「春を探しに行かないか」

 部屋の中でぼんやりと窓の外を眺めていると、突然来ヶ谷さんの声が耳に飛び込んで来た。振り向くと、そこにはニヤニヤ笑いを浮かべた来ヶ谷さんがいる。
「どうしたのいきなり」
「ふふ」
 あれは間違いなくろくでもないことを企んでいる時の来ヶ谷さんの顔だ。ほんのり頬を赤らめながら、ちょっと眉を困らせて、浮かんだ笑みを隠すように片手を口元に寄せている。
「うふふ、そんなに警戒するな少年。そんな顔をされたらおねーさん、もう心臓バクバクだ」
「むぅ……じゃあどんな顔すればいいのさ」
「うむ、そのままでも十分理樹君は魅力的だがな。欲を言うなら笑顔がいいだろうな。それもただの笑顔じゃなく、そうだな、あれだ。春のような笑顔がいい」
 そんなことをうそぶいて、にかっと笑う来ヶ谷さんの方が春みたいだよ、なんて思った。頭の中は、いまだに霞がかかっているようだ。
「来ヶ谷さん」
「おう、なんだ少年」
「春って何のことなの?」
「いきなり哲学的な質問だな。だが、春は春であり春でしかない。それ以外の回答を、残念ながら今の私は持ち合わせてはいない」
「どこにあるの?」
「わからない。だから今から探しに行こうと言っているのだよ、少年」
「なんでまたそんなことを思いついたのさ」
 僕がそういうと、来ヶ谷さんは心底嬉しそうに「それは愚問というものだ、少年」と笑った。
「それはもちろん、春だからだ」
 窓から差し込むのは、ついこの間までの寒さが嘘みたいな日差し。厚めの下着もいつの間にかやめている。薄着のままでもいいかな。外出用の上着を一枚羽織ればそれで準備は完了だ。
 僕は同居人に一言声をかける。ちょっと散歩に行ってくるよ。夕飯までには帰ってくるから。うん、必ず。僕は頷く。
「春だからね」
 僕が笑うと来ヶ谷さんも笑った。
 春を探しに、とりあえず僕らは歩き出すことにした。












少年、春を探しに行け。












 くだらないことを話しながら歩くこと約三十分、まだ疲れはない。ペースは早くもなく、遅くもなく。このままならどこまででも歩けそうな気がする。いい調子。
 来ヶ谷さんは僕のすぐ隣を歩いている。僕と来ヶ谷さんの身長差はほとんどないため、僕の目の前すぐのところに来ヶ谷さんの顔がある感じだ。
「ねぇ、来ヶ谷さん」
「うん? どうした少年」
「春、見つかった?」
 僕の言葉に「ふふ、せっかちだな少年は。まだ探し始めて三十分も経ってないではないか」と笑う。
「そうだな、見つかったと言えば見つかったし、見つかっていないと言えば見つかっていない」
 日差しや風の温かさ、飛び始めた花粉、どことなく浮かれた気持ち。そういうものをおしなべて春というのなら、僕らはもう春を見つけている。くしゃみだって出る。
「――っくしゅん!」
「おや、花粉症かね」
「いや、おかしいなぁ。僕、花粉症の気はなかったはずなんだけど……」
 そういえばどことなく鼻から喉にかけてがムズムズする。目も少しかゆいし。
「はっはっはっ、おめでとう少年! これで君もようやく花粉症童貞卒業だな!」
「花粉症童貞……っくしゅ」
「ほら、ティッシュだ。使うといい」
「ありがとぅ……」
「なに、礼には及ばんさ。理樹君の童貞喪失記念だ」
 なんだか違うものを失くした気がするが、今の僕はそれどころじゃない。
「これも、春?」
「そうだとも言えるし、そうでないとも言えるな」
「微妙だね」
「そう、微妙なんだ」
 来ヶ谷さんの言葉よりも、止められないくしゃみの連鎖に気をとられる。童貞喪失記念だというティッシュを一枚取り出し、引き絞るように、かむ。



