐそこまで来ていたあの日。
 俺は杏に別れを告げた。
 杏はそのことを予感していたようだった。

『しょうがないね』

 そう言って杏は哀しそうに笑った。
 杏はきっと俺の醜い気持ちを見抜いていた。
 それでもなおこの情けない男の別れの言葉を笑顔をもって見送ってくれた。

 それからの俺は抜け殻だった。
 でも抜け殻は抜け殻なりに努力して、やっと自分の足だけでなんとか立てるようになった。
 空っぽだった俺の心にも、今までとは違う何かが満たされていった。
 あれから4年が過ぎた。
 俺の心の中に未だに残る空白を埋めるものは一体何なのだろうか。
 それが知りたくて、今日俺はここにいる。


「杏。岡崎君」

 声を発したのは、日高だった。
 畳に倒れたままの姿勢で告げる。

「あんたら、もうフケなさい。後のことは全部わたしがやっといてあげる――ここじゃ、碌に話も出来ないでし ょう?」
「ちあき……」
「今日の真の幹事はわたしだかんね。杏なんかにこんな大役やらせるわけにいかないもん……あんたは岡崎君と どこへなりとも行っちゃいな」

 そう言って日高は優しく微笑んだ。

    ☆   ☆   ☆

 そして俺たちはあの日二人で見上げた星座の下、何処へ行くでもなく歩いていた。目的もなく、 目標もなく、ただ夜の街を彷徨う。
 やがて市街地を抜け、周りの明かりが段々と少なくなっていく。
 頭上の星が語りかける声が聞こえてくるような夜だった。

「朋也、覚えてる? 一緒に星座見た日のこと」
「ああ」
「あの星座が何の星座だったかは?」

 あの日、杏が俺に見せた星座。
 あれは――

「オリオン座――だろ?」

 杏は少し嬉しそうに首肯した。

「椋がね……あの子、占い好きだったじゃない? だから、一緒に星を見る時はいっつも星座の話をされたの。 だから自然と覚えちゃって……」
「へぇ……」
「オリオンはね、海の神様のポセイドンの息子で凄く美しくて強い狩人だったの。で、ある日彼は月の女神アル テミスに恋をする。二人は狩りをしながら楽しく暮らしてたんだけど、オリオンってちょっとお調子者だったの ね。で大きな事を言った挙句、オリオンは他の神様の怒りを買って殺されてしまったんだって」
「ふーん、オリオンって結構バカな奴だったんだな」
「でもね、オリオンにはもう一つ違った神話があるの」
「どんな?」
「オリオンとアルテミスは恋をするんだけど、それがアルテミスの兄の怒りをかってしまったの。で、罠に嵌め られてしまったアルテミスは自分の手でオリオンを殺してしまったって言う話」
「……それは、なんかちょっと怖いな」
「でしょ? 星座の元になってるギリシア神話って結構そんな話ばっかりなのよ。誰かと誰かが恋仲になったか らって嫉妬して殺してしまったりとか、誰かを自分のものにしたいからって無理難題を押し付けちゃったり…… 神様の話なんだけど、何だか凄く人間臭いと思わない?」
「俺なんかのイメージだと、神様ってそんな欲望とか憎しみみたいな感情とは無縁っていうイメージがあるんだ けど、話を聞いてるとそんな感じはとてもしないな……」

 うんうんと頷く杏。

「でもね、神様だってそんなんになっちゃうんだからさ……人間のわたし達が嫉妬したり、誰かを殺したくなる くらい愛してしまったりするのは仕方ない事なんじゃないかって……思うんだ」

 杏はそう言って、反り返るように夜空を仰いだ。
 つられるように俺もそれに倣う。
 空には、あの日と同じように一際輝くオリオンがいた。
 不意に前を歩いていた杏が振り返る。

「ねぇ、朋也。あの時、オリオン座の星と星を繋ぐ線の描き方、教えたじゃない? 今さ……もう一回やってっ て言われたら……出来る?」

 試すような目。
 その視線は他の誰でもなく、この俺に向けられている。
 他の何でもなく。
 この――俺に。

「――出来るさ」
「じゃあ……近くで見ててあげるから、やってみて」

 そう言って杏は、俺のすぐ真後ろのポジションを取った。

 まるで、あの日に戻ったかのような錯覚に陥る。
 きっとあれが、俺たちが無邪気なままでいられた最後の時間。
 時計の針を戻すように、19の星が描き出すその軌跡を、ゆっくりと人差し指でなぞる。
 背中には、あの日と同じように、杏のぬくもりを感じた。
 耳をすませば、互いの鼓動さえ聞こえてくる。

 そして、名残を惜しむように俺は最後の星まで描ききった。

「――杏。出来た」

 背中から、答えは返ってこなかった。
 代わりに、凍えそうな冬の風にのせて、一つの嗚咽が聞こえてきた。

「――こんなことをしたって、時間は戻らないんだ」
「……わかってるわよ」

 今の彼女に出来る精一杯の強がり。

「でも――前に進めることは……出来るかもしれないじゃない」

 それ以上は言葉にならなかった。
 俺は、俺の背中に顔を押し付けてただ泣いている杏を感じた。

 どこからともなく現れた雲が、俺たちのオリオンを隠していく。
 月が泣いている。
 自らの手で愛する者を殺してしまったアルテミスの涙は、一体何処へ行くのだろうか。
 俺たちは、その行く先を知らない。

 俺は、そっと涙に濡れたその唇に、触れた。



    ☆   ☆   ☆



「おっかざきーっ!」

 終業のベルが聞こえたかと思ったらすぐに、背後から聞こえてくる年がら年中能天気な同僚の声。

「何だよ、うるさいな」
「へっへー! 今日はお前暇だろ? な? 暇だろ? な?」

 どんな質問の仕方だよ。
 大体今日はクリスマスイブ。
 今日暇であるということが、どういうことなのか。
 日本男児、いや、男と生まれたからにはその意味が分からない奴がいるはずはない。

「おいこら、どういう意味だそれは。まるで俺が年中無休の暇人ヤロウであるような言い方しやがって」
「わかってるって。わかってるよ、岡崎君。寂しいのは俺も同じだ。ああ、わかってるともさ!」

 いくらコイツでも天井知らずのこのテンションは流石に変だ。
 何かあったのだろうか。

「……さては女にフラレやがったな」
「ギクッ」

 擬音つきで驚いてくれるコイツは本当に分かりやすい。
 わかりやすいが――

「――悪いな。今日は野暮用があって、君の相手をいつまでもしてるわけにはいかんのだ」
「なにぃーーーっ!! お前っ! まさかっ、大親友のこの俺を裏切るのかっ!?」
「まぁそういうことになるかな」

 ガーン。
 それを聞いた時のコイツの顔に付随する擬音はそれ以外にないだろう。
 そのまま活動停止してしまったコイツには悪いがこのまま退散させてもらうことにしよう。

「じゃあそんなわけで、悪いがクリスマス慰撫は誰か他の奴とやってくれ。じゃあまたな」

 そう言って俺は前もって片付けておいた荷物をまとめて会社を出ることにした。

「岡崎朋也、お先に失礼します!」

 挨拶もそこそこに跳ぶように会社を出る。
 空はもう既に薄暗いが街はネオンの光に溢れ、人の波はざっと見た感じで普段の2倍は下らないだろう。
 夜の帳が下りてくる。
 地平線に見える月を背に、俺は駅に向かって駆け出した。

 彼女の待つ、約束の場所へ。



戻る

inserted by FC2 system