ふと、誰かに呼ばれた気がした。
 緩慢な動作で起き上がり、伸びをする。枕もとの携帯を見ると、もう深夜と言っても差し支えのない時間だった。力強くものん気なルームメイトは二段ベットの上で大きないびきをかいている。高いびきに紛れて鈴虫が一匹、窓の下で鳴いている。僕を呼んだのは君なのかい。歯の浮くような台詞に、ぼりぼりと頭をかく。寝惚けているようで、頭の中だけが妙に澄みわたっている。






水辺の彼女






 寮を抜け出し夜の散策、などという高尚な趣味を僕は持ち合わせてはいない。だから今夜、川辺で佇んでいた西園さんを見つけたのは全くの偶然と言うほかない。トレードマークの日傘も持たず、何をするでもなくただぼんやりと川の向こう岸を眺めているように見えた。
「西園さん」
 暗闇の中、顔もろくに確認しないままに彼女の名前が口をついて出る。セミロングの柔らかな髪の隙間から覗く白い首筋、平均より少し低めの身長に、容易く折れてしまいそうなほどに細い身体。彼女以外の誰かであるはずがない。数秒の沈黙の後、「……よくわかりましたね」と彼女は笑った。見透かされていたのかもしれない。
「何してるの? もう遅いよ?」
「………」
 聞かなければよかったと、押し黙る彼女を見てそう思った。しかし予想に反して、沈黙した時間の長さの割になんでもなさそうな声色で答えが投げ返される。
「今日の練習で私が飛ばしてしまったボールを探しに来たんですよ」
「え?」
 間抜けな声を出してしまったのも無理からぬことだ。ボールなんていつだってぞんざいに扱っている僕らだ。川に飛び込んだボールも出来る限りは見つけるようにはしているが、練習後に数を数えて確認するようなことはしていないし、もちろん練習後に探しに行くことなんてない。なくなってしまうボールなんて、僕らが気付いていないだけでそれこそ無数にあるはずだ。それに、そもそも西園さんがボールを飛ばしてしまうなんてことがあったのだろうか。少なくとも僕は見ていないが、もしかしたら僕が誤って彼女の方へボールを飛ばしてしまい、弾いたボールが川の方に行ってしまったということも考えられなくはない。
「いえ……ちょうど目が覚めてしまったので。夜の散歩のついでです」
 有無を言わせぬ口調に、僕は脳裏に浮かんだいくつかの疑問を全て破棄する。聞いてもしょうがないことだし、今日僕が稀有なきまぐれを起こしたように、人には誰しもそういう時があるものだ。
「日傘は忘れてきたの?」
 思いつきのような問いに、西園さんの瞳がすぅっと細められていく。呆れたような、それでいて糾弾されているような視線に、僕はなぜか身構えてしまう。そんな僕の様子を見た彼女は、満足したようにふっと表情を崩した。
「夜に、日傘が必要ですか?」

 僕らは何をするでもなく、川の流れに沿って歩き出した。ボールを探していると言った彼女に、足下をうかがっているような様子はない。何の目的もなく、ただ歩いているだけのように見えた。そこから彼女の明確な意思を読み取ることは出来ない。
 かさ、かさ、と。枯れ草を踏みしめる音がする。僕は草むらに隠れている地面の起伏に足を取られながら不器用に歩いている。西園さんはそんな僕とは対照的に、あくまで優雅に歩を進める。同じ場所を歩いているはずなのに、まるで異なる世界を行くかのよう。僕らの間に会話はない。言葉を交わせばこの静寂が壊れてしまうように思えた。穏やかな川の流れ、水の音。遠くに聞こえる虫の声。緩やかに時間の感覚が鈍くなっていく。
 彼女の声は水辺によく響いた。
「昔から、水辺にはこの世ならざる者が棲むと言いますよね」
 ぞわり、と。背筋を冷たいものが這う。
 空は新月、星もない。手を伸ばせば届く距離で話しているはずの相手の顔がよく見えない。闇の中、彼女の白い肌が曖昧な輪郭をなぞって妖しく煌く。気圧されているのを悟られたのか、彼女は薄く笑みを浮かべている。
「た、確かに、水にまつわる怪談って多いもんね。そうだね、うん……どんなのがあったっけ」
 やっとのことで返した言葉は内心の震えを如実に表わしていた。知ってか知らずか、何気ない問い掛けに考え込む仕草をする彼女。
「……そうですね」
 揺れる川面に遠くの光が反射する。瞬間、照らされた彼女が縁取る表情は微笑み。慈愛の中にほんの少しの妖しさを含ませた眼差し。瞳の奥へ、もっと奥へと、僕は吸い込まれていく。