 またしばらく歩くと、自然公園らしきところに差し掛かった。「この中を通ろう、少年」と来ヶ谷さんが言うので、僕もあとに続く。
 林の中にあるじゃり道は昼間だというのにやたら薄暗い。木々の隙間から差し込む光は道の上に薄い斑模様を作り出している。ひよひよと鳥の鳴く声が聞こえる。足元の砂利は少し湿っていて、踏みしめるとじわりと水気が滲む。
「ここを越えたら、開けた場所に出るから、そこで小休止しよう」
「賛成」
 長くなりそうだったので、この林に入る少し前に立っていたコンビニで飲み物を買っておいた。小休止、望むところだ。しかし、
「……どうした? 少年」
「いや、別に」
 来ヶ谷さんはこの辺りのことに詳しいんだなあ。僕はここがどこだか全く見当がつかないというのに。
 来ヶ谷さんはまるで地図が頭の中に全てインプットされているかのように、いくつか見かける分かれ道を無視してずんずん歩いていく。僕は少し早足で彼女の背中を追い掛ける。少し湿った植物特有のにおいがしている。
 薄暗い道を抜けると、そこは見渡す限りの野っ原だった。あちこちで蝶がひらひら舞っている。耳を澄ますと、どこからか水が流れる音が聞こえる。小川の音。さっきまでの湿気を含んだ空気が嘘のように、ここには太陽の匂いが満ち満ちている。
「来ヶ谷さん――」
 声をかけようとした彼女はすでに座り込んでいる。視線がかちあう。彼女の目が「早く座りたまえ」と優しく微笑んでいる。
「いいとこだね」
「ああ、適当に歩いてきた割には上出来だ」
 んーっ、と、大きく伸びをしてそのまま寝転ぶ来ヶ谷さん。それがあまりに気持ち良さそうだったから、僕も真似して伸びをした。
 んーっ!
 はあ、と息を吐いた瞬間、体中に溜まった老廃物とか、そういう余計なものが全て抜けてどこかへ飛んでいってしまったような気がした。
「気持ちいいだろう?」
「うん、気持ちいい。ずっとこうしてたいくらいだ」
「そうか」
 いつの間にか鼻やのどのむず痒さはどこかに行ってしまっていた。笑い出したいような、それでいて大切にしまっておきたいような、よくわからない感情。
「ねぇ来ヶ谷さん。これは春かなあ」
「さあ、どうだろうな」
 来ヶ谷さんは僕の様子を観察してにやにや笑っているだけで、僕の言葉に答えようとしていないように見えた。構わず、僕は続ける。
「こういうのが春だったらさ、もうずっと春だったらいいのにね」
 その時、来ヶ谷さんはとても悲しそうな顔をした。一瞬だったけど、いや、むしろ一瞬だったからこそ、僕はよりはっきりとその顔を目に焼き付けてしまう。
「なぁ理樹君」
「うん」
「春になると人はどうして幸せになれるのか、どうして春には“幸せ”というイメージがあるのか、理樹君にはわかるか?」
「……春だから?」
「それじゃあ答えになっていないだろう」
 僕の答えがおかしかったのか、来ヶ谷さんはしゃべりながらくすくすと笑っている。悲しい顔を見せたかと思ったら、
それだ。まったく。つられて僕まで笑ってしまう。
「ん……まぁ少年の答えもあながち見当外れというわけでもないがな」
 よっと。
 勢いをつけて、来ヶ谷さんは一気に跳び起きる。一面の緑の中を、彼女の長い髪がふわりと舞う。僕らの周囲をゆるやかに風が舞っていることに気付く。
「春の前にある季節は、一体何だ?」
「春の前って、そりゃ冬だけど……って、ああ、そうか」
 僕はようやく来ヶ谷さんが言わんとしていることを理解した。季節は、循環する。夏が訪れ、秋が過ぎ去り、冬が耐え忍ぶものだとしたら、春はその訪れを喜ぶものだ。
「跳び上がる前には身を屈めろ――なんてよく言うが、季節だってそれと似たようなものだろう?」
「そうだね、そうかもしれない」
「だからな」
 まだ寝転がっている僕の真上から覆いかぶさるように、見すくめられる。
「春が来て、ずっと春だなんて、それは本当に悲しいことなんだ」
 僕は何も言えずに、来ヶ谷さんの瞳の、奥の奥を覗き込んでいた。彼女の瞳の中の僕は、まるで何も考えていないかのように呆けている。たとえ僕らの所に春が来たとしても、そのことをただ春としか思えないほど、何もかもを甘んじて受けとることしか出来ないほど、僕は何も考えていなかったのかもしれないと思った。
「――そう、だね。そうだと思う、本当に」
「少年」
 抱きしめられる。
「くるがや……さん?」
「少年、春を探しに行け」
 来ヶ谷さんの声が耳元でしている。吐息が首筋に吹きかかる。強く抱きしめられているのに、ちっとも苦しくない。もっと大きな何かで包み込まれている。
「春はな、自分から探しに行くものなんだ。眠っている暇なんてないぞ。春なんてものは探そうとしなかったら、いつまでたっても見つからない。少年は今までいっぱい、いっぱい冬だったろう? もういいんだ。もう君達自身の春を探しに行っていいんだからな」
 来ヶ谷さんの腕の中は、まるで日だまりのように温かかった。お母さんみたいだなんて思った。母親なんて、もう顔すらよく覚えていないのに。僕は来ヶ谷さんの背中に手を回し、ぎゅうっと力を込める。とくん、とくん、と身体の奥の方から響き始めた音。僕の物とも、来ヶ谷さんのものとも知れない。何も言葉にできず、僕はただ来ヶ谷さんの身体にしがみついていた。頬の下で潰された草がちくちくと肌を刺した。
 ここは光に満ち溢れていて、影なんてどこにもなくて、明日も明後日も晴れで、きっとこれからも、ずっとそうだ。温かくて、心地よくて、ずっとここにいたい。でもこれはきっと春じゃない。そう思った。
「こら、寝るな。少年はこれから誰よりも頑張らなきゃいけないんだぞ。誰よりも強くならなきゃいけないんだ。誰よりも素晴らしい春を探しにいかなきゃいけないんだ。辛いぞ。大変だぞ。でも、もしもつらくなったら、いつだって休んだって、いいんだからな」















 風が吹いていた。
 気持ちのいい風が。















 そして、僕は目を開ける。
 そこは近所の公園にある木陰のベンチで、少し向こう側では小さな子供達がきゃっきゃと騒いでいて、時計を見ると短針がもうすぐ五時を指そうかというところで、僕は大きく伸びをして腰の骨をぽきぼき鳴らして、来ヶ谷さんはやっぱり僕の傍にはいなくて、当たり前のように僕はさっきまでのことが全て夢だったことを知った。寝汗をかいていたのか、立ち上がる時にお尻の下がひんやりとした。風が吹くと途端に鼻がむずがゆくなる。ティッシュでも入ってないかと上着のポケットをまさぐりながら、僕はこの公園を後にした。
 公園から十分も歩けば家に着く。上着の内ポケットに入っていたティッシュで鼻をかみつつ、道端の桜の木を眺める。膨らみかけの蕾。春ももうすぐだなと思う。桜並木の向こうに僕らの家が見える。歩みは自然に早まっていく。カンカンカンと、金属製の頼りない階段を小走りで上り、僕はドアを開く。
 そこにはエプロンをつけたまま腕組みをしている鈴がいる。まるで門限を破った子供を叱る母親のような口調で、鈴は口を開いた。
「遅かったな、もう飯は出来てるぞ」
「ごめん。遅くなっちゃった」
「こんな時間まで、一体何してたんだ?」
「公園で寝てた」
 鈴は一瞬眉を顰めるが、すぐにそのことに思い当たったようだ。
「また例のあれか?」
「わかんないけど、たぶん」
 何の脈絡もなく眠りに落ちる僕の持病。本当に小さな頃からずっと患っていて、今も治る見込みはないらしい。そのおかげで随分苦労もした。悲しいこともあった。
「最近無かったのにな」
「そうだね。鈴のいないところで眠っちゃうのは本当に久しぶりだ」
 僕は靴を脱ぐ。夕飯の匂いが漂ってくる。料理自体に急かされているような気がする。
「まぁ、あんまり気にするな。理樹はあたしが守るんだから」
「鈴、それ僕の立場がないよ……」
「立場なんて別にどうだっていいだろ。あたしが守るって言ってるんだから、理樹は素直に守られてろ。だから、理樹はいつだって安心して眠ればいいんだ」
 そう言って鈴は、照れたようにふにゃと表情を崩した。開いたまんまのドアから吹き込んだ風がちりんと、鈴の横髪につけた鈴を鳴らす。春何番、とでも言うのだろうか。
 僕らが探すまでもなく、もうすぐこの街にも春がやってくる。長い長い冬を越え、待ち望んでいた春が。桜は咲いて散り、やがて緑の葉をつける。人知れず次の春を迎える準備を始める。真夏の太陽に焼かれ、心寂しい秋の風に葉を散らされ、冬になれば雪に埋もれる。そうまでして迎えた春でも、気付かなければそれはただの春だ。桜の花は虚しく咲いて、ゴミになる。僕らはそれを汚れた靴で踏みつける、ただの人になる。
 でも、と僕は思う。

「鈴」
「なんだ?」
「明日、暇だったら僕と一緒に出かけない?」
「ん、いいけど、何をしに行くんだ?」
 なんだかよくわからない、という表情を浮かべる愛しい彼女。僕は飛び切りの笑顔でこう言った。

「春を探しに行くんだ」












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