「こんなのは、どうでしょう――」






 夜の闇をヘッドライトが切り裂いていく。
 山壁に沿うように走らせた国道を人里目指してひた走るタクシー、運転していたのは、まだまだ経験が豊富とはお世辞にも言えない若い男だ。四六時中運転する生活を始めてようやく一年。態度の悪い客のあしらい方や、効率の良いサボり方は覚えても、眼下に河川を臨む夜の国道にはいまだに慣れない。さらに悪いことに、今日は雨まで降っている。ちくしょう、あの客があんな遠くの駅に行きたいなんて言わなけりゃ、今頃俺はあったかい風呂にでもつかっていられただろうに。彼は何度目かもわからないため息をつく。
 ふと、ヘッドライトが照らした先に人影が見える。すらりとした肢体に、長い髪。女。彼女は峠を通りかかったのがタクシーであると気付いたのか、おずおずと右手を小さく上げた。彼は内心舌打ちをした。ただでさえ面倒なこの道を、客を乗せて走るなんて。見て見ぬふりをして通り過ぎてしまおうか。彼にブレーキを踏ませたのは、ひとえにその女の美しさだった。彼女の造形美は、遠目に見ていた彼をも貫いた。彼女の真横でタクシーを停車させた。手元のボタンを操作しドアを開けると、女はするりと車内にその身体を滑り込ませた。閉まるドアの隙間から漏れた空気が湿っている。雨の匂いがしている。
 バックミラー越しに彼女を見る。間近で見た彼女は今まで出会った事がないほどに美しかった。濡れた大きな瞳に、すっきりとした鼻立ち、慎ましやかな唇。淡い色の洋服の隙間からはこの世のものとは思えないほどに白く透き通った肌が見えた。無意識のうちに生唾を飲み込んでしまう。
「どちらまで」
 かすれた声で問うと、彼女はどこか困ったような顔をした。数秒の沈黙の後「……道なりに」と呟く。確かに、この道は向こう一時間くらいは分岐のない一本道だ。分岐の近くまで走ったらまた聞けばいい。彼はそう判断して、おもむろにアクセルを踏み込む。

 一時間も走っただろうか。分岐点には一向に辿り着かず、後ろに乗せた女にも降車する様子は見えない。いつの間にか雨は止み、辺りには霧が立ち込めている。運転するには最悪に近い天候だ。すぐ先にあるカーブの向こう側すら見えない。最初の一言以来、話しかけてもまったく口を開こうとしない女の様子とも相俟って、彼の苛立ちはますますつのるばかり。
 俺は一体どこまで走らされるんだ。この道はどこまで続くんだ。そもそもここはこんなに長い道だったか? それ以前にあんな場所からタクシーを捕まえようとするこの女は一体何者なんだ。近くに民家や建物など見当たらないあの場所で、こいつは一体どれだけタクシーが偶然通りすがるのを待ち続けたんだ? 何分? 何時間? 何日――
「止めてください」
 女の鋭い声。彼は慌ててタクシーを止める。ついさっきまでの思考も忘れ、この不気味な女を降ろせることに安堵していた。つい声も弾む。
「料金は――」
「運転手さんも一緒に降りてもらえませんか?」
 彼の声を遮るように彼女は言った。妖艶な声。彼女の洋服の隙間からは透き通るように白い肌が見え隠れしている。彼の喉が無意識のうちに音を立てる。彼は首肯する。
 車を降りるとそこは河原だった。濃い霧の向こうにぼんやりと川の流れが見える。晴れた所で見れば詰まらない川の風景も、霧が立ち込めているというだけで、どこか幻想的な印象を与えた。女は何かを探すように辺りを歩いている。彼は車の傍で立ち尽くしていた。なぜか足が動かなかった。まるで一寸先が崖だとでも言うように。
 不意に彼女がくるりと振り向いた。
「あなたも一緒に探してくださらない?」
「何を」
 震える声で尋ねた。自分の客だという意識は既に飛んでいた。霧の中にあるというのに、彼女の姿はまるで光を放つかのようにはっきりと彼の目に映った。
「わたしの……あっ」
 彼女はしゃがみこんで、川と河原の境目を探っている。遠目からでも彼女の頬が笑みを浮かべているのがわかる。彼女の口元が、赤く赤く歪んでいく。

「みつけた」

 そして、霧に吸い込まれていくように彼女の姿が消えた。彼は慌ててそこに駆け寄った。声帯が千切れたかのように、掠れた声も出ない。彼女のいた場所には人が手で掘った穴がある。覗き込む。ひゅっ、と彼の喉が笛のように鳴った。

 そこにあったのは――崩れかけた、人の髑髏(しゃれこうべ)。






「この話には続きがあります」
 僕は息をするのも忘れたように立ち尽くしていた。西園さんの話ぶりはとにかく真に迫っていて、怖いとか、恐ろしいと思うことさえ忘れていたくらいだ。
「警察が調べたところ、そこに落ちていた髑髏は数ヶ月前に遺書を残して失踪したある女性のものだということがわかりました。川に流された形跡があることから、自殺した場所で白骨化してからそこまで流されたのだろうということになりました。警察は上流まで捜査範囲を広めました。なぜだかわかります?」
「うーん……身体の他の部分の骨がまだ見つかっていなかったから?」
「そうです。もちろん、髑髏の第一発見者である運転手に死体遺棄の嫌疑が掛けられていたから、という意味もありました。女の幽霊に連れられて偶然その場所に辿り着きました、なんて言う彼の言葉など、警察の人は誰も信じようとはしませんでした。事件性があるかもしれない、と錯覚した警察がかけた保険ですね」
 くすり、と笑って西園さんは続ける。
「で、上流まで捜索した結果、彼が彼女を拾ったと思われる場所のすぐ近くから、彼女の骨の残りの部分と思しき白骨と、彼女の衣類らしき布状の物が見つかりました。鑑定の結果、彼女の物と断定されました。運転手にかけられた嫌疑も、その後の捜査でこれといった証拠が発見されなかったため、然るべき期間を経た後に解消されました」
 ふぅ、と西園さんは深く息を吐き出した。
「これで、話はおしまい――どうでしたか?」
「いや、面白かったよ」
 物語の終わりに深く息をつきたいような気分だったが、僕はどこか釈然としない気持ちを抱えていた。面白かったのは本当だが、どこか終わり切れていない。物語がまだ閉じられてはいない。素晴らしい小説の大事な一ページが破れていて、ストーリーも最後まで追い切ったのに読み終えた達成感は奪い去られている。そんな気持ちだ。
「西園さん、一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「彼のタクシーに乗ってきた女の人だけど、もしも本当にその自殺したっていう人の……幽霊だとしたらさ、どうして彼女は彼のタクシーに乗ったんだろう」
「…………」
「だって、彼女は明らかに自分の髑髏のありかに気づいてたじゃないか。じゃないとそんなにぴったりタクシーを止める場所を指示できないし、仮にある程度の位置がわかっていたとしても、そんなすぐに見つけられないんじゃないかと思うんだ。だから、彼女がタクシーに乗って彼を連れて行ったのは、流された自分の髑髏を探すとかいうことより、もっと他の理由があったような気がする」
 西園さんは顎に手を当てて、考えるような仕草をとってからこう言った。
「それは、『彼女はなぜ彼の前に姿を見せたのか?』ということでしょうか?」
「うん」
 そして彼女は、僕がそれについて質問したことが嬉しくて堪らないとでも言うかのように、唇の端を歪めた。それを見た僕はわけもなく背筋を震わせた。
「これはあくまで私の想像ですけど……おそらく彼女は誰かと一緒にいたかったんじゃないでしょうか」
「まったく見知らぬ人と?」
 タクシーの運転手など、言ってしまえば他人でしかないだろう。もしも僕なら――もしも僕が死を選んだとして、その死を誰かに見届けてほしいと願ったとして、その相手を選べたなら、きっとその相手は、自分にとって何か特別な意味を持つ人間を選ぶ。誰かもわからない人間に、自分の遺体を見つけてほしいとまでは思えないはずだ。そこまで思えるのは、もっと特別な、それは例えば彼女のような――
 顔を上げると、彼女はなんとも形容できない表情を浮かべていた。それは例えば喜びだったり、悲しみだったり、諦めだったり、憎しみだったり。くるくると入れ替わるのではなく、同居している。
「見知らぬ人じゃなかったかもしれませんよ」
「へ?」
「運転手の彼はその道を通るのは初めてじゃありませんでした。だから、彼女は見ていたのかもしれないってことですよ」
 何を。
 問うた言葉は音になったのか。
「彼がその道をタクシーで通る様子を、何度も、何度も。死んで白骨化した髑髏の目から」
 西園さんは笑う。今まで見たことがないくらい優しい瞳。その瞳の奥に潜んだ光を見た。かさかさと足元の草が乾いた音を立てる。ぐにゃりと目の前の風景が歪んでいく。
 この世ではない場所から、この世の物ではない誰かが誰かを見つめている。生きているとか、生きていないとか、後先の有無まで霧消して、見つめて、見つめられるという関係性だけが残された。好悪も優劣も、善悪すら消えた、ただそこにあるという純粋だ。
「もしかしたら、恋でもしていたのかもしれないですよ。だから、好きな人の手で見つけてもらいたかったのかもしれません。好きな人の手で。くすくすくす。あれ、どうしました理樹君、気分でも悪くなりましたか」
 彼女の唇の端がつり上がって行く。楽しくて楽しくて仕方がないという顔。
「あるいは、彼のことを道連れにするつもりだったのかもしれませんよ。そういうことだってないとは言い切れないでしょう? 古来、魑魅魍魎とは、くすくすくす、そうしたものではないですか? くすくすくす!」
 その時、僕はようやく気付いた。
 そうか、彼女はなぞらえていたのだ。
 彼女の白い肌、真っ赤な唇。歪んでいく。
「もう、しょうがないなぁ。くすくすくす。まぁ、また偶然会えることもあるんだろうし、今日はこの辺で勘弁してあげるとしますか。ほら、理樹君こんなところで寝ちゃだめだよ風邪引くよ……」
 差し伸べられた彼女の手の温度を、僕は覚えていない。西園美魚はけして僕を名前で呼ばない。僕を名前で呼ぶ彼女は彼女ではない。日傘を持たない彼女は、彼女ではない。だから彼女は彼女ではない彼女であって、彼女であって、彼女ではなくて。意識は混濁し、ゆっくりと現実から遊離して、やがて無我の沼へと沈んでいった。朧な視界の中にあって、彼女の瞳だけが鮮やかに輝いていた。細い眉毛も、長い睫毛も、ほんの少し茶色がかった虹彩も、それらがすべて例えようもない慈愛の笑みを形成して――
「――をよろしくね、なおえさん?」
 僕の意識はそこで完全に途切れた。



 翌日のこと。僕は休憩時間に西園さんの所に行き、昨夜のことを話した。
「直枝さんは夢でも見ていたのでしょう」
 思っていた通り、西園さんは昨夜の話を完全に否定した。やはり、と内心思ったが、それを口に出すのは憚られた。「だよね」と、返すのがせいぜいだ。実際僕は朝にはちゃんと自分の部屋で寝ていたし、あれが全て僕の夢であったという可能性もなくはない。僕が夜中に外に出て彼女と会ったという証拠など、どこにもない。
 西園さんは木陰に腰掛けていて、脇には彼女のトレードマークである白い日傘が立てかけてある。外にいる時でも日傘をしないことが多くなった今でも、やはり日傘は手放せないようだ。
「それに……」
「それに?」
「そんな話にかこつけて私に怖い話を聞かせようとするなんて、直枝さんはいじわるです」
 物凄い非難の目で見られた。
「直枝さんは私が夜中お手洗いに行けなくなるのがそんなに楽しいのですか……直枝さんの趣味はマニアックというレベルを遥かに越えて、実に変態的です」
「いや、そんなことはないんだけど」
 野球のボールについても、やはり昨日の練習中に失くしたという事実はないらしい。もしも本当に失くしていたとしても夜中に出歩いてまで探しには行かない、と。考えてみれば、というか当たり前のことだ。
「じゃあ、その話も知らないんだ」
「その話は知りませんが……そういう話は結構多いと思いますよ」
「そうなの?」
「水辺を走るタクシーにまつわる怪談で、乗せた乗客が忽然と姿を消す、というのはかなりポピュラーな部類に入るかと。似たような話なら私も小さい頃にいくつか本で読んだことはありますが……」
 そこで黙って俯いてしまう。
「……話したくない、と」
「……はい」
 太陽が傾きかけている。木々の間から差し込む光が僕らを照らしている。西園さんの髪が光を反射して輝いている。白い肌は昨夜と同じ。だけど、なんというか、その、あれだ、光の下で見る彼女は、やはり綺麗だった。闇の中で白くうすぼんやりと輝いていた彼女も綺麗だったけど、やはり僕は太陽の下の西園さんがいいみたいだ。
「私は嘘をついているわけではありませんし、直枝さんも嘘をついていないとしたら……」
 昨夜と同じように、西園さんは川の向こう岸を見ている。あの向こうに何が見えるのか、それがとても気になって、僕は彼女のすぐ横に並んで一緒にそれを眺めた。
「直枝さんは、化かされたのかもしれません、ね」
 傾きかけた太陽を背に西園さんは「……ほら」と柔らかく微笑む。優美に細められた瞳が暮れゆく陽光に濡れる。昨夜新月の下で見た彼女のそれと同じ笑顔がそこにある。

「昔から――水辺にはこの世ならざる物が棲むと言いますし」












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